丸い実、ひとつ。
気が付くと、女の子はその場に立っていた。
とても不思議な場所だった。
辺りをぐるりと見渡しても、真っ白なモヤがかかっているように、景色はまったく見えなかった。
とてもとっても不思議な場所だった。
足元を見下ろしてみても、床も地面もコンクリートも何も見えなかった。
だけれど一番不思議だったのは、その場でたったひとつ、目に見えるものだった。
木があった。とても大きな木があった。
たった一本だけ、この何もない場所に、とてもとっても大きな木が、立っていた。
女の子は一歩、足を踏み出した。
――ふわり。
びっくりして立ち止まった。そしてもう一度、恐る恐る足を踏み出した。
――ふわり。
女の子は、今度は楽しそうに声を上げた。
「わあ」
女の子が足踏みする度に、ふわりふわりと身体が揺れる。
ステキ! まるで雲の上を歩いているようだわ!
楽しくて楽しくて、ウサギのようにぴょんぴょん跳ねて、女の子は前に進んだ。
そうしてあっという間に大きな木の下までやってきて。
女の子は、またひとつ、不思議を見つけた。
「あなたは、だあれ?」
女の子は不思議に問いかける。
自分と同じくらいの背丈の、白いワンピースを着た女の子。か細い腕に木のカゴをぶら下げて、大きな大きな木の枝に座っている。
退屈そうに、両足をぶらぶら揺らして、空――だけどやっぱり何も見えない――を見上げていたその子は、自分に声をかけてきた女の子を見て少しだけ驚いたようだった。
「――こんな所にお客さんとは珍しい。はじめまして、小さなお嬢さん」
見た目と違って、まるで大人のように流暢な喋り方をする、白いワンピースの女の子。
勢いをつけて枝から飛び降りて、女の子の傍にやってくる。
「それは、なあに?」
女の子は、白いワンピースの女の子が持つカゴを見て小首を傾げた。
女の子にとって、ここに存在するすべてが不思議で、何だかとっても気になって、不思議の正体が知りたくて知りたくて仕方がないのだ。
「この木に生る実を採っているんだよ」
それは女の子にとって初めて見るものだった。
葉っぱも茎もなく、ただただ丸い飴玉のような実。
ひとつひとつ色が違っていて、そのほとんどは、いくつもの色が混ざり合った複雑な色をしている。
「いろんな色があるのね。食べられるの? おいしい?」
「ああ。どの実もとても美味しいよ」
白いワンピースの女の子は、カゴの中から実をひとつ取り出した。
リンゴのような赤と、柿のような橙と、キウイのような緑が斑に混ざった、鮮やかな色。
白いワンピースの女の子は、それを自分の口に放り込んだ。
もぐもぐ、ごくん。
そして白いワンピースの女の子は言った。
「うん。美味しい」
「ほんとうに? だったら、どうして泣いているの?」
美味しいと言ったのに、白いワンピースの女の子の頬には一筋の涙。女の子は不思議に思った。
けれども、白いワンピースの女の子は言った。
「本当さ。とても美味しいよ」
またひとつ、実を取り出す。
暗い色がぐちゃぐちゃに混ざり合った、どう見ても食べられそうにない色をした実。
白いワンピースの女の子はそれも口に放り込んだ。そしてまた「うん。美味しい」と言って涙を流した。
次の実も、その次の実も、その次の次の実も。
食べては「美味しい」と言い、必ず涙を流す白いワンピースの女の子。
不思議と言うよりも、変な子だと女の子は思った。
――ころん。
ふと、女の子は視線を落として気が付いた。
白いワンピースの女の子の足元に、いつの間にか、たくさんの丸いものが転がっている。
「これは?」
ひとつ拾って女の子は尋ねた。
透明で、まんまるで、何だか少しだけ柔らかなそれは、ちょうど白いワンピースの女の子が食べている実と同じ大きさ、形をしていた。
「それは種だよ。これから時間をかけて実になっていくんだ」
――ぽろり。
白いワンピースの女の子の涙が零れ落ちる。
――ころん。
それは彼女の言う種へと姿を変えて、足元に転がった。
女の子の好奇心は、一気に跳ね上がった。
