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一高生~青春時代

一高生になると取り巻く環境は変わる。


弁護士事務所は書生(弁護士の卵)として本雇用された。


事務員程度の書類整理係から裁判(民訴・刑訴)を扱う書生さん。


「一高生の三年間はしっかり勉強して貰いたい。帝大法科へ進学してもらうのは当たり前だがなアッハハ」

子供扱いをされていた中学生とは立場が違う。


「今から私の弁護訴訟の手助けを頼む。若い書生で何事もわからないかもしれないが頼りにしている」


辣腕(らつわん)の代名詞を持つ所長から全幅の信頼を得られるかどうか。


さっそくに試されるところである。


この弁護士事務所は書生さんが常時数人いた。


帝大法科を終え独立を目前の書生からであった。

帝大生と新一高生の弁護補助は大差がある。


だが若さだけは特権ダントツである。


弁護士事務所は日本で有名で年中女子事務員が忙しく書類を整理し働いている。

法務の知識がある書生は事務所から与えられた職務から六法を駆使し訴訟議事録を作成している。


辣腕さが取り柄な弁護士所長は評判がよくいくらでも弁護の依頼が舞い込んだ。

弁護士事務所のドアが開く。


「よっ!ご苦労様」


所長さんは扇子をバタバタやりながら依頼人先から帰ってきた。


事務所ぐるりと眺め渡すと声を張り上げた。


「お~い聞いてくれ。手の空いた奴で構わない」


私の頼みを聞いて欲しい。

「訴訟被告人について調べて貰いたいんだ。忙しいところで申し訳ないが頼みたい」


自分の机の前で訴訟の関係書類を大きく掲げてみせる。

「(誰かが調べて)わかったら私の机の上にデータを置いてくれ。急ぎの要件なんだ」


辣腕弁護士たる所長は要件を言い終わる。


外回りでかいた汗をやっと拭くことが出来た。


フゥ~フゥ~と大きな溜め息をついたら女子事務員から差し出されたお茶を飲む。


ここのところやたらに民訴が増え事務所はてんやわんやの忙しさである。


事務所は所長の方針として依頼された訴訟は断りをしなかった。


辣腕な弁護士事務所はひとりでも多くの被告人を救いたいのである。

事務所にいる事務職員らは辣腕所長の方針をよく理解している。


長年この弁護士事務所に勤務しテキパキと仕事をこなす。


若い一高生も例外になく他のベテラン書生とともに事務所の手足となり充分に役立っていた。


この活気ある事務所には誰ひとり無駄な者はいなかった。


しかしである。


扱う訴訟件数が多く書生だけでこなす処理能力を越えた感じである。


書生は常に数名いたが弁護士試験合格者もポツポツ出てくる。


合格して晴れて弁護士となると事務所の手助けでは物足りなくなる。


弁護士登録をし明日にでも独立開業するのが賢明な選択である。優秀な人材も痛し痒し。


事務所の法務は頼り一高生となる。来年に帝国大学法学部に進学を控え法律に明るくなる頼もしい男である。


「先生わかりました。任せてください」


僕がその事案を担当しましょう。


「被告人調査ですね。民訴ですか。刑訴ですか」


辣腕弁護士の机にドサッと置かれた訴訟書類に目をやる。


「おっそうか。やってくれるか。なあに素行調査のやり直し程度の話さ。やってくれ」


辣腕弁護士は直接に書類を一高生に手渡した。


ベテランの書生がこなす調査の仕事である。被告人の罪状が重くも軽くもなる調査。書類の重さを感じると怯えが全身に走る。


