死んだインターネットについて
# 死んだインターネットについて
### 一
「わしらの若い頃にはな、インターネットっちゅうもんがあったんじゃ」
「うん」
「世界中の人間と、いつでも話ができたんじゃよ」
「うん」
「アメリカ人でも、ドイツ人でも、どこの誰でもじゃ」
「うん」
「中国人はちょっと難しかったがの」
「なんで?」
「さあ。なんでじゃったかな」
老人は顎をさすった。
「そういうことになっとったんじゃ」
孫娘の茜は、さっきから老人の話を聞いていなかった。
居間の床に新聞紙を広げ、その上に小さな機械を並べている。半田ごての電源はまだ入っていない。部品を仕分けしているところらしい。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「ちょっと静かにしてて」
「なんじゃと」
「今、順番覚えてるから」
老人は不服そうに鼻を鳴らした。
目の前にいるのは今年十七になる孫娘だった。茜は市立工業学校の通信科に通っている。かつて工業高校と呼ばれていた学校の後身で、今では自治体の通信設備を整備する技師を養成するところになっていた。
老人自身も、若い頃は通信について人並み以上に詳しいつもりでいた。
もっとも、インターネットがなくなってから三十六年が経った今、老人の知識はほとんど役に立たない。
今どきの通信設備は、大きく分けて二種類ある。
一つは自治体や企業がそれぞれ運用している域内網。もう一つは、それらのあいだで必要な情報だけを交換するための公認中継回線だ。
こちらは免許制になっていて、誰でも自由に使えるわけではない。
そもそも、任意の端末同士が勝手に接続できるような仕組みを持っていない。
老人に言わせれば、それはインターネットではない。
だが、今の人間に言わせれば、そもそもそんなものを作る必要がないのだった。
「できた」
茜が言った。
小さな基板に電池をつなぐと、赤いランプが点灯した。
「何ができたんじゃ」
「中継機」
「何を中継するんじゃ」
「通信」
「そりゃそうじゃろうが」
「説明してもわかんないでしょ」
「馬鹿にするでない。これでも昔はな」
「インターネットがあったんでしょ」
「そうじゃ」
茜は笑った。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
老人は立ち上がり、ゆっくりと廊下を歩いた。
玄関にいたのは郵便配達員だった。
「杉浦正一さんですね」
「そうじゃが」
「未登録宛先の照会です。ご本人に確認をお願いしています」
配達員は、薄い灰色の封筒を差し出した。
老人は老眼鏡をかけた。
封筒の宛名欄には、見慣れない記号が印刷されていた。
いや。
見慣れないはずがなかった。
そこには、こう書かれていた。
@sugichan_64
老人はしばらく、それを見つめていた。
「どうされました?」
配達員が尋ねた。
「これは、どこから来たんじゃ」
「差出人の情報はありません。未登録宛先便なので」
「誰がこの住所に届けろと言った?」
「そういう情報もこちらでは扱っていません。配送指示に従っているだけです」
老人はもう一度、封筒を見た。
スギチャン64。
その名前を使っていたのは、二十代の終わりから三十代の半ばにかけての、ほんの数年間だった。
インターネットがなくなってから、一度も名乗ったことはなかった。
「わし宛てじゃ」
老人は言った。
「間違いない」
配達員は端末に確認印を入力した。
*
### 二
インターネットが停止したのは、二〇三八年十一月十七日のことだった。
後世の歴史書では、この日を「大断絶」と呼ぶことが多い。
もっとも、当時はそのような大仰な名前はついていなかった。
最初の報道は、世界規模の認証障害に関するものだった。
次いで金融システムの混乱、各国の通信基盤への侵入、ソフトウェア更新機構の汚染などが報じられた。
通信線そのものが切れたわけではない。
むしろ問題は、何が正常な通信で、何が偽装された通信なのか、誰にも区別がつかなくなったことにあった。
あらゆる場所に侵入していた不正なプログラムは、復旧作業そのものを利用して感染を広げた。
世界中の管理者たちは、自分の担当するネットワークを外部から切り離し始めた。
その判断は、おそらく正しかった。
少なくとも、各地の電力網や上下水道、病院の設備を守るためには必要な措置だった。
そして、切り離されたネットワークが再び一つになることはなかった。
事故の原因については、今でも議論が続いている。
複数の国家が関与したという説もあれば、民間企業の自律型プログラムが暴走したという説もある。
何が事実なのか、老人にはわからない。
わかっているのは、あの日の午後、自宅で使っていたパソコンの画面に接続エラーが表示されたことだけだった。
老人はブラウザを再起動した。
次にルーターを再起動した。
それからパソコンを再起動した。
最後にスマートフォンの電源を入れ直した。
その間、何度も時計を見た。
午後三時から始まるオンラインのイベントに参加する予定だったのだ。
結局、そのイベントは開催されなかった。
開催されなかったことを参加者に伝えることもできなかった。
三十六年後の今、老人はそのことをときどき思い出す。
人類史上最大級の事件が起きた日に、自分はたかがゲームのイベントに遅刻することを心配していたのだ。
当時の人間の大半は、似たようなものだったのではないかと思う。
*
封筒の中には、四つ折りにされた一枚の紙が入っていた。
紙質は悪く、表面には細かな繊維が浮いている。
文面は短かった。
> スギチャン64へ。
>
> まだ生きていたら、返事をください。
>
> あのときの話の続きをしたい。
>
> ミズタマ
老人は紙をひっくり返した。
裏には何も書かれていなかった。
もう一度表を見た。
ミズタマ。
