虹のように
この世界は色に満ち溢れている。しかし、光は本来無色透明。ものに色が付いているように見えるのは、人間の目がそのように進化して来た結果だという事、知ってましたか?
「おお…… こいつぁすごい、そこは特等席だね」
相手を驚かせないよう、僕は出来るだけ遠くから声を掛ける。
「先生?!」
「ごめんごめん、驚かせちゃったね」
「いえ……」
「ここ、いいかな?」
「あ、はい……」
最上階にある談話室。午後四時を過ぎると、夕飯前という事もあり、面会者はほぼいなくなる。僕は男とテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろし、窓の外を見た。
「見事だ……」
「ええ……」
この部屋の象徴でもある東側全面を切り取った大ガラスの向こうには、今、巨大なスペクトルのアーチが掛かっている。激しい夕立を経て、ビルの背後から差し込む西陽はこれ以上ない条件を満たしつつ、僕らの眼前にそれを浮かび上がらせた。
「雨上がりの街を見たくて来たんですが、ラッキーでした」
「僕はたぶん出てるだろうと思って来て見たんだが、ここまでデカいのは久々だなぁ……」
灰色の街ではなく、雨上がりの色の戻った街を見に来たのか…… 順調だな。
「…… ところで、何色あるように見える?」
僕は指を差しながらいたずらっぽい笑みを浮かべ、彼に尋ねる。
「え…… 虹って七色なんじゃないんですか?」
「ブーッ、違うんだなぁ」
「えぇ?!」
「正解は、いっぱい」
「へ?」
「少なくとも、”何色”と決められるほど単純ではないんだよ」
「え、だって学校で七色って習いましたよ」
「それはね、ニュートンが悪い」
「…… ニュートンて、あのニュートンですか?」
「そう、あのニュートン。万有引力のあのニュートン。昔学校でプリズムを使った実験やらなかったかい?」
「ああ…… 光を通すと色が分かれるって奴……」
「それそれ。そもそもその実験を初めてやったのがニュートンなんだ」
「そうなんですか?!」
「でもってそのメカニズムと虹の原理は一緒だという事が解り、当時ヨーロッパでは虹は五色って事になってたんだけど、ニュートンが、『いやいや七色だ』って言い張って、七色になったんだ」
男が怪訝な表情で僕を見る。
「…… ホントですか?」
「んー、だいぶ話を端折った」
僕らはお互い笑い合う。
「何かね、当時は音楽が重要な学問の一つで、ほら、ドレミファソラシって七音じゃん。だからどうしてもそれと結び付けたかったんだって。それを日本の学校教育が採用し、この国では七色になった。だから他の国では五色とか六色とか、二色って国もある」
「へぇ…… てか先生、えらい虹に詳しいですね」
「詳しいよぉー、何ならほら、あの虹の上にもう一つ色の配置が逆になってる薄い虹があるだろう? あれについても説明するかい?」
「あ! ホントだ! 二重になってる」
「メインの虹が”主虹”。上の薄いのが”副虹”だ。副虹が見えるってのはよほど日頃の行いが良い証拠だね」
僕らはまた笑い合った。
男の顔に生気が蘇りつつあった。本来こんな所にいるべき人間ではない。まだ三十代後半、働き盛りで、家には守るべき家族もいる。早く元の生活に戻してあげたい。ただ、焦りは禁物だ。
「だいぶいい笑顔が戻って来たね」
すると彼は急に真顔になり、僕に向かって深々と頭を下げた。
「…… 先生のおかげです」
「いやいや…… それより悪かったね、あまりに見事な虹でつい長居してしまった。僕はそろそろ退散───」
「───いや、先生…… もし時間があるなら、もう少し虹の話、聞かせてくれませんか?」
腰を浮かせた中途半端な姿勢のまま、僕は彼の眼を見据える。
躁に転じた訳ではない。極めて冷静で、穏やかな光を放っている。いい兆候だ。最も苦痛だったはずの他者との接触を、自ら望むとは……
「疲れてないかい?」
「大丈夫です」
「オーケー解った。虹の話ならいくらでも出来るよ」
僕は精神科医としてではなく、一人の人間として、彼に興味を抱いた。
元々彼とは年齢が近い。もしこんな形で出会わなければ、主治医と患者という関係ではなく、友人になれたかもしれない。すっかり良くなり、退院した後そうなればいいじゃないかと人は言うが、話はそう簡単にはいかない。精神科に限らず、医者は基本、患者を丸裸にする。こちらは手の内を見せないが、相手には全てを曝け出すよう要求する。まさにまな板の上の鯉だ。そこには否応なしに上下関係が生まれ、そしてその関係性は余程の事がない限り、退院してからも変わらないのだ。
僕は正直迷っていた。虹の科学的な説明なら何時間でも続けられる。しかし、彼とはそんな話はしたくなかった。
僕は彼を丸裸にした。ならば、僕も丸裸になるまでだ。
「実を言うとね、虹にはあまりいい思い出は無いんだ」
