12話 前半 胸いっぱいのパン / 後半 トリア教授の魔導学講座
「はい、お大事に……」
そう声を掛けたときには、二人の騎士候補生の姿はなくなっていた。
(まったく……落ち着きが無い子達ね……)
パトリシア・ブロネル。学園で治療師を勤める唄巫女だ。
当年取ってン十八歳。彼氏いない歴=年齢という若干喪女気味な彼女は、唄い疲れた喉を癒そうと机の上に置かれたポットから一杯のお茶を注いだ。
とたん、部屋中に柑橘系の爽やかな香りが広がった。
一口飲めば、薄荷のようなすーっとした清涼感が喉を過ぎていく。
(それにしても、変わった子だったわよね……名前、何て言ったかしら?)
パトリシアはお茶を飲みながら、ふとそんなことを思った。
彼女は短くない期間を、学園で治療師として働いてきた。
荒事を教えているだけあって、治療院を利用する候補生は実に多い。
多い日には、午前中だけで十人を超えること日だってあるくらいだ。
そんな環境故に、彼女の唄によって治療を施された候補生の数は優に千人を超える。
彼女にとって唄による治療など、既に右から左への流れ作業になっていた。そこに使命感や愛情のようなものは特に無い。
そんな彼女にとって、一人の候補生の印象が強く残るというのは、とても珍しいことだった。
(レ……レ……オン……そう……レオンくんだったわね。学園長の弟さんの……
唄っていて、あんなに広いと感じたのは初めてね……)
他の唄巫女がどうかは知らないが、彼女は唄うとき、あるイメージが頭の中に浮かぶのだ。
それは、荷物の詰まった倉庫に近いんじゃないかと、彼女は思っていた。
そんな倉庫の隙間に、何かを流し込むようなイメージで唄う。
パトリシアはこの“何か”を暖かなお湯をイメージしていた。
熱くなく、かといって温いわけでもない。心地よい暖かさのお湯だ。
そのお湯で、倉庫を一杯に満たす……そんなイメージだ。
人によって、この倉庫の大きさや隙間の広さはまちまちだった。
とても大きな倉庫に一杯の荷物が詰まっていたり、逆に小さな倉庫で空っぽだったり……
しかし、レオンだけはその全てと違った感じがした。
何も無い……いや、果てが無いように感じたのだ。
見渡す限り何も無い、海の真ん中に放り出されたような錯覚をパトシアは感じた。
注げども、注げども、その空間を一杯に出来る気がしなかった。
一瞬、何かとんでもない失敗をしたのではないかと思い、慌ててレオンへ視線を向けたが何の異変もなかった。
いつも通り、淡い光がレオンの体を包んでいるだけだった。
魔力光が出ているということは、魔術がちゃんと発動している、ということだ。
では、あの感覚は一体なんだったのか……
(まっ、そういう小難しいことはお偉いさんたちが考えればいいことね。任せておけばいいわ……
私は私の仕事をしましょう)
時刻は昼休み。
パトリシアはお茶を飲み終えると、ゆったりとした歩調で学食を目指した。
候補生たちだったら、絶対に座席を確保することが不可能な時間だったが、教官用に特別席が設けられているため、彼女たち教官にとって待ち時間など関係なかった。
一部の候補生たちからは不評な待遇だったが、数少ない教官としての特権なのだから少しくらいは目をつぶって欲しいものだ、と彼女は常々思っていた。
まぁ、口に出したことはないのだが……
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「ふぅぃ~……疲れた……もぐもぐ……」
昨日と同じように、レオン、リハルド、ネーシャの三人は裏庭へと向かって歩いていた。
勿論、ネーシャの実家が経営している売店へ寄り、食料はきっちり確保した状態でだ。
レオンの視線はネーシャが抱える荷物に釘付けになっていた。
(明らかに昨日より多いだろ……)
等比するなら1.5倍といったところだろうか……
抱えた食料の量が多すぎて、たぶん正面から見たらそれこそパンが歩いているようにしか見えないだろう。
「リー君たちは……寝てるだけでいいから楽……羨ましい……」
「羨ましいってお前な……
オレたちは治療を受けてたんだ。治療を! そんなサボったみたく言うなよ……」
と、ネーシャが愚痴るのには理由があった。
レオンとリハルドの模擬戦を見た教官二人が触発されたらしく、突然の猛特訓が始まったんだとか……
レオンたちは治療のためその場にはなかったが、残された方はたまったものではなかったようだ。
唯でさえ、シゴキに定評のあるドグスが更に暑苦しく熱血したせいで、普段なら二割程度の脱落者で済むところが二割程度の生存者しか残さなかったのだと、ネーシャは話た。
そんな状態で、割と平気な顔をしてパンを貪り喰っているネーシャにレオンは戦慄を覚えた。そして、パンの量が多い理由も理解した。
(普通、あの量を食ったら人は死ぬ……餓死の逆ってなんだ? 飽食死?)