知っている名前だった。
もちろん、本名ではない。
あの頃、自分が入り浸っていたコミュニティにいた人間だ。
十年以上の付き合いがあったはずだった。
しかし、不思議なことに、どんな人間だったのかうまく思い出せなかった。
ミズタマという名前は確かに覚えている。
その名前を見れば、何か親しみのようなものが湧き上がってくる。
けれど、具体的な会話を思い出そうとすると、記憶が霧の中に沈んでいく。
男だったか、女だったか。
何歳くらいだったか。
どこに住んでいたか。
何一つ思い出せない。
「おじいちゃん?」
茜が背後から声をかけた。
「どうしたの?」
「手紙じゃ」
「見ればわかるよ」
「昔の友達からな」
「へえ」
茜は老人の手元を覗き込んだ。
「ミズタマ?」
「そうじゃ」
「かわいい名前」
「そうかの」
「返事するの?」
「したいがな。差出人がわからん」
茜は封筒を受け取った。
表と裏を調べ、端に印刷された小さな番号を見つけた。
「これ、八桁ある」
「それがどうした」
「六桁のはずなんだけど」
「何がじゃ」
「配送の中継番号。今は六桁なの。昔の規格かもしれない」
茜は自分の部屋から端末を持ってきた。
市内網に接続し、郵便管理局の公開資料を検索する。
やがて、奇妙なことがわかった。
封筒に記された八桁の番号は、二十七年前に廃止された民間配送規格のものだった。
しかも、その番号を使っていた会社は、もう存在していなかった。
「古い手紙なんじゃない?」
「三十六年前のか?」
「さあ。でも、ずっとどっかに置いてあったとか」
老人は考えた。
確かに、ありえない話ではない。
大断絶のあと、膨大な量の電子データが失われた。
しかし、すべてが失われたわけではない。
個人の端末や、外部から隔離されていた記憶装置には、今でも大量のデータが眠っている。
古い記録媒体を読み出すことは、一つの産業になっていた。
ときには、何十年も前の私信が発見されることもある。
「でもね」
茜が言った。
「これ、昨日印刷されてる」
「わかるのか」
「インクの識別番号。役所のプリンターだよ、これ」
「役所?」
「うん。市内のどこかだと思う」
茜は端末を置いた。
「なんか変じゃない?」
*
### 三
翌日、二人は中央郵便管理局を訪れた。
かつての大型商業施設を改装した建物で、吹き抜けだった部分には貨物用の昇降機が設置されていた。
建物の外には配送用の小型トラックが並び、受付窓口には書類を抱えた人々の列ができている。
老人は、昔の郵便局を思い出した。
もっとも、当時よりもずっと混雑している。
今では個人間の通信の多くが郵便に戻っていた。
市内の通信網を使えば家族や職場との連絡は簡単だが、域外への個人的な通信となると話は別だ。
相手の正式な登録番号が必要になる。番号を知らなければ、相手の所属する自治体を通じて照会をかけなければならない。
個人の所在を勝手に検索することはできない。
遠くに住む知人と連絡を取るのは、昔よりずっと面倒になっていた。
ただし、大断絶以後に生まれた人間は、これを特に不便だとは思っていない。
よその地域の人間と私的に連絡を取り合う機会自体が、そもそも少ないからだ。
「八桁の中継番号ですか」
窓口の職員は封筒を調べ、奥の係員を呼んだ。
十分ほど待たされたあと、二人は別室に通された。
そこには五十代くらいの男性職員がいた。
男は封筒を見るなり眉をひそめた。
「これは、どちらで受け取られました?」
「自宅じゃが」
「正式な配送員から?」
「そうじゃ」
男は封筒を机に置いた。
「これは、ちょっと困りましたね」
「何がじゃ」
「この番号、公式には使われていないものなんです」
「廃止された会社の番号なんじゃろ」
「その会社が廃止されたあとも、同じ形式で荷物を送っている人たちがいましてね」
男は声を落とした。
「私設通信網です」
「通信網?」
「郵便を利用して情報を交換しているんです。荷物の中に通信媒体を忍ばせたり、配送業者同士の定期便を利用したりしてね」
「それの何が悪いんじゃ」
「登録されていないんですよ」
「登録すればいいじゃろう」
「匿名の通信を目的にしているので、登録を嫌がるんです」
老人は笑った。
「なるほど」
「笑い事じゃありませんよ」
「いや、すまんの」
老人は封筒を持ち上げた。
「それで、これを送った奴に返事はできるのか」
「おすすめしません」
「なんでじゃ」
「何かの詐欺かもしれません。こういう便を使った金銭の要求が最近増えているんです。古い知人を装ったり、連絡の取れない親族を探していると偽ったり」
「なるほどの」
「一応、こちらで調査することもできますが」
「いや、ええよ」
老人は立ち上がった。
茜が慌てて後を追った。
「おじいちゃん、いいの?」
「ええよ」
「せっかく昔の友達から手紙が来たのに」
「そうじゃな」
「会いたくないの?」
老人は立ち止まった。
「会いたいとも思うがな」
「じゃあ」
「それより、面白いことがわかった」
「何?」
「インターネットがあるらしい」
「は?」
「なくなったと思っとったんじゃがな」
*
### 四
その夜、老人は押し入れから一台のパソコンを取り出した。
大断絶のときに使っていたものではない。
それから十年ほど経った頃、廃品業者から買った古いノートパソコンだった。
外部との通信機能は壊れていたが、記憶装置は何度か交換してあり、今でも起動する。
老人は古いフォルダを開いた。
そこには、当時のインターネットから保存しておいた文章や画像が入っていた。
ほとんどはどうでもいいものだった。
ゲームの攻略情報。料理のレシピ。昔の知人たちの書いた文章。画像投稿サイトから保存した漫画。
そして、ある小さなオンラインコミュニティの記録。
『午後二時の公園』
ひどい名前だった。
名前の由来も、もう思い出せない。
