痛いの痛いの飛んで行け
その鎧を外す鍵となるのはたった一つの魔法の言葉。
果たして、それを唱えた存在とは───
人が嫌いだ。
と言っても、別に見るのも話すのも嫌だという訳ではない。むしろ逆だ。
例えば隣に知っている人間が居れば、僕は自分から積極的に話しかけるよう心がけている。ただし、そこにはある一つの約束事が存在する。
決して相手の"個"には触れない。それが自分自身に課したルールだ。
細心の注意を払い、危険を回避しつつ、無害な話題のみをサビのように盛り上げ、リフレインさせる ─── 22年間の人生において、練り上げられ、磨きこまれたある種の芸術だと自分では自負している。
だから友人と呼べる存在ならたくさんいる。ただ、親友はいない。恋人もいない。それだけだ。
今日もその "友人" 数人と、バイトの帰りに呑みに行った。今のところ、疑っている奴はいない。もし不審に思う輩が出てきた時は、これまで同様、バイト先を変えればいい。それだけだ。
終電間近の駅へと急ぐ人波に包まれ、僕はホッと安堵の吐息を漏らす。二次会の誘いをスマートに断り、今日も何とかやり過ごせた達成感に独り微笑む。しかし同時に思うのだ。一体いつまで、この茶番劇は続くのだろう。
人は嫌いだが、人ごみは嫌いではない。人が嫌いなくせに、独りにはなりたくないのだ。頭ばかりが大きくなり、反面、精神は未成熟なまま…… それは自分でも認めている。しかし、こればかりはどうしようもない。常に大人の顔色を窺い、決して目立たず、かといって引っ込み過ぎず、絶妙なバランスを取り続ける事でしか、生きる術がなかったのだ。
「汝よ、隣人を愛せ」
駅前の電柱に巻きつけられた黒地に黄文字の看板が、虚しくも僕の説得を試みていた。
終電は朝のラッシュ程ではないにせよ、それなりに込み合っていた。
座席は全て埋っており、通路にもたくさんの人が立ってる。僕が最終的に行き着いた場所は、ドアに程近い一番端の座席の正面だった。目の前には、3歳くらいの男の子を膝に乗せた若い母親が座っている。その隣には、明らかに酩酊した初老の男が大きく股を開き、深くうな垂れた格好で二人分のスペースを塞いでいた。辺りには嫌な臭いが立ち込め、傍にいる乗客たちは皆眉を顰めている。僕は思わず、ニヤリと口元を歪めた。
そうだ、これが人としての正しい姿だ。今眉を顰めている連中も、全員理性を外せばこのオヤジと変わらぬ腐った性根が露になる。人とはその程度の生き物であり、期待すればするほど、裏切られた時の絶望も大きくなる。所詮彼らには、このオヤジを愛することなど出来ないのだ。
窓ガラスに映り込んだ僕の嗤い顔は、もはや醜悪さを通り過ぎ、体温すら感じさせぬ冷たさを湛えていた。
電車が発車してから3つ程駅を通過した所で、早くも男の子が愚図り始めた。
落ち着きなく身体を前後左右に揺すり、その度に腕や足が隣の酩酊オヤジに当たる。見る限り、オヤジは爆睡しているようだったが、このまま続けばどうなるか分からない。母親は気が気じゃなく、必死に我が子を宥めている。
いいぞ、その調子だ……
不安げな他の乗客たちの眼差しをよそに、僕は正面の特等席でその後の展開に期待し、ほくそ笑む。
こんな時間にこんな小さな子を連れて終電に乗るような女だ。どうせろくでもない事に執着し、子供を巻き添えにしているに違いない。
そうして見ている間にも、男の子の動きは激しさを増し、ついには下に降りようともがき始めた。
そうだ、もっと暴れろ…… もっと暴れて、思い切り困らせてやれ……
そして案の定、事件は起きた。
男の子が自ら、すぐ脇にある手すりに自分の頭をぶつけたのだ。
ゴツっという鈍い音と共に、喚き声が車両中に響き渡る。慌てた母親がぶつけた箇所を探りあて、必死に摩り始めたところでオヤジがムクっと顔を上げた。
まずい ─── と誰もが思った。それは、あれだけ期待していた僕とて例外ではなかった。