ネーシャの喰いっぷりを見ていると、こっちがなんだか胸焼けを起こしそうになってくる。
そもそも、あれだけの量の食物を摂取しているのになぜネーシャはこうも小柄なのだろうか。
縦への成長には個人差があるため無理だとしても、確実に横には成長するはずだが……
(うっ……気持ち悪くなってきやがった……)
がしっ
なんてことを考えていたら、突然リハルドが肩を組んできた。
「よぇ、レオン。何今にも吐きそうな面してんだよ?」
「あれを見てたらな……こう、胸焼けがな……」
レオンは、少し先を歩きパンを雲か霞かの如く次々と平らげていくネーシャへと視線を向けた。
「だっはっは。あの程度、ネーシャにとっちゃまだまだ序の口だぜ?
あいつが本気で喰う気ならあの倍は喰う!
何せ“胃が三つある女”なんて言われるくらいだからな」
「……なんだそりゃ?」
「予科校時代に流れてたあいつの二つ名だよ。
アレだけの量の食い物を詰め込むには、胃袋が三つはいるだろう、なんて言われてんだよ」
確かに、それぐらいないとあの量を体の中に収めておくことが物理的に不可能な気がした。
「そていはスゲーな。一つは普通に腹にあるとして残り二つは何処にあるんだ?」
特に他意はなかったのだが、話が面白そうだったので、レオンはそんなことを聞いてみた。
「んなもん決まってるだろ? ここだよ……」
リハルドは下卑た笑みを浮かべると、昨日のように腹の上辺りをわっさわっさと両手で上下させて見せた。
なるほど。
同じようなことを考えていた、ということか……
リハルドは内緒話でもするように、レオンを引き寄せると耳元でボソボソと呟き始めた。
「ここだけの話だけどよ……ネーシャの巨乳って男連中のなかじゃ予科校時代から有名でな、“ネーシャの乳には乳じゃなくてパンが詰まってるんじゃないか”なんて言われてたんだぜ」
「ほぉ~、で、その話ってのは、本人は知ったりするのか?」
「ん? ん~、どうだろうな……知らないんじゃないか?