しかし、老人は確かにこの場所に、何年ものあいだ入り浸っていた。
登録者は千二百人ほど。
いつも発言していたのは、そのうち百人にも満たなかった。
残りの大半は、何をしていたのかよくわからない。
ときどき現れては一言だけ残していく者もいれば、何年も一度も発言しない者もいた。
他人の発言を読むことが好きな人間も多かった。
何人かは、老人が別の場所で知り合った人間だった。
別の人間が別の人間を連れてきた。
そのうち、誰が誰の知り合いなのか、誰にもわからなくなった。
老人は記録を読み進めた。
何十年も前の、どうでもいい会話が並んでいる。
『最近、味噌汁にじゃがいも入れる奴が許せなくなってきた』
『なんでだよ』
『味噌汁に甘さを求めるな』
『玉ねぎは?』
『ギリギリ許す』
『基準がわからん』
老人は笑った。
こういう話を、延々としていたのだ。
朝から晩まで。
夜中の三時にも、誰かが起きていた。
当時はそれが当たり前だった。
老人は検索欄に「ミズタマ」と入力した。
四百三十二件が見つかった。
最初の発言は、二〇三一年六月。
『はじめまして。知り合いに教えてもらって来ました。よろしくお願いします』
それから七年間、ミズタマは断続的に発言していた。
料理の話が多かった。
猫を飼っているらしいことがわかった。
北海道に旅行したことがあるらしい。
一度、引っ越しについて相談していた。
仕事を辞めようか迷っているという発言もあった。
老人は読み進めた。
だが、奇妙なことに、どれを読んでもミズタマの顔が浮かばなかった。
いや、顔を知っているはずはないのだが。
それにしても、何も思い出せなかった。
老人は自分の発言を検索した。
ミズタマへの返信も、いくつも見つかった。
特に親しかったようには見えない。
むしろ、たまに口論していたらしかった。
『スギチャンって、そうやってすぐ一般論にしちゃうよね』
『そんなことないじゃろ』
『いや、してるよ。今も』
『面倒くさい奴じゃのう』
『そういうところだよ』
老人は苦笑した。
そして、ある記録のところで手を止めた。
二〇三八年十一月十五日。
大断絶の、二日前だった。
『ちょっと相談があるんだけど、個別に話せますか?』
ミズタマから、自分に宛てられた発言だった。
老人はその後のやり取りを探した。
しかし、そこから先は残っていなかった。
個別の会話は、この記録に含まれていないのだ。
老人は椅子に深く腰掛けた。
相談。
そうだ。
何か、相談されたような気がする。
けれど、内容が思い出せない。
あのときの話の続きをしたい。
手紙には、そう書かれていた。
老人はしばらく考えてから、別のフォルダを開いた。
そこには、当時の参加者名簿が保存されていた。
名前の横に、いくつか数字が並んでいる。
昔、老人がコミュニティの管理を手伝っていた頃に作ったものだった。
活動履歴や参加時期、管理上の注意事項などが記録されている。
ミズタマの名前もあった。
その横に、小さく赤い印がついていた。
老人は首を傾げた。
赤い印。
何だったか。
そういえば、何か問題を起こした参加者につけていた印ではなかったか。
理由を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
*
### 五
私設通信網の中継所を見つけたのは茜だった。
市内の配送拠点から出入りする荷物の流れを調べ、廃止された八桁の番号が使われている場所を探したのだ。
厳密には合法とは言い難い方法だったらしいが、老人は詳しく聞かなかった。
「高架下の古本屋」
「古本屋?」
「そう。前は写真屋だったみたい」
老人は少し驚いた。
その場所を知っていた。
若い頃、何度か通ったことのある商店街だった。
もっとも、今では大半の店が入れ替わっている。
翌日の午後、二人は電車でそこへ向かった。
駅前の商店街は、老人の記憶とはずいぶん違っていた。
昔は飲食店ばかりだった通りに、修理屋や印刷屋が増えている。
大断絶以降、街から消えた商売もあれば、復活した商売もある。
古本屋は高架の下にあった。
店先には紙の本が積まれている。
中に入ると、古本特有の乾いた匂いがした。
奥には小さな作業場があり、若い男が紙束を裁断していた。
「すみません」
茜が声をかけた。
「八桁の中継番号のことで聞きたいんですけど」
男の手が止まった。
「誰から聞きました?」
「調べたの」
「何を?」
「配送履歴」
男はしばらく茜を見ていた。
それから老人を見た。
「おじいさんは?」
「わしも一緒じゃ」
「警察の人じゃないですよね」
「違うよ」
「……じゃあ、ちょっと待っててください」
男は奥へ引っ込んだ。
十分ほどして、五十歳くらいの女性が現れた。
女性は老人を見た。
「スギチャン64?」
老人は笑った。
「なんじゃ。知っとるのか」
女性は笑わなかった。
「本当にいたんだ」
彼女は二人を奥の部屋へ案内した。
狭い部屋だった。
壁には地図が貼られていた。
関東から東海、関西にかけて、いくつもの赤い線が引かれている。
机には古い通信端末が三台並び、その横で小型の印刷機が動いていた。
女性は机の上から紙束を一つ持ち上げた。
「これ、何だかわかります?」
老人は目を凝らした。
そこには短い文章が何百行も並んでいた。
行頭には、それぞれ奇妙な名前がついている。
猫柳。
五番ホーム。
うどんの角。
空き地。
北北西。
老人は、思わず笑った。
「掲示板じゃないか」
「そうです」
「こんなもん、どうやってやっとるんじゃ」
「参加者が文章を登録すると、夜間にまとめて印刷します。それを提携している配送業者に乗せるんです。各地の中継所で複製して、地域ごとの掲示板に流します」
「ほう」
「地域内では普通の通信網を使います。遠くの地域とは、こうやって紙か記録媒体を運ぶんです」
「何日かかる?」
「関東なら一日か二日。関西まで三日。九州は五日くらい。国外は難しいですね」