オヤジの眼は、完全に逝っていた。黒目の焦点が合っていない。かといって義眼でもない。僕は前に何度か見た事がある。その濁った光は、薬をやっている人間の眼だった。
僅かに上を向いた脆弱な黒点は、しばらく虚空を彷徨った後、ゆっくりと男の子に向けられた。
母親の息を呑む音が聴こえた。彼女は咄嗟にオヤジに背を向ける格好で我が子を自分の胸に押し付けると、首だけを残したまま必死の形相でその焦点のずれた的を見据えた。
ウソだ……
僕は心の中でそう呟いた。
何故逃げない……
猜疑と混乱が渦巻く心の声をよそに、眼の前にいる若い女は、体を張って我が子を守ろうとしていた。それは紛れもない事実であり、そこには見返りや利害や損得といった理屈が入る余地は一分もなかった。もちろん、子供を抱きかかえたままその場を離れるのがベストだった。しかし彼女はそうしなかった。正確には蛇に睨まれた蛙がごとく、足がすくんで動けなかったというのが真相だったのかもしれない。それでも、自分は何をされてもこの子だけは守る。絶対に守り抜く。その気迫が、オヤジを含めた周囲にいる乗客全員に伝わっていた。
心の中で、ミシっと何かが裂ける音がした。そして次の瞬間、その裂け目を更に広げるかのように、魔法の言葉が聴こえてきた。
「いたいのいたいの…… とんでけー…… いたいのいたいの…… とんでけー……」
母親が唱える、その念仏にも似た囁き声は、僕の琴線に触れた。
「いたいのいたいの…… とんでけー…… いたいのいたいの…… とんでけー……」
それはまだあの女と一緒に暮らしていた頃の遠い記憶…… 僕の中では、唯一肉親の優しさの象徴とも言うべきフレーズだった。
自分がいくつだったのかは覚えていない。とにかくもの心がついた頃には本当の父親はいなかった。代わりにいた男は、毎日僕を殴った。殴られている最中、その女は見て見ぬふりをしていた。しかし事が終わると僕に駆け寄り、必ずと言っていいほどそのおまじないをしてくれた。
血を拭き取った後、出来た痣にそっと手を置き、静かな声で言うのだ。
「いたいのいたいの、とんでけー…… いたいのいたいの、とんでけー……」
すると何故かみるみると痛みが引いて行ったのを覚えている。
二人はある日突然、いなくなった。しばらくして女が死体で発見され、男が捕まった。
僕は親戚中をたらい回しにされたあげく、最後には劣悪な環境を誇る施設に入れられた。
そこでは毎日が地獄だった。目つきが悪いと言っては殴られ、飯を食うのが遅いと言っては殴られた。さすがに中学に入る頃にはそこまでされなくなったが、その頃にはすっかり心は荒み切っていた。そして中学卒業と同時に施設を脱走。職を転々としながらどうにか今まで生きてきたのだ。
これでどうやって、隣人を愛せと言うのだ……
オヤジと母親の睨み合いはまだ続いていたが、男の子の泣き声は、魔法の言葉が効いてきたのか徐々に小さくなっていき、やがてピタリと止んだ。幼心にも母親の危機を察したのだろうか、そのまま胸に顔を埋めた状態で動かなくなった。それでも母親はオヤジから眼を離さず、言葉を唱え続けていた。
先に根負けしたのはオヤジの方だった。ふいにガクンとうな垂れると、その体勢のまま微動だにしなくなった。元の格好に戻ったのだ。
周囲の空気が一気に弛緩するのが分かった。母親もそこでようやく唱えるのを止め、オヤジから我が子へと視線を移す。丁度そのタイミングで電車が止まり、ドアが開いた、その時だった───
「ウォォオオオオオオオオオ!!」
突然の雄叫びと共に、オヤジが男の子に殴りかかった。
一度弛緩したはずの周囲の空気が一気にレッドゾーンまで駆け上がる。誰もが眼を見開き、声にならない悲鳴を上げた。そして拳が届くまでのコンマ何秒かの間、母親が瞬間的に身体を入れるのと、拳が何者かによって止められるのが同時だった。