あいつってそう言ったウワサ話だとか興味ないようだしな……」
「……そうか。なら、しっかり弁解の言葉を考えておいた方がいいぞ」
「はぁ?」
レオンは無言のまま、反対側へ向かって指を指した。
「……」
ゆっくり振り返ったその先でリハルドが目にしたのは、ビックリするほどの満面の笑みをたたえて佇むネーシャの姿だった。
ついさっきまでレオンたちの前を歩いていたネーシャが、なぜかそこにいた。
その手には先ほどまで抱えていたパンはなく、代わりに音杖が震えるほど強く握り締められていた。
普段、眠たそうにしているネーシャの、感情のこもっていない笑顔がむしろ怖い……
ちなみに、パンが詰まっていた紙袋は中身を半分程減らした状態でネーシャの足元に置かれていた。
「その話、詳しく……」
音杖を手の中でぺしぺしするネーシャに、リハルドの顔から血の気が引いていった。
(へぇ~、シェルフィナが持っていた杖とは、大分形が違うんだな……)
隣でリハルドが冷や汗を流してカタカタしているなか、レオンはそんなことを考えていた。
「えっ……あっ、いやな……
まぁ、そういうウワサを聞いたような……聞かないような……」
「誰が言ったの……」
「……聞いてどうするのでしょうか?」
「……」
ネーシャは杖を手の中で遊ばせながら、考え込むように沈黙すること数秒……
「……うん。ブッ殺そう……」
ブォンッ
と、音杖を鈍器のように素振り、リハルドたちの鼻先でピタリと止めた。
「ひぃぃ!」
「うぉっ!?」
驚いたリハルドは、肩を組んでいたレオンからぴょっんと飛び退いた。
(おいおい……今のは俺も危なかったぞ……)
「隠すなら……リー君も同罪……素直になった方が身のため……」
離れたリハルドに詰め寄るネーシャ。
近づかれた分、じりじりと後退していたリハルドだったが、こつんと背中に何かが当った。
確かめるまでも無く、それは壁だった。
「うっ……いやっ……隠すとかじゃなくって、なんだ……昔の話だからな、よく覚えてないんだよ……
なんにせよ、うん、昔のことなんだら気にすんなって! なぁ? 昔のことだろ?」
「ふぅ~ん……その人のこと……庇うんだ……」
ブォンッ ブォンッ
「ヒイイイィィ!!」
リハルドは、その場で気おつけの姿勢で硬直した。
下手に動けば……当る。と、いうか当てられる。
ネーシャは笑顔で杖を振り、リハルドの鼻先を、一回二回と鈍器が高速で振りぬかれる。
当ったら痛いではすまないような音を立てながら、だ。
「本当にっ!! 本当に、忘れてしまったのでありますっマム!!
どうか!! どぉうぉかっ、信じて頂きたいっ!!」
「ん~……」
ブォンッ ブォンッ ブォンッ ブォンッ ちっ
「ヒイイイィィ!! 当った!? 今、ちょっと当ったぞ!?
お願いします! 止めて下さい! これ以上続けられると、ちびってしまいそうですっマム!」
ブォンッ ブォンッ ピタッ
「ん~……分かった、信じる……」
「ほっ……」
「リー君が忘れちゃったなら……仕方ない……
後で、男子どもとっちめて……主犯を炙り出す……そして……ブッコロス……ゼッタイニユルサナイ」
ぶわっ、と漆黒のドロッとしたオーラがネーシャの全身からあふれ出した……ような錯覚をレオンは覚えた。
「ヒイイイィィ!!」
同じような幻覚でも、見たのだろう。
リハルドが顔を真っ青にして、ガタガタと震えていた。
「マムっ! 私です!! 私が広めましたっ!! ごめんないさい!!
あの頃の私はまだ若く幼かったっ! 若気の至りというやつです!
今では深い後悔と、自責の念に苛まれる日々でありますっ!
自白をしたのがその何よりの証左!! これには情状酌量の余地があるものと思われますっ!
マムッ! どうか御慈悲をっ!!
哀れな子羊めに! どうか御慈悲……おばぁっ!!」
フルスイングだった……
最大加速した音杖の端が、リハルドの横っ面に炸裂した。
ゴキッともメキョッとも取れる嫌な音を立てて、リハルドは真横に吹っ飛んだ。
それをネーシャは素早く追いかけ、止まったところで……
ドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッ
ドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッドゴッ
殴打、殴打、殴打の嵐だった。
「ちょっ、あだっ!! いやっ、それはやりす……ごはぁっ!
それ以上、マジで……ぶはぁ! あかん…ごふっ! あかんてっ!