いきなりの負の発言に、彼の瞳孔と唇が開く。
「…… どういう事ですか?」
「幼い頃、家が貧しくてね…… 誕生日のプレゼントは、毎年”虹”だった」
瞳孔と唇はそのままに、眉間に微かに力が入る。人は要を得ない時、こういう表情になる。
「ハハ、と言っても意味が解らないよね…… あのね、虹って簡単に作れるんだよ」
「え、どうやって?」
「晴れた日の朝か夕方、観察者を太陽が背になるように立たせて、そいつの眼の前で水を撒くんだ。ホースを潰しながら上に向けてね」
「ああ…… なんか見た事ありますそんな光景…… でもそれってたまたまっていうか、虹ってもっとものすごい条件が揃わないと出来ないものってイメージがありました」
「今言った条件で十分なんだ。要は太陽の高度が低い朝か夕方である事。これは大きな虹を作る為の絶対条件。あとは虹って太陽光が水滴に反射して見えるものだから、観察者は必ず太陽を背にしてないといけない。そして水をどこに撒くかだが、太陽の高度が高い時は低い位置に。低い時は高い位置に撒く。といってもこれは適当で構わない。その辺一帯に撒いてれば、観察者が『見えたぁ!』って言ってくれるよ」
「なるほど…… あの、ちょ、ちょっとメモしてもいいですか?」
「ハッハッハ、どうぞどうぞ」
彼は部屋着の胸ポケットからスマホを取り出すと、凄い速さで打ち込み始めた。きっと退院したら、子供に見せてあげるのだろう。父親としての純粋な気持ちだ。そしてかつては、僕の父親もそうだった。
「あ、なんかすいません、話の腰を折っちゃって…… でも、虹がプレゼントなんて、とても素敵なご両親だと思いますが……」
「ホントにそう思うかい?」
「ああ、いや、その……」
「友達がみんなパソコンやゲーム機を買ってもらっているのに?」
僕が意地の悪い笑みを浮かべながらそう言うと、彼は降参したように項垂れた。
「ハッハッハごめんごめん、別に気は使わなくていい、本当の事だからね…… でも確かに、プレゼントは買えない、ならばどうしようと必死に考えてくれた事はまちがいない」
脳裏に、ずぶ濡れになりながら笑っている父の姿が浮かぶ。
「うちは元々祖父の代から小さな工場をやっていたんだが、ちょうど僕が三歳の時に大口の取引先が潰れたあおりを受けて連鎖倒産してしまってね、少なくない借金を抱える事になった。それでも母は僕を保育園に預けてパートに出て、父は友人の工場に臨時工として雇ってもらい、何とかやっていたんだ。
虹にしようと言い出したのは父でね。テレビでやってたのを思い出してそう決めたらしい。僕は当時まだ五歳だったが、その時の興奮ははっきりと覚えている。それが見えた瞬間、僕は奇声を発しながら噴水の中に飛び込んで行った。そして父からホースを取り上げると、自身の真上に水をぶちまけた。おかげで二人ともずぶ濡れさ…… おそらく、虹を掴もうとしたんだと思う。僕のそんな姿を見て、父も喜んでね……
ただ、楽しかったのはそれから二年くらいまでだった。別に誕生日じゃなくても、空に本物の虹が掛かれば嫌でも眼に入るからね…… だから小学校に上がる頃には『また虹?』って思うようになっていた。
父の様子がおかしくなり始めたのはその頃からだ。僕の虹に対する想いが冷めていく一方で、父は逆に虹に憑りつかれていった。友人の工場にはほとんど行かなくなり、昼間は図書館で虹の研究をし、夜は廃墟と化した家の作業場でトンカントンカン何かを作る。何を作ったかと思えば、ホースの先に付ける散水ノズルなんだ。ホームセンターに行けば六百円で買えるアレだ。その後も改良に改良を重ね、その仕組み自体に飽き足らなくなると、今度はホース自体に細かい穴を無数に開けて霧のように噴射出来るようにしたり、しまいには猫の額ほどの庭に、廃材をかき集めて巨大な滝循環装置まで作った…… 当然母はカンカンだ。毎日のように夫婦喧嘩が続き、そしてついに十歳の時、そんな父に愛想を尽かした母は、僕を連れて家を出たんだ……」
家を出る日、父は滝循環装置の前で立ち尽くしていた。
お父さん、と呼んでも、振り返る事はなかった。
「僕は母の実家のある新潟に転校し、その後は何不自由なく育った。そして父は自己破産した後身体を壊し、生活保護受給者になった」
あの時父は、一体何を見ていたのだろう。
「大学を卒業して、医者になるまで父とはまったく会わなかった。母からは、会いたければいつでも会いに行きなさいとは言われていたんだが、どうしてもその気になれなくてね…… たぶん、どんな顔をして会えばいいのか解らなかったんだと思う。
母は母で、息子の成長を見せる為に、節目節目で父とは連絡を取り合っていたらしい。でも、結局一度も会いに来てはくれなかった。