訴訟事案は被告人の経歴(アウトライン)が検察の調査で記載されている。


検察は警察の取り調べ内容を丸写し。


弁護士としてはそのまま調書を鵜呑みにすることはできない。


故に訴訟弁護を引き受けるからには事務所で正確な調書を作成をする必要があった。


事務所は民訴だけでも膨大な事案を抱えこんでいた。

弁護資格のある書生らの手を使ってもこなしきれないくらい。


猫の手を借りるように一高生の手で処理をする。


「この検察の訴訟調書を読むと被告罪状は悔しいことに」


まず間違いないように見える。


「人道的な見地としては刑量を少し軽くする程度だろう」


辣腕さで急進派な所長としても普通の刑事事件の被告人に見える。


いくらなんでも辣腕弁護士が尽力しても華麗などんでん返しなど見込めない。(言葉悪く言えば)度量や才覚のある弁護士が登場する訴訟・裁判ではないと見えた。


ならば…


弁護活動の初歩段階として一高生書生に担当をさせても大丈夫だろう。


「君がこれを担当してみたまえ。一高生最後の記念の民訴だ。弁護書生の仕事の第一歩となるかもしれない」


手渡された民訴の議案と調書に斜め読み程度ザアッと目を通す。


裁判の概要は簡単である。

ただでさえ忙しい先生がしゃしゃり出る必要などないくらいの初歩的な民事訴訟。


弁護士など居なくても裁判は遂行されそうである。


事件のあらましを頭に叩きこむとホッとする。


「この程度の民事なら。法務のシロウトの僕で充分だ。民訴の教科書に掲載されている基本的な事件だ」


書生ひとりで抱え込んで解決をみるであろう。


「先生にも先輩の書生さんにも協力してもらわなくても大丈夫だ」


概要を知り訴訟内容に目を通した書類一式を机の上に置く。


今取り掛かっている刑訴の裁判議事録を仕上げようと改めて机に向かう。刑訴の議事録は来週の裁判に間に合わせたいため急ぐところである。


事務所は定時の5時となる。


女子事務員は身の回りを片付けて帰り支度に忙しい。

先輩の書生の方々は裁判期日が各々迫り定時を越えて残業をこなすことになる。

新米の身分は定時で切り上げ帰り支度である。急ぎの刑訴議事録簿をパタンと閉めた。


「早いなあもう。ここのところ1日がアッという間だ」


作りかけの議事録をトントンと整え机の上を綺麗に整頓する。


机と椅子を元に戻って帰り支度する。手短かな荷物を風呂敷に詰め始める。


隣りの机で先輩の書生さんが捻り鉢巻きで議事録を作成する姿が目に入る。


「そうだ(先生から依頼された)被告人調書も持ち帰えるか。夜にも目を通しておかなくちゃいけない」


風呂敷包みの最後にスクッと数枚の被告人調書をコッソリと忍ばせた。


斜め読みをした被告人調書である。把握したのは事件のあらましと弁護すべき内容程度。夜ひとりになって精査な目でじっくり事件のあらましをみたかった。


これから弁護しなければならない被告人。被告人の素性などは裁判に直接関係がないと見放した。


"目を通していなかったのはまずかった"


被告人たる(女)は3歳の時に生き別れした最愛の母親であった。


民訴の調書には母親の旧姓名が記載されていた。


逢いたくて逢いたくていつも夢に見ていた母親が被告人として現れたのだ。


定時の鐘が鳴り一高生は風呂敷をギュッと縛りつける。


お疲れ様ですっと事務所を後にする。


「さあ仕事は終わったな。これから渋谷まで電車で行かなくちゃ」


時計をチラッと見て間に合うなと判断する。


渋谷には彼女がいた。


最近知り合った"女学校(お茶の水)の御嬢様"