「それでも、ずいぶん速いのう」
「昔のインターネットと比べたら、話にならないでしょうけど」
老人は紙束をめくった。
そこには、昨日の会話が残っていた。
『東京の人いる? 今週末そっち行くんだけど』
『東京のどこ』
『知らん』
『知らんのかい』
『まだ決めてない』
『目的もないのに来るの?』
『行ってから決める』
老人は声を出して笑った。
「いいじゃないか」
女性は少し意外そうな顔をした。
「そうですか?」
「いいとも。実にいい」
老人は紙束を置いた。
「何人おるんじゃ、ここには」
「登録者は全部で六万四千人くらいです」
「六万!」
「毎日使う人は数千人ですけどね」
「大したもんじゃ」
「まあ、運営は大変です」
女性は苦笑した。
「料金も取っていないので」
「なんで取らんのじゃ」
「取ったら利用者が減るからです」
「そりゃそうじゃろう」
「利用者が減ると、中継所を維持する意味もなくなります」
「なるほどの」
「今でも赤字ですよ。運送会社が好意で引き受けてくれている部分が大きいんです」
老人は壁の地図を見た。
赤い線は、県境を越えてあちこちに伸びている。
しかし、九州の一部や東北の大半には線がなかった。
北海道には、孤立した点が二つあるだけだった。
「大変じゃのう」
「本当に」
「でも、なんでこんなことを始めたんじゃ」
女性は少し考えた。
「最初は、単に遠くの友達と話したかっただけです」
「ほう」
「昔、一緒に仕事をしていた人が関西に引っ越して。公認回線で連絡するのは面倒だったので、荷物を送り合うついでに記録媒体を交換していたんです」
「なるほど」
「そのうち、ほかにも使いたい人が出てきて。気がついたら、こんなことになっていました」
老人はうなずいた。
「そういうもんじゃ」
「そういうものなんですか?」
「インターネットも、そんなふうに大きくなったんじゃろうからな」
女性はようやく笑った。
*
### 六
ミズタマのことを尋ねると、女性の表情が曇った。
「やっぱり、その件でしたか」
「知っとるのか」
「手紙を出したのは、うちの利用者です」
「ミズタマ本人か?」
「それはわかりません」
「わからん?」
「本人確認をしていませんから」
老人は黙った。
「この仕組みでは、好きな名前を使えます。誰かの名前を勝手に使うことも、技術的には可能です」
「そりゃそうじゃろうな」
「問題は、昔のインターネットの記録が大量に出回り始めたことなんです」
女性は端末の画面を見せた。
そこには、古いウェブサイトの画像や文章が並んでいた。
大断絶以前の記録を復元して公開する事業が、各地で進んでいるらしい。
最近になって、民間企業が保管していた巨大な記録装置の一部が復旧し、そこから膨大な量の個人情報が発見されたのだという。
当時のSNSの投稿、公開プロフィール、写真、交友関係。
その中には、老人が利用していた『午後二時の公園』の記録も含まれていた。
「それがどうしたんじゃ」
「昔の知り合いを探している人がいるんです」
「そりゃおるじゃろう」
「問題は、本人が探されたくない場合です」
女性は別の画面を開いた。
そこには、こんな文章があった。
『ミズタマって名前、昔の掲示板で見たことある人いますか?』
『スギチャン64なら知ってるかも』
『あの人まだ生きてるの?』
『住所わかるよ』
老人は顔をしかめた。
「なんで、わしの住所がわかるんじゃ」
「調べた人がいるみたいです」
「どうやって?」
「古い記録からです。昔、住所が載った写真を公開していませんでした?」
老人は首を振った。
心当たりはない。
「あるいは、昔の知人から聞いたのかもしれません。いずれにしても、今の住所と結びつけた人がいたんです」
女性は画面を閉じた。
「それで、手紙が届いたんだと思います」
「なるほど」
「ただ、その人、ミズタマさんのことを探しているだけじゃないんです」
「どういうことじゃ」
女性は一枚の紙を取り出した。
そこには、古いコミュニティの参加者名簿が印刷されていた。
老人が昨夜見たものと、同じだった。
「この名簿を持っている人を探しているんです」
「名簿?」
「管理者が作ったものらしくて。誰がいつ参加したか、誰と問題を起こしたか、そんなことが書いてあるみたいで」
老人は紙を見つめた。
赤い印。
ミズタマ。
その名前の横についていた、小さな印。
何かを思い出しかけた。
女性が言った。
「スギチャン64さん。あなた、これを作った人じゃないですか?」
*
### 七
家に帰った老人は、もう一度古いパソコンを起動した。
茜は隣に座り、黙って画面を見ていた。
老人は例の名簿を開いた。
千二百人分の名前が並んでいる。
いくつかの名前には赤い印がついていた。
老人は記憶をたどった。
少しずつ、思い出してきた。
『午後二時の公園』では、何年かに一度、大きな揉め事が起きた。
参加者同士の口論。
特定の人物に対する執拗な攻撃。
別のコミュニティとの対立。
インターネット上の人間関係は、しばしば現実の人間関係よりも複雑になった。
誰かが誰かを嫌っている。
その理由を別の誰かが知っている。
ある人間がいなくなると、それを喜ぶ人間がいる。
そのことを非難する人間が現れる。
いつの間にか、最初に何が問題だったのか誰にもわからなくなっていた。
老人はそういうことが嫌いではなかった。
むしろ、面白がっていたところさえあった。
人間というものは実にいろいろなことを考えるものだと、いつも感心していた。
しかし、面白がってばかりもいられなかった。
自分が管理者の一人だったからだ。
トラブルを起こした参加者を追放したこともあった。
警告したこともあった。
逆に、追放された者をかばったこともあった。
赤い印は、その記録だった。
ただし、印がついているからといって、必ずしも問題を起こした側とは限らない。