大学病院に勤め始めて三年目の夏、役所から父がもう長くないと聞かされた…… 僕は母と一緒に、複雑な想いを抱えたまま会いに行った。そこには、骨に皮だけを張り付けた老人がいるだけだった。ずぶ濡れになりながら満面の笑みを浮かべていたかつての父は、どこにもいなかった。身体中に管を付けられ、既に寝返りすら打つことも出来ない状態だった父が、最後に、必死に顔を僕に向け、こう言ったんだ。
『オレは、お前の虹に、なれるだろうか……』
その時は正直、よく意味が解らなかった。そしてその二日後、父は眠るように息を引き取った」
父の死後、枕の下から一枚の写真が出てきた。
「実はね、未だに父の言葉の意味を考え続けているんだ。二十年経った今でもね…… おそらくは、自分は父親らしい事は何も出来なかった。ただせめてその記憶だけは、虹のように美しいまま消し去ってくれ…… そういう意味なんだと思う」
母が撮ったと思われるその写真には、両手を上げて喜ぶ僕の後姿と、虹と、水を撒く笑顔の父が写っていた。
「まったく、勝手な話さ…… 十年しか一緒に暮らしてない。その後は一度も会いにすら来ていない。なのに、虹を見るたびに思い出すんだ…… ずぶ濡れの父の笑顔をね…… 消し去るどころか、今では僕まで虹博士になってしまった…… これじゃまるであの時の父と一緒だ……」
滝循環装置の前で立ち尽くす父が、自身と重なる。
「ああ、ごめんごめん…… 何かつまんない愚痴みたいになっちゃったね。まぁそういう訳で、虹にはあまりいい思い出が───」
「───違うと、思います」
「え……」
「…… 消し去ってくれなんて、思う訳ないじゃないですか」
僕は一瞬、耳を疑った。途中一言も口を挟まなかった彼が、極めて穏やかな口調で、主治医に向かって異を唱えた。
「工場を失ったお父さんにとって、あなたは生きる希望だったんだと思います。あなたの弾ける笑顔だけが、お父さんを動かす原動力だった……」
突然、激しいめまいがした。交感神経が活性化している。アドレナリンとノルアドレナリン双方が分泌され、瞳孔が拡大し、呼吸が速くなり、鼓動が音を立てて耳の裏側を叩く。
「会いたくない訳ないでしょう。会えなかったんです…… だからお母さんはあなたから会いに行って欲しかった…… 違いますか?」
葬儀は母が執り行った。遺骨も母が引き取った。三行半を突きつけ、既にアカの他人であるはずの母が何故そこまでするのか、僕には理解できなかった。
母はあの時……
「『オレは、お前の虹に、なれるだろうか』…… 虹を見るたびに、自分の事を思い出してくれという意味です…… まさに先生は、お父さんの願いを叶えているじゃありませんか……」
視界がグシャリと歪み、僕は慌てて眼を閉じた。瞼の裏側で、十歳までの記憶の全てがフラッシュバックし、時系列に整理されて行く。五感はこれ以上ない感度で研ぎ澄まされ、セピア色の静止画が本来の色を取戻し、今、生き生きと動き始めた。夏の夕方の頬を撫でる風、庭の菜園から漂う土の匂い、シャツに空いた穴、鼻緒が切れた草履、カメラを構えた母の笑い声、そして水の出が悪いとブツブツ文句を言っている父の姿…… 海馬から溢れ出た記憶のうねりは、視床下部を刺激し、副交感神経を活性化させ、涙腺に、有害物質を排出するよう命じた。
嗚咽も漏らさず、しゃくり上げもせず、ただ涙だけが、静かに流れ落ちて行く。閉じられたままの瞼は、蓋としての用を成さず、二十年分の有害物質除去作業は、いつ果てるともなく続いた。
さめざめと泣くとはこういう事かと初めて知った。感情は極めて穏やかなまま、僕はしばし、自分にはコントロール出来ない自律神経のバランス調整に身を委ねた。
それにしても、僕はつくづく優秀な精神科医だ。最初に彼と友人になりたいと思った僕の直観は、間違ってはいなかった。
やれやれ…… これではどっちが医者か解らないな……
プライドも何もあったものではない。しかし、心のどこかで、こんな日が来るのを待ち望んでいたのかもしれないと、素直に思った。
僕は財布から、皺だらけになった一枚の写真を取り出す。
白衣の袖で皺を伸ばすと、そこにポタリと涙が落ちる。それをまた白衣の袖で拭き取ると、またポタリ…… しまいには、自分が皺を伸ばしているのか涙を拭いているのか解らなくなる。
父が笑っていた。それだけで十分だった。僕は、この上ない愛情を受けて育ったのだ。
「虹、消えちゃいましたね……」
「…… ああ」
「また、見れますよね……」
「…… ああ」
この夏最初のヒグラシの音が、虹の消え去った茜空に響き渡っていた。
「虹のように」 完
まずは最後までお読み頂き、感謝感謝です!
表題作「虹のように」は、2016年8月13日 大塚WELCOME BACKライブにて、パンフレット掲載された小説です。
厳しいご意見、ご感想を、お待ちしております。
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