女学生が待つ喫茶店に書生は急いだのである。


この彼女と知り合ったことは学業も弁護士事務所も励みとなった。


まだ知り合って日も浅いところである。しかし日増しに彼女の存在は特別なものとなり心の大半を占めつつあった。


電車で渋谷まで出る。ガタンゴトンの響きは彼女に間もなく逢えると思うとたまらなくなる。


お目当て喫茶点は渋谷の坂道をあがると見えた。心はソワソワとしてくる。


恋愛とはこうも素敵なことなのかと坂道を上がりながら息は弾む。


書生は来年に一高を卒業して春に帝国大学法科進学も決まる。


彼女も出来た。


まさにこの世の春を謳歌をする。


喫茶店のドアを開ける。


少ない客席に可愛い彼女がそこにいた。


彼女は書生の姿が見えハッと驚き赤ら顔で下を向いた。


背が高くハンサムな書生がそこにあった。


恋する乙女は実に可愛らしかった。


「やあっ待たせたね」


恋する二人は渋谷の喫茶店のヒーローとヒロインとなる。

店の雇われバンドは落ち着いた感じである。


渋谷という場所は進駐軍で鍛え上げたサンバを演奏していた。


「こちらの喫茶店は落ち着きますわ」


お茶の水の女学生はゴウジャスな雰囲気が好きである。


「落ち着きますね。気が休まりますね」


恋人はムードが大切である。


「ええっ演奏も素晴らしい」


彼女は有頂天。書生はサンバも進駐軍の演奏も初である。


「憧れの一高生が私をしっかり見てくれているなんて」


女性として"素敵な男性"とのひとときが嬉しかった。

美味しいコーヒーと当時としては洋風で珍しいケーキが運ばれてくる。


「こちらが洋菓子のケーキですか」


書生は…


海の幸なら得意に知っていたがこのケーキを知らなかった。


「さいでございます」


若い二人は微笑みながらデートを楽しんだ。


「ケーキは美味しいでございますわ」


上品なテーブルマナーでお嬢様はケーキを頬張った。

「そうですね。渋谷の喫茶店は珍しい"ケーキ"が自慢です」


生まれて初めて見たケーキはなんだか奇妙な味である。


書生は洋風なケーキを頬張ったが好きなお嬢様の顔ばかり見てしまう。


味覚など微塵も感じない!

裏寂れた浜辺の旅館の老夫婦に育てられた子供が書生である。


「甘くて美味しいですわ」

父母を知らない子供は幾多かの親切な人との出逢いを経て立派な青年となる。


「素敵な演奏ですわ」


彼女が微笑みを湛えた。


「進駐軍のサンバで踊りますそうよ」


サンバ?


踊り?


はてはて


「そうですね。なんとなく心が洗われる気がしますね」


母親の愛情を得ないまま育った青年は裕福な家庭を知らなかった。


「優雅なものでございます」


裕福な家庭に育ち何一つ不自由なく育った令嬢。


「はあっ~」


ハンサムな青年が萎縮していく。


「素晴らしい演奏も貴女という優雅な女性がいらっしゃるからこそです」


お嬢様は素敵でございます。


「あっあらっ。そんな…」

会話はギクシャクしてしまう。


上流階級の世界を見せられて噛み合わない。


お嬢様は可愛らしく目を下に伏せ恥ずかしいわっと照れた。


"目の前の一高生が帝大生になれば…両親に合わせたい。この書生は必ず出世をする"有望株"です"


親が奨めるお見合いの相手(帝大卒)は断りたい。年齢は高いし背が低いもの。


"来年に帝大生になるのは間違いないのかしら"


「オホホッ…私は幸せでございます」


お茶の水の女学生はとんだ狐だった…。


お嬢様に恋する書生は一緒にいるだけで喜びであった。


よくみるとたいへんな美貌でもある。


可愛らしくどこまでも優雅な女学生は魅力的である。

このまま恋愛が続き彼女との結婚を夢物語に思い描く…。


だが…


幸せなエリート一高生の恋はここまで!


…淡く素敵な恋はパタンと音を立てて萎んでしまうのである。


「あのっ明日の日曜日にお会いしましょう」


お嬢様はノーと返事を繰り返していた。


デートのお誘いに一切乗って来なかったのである。


トドメにはお嬢様の侍従から直接に断りの電話をもらってしまう。


「申し上げます書生さま。お嬢様は近く縁談のお話しが進んでおります」


縁談?


愕然とする事実!


「書生さま。おわかりになられましたか」



お嬢様は(したた)かな女学生だったのである。


書生の知らぬ間に秘かな"素行調査"を依頼していた。


書生の複雑怪奇な素性と"貧乏な育ち"は毛嫌いされるものにしか映らなかった。


「わかりました。佳き縁談に恵まれまして。ご祝福を申し上げます」


悔し涙が頬を伝わった。



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