被害を受けた者にも、注意が必要な場合があった。
「これ、何?」
茜が尋ねた。
「昔の名簿じゃよ」
「本名じゃないんだ」
「そうじゃ」
「住所とかもないね」
「そんなもん、知らんからな」
「じゃあ、どうやって管理してたの?」
「管理?」
「だって、何か悪いことする人がいたら困るでしょ」
「追い出せばよかったんじゃ」
「また別の名前で来たら?」
「来ることもあったな」
「じゃあ、意味ないじゃん」
「意味がないこともあったよ」
老人は笑った。
「でも、まあ、なんとかなっとった」
茜は不思議そうな顔をした。
「ずいぶん適当だね」
「そうじゃな」
老人はミズタマの名前を選択した。
赤い印の横に、小さな注記が残っていた。
老人は拡大した。
そこには、こう書かれていた。
本人確認不可。複数人による利用の疑い。
老人は息を呑んだ。
そうだ。
思い出した。
ミズタマという名前の人間は、一人ではなかったのだ。
*
当時、ミズタマは何度か奇妙な振る舞いをしていた。
ある日、突然それまでの発言とまったく違うことを言い始めた。
以前は嫌いだと言っていたものを、好きだと言う。
記憶しているはずの話を覚えていない。
口調まで変わることがあった。
誰かが指摘すると、ミズタマは「気分が変わっただけ」と答えた。
最初は冗談だと思われていた。
しかし、そのうち不審に思う者が現れた。
アカウントを複数人で使っているのではないか。
誰かが他人になりすましているのではないか。
管理者たちは対応を相談した。
その一人だった老人は、本人に直接尋ねた。
ミズタマは認めた。
アカウントを複数人で使っている、と。
理由は明かさなかった。
老人たちは困った。
規約には、アカウントを複数人で使ってはいけないという決まりがなかった。
それどころか、当時は複数人で一つのアカウントを使うこと自体、それほど珍しくなかった。
家族で共有している者もいた。
友人同士で共有している者もいた。
しかし、ミズタマの場合は何かが違った。
その名前で発言している人間たちは、お互いに相手の存在を隠そうとしていた。
老人は、ある日の個別会話を思い出した。
『何人いるんじゃ、お前らは』
『言いたくない』
『せめて同じ人間が使っとるのかどうか、はっきりしてくれんか』
『同じ人間って何?』
『面倒くさいことを言うな』
『そういうつもりじゃないんだけど』
『じゃあ、どういうつもりじゃ』
そこで会話は一度途切れた。
数日後、ミズタマから再び連絡があった。
『ちょっと相談があるんだけど、個別に話せますか?』
二〇三八年十一月十五日。
大断絶の二日前だった。
老人はそこまで思い出して、頭を抱えた。
肝心の相談の内容だけが、どうしても思い出せなかった。
*
### 八
三日後、再び手紙が届いた。
今度は、私設通信網の中継所に宛てて出されていた。
古本屋の女性が、わざわざ届けてくれた。
> スギチャン64へ。
>
> 名簿を持っていることはわかっています。
>
> ミズタマの欄に何が書かれているか、教えてください。
>
> できれば名簿そのものを見せてほしい。
>
> あなたが誰かを守ろうとしているなら、そのことは尊重します。
>
> でも、もう三十六年経ちました。
>
> そろそろ、話してもいいのではないでしょうか。
老人は手紙を読み終えた。
そして、しばらくしてから笑い始めた。
「なんじゃ、こりゃ」
茜が首を傾げた。
「何が面白いの?」
「まるで、昔のインターネットじゃ」
「どういうこと?」
「誰かが何かを知っとると思い込んで、その誰かに説明を要求する」
「実際、おじいちゃんは知ってるんでしょ」
「知らんよ」
「でも、名簿は持ってるじゃん」
「持ってはおる」
「じゃあ、見せてあげれば?」
「嫌じゃな」
「なんで?」
老人は考えた。
なぜ嫌なのだろう。
名簿に書かれているのは、ほとんどが他愛もない記録だった。
本人確認不可。
複数人による利用の疑い。
そんなことを知られたところで、誰が困るというのだろう。
しかし、嫌だった。
三十六年前の自分が、当時の事情に基づいて記録したものを、今になって誰かに差し出す気にはなれなかった。
「わしのもんじゃからな」
老人は答えた。
「でも、その人たちのことが書いてあるんでしょ」
「そうじゃ」
「じゃあ、おじいちゃんだけのものでもないんじゃない?」
老人は黙った。
茜はそれ以上何も言わなかった。
その晩、老人は再びパソコンに向かった。
名簿を開き、ミズタマの欄を見た。
そして、ようやく気がついた。
赤い印の横に、別の注記があった。
小さすぎて、今まで読めなかったのだ。
老人は画面を拡大した。
本人から、アカウントの記録を削除してほしいとの申し出あり。保留。
老人は、その文を何度も読み返した。
削除。
そうだ。
そんな話だった。
ミズタマは、自分たちの過去の発言を消してほしいと言ってきたのだ。
複数人で使っていたアカウントを、これ以上続けることが難しくなったから。
理由は明かせないが、とにかく全部消してほしい。
老人は困った。
インターネット上の発言というものは、一度公開されると、ほかの人間の記録にも残る。
コミュニティ上の発言を削除することはできたが、すでに他人が保存したものまで消すことはできない。
それに、ミズタマは他人との会話も大量に残していた。
それをすべて消してしまうと、ほかの人間の発言まで意味がわからなくなってしまう。
老人は、少し時間がほしいと答えた。
ほかの管理者と相談することにした。
その二日後、インターネットが停止した。
そして、結論を出すことはなかった。
老人は椅子に深く腰掛けた。
なるほど。
あのときの話の続きをしたい。
そういうことだったのか。
*
### 九
老人は返事を書いた。
> ミズタマへ。
>
> 名簿は確かに持っています。
>
