シアワセのにおい
ずっと友達がほしかった。
いや、別に友達じゃなきゃいけないってわけじゃないんだけど。
とにかく、誰か私と一緒にいてくれる人がほしかった。
だって、ずっと一人ぼっちはさみしかったから。
誰もいない、それどころか物だって何も無い寂しい部屋の中で、私は一人ぼっちだった。ときどき大人が私の部屋に入ってきたりするけど、全然私にかまってくれないし。
だから、本当にうれしかった。
彼が来てくれて。
だからはっきりと覚えている。
彼が来てくれた時のこと。
大人に連れられてここに入ってきた彼は、大人よりも少し若い男の人だった。そして、私にかまってくれた。
少し時間が立って、大人が部屋から出て言った後、彼は言った。
「なんで、笑っていられるんだ」
あたりまえじゃないか。その時、私は自分がこんなに笑顔になれるんだ、と自分で驚くくらいの笑顔でそう言った。今だって、まったく同じように言えると確信できる。
だって、一人ぼっちじゃなくなったんだから。
彼は大人とは違って、私が起きてから眠るまでの間のほとんどの時間を私と一緒に過ごしてくれる。まだ、初めて会ってからあまり時間は経ってないけど、私は彼が大好きだ。多分、そのはずだ。
そんな日から数日が過ぎた今日もまた、彼はこの部屋の中で、私と一緒にいてくれる。
「もう少しで焼きあがるからね」
ドアの隙間からおいしそうなにおいが漂ってきて、なんだかお腹のあたりが切なくなってくる。
今、彼は甘いお菓子をつくっている。私も一緒に手伝いたいけど、部屋から出ちゃいけないから待ってるだけ。
彼が来るまではそんな甘いものとかを食べさせてもらえることなんてなかったから、漂ってくる甘い匂いは、私をなんだか夢の世界にいるよう気分にさせてくれる。
「そろそろかな」
彼は立ちあがってドアの前に立つ。その後、一瞬だったけど、心配そうな顔でこっちを見た。
ドアを開けたすきに逃げられるかも、とか思っているのだろうか。心配しなくても、私はここでいい子にして座ってるのに。だから、心配するよりもほめてほしいな。
彼の作った甘いお菓子はとってもおいしかった。夢の世界だった。
今度また作ってよ、って頼んでみた。彼はすこし困ったみたいだったけど、また作ってくれるって約束してくれた。今からもう楽しみだ。よだれが出そうだ。
お菓子を食べた後、彼とずっとお話をしていたら、ふあー、と大きなあくびが出た。お話と甘いお菓子に時間が立つのも忘れさせられていたみたいだ。いつの間にか、かなりまぶたが重くなっている。
「そろそろ、寝ちゃうね」
「またあんな固い所で寝るのか?」
部屋の隅っこの床が、いつも私が寝る時の定位置になっている。
「うん、そうだけど」
一度自覚してしまうと、不思議だけど、眠気が今までよりも強く私を包みこんでくる。
「……大丈夫か?」
「……なにが?」
部屋の隅っこで眠りやすいように体を丸めながら、彼の返答が返ってくる前に眠りに落ちた。
「……うおぅ」
いっぱい眠って目が覚めたら、目の前が真っ暗だった。なんだこれ。
顔の前で手をバタバタ動かしてみたら、何かやわらかい、ふわふわしたものが顔の上に乗っていた。
「なに、これ?」
自分に乗っていた厚くて重くてふわふわしたそれを恐る恐る触ってみる。気持ちいい。
「はっ!」
一瞬で懐柔されそうになった。危ない危ない。一度距離をとってみる。もしかしたら大人が仕掛けた罠かもしれない。
「……いや、寝てる間にそんなこと必要あるのかな? ないのかな?」
なさそうだよね。
ってことでとりあえず私はそれを思いっきり抱きしめてみる。体がふわふわに包まれて気持ちいい。しかも暖かい。何これすごい。
「気に入ってもらえたみたいだね」
いつの間にか彼が私を笑顔で見下ろしていた。彼から見た感じだと、私は彼の足もとで布にじゃれついてごろごろしていた。
すっごく恥ずかしい。だから私は布で顔を隠したままにすることにした。