マジあか……ぶるすこふぁ!!」
「…………」
ネーシャは無言無表情のまま、リハルドを殴り続けた。
一体、どれ程の時間そうしていただろうか……
「ごめん……無駄な時間を取った……」
レオンのところに戻ってきたネーシャは、何故かスポーツの後のような爽やかな笑顔を浮かべていた。
(あれだけ苦戦したリドをこうもあっさりと……ネーシャの奴、実は騎士より強いんじゃないか?)
少し離れた所に視線を向ける。
そこには、物言わぬリハルドだった何かが転がっていた……時折ピクピクと動いて少し……いや、かなりキモい。
(あれは、もう手遅れかもしれないな……)
と、思いつつも後で治療院に連れて行ってやろうと、リオンは密かに思った。
「あんなことしていいのか?」
「? どうして? リー君は悪事をはたらいた……当然の報い。
アレでもまだぬるい……」
(アレでも、ぬるいのかぁ……)
「いや、そうじゃなくてな……
リドってあれで元貴族なんだろ? それをボコッちまって大丈夫なのか?
まぁ、俺はそういう階級的なことはよく知らんのだが……」
「っ!?」
レオンとしては、只気になって何気なく聞いてみただけだったのだが、ネーシャは眠そうな目を見開いて、見るからに驚いていた。
「なんで……知ってるの……?」
「なんなで、って言われてもな……さっき治療院であいつが自分で話たんだよ。
なんか、盗られた領地を取り返すとか何とか……」
「……」
何か物言いたげな顔で、ネーシャはレオンを見上げていた。
「なんだよ?」
「別に……リー君、そういうこと人に話さないから……少し……凄く驚いた」
「そうなのか?」
「うん……少なくても……クラスの誰にも話してない、はずだから……」
「おいおい……いいのかよ? そんなこと俺に話して……」
「リー君が決めた事ならいい……きっと、レオンはリー君に気に入られたの……」
「そうか? さっきあいつに殺されかけたばっかりだがな……」
レオンは、教練中でのリハルドとの模擬戦のことを思い出す。
一切の手心のない、一撃。
ともすれば、殺気さえ篭もった打撃をリハルドは放ってきたのだ。
レオンを倒す。そのためだけに……
「……リー君、楽しそうだった……あんなに楽しそうなリー君を見るのは、久しぶり……」
そういうネーシャの顔に浮かぶのは、先ほどのような禍々しい笑顔ではなく、どこか心落ち着く優しげな微笑だった。
「なぁ、ネーシャ」
「……なに?」
「もしかして、お前も元貴族とかだったりするのか?」
「ううん……私は違う……」
ネーシャの話では、ライオット家は貴族であるリハルドのスレイン家に対して従属の家柄なのだと語った。
とは言っても、もとは血縁関係であるらしく、何代も前の祖父が同じらしい。
本家筋のスレイン家を、影に日向に支え補佐して来たのが分家であるネーシャのライオット家だという。
そのため、ライオット家は貴族の階級を得ることはない。
が、だからといってまったくの平民というわけにもいかず“貴族としての立居振舞を求められるが貴族としての権限を持たない平民”というなんとも厄介な立場にあるのだと言った。
「……お前も何か色々大変なんだな」
「まぁーね……」
「でも、それこそ俺になんて話してよかったのか?」
「リー君が話したならいいと思う……でも、他の人には言わないで欲しい……」
「ああ、わかったよ……」
なんてことを話していたら、時間経過で蘇生したリハルドが二人の下へと戻ってきた。
「っててて、もう少し手加減してくれよ……マジ痛かったわ」
殴られた頬を摩り摩り、わりとしっかりした足取りでリドは歩ていていた。
実は、言うほどダメージを受けていないのかもしれない。
「お前らが、なんか重苦しい話を始めた所為で、声かけるタイミングが逃しちまったじゃねぇーか……」
「むっ……」
飄々と歩くリハルドに、ネーシャの射抜くような視線が突き刺さった。
どうやら、まだ完全に許した分けではないらしい……というか、平然と歩いているのが気に喰わないのだろう。
「どうどうどう……落ち着けネーシャ。
そんな不毛な暴力を振るったところで得るものなど何も無い、時間だけだ失う……不毛だとは思わないかね?
