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椽大の筆②~大岡越前裁き

「大岡越前裁き」


生みの親と育ての親。大岡は子供の手をふたりの母親に持たせて


「双方から引っ張ってみよ」


両手を引っ張っぱられた子供は痛くなってわあわあ泣いた。


「お母さん痛いよ」


子供の悲痛を聞いたら片手は離された。

書生の帝国大進学の祝杯ムードはこまでだった。


次の瞬間から新・帝大生の笑顔が消えてしまう。


旦那さんはともかく奥さんの態度の豹変さに気がつく。


"自分がお腹を痛めた息子なら"


我が子可愛さは当然の思いであろうか。


奥さんは箸を進め弁護士の顔いろを窺う。


「ねぇあなたっ」


妻からじっくり黙って見られ弁護士は気がついた。


「困ったもんだっ」


訴訟というやつは。


弁護士の仕事だから


他人事だから


熱が入り弁護をしてやろうと思う。


あくまでも他人の身の上に降りかかる(わざわい)だから。


弁護して罪を軽くしてやろうかとなる。


それが…


身内の訴訟事件を抱えたとなると様子は異なる。


"かわいい息子のように可愛がる書生の実の母親が被告人として現れてしまうとは!"


なんという不幸。


弁護士はピタリ箸を止めた。


「そうだなっ」


どうしても話題にしなければならないとあきらめる。

ここは帝国大学進学の祝福の席であり赤坂の高級料亭である。


つまらないことは黙った方がよいに決まっている。


帝大合格を果たした"息子"を喜ぶ父親の真似事をしていたかった。


我が身の中学からの学校の後輩であるよりも息子としての喜びを噛みしめておきたいのである。


「先生」


書生は膝を整えた。


一流料亭の座敷で肩肘をギュッと張る。尊敬をする弁護士とよく面倒を見てくれた奥さんに改めて対座した。


書生は低い声でなんとか言葉を振り絞り出す。


感慨深い気持ちを告げたい一心である。


口唇を噛みしめるがなかなか出て来ない。


「先生ありがとうございます」


伏し目がち。


万感の思い。


感謝の言葉。


書生として弁護士夫婦の元に住み込んだ中学生時分が思い出されていく。


「おっお~しくしく」


"息子"の感謝の気持ちの次の言葉。


何を言い出すかを待つ奥さんは我慢ができずハンカチを目頭にあてた。


次に告げられる言葉。


母親代わりとして育てた自負。


人一倍強くなりどうにも我慢ができない。


感謝を口にした書生の思い詰めた顔。感謝を言われて喜びの顔をするべきかどうか弁護士夫婦は戸惑う。


弁護士夫婦に中学より育ててもらった感謝の気持ちは尊い。


実の親同様に育てられた感謝の意は偽りのないものである。


「先生っそして奥さま」


帝大進学は感謝しております。僕自身まさか進学できるとは思いませんでした。

旧制中学からトップクラスの成績。文句なく旧制一高合格。


頭の良さは折り紙つき。


書生は帝大合格を感謝し頭を深々と下げた。


弁護士が浜辺の料理旅館に宿泊してくれなければ


帝大はおろか高校さえ進学できていない可能性ではないか。


畳に頭を擦りつけんばかりに感謝を現す。


"産みの親より育ての親である"


頭を下げたら気持ちを切り替える。


でも


感謝と"これ"は別問題。


顔いろをガラリッと変えなくてはならない。下げた頭をあげたくない。


生活から学校から面倒を見てくれた夫婦の顔をまともに見える自信すらなくなる。


「それとでございます」


口調をガラリッと変え態度を硬化させる書生だった。

どうしても告げなくてはならないことだった。


今不都合な話を切り出さなくては後々後悔をするに違いない。


弁護士は女房の顔を見てしまう。


「おっおい」


女房はハンカチを取り顔を隠した。


気のせいか座布団から少し後退りし"息子"の書生の話は聞きたくなかった。


「先生っこんな席ですいません」


頭をあげずである。弁護士の顔をまともに見ることはどうしてもできないのである。


「"私の"母親が巻き込まれた訴訟事件のことでございます」


思い詰めていたものを一気に吐き出す"息子"である。

いつまで弁護士夫婦に恩情を掛けてもらい甘えられやしない。


奥さんは"息子"から母親"と言われて愕然とする。


産みの母親は母親である。育ての母親は他人である


感じることはひとつ。


女という人格からギクッとなる。


"自分はこの世に身寄りのない者であることを忘れてはいけない。恩を感じる弁護士夫婦には決して仇となるような行動を取ってはならない"


弁護士夫婦は書生の父親代わり母親代わりとして面倒を見てもくれた。


だがなんと言っても他人である。この区分ははっきりさせたいと敢えてふん切る。


弁護士事務所にお世話になったことと親子関係とは些かな違いである。


中学からお世話になり事務所の働き手の中心の書生となった今である。


長い間行方不明の"産みの母親"が現れて状況は一変する。


「先生…」


振り絞られた言葉は小さなもの


僅かに(かす)れ聞き取り(にく)い。


奥さんの泣き崩れそうな姿がちらっとわかる。


弁護士事務所に突如現れた書生の母親は事件の被告としてである。


弁護事件で現れてしまった母親。


憐れなる被告人を弁護士事務所は面倒をみることになる。


罪を犯した被告人は弁護士事務所の優秀な書生の母親である。


奥さんはハンカチを顔にあてたまま嗚咽を繰り返した。


「私は別に母親になりたいとは願わない」


決して母親にはなれないの

主人との間に子供がなく世間体から冷たい噂を浴びせられていたことは闇に葬り去りたい。 


「私たち夫婦に新しい息子が出来たのよ。私にはかけがえのない子供なの。目の前にいる書生は帝大生にまで成長してくれました」


中学生で現れた少年は素晴らしい青年に進化していた。奥さんには自慢の"息子"となる。


「おいっもう泣くな」


夫婦間では折に触れこの少年が話題となっていた。

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