> しかし、これは当時の管理者が内部で使用するために作った記録です。
>
> 本人確認ができない以上、内容をお伝えすることはできません。
>
> それから、一つだけ尋ねたいことがあります。
>
> あなたは誰ですか。
返事が届いたのは、一週間後だった。
> あなたが知っているミズタマの一人です。
老人は笑った。
まったく、昔からこういう奴だった。
その下には、もう少し文章が続いていた。
> 私たちのことを、どこまで覚えていますか。
>
> あの頃、あなたが私たちについて考えていたことを、聞きたいです。
>
> 名簿がほしいのは、そこに記録が残っているかもしれないからです。
>
> 私たちは、誰が何を言ったのか、もうほとんど覚えていません。
老人は最後の一文を読み返した。
私たち。
誰が何を言ったのか。
老人は初めて、ミズタマという名前の向こうに、複数の人間がいることを実感した。
当時は、それが気味悪かった。
一つの名前で発言しているのに、そこに何人もの人間がいる。
誰と話しているのかわからない。
言葉の責任がどこにあるのかわからない。
しかし、今になって考えてみれば、インターネットとはそもそもそういう場所だった。
実在する人間が発言しているとは限らない。
一人の人間が、何人もの名前を持つこともあった。
同じ名前の下に、何人もの人間が集まることもあった。
それでも、会話は成立していた。
誰かが冗談を言えば笑った。
誰かが怒れば言い返した。
誰かがいなくなれば、その不在を話題にした。
老人は、もう一度返事を書いた。
> あなたたちが何人いたのか、私は知りません。
>
> 正直に言えば、当時もよくわかっていませんでした。
>
> 名簿には、本人確認ができなかったことと、記録の削除を希望していたことだけが書かれています。
>
> それ以上のことは残っていません。
>
> ただ、あなたたちと何度も話したことは覚えています。
>
> それなりに楽しかったと思います。
>
> あなたたちは、何を知りたいのですか。
*
### 十
その返事が届く前に、事件が起きた。
私設通信網の中継所が、一斉に摘発されたのだ。
違法な通信網の運用。
登録外の個人情報の取り扱い。
公認中継回線に類似した業務の無許可営業。
新聞にはそう書かれていた。
古本屋の女性も逮捕された。
各地の中継所では大量の記録媒体や紙の帳簿が押収され、利用者の名簿も捜査当局に渡った。
老人は新聞を読んで、ひどく不愉快になった。
しかし、何をすればいいのかわからなかった。
自分には、何の関係もないことなのだ。
数回、手紙をやり取りしただけだった。
法的な責任を問われることもないだろう。
それでも、老人は落ち着かなかった。
翌日、茜が学校から帰ってきた。
普段よりも遅い時間だった。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「ちょっと話がある」
茜は老人の向かいに座った。
そして、鞄から小さな記録媒体を取り出した。
「これ、預かってたの」
「何をじゃ」
「例の通信網のデータ」
老人は目を見開いた。
「お前、何をしとるんじゃ」
「お店の人に頼まれた」
「いつ?」
「摘発される前」
「どうしてそんなことを」
茜は少し黙ってから答えた。
「私も使ってたから」
老人はしばらく口を開けたままだった。
「なんじゃと」
「一年くらい前から」
「何をしとったんじゃ」
「普通に話してた」
「誰と?」
「いろんな人」
「どこの人間じゃ」
「知らない」
老人は黙った。
茜は続けた。
「学校の人たちだけじゃ、つまんないんだよね」
老人は思わず笑った。
「そうか」
「笑わないでよ」
「いや」
「何?」
「いや、何でもない」
茜は記録媒体を机に置いた。
「でも、私が使ってたことは、別にどうでもいいんだ」
「そうかの」
「これ、中継所の配送記録が入ってるの」
「ほう」
「誰がどこに送ったか、全部じゃないけど、かなり残ってる」
「それで?」
「警察に見つかったら、たぶんみんな調べられる」
老人は茜を見た。
「お前は、どうしたいんじゃ」
「消したい」
「消せばいいじゃろ」
「でも、消したら、もう復旧できないかもしれない」
「ほう」
「中継所同士の連絡先とか、どこを経由してたかとか、全部入ってるから」
老人は記録媒体を見た。
たった数センチの、小さな板だった。
その中に、六万人の通信を支えていた仕組みの一部が収まっている。
「それで、わしにどうしろと?」
「わかんない」
茜は答えた。
「でも、おじいちゃんは昔、そういうのを使ってたんでしょ」
「インターネットか?」
「うん」
「使ってはおったがな」
「だったら、どうしたらいいか、わかんない?」
老人は考えた。
そして、正直に答えた。
「わからん」
茜はがっかりした顔をした。
老人は笑った。
「昔も、そんなことばっかりじゃったよ」
「何が?」
「どうしたらええかわからんことばっかりじゃった」
*
### 十一
その夜、老人は眠れなかった。
記録媒体は茜の部屋に置かれていた。
警察が来れば見つかるかもしれない。
しかし、見つかったところで、自分たちが逮捕されるとは限らない。
そもそも何の罪になるのかもわからない。
そんなことを考えているうちに、老人は昔のことを思い出した。
インターネットがあった頃、何度か似たようなことがあった。
誰かが何かを暴露する。
誰かがその記録を保存する。
保存された記録が、別の場所に持ち込まれる。
それを嫌がる人間が現れる。
削除しろという者がいる。
残すべきだという者もいる。
そして、誰もが自分の正しさを信じている。
老人もまた、そうだった。
当時、管理者として記録を残すことは正しいと思っていた。
何か問題が起きたとき、過去の経緯を確認できなければ困るからだ。
そのために名簿を作った。
