第7話 乾パンに乾杯!
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何の気配もなかった。
まるで、崩れた壁から吹き込む隙ま風に乗って、突然人影が現れたとしか思えなかった。フッと見上げると、そこに立っていた。そんな感じである。
人影は、話掛けてくる訳でも無く、こちらの挙動を確認するかの様に動かない。こちらを警戒しているのか?と思い、ジロキチは声を掛けた。
「どなたか存じ上げませんが、そこにいては寒いでしょう。こちらに来て焚き火に当たりませんか?」
そもそも相手に日本語が理解出来るのか不明であるが、生憎ジロキチは日本語しか話せない。少しは英語も出来るが、簡単な単語を組み合わせた程度の不自由なものだ。とても実用で使えるレベルではない。
コクリと影が頷き、こちらに近づいて来た。
嬉しいことに相手は日本語が理解出来たみたいだ。スルスルと衣擦れする様な音をさせ、焚き火に照らされたその人物を見る。ジロキチは驚いた。
「失礼します。旅の人。」
人間、それも妙齢の女性だった。
ジロキチは相手が女性である事に驚いた。そして次にその服装に驚いた。夜会服だ。その昔、貴族の女性が華やかなパーティーなどの催しで着たという。豪華な服装だ。
黒い絹のような光沢を放つ生地に、金の刺繍が複雑に絡んだ意匠。優美さの中に官能美を湛えた調和の取れたフォーマルドレス。
そしてそれを見事に着こなす女性は、長く艶やかな黒髪に滑らかなカーブを描く柳眉、肌は病的にまで白く、それでいて白磁の如く滑らかだ。美しく輝く大きな紅い瞳に強い意志の力を感じる。
彼女を一言で言い表すなら、謎を秘めた蠱惑的な美女だろう。
ジロキチは怖いほどの美しさに動揺する。
(おかしいだろ!絶対におかしい。なぜ、こんな夜中に人っ子一人いない廃墟の遺跡で、まず女優でもお目にかかれない程の美人が、護衛やお供を連れず単独で現れた?)
ジロキチはナイフを持って武装している。
それは彼女も気付いたはず。
真夜中に武装した男に近づいて、彼女は怖くないのだろうか?それともナイフなど取るに足らないと、思えるだけの何かしらの手段でもあるのか?どちらにせよ彼女は、ジロキチの理解の範疇を超えていた。
ヤバい!絶対にヤバいと、頭の中で赤信号が点滅しているのを自覚しながら、決してそれを表に出さないように、彼は話し掛けた。
「お客様がお越しになるとは、思えませんでしたので、何のおもてなしも出来ず申し訳ありません。」
ジロキチは精一杯の虚勢を張りながら発言する。
「押し掛けたのは、妾ですよ。お気遣い無きように。」
そう言って彼女は柔らかく微笑んだ。
仕草、声、全てが絵になる。
まるで、どこかの洋館の階段上に飾ってある絵画のようだ。およそ人の持つ美しさとは到底思えなかった。
「少し興味があって邪魔をしました。宜しい?」
「ええ、何でしょう?」
「ここまず普通には入れません。そなたがこの場所にどうやって入ったのか教えてくれませんか?」
彼女はさも不思議そうに質問する。
ジロキチは転移してきたとも言えず、答えに窮していると、彼女は続けた。
「ここには人払いと侵入禁止の“おまじない”をしてあるのよ。だから、そもそも見つからないし、入ってこれないのよ。なのにあなたは入ってきた。おかしいでしょう?」
彼女は優しく諭すように話す。紅い眼だけ笑わずに。
ジロキチはそれだけで威圧される。
(嘘や誤魔化しは通じそうもない。曖昧な表現もダメだ。)
心が読めるとは思えないが、何らかの方法で単純な真偽は判別出来そうだ。命が惜しければ彼女を不愉快にさせるな。そう本能が訴える。
(ええーい、ままよ!)
このまま黙っていてもラチが明かない。信じて貰えないかもと前置きしながら、ジロキチは正直に答えた。
「いえ、私も来たくて来た訳ではないのです。家で寝ていたはずが、起きたらこの場所にいました。悪いのは会社。そう会社です。私は何も悪くありません。」
さらっと会社に責任を転嫁し、ジロキチは必死で弁明する。
しかし、彼女は虚仮されたと思ったのか、眉間にシワを寄せながら、冷たく言い放った。
「嘘をつくなら、もう少しマトモな嘘をつきなさい!」
(真偽の判断出来るんじゃないのかよ!ヤバい。怒らせたか?俺だってこんな話、したくてしてるんじゃない。 仕方なくしてるんだよ!)
信じて貰う為にも、ここで引いたら弁解の余地は完全に無くなるだろう。彼は起死回生の一手を求めて必死に頭を働かせる。
(ええい迷うな。押しの一手で突き通せ。)
「嘘ではありません。証拠があります。」
ジロキチは乾パンを包んでいた、ポリエチレン製の透明の袋を高々と掲げた。