ここは一つ、水に流そうじゃないかっ! 許しあう心というのは何よりも美しい……そうだろ?」
「っ……」
爽やかに微笑み湛えて近づいてくるリハルドに、キッとした視線を再度向け、ついでに音杖を振り上げ、ぶぉんぶぉんと素振りを始める。
「ヒィッ!! ごめんなさいすみませんでした調子に乗りましたもうしませんから許してください!!」
リハルドは、ネーシャの足元に向かって驚きの速さでスライディング土下座した。
キレのあるいい動きだった。
「……次……変なことしたら……店ごと食べるから……
リー君の……ケツの毛まで毟り尽くして、ご飯を食る……わかった?」
「ひっ、ヒイィ!!! そんなことされたらオレの小遣いがっ……」
「わかった……?」
「い、イエス! マムッ!」
女の子がケツとか言うな……と、思ったがウチにも似たようなのが転がっていることを思い出して、レオンは突っ込むのをやめた。
そもそもトリアを女の子として扱っていいものか疑問に思ったが、深く考えないことにした……
なんて遊んでいたら、気付けば結構な時間を浪費してしまっていた。
昼休みは有限だ。
三人は足早に裏庭へと向かって歩き出したのだった。
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その日の午後の講義の……厳密には魔導学の教官が変わった。
「あ~、なんだ……先日、このクラスで酷いイジメがあり、指導教官一名が“旅に出る”と置手紙を残して失踪した。
本来、あたしが教壇に立つ予定はなかったんだが急遽、指導教官として教鞭を振ることになってしまさた。大変に遺憾である。
あたしの教えることは、今まで勉強していたこととはまるで違うかもしれないが、黙って聞け。
分からないことや、腑に落ちないことがあったら、時間外に問題を起こしだアホに聞け。
ああ、後これらの責任は教官を追い出したバカの所業であるため、当方ではその責任の一切に関知しないものとする、文句はすべてそこのヴァカに言うように。
あ~、ちなみに一番怒っているのはこのあたしだっ!!
三食昼寝付の簡単な仕事だと聞いて来たのに、まさか教壇に立たされるとか思わなかったわ!
どんな詐欺だ! 訴えてやるっ!!
この責任どー取ってくれるんだ? おいっ! そっぽを向いてるんじゃないっ! こっち向け!!
あんたに言ってんのよレオン! お姉ちゃんを働かせるんじゃないのっ!!
