惚れ薬のせいだと言い張る王太子殿下に、今日も解毒薬を処方しています ~効かないのは、そもそも盛られていなかったからでした~
宮廷薬師の朝は早い。
王宮の西棟、いちばん日当たりの悪い奥の部屋が、私たち薬師の仕事場だ。乾燥させた薬草が天井から何十束も吊るされ、棚には瓶がぎっしり並んでいる。鼻の奥がつんとする独特の匂いにも、勤めて三年もたてばすっかり慣れた。
その朝も、私は薬研で甘草の根を挽いていた。
薬師長のオズワルド様は窓際の椅子でお茶をすすっている。御年七十二。腕は王国一だけれど、最近は「若い者に任せる」が口癖だ。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「ノーラ・リンドホルム殿はいるか」
顔を上げた私は、薬研を取り落としそうになった。
淡い金の髪に、晴れた空のような青い瞳。王家の紋章を胸に縫い取った濃紺の上着。
この国の王太子、フェリクス・アルトハイム殿下だった。
後ろには側近のギルベルト様が控えている。なぜか片手で額を押さえていた。
「わ、私ですが」
(なぜ王太子殿下がこんな薬草くさい部屋に? 一昨日、喉のお薬を執務室へお届けした件で、何か不手際があったのかしら)
慌てて立ち上がった私の前で、殿下はひどく深刻な顔をした。
「ノーラ殿。私は、惚れ薬を盛られた」
「……はい?」
「昨夜から、君のことが頭から離れない。君の顔ばかり思い浮かぶし、君に会いたくて仕方がない。これは間違いなく薬のせいだ」
部屋がしんと静まり返った。
窓際でオズワルド様がお茶を噴きかけ、ごほごほとむせている。
私は数秒固まってから、事態の重さに青ざめた。
(惚れ薬……! 王国では製造も所持も禁じられた禁制品。それを王太子殿下に盛るなんて、国家への反逆にも等しい大罪だわ)
しかも作用の対象が、なぜか私。
考えられる理由は一つだった。
「おそらく、薬を口にされた後、最初に強く印象に残った人物に作用が向いたのでしょう。一昨日、私がお薬をお届けしましたから」
「……そういうことにしておこう」
「え?」
「いや、なんでもない。とにかく、解毒薬を作ってほしい」
殿下の後ろで、ギルベルト様が天井を仰いだ。何か言いたげだったけれど、殿下にちらりと見られて口を閉じた。
私は背筋を伸ばした。王族の体調管理は宮廷薬師の最重要任務だ。
「承知いたしました。では、問診から始めます」
私は殿下を椅子に座らせ、手首に指を当てた。
(脈は……少し速いわね。瞳孔に異常はなし。顔色は良好。でも、惚れ薬は個人差が大きいから油断はできないわ)
「症状を詳しくお聞かせください」
「君のことを考えると、胸が苦しい」
「胸部の圧迫感、と」
「君の声が、一日中耳に残っている」
「幻聴の傾向あり、と」
「君が私に笑いかけるところを、一度でいいから見てみたい」
「……欲求の対象が特定の人物に固定されている、と」
私はさらさらと診療録に書きつけた。ギルベルト様が小さく「無理だろ……」とつぶやいたのが聞こえたけれど、何が無理なのかは分からない。
問診を終えると、私は棚から薬草を選び、手早く調合した。一般的な惚れ薬の主成分である紫蘭の根と薔薇油を打ち消す、基本の解毒処方だ。
「解毒薬第一号です。どうぞ」
差し出した杯の中身は、自分で言うのもなんだが、ひどい色をしていた。泥水に苔を浮かべたような緑だ。
殿下は少しも迷わず、それを一息で飲み干した。
「……苦くはありませんでしたか」
「君が作ったものなら、なんでも美味しい」
(味覚にも異常が出ている……! これは重症だわ)
私は診療録に「味覚異常の疑い」と書き加えた。
「明日、経過を拝見します。症状が続くようでしたら、またお越しください」
「ああ。必ず来る」
殿下はなぜか、ひどく嬉しそうに帰っていった。
翌日も、殿下はいらっしゃった。
「効かなかった」
「そうですか……」
私は唇を噛んだ。基本の処方で効かないとなると、相手はかなり手の込んだ惚れ薬を使ったことになる。
「今日の症状は?」