「これ、なぁに?」
「毛布。何も無い場所で寝るよりも寝やすいかな、って思ってね。」
「もーふ」
確かに、もふもふで油断したら起きたばかりでもまた眠ってしまいそうだ。
「うふふ、あったかいにおいだね」
「外でほしてきたばかりだからね。あったかいだろ」
ぎゅーっと抱きしめて思い切り息を吸い込んでみる。これがお日さまの匂いなんだろうか。
「一つ、聞いてみてもいいか」
なぜだか、彼は難しい顔をしている。いきなりどうしたんだろう。
「今、君は幸せなのか?」
あたりまえのことを聞くんだなぁって思った。だから思った通りに、
「あたりまえだよ。だって、君がいてくれるんだから」
って言った。でも、彼は何だか怖い顔をした。
「そうじゃないんだ。この部屋の中にしかいられないとか、自分のこと全体で、君は幸せなのか?」
私はもしかしたら怒られているんだろうか? 何となく不安になる。大人に怒られるのはしょっちゅうだったけど、彼に怒られるのは絶対に嫌だ。
「ごめん、すこし難しい質問かもしれない」
彼は難しい顔をしたまま、申し訳なさそうに言った。
なんでこんな質問をされているのかはよく分からないけど、とりあえず怒られている風では無くて安心した。
だから、彼の質問の答えを考えてみることにした。
シアワセ、そう言う言葉は知っている。でも、それって何なんだろう。
たとえば、彼の作ってくれる。甘ぁいお菓子のにおいで夢を見ているような気分になる時のような、ふわふわの毛布のあったかいにおいでふわふわしちゃうこととか、そんなことなのだろうか。
それとも、そう言うものとは全然違うものなんだろうか。
彼のことが好きなのはどうなんだろう。
お菓子とか毛布とかの好きと、彼を好きなことは、同じことじゃないような気がする。
でも、結局私には、
「……どうなんだろう?」
よく分からない。
シアワセって、どんなにおいなんだろう。
毛布にくるまってずっと考えていたら、いつの間にか眠っていた。
何か大きな音が聞こえて目が覚めた。何の音が一瞬分からなかったけど、彼と大人の声だ。いつも聞いてる声だけど、ただ、両方ともすごく怒っているみたいだから。
怖くって、ずっと丸くなってた。音が聞こえないようにがんばって耳をふさいだ。
ここにいることが怖かった。どこかに行ってしまいたかった。
それでも私は部屋から出られない。
もう彼があのドアの向こうからやってこない気がして怖かった。
それでも私は部屋から出られない。
何が起きているのか分からないことが怖くて、何が起きているのか知りたかった。
それでも私は部屋から出られない。
なんで? 初めて疑問に思った。私はなんで部屋から出てはいけないの?
なんでだっけ、そうだ、大人に言われたからだ。だから私は誰かが許してくれなきゃここから出ちゃいけないんだ。そう、誰かが許してくれなきゃ。
ふさいだ耳の隙間から、彼か大人か、多分どちらかの叫び声が聞こえて、その後にとても苦しそうな声が聞こえて、そしてなにも聞こえなくなった。
そのまま、何の音も聞こえなくなったまま、どれだけの時間が過ぎたのか。体が疲れているのかどうかも分からない。まぶたが全然重くならないから分からない。
ゆっくりとした足音が聞こえて、ドアが開いた。
そこには、彼が立っていた。大人じゃなくて、本当にほっとした。
だって私は彼が大好きだから。
甘いにおいでうれしい気持ちにしてくれたのは彼だった。ふわふわな毛布のお日さまのにおいであったかい気持ちにしてくれたのも彼だった。
だから、きっと私をシアワセにしてくれるのも彼なんだ。
「さあ、行こう」
そう言ってこちらに伸ばした彼の手には、変なにおいのする赤いものが付いていて、そのにおいでうぇって少し気持ち悪くなった。
けど、違うんだ。
きっと、これがシアワセのにおいなんだ。
感想等をもらえたら、きっと悶えて喜びます。