もっと楽させなさい!!」
「働けよっ!!」
教壇の上から、自分を指差してぎゃーぎゃー騒ぐ、トリアを見てレオンは軽く眩暈がした。
トリアの話にもあったように、昨日の一件……魔導学の教官と口論になった件だが……で、レオンに言い負かされた当の教官が姿をくらませてしまったらしい。
と、いうことで急遽、元魔導遺跡調査団に属していたトリアに魔導学の教官として白羽の矢がたったというわけだ。
実際、現場での実績、持ちえる知識等、何を取っても以前の教官より遥かに優秀な人材なわけで、学園としもこれだけの人材を、日がな一日椅子に座らせておくだけという状況に歯痒い思いをしていた。
そこにあってのこの事件だ。しかも、当事者は学園長の弟という。
これを使わない手はない。ということで、責任問題も兼ねて半ば強引にトリアを魔導学の教官として教鞭を振るうことが、今朝決まった。
トリア自身にこのことが言い渡されたりは、レオンがトリアを尋ねて学長室を訪れたすぐ後のことだった。
「あぁぁ、まっくもぅ……なんであたしが……」
などとぶつさく文句を言いながらも、トリアは教材として渡されていた教本をぺらぺらと捲り目を通すと……
ぽいっ
放り投げた。
遠くで、ばさりと本が落ちた音がやけにはっきり教室内に響いた。
「これを書いた奴はクズだなっ! 読む価値はない。読めば読んだだけ頭が悪くなる。捨てろ捨てろ……」
そんなトリアの言動に候補生たちは皆、既視感めいたものを感じた。
それは、即日のレオンの行動に良く似ていたという。
むしろ、言葉が辛らつな分トリアの方がキツイ。
こうした一件もあり、候補生たちの間で“ああ、やっぱり姉弟なんだな”という共通認識が生まれていったわけだが……
「……っと、いうわけだ」
意外にも、講義そのものは至って普通に行われた。
話は理路整然としており、重要な事は白墨で細かく記す。
トリアが教鞭を振るうということで、多大な不安がレオンにはあったがどうやら杞憂であったらしく、ほっと胸を撫で下ろした。のは、いいのだが……
こうなってしまうと、いよいよレオンにとって魔導学の講義の時間が暇になってしまった。
元来、ニド・バルヤザールという共通の師によって学んだ二人にとって、その持ち得る知識は同じものなのだ。
故に、トリアが今講義している内容もレオンにとっては既存の知識でしかなく、面白みなどまるでない。
おもしろい、ということで言うのなら、昨日の魔導学の教官の方がいじめがいがある、という意味では余程おもしろみがあった。
「つまり、人間種は魔力を知覚することが出来ない故に、魔術を扱うことが出来ないわけだな。
様々いる人種の中で、なぜに人間種だけが魔力を知覚することが出来ないのか、様々な議論が交わされてはいるが、結論は出ていない。
一応、代表的な説を上げるなら二つある。
退化論と血脈論だ。
退化論は、大昔は人間種にも魔術が使えたが、進化の過程で不要であると切り捨てられた、という説だ。
もう一つの血脈論は、大昔に魔術を“扱える種”と“扱えない種”の二種類の種族がおり、あたしたち人間種はその“扱えない種”の直系なのではない。という、説だ。
個人的な見解であるが、あたしは退化論の方を押している。
現に、“扱える種”と人間種の間に生まれたハーフは例外なく魔術を扱えているからな。
もし、あたちたちが“扱えない種”であるなら、そのハーフの中にも“扱えない者”が出てきてもいいはずだが、現状そのような事例は報告されていにない」
こうして、普通にしているとあのトリアが教官として見えてくるから驚きだ。
生徒たちも、講義を遮ることなく須らく聞いている。
そんな中、一人の女子生徒がおずおずと挙手をした。
「その……質問を……よろしいでしょう、学園長」
黙って聞いていろ、と言われた手前発言してよいものかどうか迷った挙句、叱責覚悟の決死の挙手だったわけだが……
「ん、なんだ言ってみろ」
そんな女子生徒の決意空しく、トリアはいともあっさりと発言の許可をだした。
女子生徒は、ほっと胸を撫で下ろし安堵の表情を浮かべた。
しかし、この中でレオンだけが知っていた。
“あいつは自分で言ったことを忘れているだけだ”と……
たぶんノリで言っただけだから、本人も深くは考えていないだろう。トリアとはそう言う奴なのだ……
