レアナが旅立つ日
今日はレアナが神殿に入る日だった。
僕の家も朝から雰囲気が重苦しい。
父は朝食を食べてから家を出る予定だ。今日は哨戒飛行の日なので、父の操るエルネストはレアナの乗る馬車を上空から護衛する。基地から神殿へは馬車で半時間もかからない距離だけど、聖乙女を護衛するのが竜騎士の重要な仕事なのだ。
「魔物の体は有毒の黒魔素で出来ていて、その上魔物は黒魔素を吐き出すんだ。本当に迷惑な存在だが、聖なる力に触れると黒魔素は白魔素に浄化される。白魔素は生物に絶対に必要なもので、白魔素がないと俺たちは呼吸もできず、魔法も使えない。だから、聖なる力を放出できる聖乙女はこの国には必要不可欠な存在だ」
父は聖乙女について教えてくれるが、それはこの国の常識で僕も知っていた。
聖乙女は神殿で祈り、その聖なる力を集めて国境に送り、聖なる力の壁を維持するのが神官の役目だ。その壁には魔物が常にぶつかって消滅しているらしい。その時生じる白魔素を国内の全ての地域に行き渡らせるのも神官が行っている。
壁を突き抜けて国内に侵入した魔物を殲滅するのは竜騎士の仕事だが、国外の魔物までやっつけたりしない。黒魔素を生み出し続ける魔物がいなければ、そして、聖なる力を放出する聖乙女がいなければ、僕たちは生きていけない。
「聖乙女がいなければ国が成り立たない。皆が死に絶えてしまうんだ。だから、聖乙女はこの国を守るために神殿に入る。誇り高い志を持って神殿で祈り続けるんだ。レアナはこの国の誇りだ。俺たち竜騎士も国を守るために十年以上の期間を訓練に明け暮れる。俺たちも聖乙女も同じなのだ」
レアナが神殿へ入ることにまだ納得できていない僕のため、父はそう言ってくれたのだとわかる。でも、レアナが聖乙女になりたいと望んだわけではない。僕は納得できないまま唇を噛んでいた。
「せめて、レアナを笑顔で見送ってやれ。十年など大したことはないと思わせてやってくれ」
お隣とはずっと家族のように仲良くしていた。父や母にとってレアナは娘のような存在に違いない。レアナが神殿に行ってしまうことは、父だって辛いはずだ。カイオさんもルシアおばさんも。そして、母も泣き顔になっている。
「わかった。レアナを苦しめるかもしれないけれど、今日はお別れの挨拶をする」
レアナが聖乙女であるとわかってから、僕は彼女に会っていない。別れが辛いからと会うのをレアナに拒否されていた。でも、僕は彼女に会いたい。そして、僕は絶対に竜騎士になって迎えに行くと伝えたい。
父が家を出て間もなく馬車の音がして、隣の家の前で止まったようだ。
僕は裏口から出てお隣の玄関の方をそろっと覗いてみる。すると、レアナの手を引いたルシアおばさんと、生後六か月になって益々大きくなったセザルを抱いたカイオさんが隣の玄関から出てきた。玄関前に停まった馬車からは神官長が降りてくる。
風魔法を使うとカイオさんにばれてしまうので、聴力強化だけして聞き耳を立てる。レアナが家族との別れを終えてから別れの言葉を告げようと、僕は出ていく機会を窺っていた。
『カイオさん、ルシアさん、レアナさんは私たち神殿が責任をもってお預かりします。聖乙女の任期は最長で十年との決まりも新たにできました。だから、安心して私たちにレアナさんをお預けください』
静かにそう言ったのは神官長だ。家政婦のテレーザさんより年上で威厳はあるのに、笑顔はとても優しそうだ。あの神官長なら嘘はつかないだろうと僕は思った。
『レアナをもっとたくさんのところへ連れて行って、色々なことを経験させるべきだった。ジュースだってミルクだって凍らせてやれば良かった。レアナが産まれた時、お姫様のように大切に育てようとルシアと二人で決めたのに。こんなお父様を許してくれ』
カイオさんは悔しくて仕方がないというように項垂れている。ジュースは僕が凍らせたから大丈夫だと言ったら、カイオさんは怒るだろうか。
『ううん、お父様にはたくさんのところへ連れて行ってもらったわ。とても楽しかったもの。私はお父様もお母様も大好きよ。この基地の皆さんも大好き。だから、私は神殿へ行く。そして、この国を守るの』
『ぐっ!』
カイオさんは歯を食いしばって嗚咽を我慢しているようだ。
『カイオ、笑顔で見送ろうって言ったのに』
そう言うルシアおばさんも泣き声だった。
『わかっている。俺は泣いてなんかいないからな。ルシアこそ、涙が出ているぞ」
『私も泣いてなんかいないもの』
それは嘘で、ルシアさんはすすり上げていた。
『それでは、行きましょうか』
神官長がレアナの肩を抱いた。
「レアナ! ちょっと待ってくれ」
僕は玄関まで走って、レアナの前に行く。
カイオさんは僕が隠れていることを知っていたのか、驚きはしなかったけれど、レアナとルシアおばさんはとても驚いていた。
「ジョエル?」
レアナが大きな目で僕を見つめている。
「僕は絶対に竜騎士になるから。そして、十年経ったらレアナを迎えに行く。約束だからな」
体調はどうだとか、神殿に行っても僕を忘れないでとか、言いたいことはいっぱいあったのに、僕はそれしか口にできなかった。
すると、レアナがふわっと笑った。まるで花が咲いたような笑顔だ。
「左手を出して」
僕はレアナにもらった銀の札を手首にまいた左手を差し出した。
「これでいい?」
そう訊くと、レアナは黙って頷いてから銀の札を握った。
「お母様にね、祝福の方法を習ったのよ。これでこの札に聖なる力が込められたの。ジョエル、私を忘れないでね」
「忘れるものか。僕は絶対にレアナを忘れない」
「約束よ」
レアナの目からも涙が流れ出ていた。
「約束する。十年なんてあっという間だ。忘れる暇もないぐらいだから」
僕は無理やり笑顔を作った。レアナの涙を一生忘れないだろうなと思いながら。