トラブルの記録を残した。
削除を求められても、すぐには応じなかった。
ミズタマたちに対しても、そうだった。
老人は、あの頃の自分が間違っていたとは思わなかった。
今でも、同じ状況なら同じ判断をするかもしれない。
しかし、一つだけ、当時は考えていなかったことがあった。
その記録が、三十六年後まで残るということだ。
記録を残した人間が、その使い道を決め続けられるわけではない。
記録を作ったときの事情も、関係者同士の合意も、時が経てば失われる。
残るのは、ただ記録だけだった。
翌朝、老人は茜に言った。
「そのデータ、ちょっと見せてくれんか」
*
記録媒体には、大量の数字と文字が保存されていた。
老人には何が何だかわからない。
茜が説明した。
各地の中継所を識別する番号。
配送の経路。
途中で使われる暗号化のための鍵。
利用者の識別情報。
ただし、本名や住所のようなものは、必ずしも含まれていなかった。
問題は、複数の情報を組み合わせると、一部の利用者が誰なのか推測できてしまうことだった。
「じゃあ、そういう情報だけ消せばいいじゃろ」
「簡単に言うね」
「難しいのか」
「うん」
「できんのか」
「できるかもしれないけど」
茜は画面を見た。
「それをやると、今までの手紙が届かなくなる」
「どれくらい?」
「たぶん、ほとんど」
老人は腕を組んだ。
「なら、仕方ないんじゃないか」
「え?」
「届かなくなるのは困るじゃろうが、誰かの住所が勝手にわかるようになるよりはましじゃろう」
「でも、それじゃ全部壊れちゃうよ」
「全部じゃないじゃろ」
「ほとんどだよ」
「また作ればええ」
茜は不満そうな顔をした。
「そんな簡単じゃないんだよ」
「そうじゃろうな」
「何年もかけて作ったんだから」
「そうじゃろう」
「それなのに」
「でも、必要なら作り直すしかないじゃろ」
老人はそう言ってから、少し考えた。
「昔のインターネットもな」
「うん」
「便利なもんじゃったが、嫌なところもずいぶんあった」
「知ってる」
「何をじゃ」
「授業で習ったから」
「そうか」
「犯罪が多かったんでしょ」
「多かったな」
「嘘の情報が広まったり」
「そうじゃ」
「個人情報を盗まれたり」
「そうじゃな」
「だったら、なくなってよかったんじゃないの?」
老人は首を振った。
「そう簡単な話でもないんじゃよ」
「なんで?」
老人は答えようとした。
しかし、うまい言葉が見つからなかった。
何十年ものあいだ、インターネットを説明するときには、決まって同じような話をしてきた。
世界中の人間と話せた。
どんな情報でも調べられた。
誰でも自分の意見を発信できた。
どれも事実だった。
しかし、それで何がよかったのか。
老人自身、今でははっきりしなかった。
茜は言った。
「私は、もう一回作りたい」
「何を?」
「インターネット」
「ほう」
「昔と同じじゃなくてもいいから」
「そうか」
「だって、せっかく友達ができたのに」
老人は茜を見た。
「会ったこともない人ばっかりなんだよ」
茜は続けた。
「名前も知らないし、顔も知らない。でも、ずっと話してた」
「うん」
「それが急になくなっちゃうの、嫌だ」
老人は、ようやく理解した。
三十六年前、自分にも同じことが起きたのだ。
あのとき、誰かが何かを直してくれるだろうと思っていた。
インターネットは当たり前に存在するものだったから。
なくなることなんて、想像したこともなかったから。
しかし、誰も直してくれなかった。
そして、結局、自分は何もしなかった。
「じゃあ、やってみるか」
老人は言った。
茜が顔を上げた。
「何を?」
「インターネットを作るんじゃろ」
*
### 十二
それから半年が経った。
老人は、すっかり忙しくなっていた。
私設通信網の運営者たちに対する裁判は続いていた。
公認されていない通信網を運用したこと自体については、行政罰の対象になる可能性が高いとされていた。
しかし、単に私的な通信を仲介したことが違法なのかについては、見解が分かれていた。
老人は、かつてのインターネットについて証言するために、何度か裁判所に呼ばれた。
最初は面倒だった。
しかし、そのうち面白くなってきた。
裁判官は、老人に奇妙な質問をした。
「つまり、通信相手の身元を確認する仕組みがなかったのですか」
「ないこともありました」
「それでは、相手が誰なのかわからないでしょう」
「そうですな」
「それで、どうして会話が成立していたのですか」
「さあ」
老人は考えた。
「会話というものは、案外そういうもんじゃないですかの」
法廷が少しざわめいた。
老人は続けた。
「道端で知らん人に話しかけられても、話くらいはできるでしょう」
「しかし、道端の会話と、何千キロも離れた人間との通信は違います」
「何が違うんですかの」
裁判官は答えなかった。
老人も、それ以上は言わなかった。
自分が何か立派なことを言ったとは思わなかった。
ただ、質問が妙だったので、妙だと思っただけだった。
裁判所の外では、若者たちが新しい通信網を作り始めていた。
茜もその一人だった。
彼らは、既存の配送網を利用しながら、通信内容と利用者の身元情報をできるだけ切り離す仕組みを考えていた。
中継所ごとに必要な情報だけを持つ。
一か所が摘発されても、全体の記録が流出しないようにする。
利用者が自分の記録を削除できるようにする。
もちろん、問題は山積みだった。
匿名性を高めれば、悪用する人間も出てくる。
配送業者には費用がかかる。
信頼できない中継所が混ざれば、通信の内容が改竄される可能性もある。
茜たちは連日、口論していた。
老人はときどき、その様子を眺めた。
若者たちは、実にくだらないことで喧嘩していた。
通信規格の名前をどうするか。
利用者の呼び方を何にするか。
匿名投稿を認めるかどうか。
嫌いな相手を無視する機能が必要かどうか。