立ち上がった女子生徒は、とても物静かな印象を受ける娘で、やはりどこかオドオドした様子でトリアへと質問をする。
「あの……学園長は、人間には魔術が仕えないと仰いましたが、では、私たち唄巫女が唄っている召歌は魔術ではない……と、いうことなのでしょうか?」
「なんだ、そんなことすら教えて貰ってないのか……」
トリアはやや大げさに唸ると、大きく一つため息を吐いた。
「わたった……座りなさい……
厳密に言えば、召歌は魔術ではない。詳しくない者には、区別は付き難いかもしれないがな。
魔術とは、魔力を操作することによって得た“結果”だ。つまり、事象だ。
先にも述べたが、人間種は魔力を知覚できない。知覚できないのだから、操作も出来ない。
その上、体内に保有することが出来る魔力量はとても少ないから、例え使えたとしても大したことが出来ない。
そんな中、なんとか魔術のまねごとをしようと、研究した者たちがいた。
そんな彼らの努力により、現在あたしたちは魔術に近い力を手にすることが出来た。
それが“魔導術”だ。正式には“魔導術式理論”という。
唄巫女の唄・召歌もこれに分類される」
トリアはそこで一旦言葉を止めると、カツカツと黒板に何かを書き始めた。
「魔術と魔導術の大きな違いは、“本人の意思によって操作することが出来る”という点だ。
例えば森の民・オルフェア種は火や水、風などを思いのままに操る。これが魔術だ。
他にも、獣の民・セリアンスロピィ種は100エート(30m)もある大木を飛び越え、巨石を素手で砕くという。これも、魔術によって肉体を強化している為だと言われている。
まぁ、なんにせよあたしたち人間種では無理な行いなわけだが……
似たようなことを、間接的に出来るようにしたもの、それが魔導術だ。
魔導術には様々な体系があるが、その全てを解明できているわけではない。
今現在も研究が行われ、日々新たな発見を繰り返している。
体系は様々ある魔導術だが、どれも行っていることはさして違わない。
魔力を“術式”と呼ぶ変換回路を通して、魔術に変えているだけだ。
ここに個人の意思などは介在せず、ただひたすら機械的に処理される。
分かりやすい物で言えば、魔導器というものがあるだろ? あれこそが魔導術の結晶体だ。
そして、魔力を魔術へ変える“術式”を大別したものを体系と言い、現在は三つの代表的な体系に分かれている。
一つは、図形を媒介とした図像術式。
一つは、文字を媒介とした字紋術式。
そして、儀式を媒介とした召還術式。
お前たち唄巫女が使っている魔導術は、この召還術式に分類されている。
それぞれの術式に特徴があるのだが、先の二つの詳細は今回は省くとして、まず召還術式の解説をする。
言うまでもないことだが、唄巫女が聖霊を召還するために行っている儀式の媒介が唄と音楽だ。
これは、膨大な供物や神楽舞や祝詞といった長く時間のかかる儀式を簡略化したものなのだが、そのあたりの解説は後回しにする。
召還術式の大きな特徴は他の二つの術式とは違い、魔力を確保する必要がない。ということだ。
結局のところ、まず必要になるのが魔力なわけだが召還術式の場合、呼び出した聖霊が既に魔力を持っているため、というか聖霊自身が魔力の塊なわけだから個別に魔力を確保しておく必要が無い。
更に言えば、呼び出した聖霊の力を利用するため安定した効果を得ることが出来る。
しかし逆に言ってしまえば、聖霊の力に大きく依存するため個人の資質の影響を受けにくい術式ともいえるな」
黒板に白い文字がびっしりと書き込まれた辺りで、トリアは一度生徒たちの方へ振り返った。
「あの、それでは、私たちがどんなに訓練をしても強くはならない。ということでしょうか?」
先ほど発言していた女子生徒が、今度は座ったままトリアへ質問をした。
「一概にそうとは言わないが、契約している聖霊の限界以上の力を引き出すことは出来ないだろう。
お前たち唄巫女が積んでいる訓練とは、詰まるところ“契約を交わしている聖霊の能力を、100%引き出すため”の訓練に過ぎないんだよ」
「契約……? 私たちは、聖霊と契約を交わしているのですか?
そんなことをした覚えがないのですが……」
「まぁ、覚えてはいないだろうな……
よし、丁度良いから先ほど言った儀式の簡略化について説明しようか」
長くなるので、ここで一度区切ります。
講義、まだ続きます。
長いけどお付合い下さい。