「今のはなあに? どうしてあなたの涙が種になるの? 魔法? あなたは魔法使いなの?」
「落ち着きなさい。私は魔法使いじゃないよ」
「だって、こんなの見たことないわ! 涙って、お水みたいなのよ。こんな風になったりしないわ」
「実を食べたから、種になったんだよ。それだけさ。魔法なんかじゃない」
何てことないように話す白いワンピースの女の子。
だけれど女の子にとっては、きっと今日一番の不思議に他ならない。
知りたくて知りたくて仕方がない。
「ねえ、それ、私もやってみたい! 魔法じゃないなら私にもできる?」
白いワンピースの女の子が、ぴたりと手を止めた。
「――さてね。私はオススメしないけど、それはキミ次第だろう」
そう言って白いワンピースの女の子は、実をひとつ、女の子に差し出した。
「さあ、やっと見つけた。これを食べなさい」
小さな両手で受け取った実を、女の子はまじまじと見つめた。
桜の花のように綺麗な桃色をしているが、とても薄くて味気ない色。カゴの中には、あんなにもたくさん美味しそうな色があるのに。
「……これじゃないとダメ?」
「ダメではないけど、さっき言ったように私はオススメしないよ」
「ダメじゃないなら、もっとおいしそうな実がいいわ!」
女の子はカゴの中を覗き込んで、一番美味しそうな実を探し始めた。
たくさんの色がひしめいていて――なかには暗い色もあるけれど――キラキラしているそれは、まるで宝石箱のよう。
「うーん、うーん……あっ! これがいいわ!」
ひょいと取り出したのは、夕焼け空のように朱く色付いた艶やかな実だった。
さっそく口を開ける女の子に、
「本当に、それでいいんだね?」
念を押すように強い語調で、白いワンピースの女の子が問う。
女の子は、考えを変えはしなかった。
ぱくり。
――女の子は、自分で選んだ実を、食べてしまった。
***
とある病院で、女性が感極まった声を上げた。
「よかったっ、よかった、本当にっ……」
泣きじゃくりながら、ベッドに横たわる女の子を抱き締める。
もう放しはしないというように、強く、強く。
そうして、何日も意識のなかった娘の目覚めを喜んだ。
学校からの帰り道、事故に遭った女の子。
大きな怪我を負うことはなかったが、頭を強く打ったせいで、いつ意識が戻るかは医者にすらわからない状態だった。
母親だけではない。医者も安堵した。看護士も急いで女の子の父親へ連絡を取りに向かった。
――その中で、ただ一人、女の子だけが違和感を感じていた。
目だけを動かして周囲の人達を見回す。
――誰だろう、この人達は。
奇跡が起こったと喜ぶこの病室の中で、一体誰が気付けるだろうか。
母親は気付かない。腕の中の女の子が、娘ではないことに。医者は気付かない。女の子が目覚めたわけではないことに。
ただ女の子の身体を得た《何者か》だけが、ゆっくりと状況を理解していくのだった。
***
女の子が突然、目を見開いて石のように固まった。
俯いて、溢れてくる疑問を晴らそうと必死に考える。考えようとする。
しかし一瞬で襲ってきたその感覚はあまりに唐突で――そして残酷で――とても、まだ幼い女の子が理解できるものではなかった。
「この選択をしたのはキミ自身。もう後戻りはできないよ」
白いワンピースの女の子が静かに告げる。
彼女は理解していた。
急に《自分》が失われる感覚。
《自分》の名前。《自分》の家族。《自分》の友達。《自分》の思い出。《自分》の好きなもの。《自分》の嫌いなもの。
《自分》が生きてきた中で得たすべてが、消えてしまった感覚。
かつて自分も経験したその喪失感を、女の子が今味わっていることを。
理解しているからこそ白いワンピースの女の子は、茫然と立ち尽くす女の子の手を、優しくいたわるように握り締めた。
「――でもよかったね。これでキミにも、種を作り出すことができるよ」
そうして白いワンピースの女の子は、初めて微笑みを浮かべて、こう言った。
「ようこそ、《魂のリサイクル園》へ。歓迎するよ、愚かな新人さん」