老人は、たいへん懐かしい気持ちになった。
茜は、そんな老人を邪魔そうに追い払った。
*
ミズタマから最後の手紙が届いたのは、その頃だった。
以前よりも少し厚い封筒だった。
中には、何枚かの紙が入っていた。
> スギチャン64へ。
>
> あなたの返事を読みました。
>
> 昔の記録を、無理に見せてもらう必要はないと思いました。
>
> 私たちの中でも、意見は分かれています。
>
> あの頃のことを知りたいという人もいるし、もう知りたくないという人もいます。
>
> 実は、ミズタマという名前を使っていたのは、全部で五人でした。
>
> 最初は二人だけだったのですが、途中から増えました。
>
> どうしてそうなったのかは、ここでは書きません。
>
> 五人のうち、二人はもう亡くなっています。
>
> もう一人とは、連絡が取れなくなっています。
>
> 今、この手紙を書いているのは二人です。
>
> 私たちは、昔のことを話すとき、ときどき喧嘩になります。
>
> 誰が何を言ったのか、覚えていることが違うからです。
>
> でも、不思議なことに、あなたのことは二人ともよく覚えています。
>
> いつも長い文章を書いていましたね。
>
> それから、自分が面白いと思ったことについて、相手がどう思っているかも考えずに、延々と話す癖がありました。
>
> 今も、そうですか。
老人は苦笑した。
まったく、失礼な奴らだ。
続きがあった。
> それと、もう一つ。
>
> あなたが当時、私たちのアカウントを消さずにいてくれたことについて、今では感謝しています。
>
> たぶん、私たちはあの頃、自分たちが何をしているのかよくわかっていませんでした。
>
> でも、あなたが消さずにいてくれたおかげで、今こうして、その頃のことを話すことができます。
>
> もちろん、これは私たち二人の意見です。
>
> ほかの三人がどう思うかは、わかりません。
>
> では、お元気で。
>
> ミズタマ
老人は最後まで読んだ。
そして、机の上に手紙を置いた。
しばらくしてから、ふと笑った。
なんだ。
結局、何も解決していないではないか。
三十六年前と同じだ。
自分たちのしていることが正しいのかどうか、誰にもわからない。
記録を残すべきなのか、消すべきなのか。
名前を明かすべきなのか、隠すべきなのか。
人と人とは、どこまで関わっていいのか。
そんなことを、何十年も考えている。
そして、何十年経っても、結論は出ない。
老人は椅子にもたれた。
まったく、面倒くさい連中だ。
けれど、それが少し嬉しかった。
*
### 十三
秋になって、茜たちの通信網が試験運用を始めた。
最初は市内の三か所だけだった。
それから隣の市につながった。
一週間後には、県境を越えた。
通信速度は遅かった。
写真を送るには何日もかかった。
文章だけなら、その日のうちに届くこともあった。
利用者は少しずつ増えた。
千人。
二千人。
五千人。
老人は、自分も登録してみることにした。
茜に頼んで端末を用意してもらった。
「名前、どうする?」
「昔の名前でええじゃろ」
「スギチャン64?」
「そうじゃ」
茜は笑った。
「ダサくない?」
「うるさいわい」
「まあ、いいけど」
登録には、少し時間がかかった。
利用者名を入力し、識別鍵を作成する。
通信を受け取る中継所を選ぶ。
茜の説明を聞いても、老人にはよくわからなかった。
昔はもっと簡単だったような気がしたが、考えてみれば、昔も最初はこういうものだったのかもしれない。
ようやく登録が終わった。
老人は試しに、掲示板へ文章を書き込んだ。
『はじめまして。スギチャン64と申します。昔、インターネットというものがあった頃から、こういう場所に出入りしておりました。まさかこの歳になって、また同じようなことをするとは思っておりませんでしたが、どうぞよろしくお願いします』
送信した。
画面には、「中継待ち」と表示された。
老人はしばらく待った。
何も起きなかった。
「これでええのか」
「うん」
「いつ届くんじゃ」
「早ければ数時間」
「そうか」
「ずっと見てても仕方ないよ」
「そうじゃな」
老人は端末を置いた。
夕食を食べた。
風呂に入った。
寝る前に、もう一度端末を確認した。
まだ返事はなかった。
翌朝。
端末に、新しい通信が届いていた。
老人は老眼鏡をかけた。
『長文すぎ』
その下に、別の人間からの返信があった。
『昔のインターネットの話、聞きたいです』
さらに別の人間が書いていた。
『爺さんの自分語り始まってて草』
老人はしばらく画面を見つめていた。
そして、腹の底から笑った。
何十年ぶりだろう。
こんなに気分のいい朝は。
老人は返信を書き始めた。
『わしらの若い頃にはな、インターネットっちゅうもんがあったんじゃ』
少し考えた。
それから、文章を全部消した。
何だか、あまりにもつまらない気がしたのだ。
代わりに、こう書いた。
『ところで、お前ら、味噌汁にじゃがいもを入れるのは許せるか?』
送信した。
数時間後には、十七件の返信がついた。
そのうち四件は、老人の質問を無視して別の話をしていた。
二件は、互いに喧嘩していた。
一件は、まったく意味のわからない文章だった。
老人はそれを何度も読み返した。
それから、茜を呼んだ。
「おい、茜」
「何?」
「これ、どういう意味じゃ」
「どれ?」
「この、ぬるぽ、というのは」
茜は画面を見た。
そして、少し呆れた顔をした。
「知らないよ。そんなの」
「お前らが使っとる言葉じゃないのか」
「違うと思う」
「じゃあ何なんじゃ」
「自分で聞けば?」
老人は考えた。
それから、返信を書き込んだ。
『ぬるぽとは何じゃ?』
通信が中継所に送られた。
老人は、返事を待った。
世界はまだ、ずいぶん広いようだった。