ほとんど無意識だった。気がつくと、僕はオヤジの右手首を左手でガッチリと握っていた。間髪入れずに今度は右手でオヤジの胸倉を掴むと、前に引きずり出し、そのままドアまで強引に連れて行く。まるで予定調和のごとく、乗客たちが一斉に道を空ける。そして僕は、オヤジをホームに突き出した。
事の経緯を知らないホームを歩いていた人々が俄かに色めき立つ中、僕はドアの真ん前に立ちはだかり、そのままオヤジを睨みつけていた。
発車の音楽が鳴り、ドアがゆっくりと閉まる。オヤジは最後まで焦点の合わぬ眼で僕を追っていたが、やがて暗闇に紛れ、視界から消えた。
しばらくドアの前に立っていた。
自分の中では、未だ体内に燻ぶっているアドレナリンを落ち着かせなければ、と言い聞かせているつもりだったが、実際の所は、単に後ろを振り返るのが怖かったのだ。
無意識だったとはいえ、およそらしくない行動を取った。この上晒し者にされるのだけは御免だった。しかし、彼らは許してはくれなかった。
それは、一人の拍手から始まった。
一人はすぐに二人になった。二人が四人になったあとは、もう数えられなかった。僕は仕方なく、冴えない顔を乗客たちに向けた。
彼らはそれぞれの位置のまま、身体だけをこちらに向け、思い思いの表情で僕を称えていた。満面の笑みを浮かべた奴。眉間に皺を寄せてる奴。眼を潤ませてる奴。終始頷いてる奴…… 決して僕を取り囲んだりはせず、冷静に距離を取ってくれている事が何より嬉しかった。そう…… 本当に、心から嬉しかったのだ。
僕は素の自分のまま、深々と彼らにお辞儀をした。そしてそれを合図に、どこからともなく拍手は止んでいき、車内には再び静寂が戻った。
「あの……」
そのままドアの前に佇む僕に、母親が後ろから声を掛けてきた。
「本当に…… ありがとうございました…… 何とお礼を言ったらいいか……」
わざわざ席を立ち、男の子を伴って礼を言いに来たのだ。彼女は少し涙ぐんでいた。そして男の子に向かって、ほら、お兄さんにありがとうは? と急かす。
「いや、怪我がなくて良かったです…… それにしても、あなたも相当凄かったですよ」
僕が照れ隠しのためにわざとおどけてそう言うと、彼女は一瞬ニッコリと微笑んだ後、急に感慨深げな表情になり、我が子を見つめながら、静かな声で言った。
「母親ですから……」
その一言は、百の理屈にも勝る重さと共に、僕の腹にズシリと落ちた。
「…… 良かったな、君のお母さんは、世界一だ……」
僕はしゃがみ込み、そう言って男の子の頭に手を乗せる。すると…… 彼は何故か、僕が頭に乗せた左手を自分の両手で掴んだ。そしておもむろに自分の目線まで降ろすと、それをひっくり返した。
思わず眼を見張った。そこには僅かな切り傷があり、薄っすらと血が滲んでいたのだ。
恐らくオヤジの腕を掴んだ時、時計か何かで切ったのだろうと僕は思った。
大丈夫だよ…… と言おうとした瞬間、彼は思わぬ行動に出た。
僕の掌に、自分の小さな掌を合わせ、言ったのだ。
「いた、の、いたぃの、とでけー…… いたぃの、いたぃの、とでけー」
やめろ。
「いたいの、いた、の、とでけー…… いたぃの、いたぃの、とでけー」
やめてくれ……
「いた、の、いたぃの、とでけー」
痛いのは……
「いたぃの、いたぃの、とでけー」
そこじゃないんだ……
母親が、そっとハンカチを差し出した。それはもちろん、傷を拭うためではなかった。
「痛いの痛いの飛んで行け」 完
まずは最後までお読み頂き、感謝感謝です!
表題作「痛いの痛いの飛んで行け」は、2013年8月7日 江古田MARQUEEライブにて、パンフレット掲載された小説です。
厳しいご意見、ご感想を、お待ちしております。
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