「朝起きたら、まず君の顔が浮かんだ。執務中も、書類の文字が全部君の名前に見えた」
「視覚にまで影響が……」
第二号は、解毒成分を倍に増やした。
第三号は、苦味を抑えるために蜂蜜を加えた。
第五号は、柑橘の皮で香りを整えた。
殿下は毎日欠かさず薬師室へ来て、毎日欠かさず「効かなかった」と報告した。
「今日のは優しい味がした。君みたいだ」
「比喩表現の増加。症状は進行中、と」
「昨日、君が薬草を届けに来た騎士と話していただろう。あれを見て、胸がひどく痛んだ」
「嫉妬に似た胸痛……典型的な惚れ薬の症状ですね」
「君が私以外の男に笑いかけるのは、正直に言って耐えがたい」
「独占欲の亢進。……殿下、本当にお辛そうです。必ず治してみせますから」
私が真剣にそう言うと、殿下は少しだけ困ったような顔をした。
隣のギルベルト様は、もう表情というものを失っていた。私が診療録を読み上げるたびに、彼の目から光が消えていく。
(ギルベルト様も心配でお疲れなのね。主君がこんな状態なのだもの、無理もないわ)
オズワルド様は毎日窓際の特等席から殿下の来訪を眺め、肩を震わせていた。たぶん持病の咳だと思う。
十日が過ぎ、二十日が過ぎても、殿下の症状は良くならなかった。
私は考えた。処方が効かないのは、毒の正体を正確につかめていないからだ。原因が分からなければ、正しい解毒はできない。
「ギルベルト様。殿下が症状を訴えられた前日の、お食事とお飲み物の記録をすべて見せていただけますか」
「えっ」
ギルベルト様の顔が引きつった。
「いや、それは、その……」
「惚れ薬を盛った犯人が王宮の中にいるかもしれないのです。放っておけば、次は殿下のお命を狙うかもしれません」
「…………」
ギルベルト様は助けを求めるように殿下を見た。殿下は涼しい顔で目をそらした。
結局、記録は手に入らなかった。
それならばと、私は休憩時間を使って自分で調べることにした。
厨房の料理長に、あの夜の献立を尋ねた。
「殿下のお夕食ですか? あの日はいつも通り、鹿肉の煮込みと根菜のスープでしたよ」
殿下付きの侍女たちにも話を聞いた。
「殿下のご様子ですか? そういえば最近、毎朝鼻歌を歌いながら西棟へ向かわれますね。とても楽しそうで」
(鼻歌……! 気分の高揚も症状の一つだわ)
私が手帳に書き込んでいると、廊下の向こうから足音が駆けてきた。
殿下だった。息を切らせている。
「ノーラ、犯人探しはしなくていい!」
「ですが殿下、このままでは」
「命に別状はない。ただ、君が恋しいだけだ」
「それがいちばん重症なのです!」
思わず声を張り上げると、殿下は目を丸くして、それから口元を手で覆った。肩が小刻みに揺れている。
笑っている……のではないと思いたい。きっと、症状の発作だ。
(殿下はご自分の状態を軽く見すぎているわ。私がしっかりしないと)
私はその夜も、薬師室に残って文献をめくった。
四十七日目の朝。
私は一睡もしていなかった。
昨夜、王立図書館の奥から古い薬学書を借り出し、明け方まで調合を続けたのだ。使ったのは、満月の夜にしか摘めない月光草。薬師室に一株しかなかった貴重な薬草を、迷わずすべて使い切った。
解毒薬第四十七号。
これまでの改良を全部詰め込んだ、私の最高傑作だった。
「殿下。今日こそは」
殿下はいつものように杯を受け取り、静かに飲み干した。
私は息を詰めて、その顔を見つめた。
脈を取る。瞳を覗き込む。
「……いかがですか」
殿下は、しばらく黙っていた。
それから、ひどく申し訳なさそうな顔で、私の目の下のくまに視線を落とした。
「……まだ、君が好きだ」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まった。
(効かなかった……)
四十七日。四十七種類の処方。月光草まで使って、それでも。
「……申し訳、ありません」
声が震えた。
泣いてはいけない。薬師が患者の前で泣くなんて、あってはならないことだ。分かっているのに、視界がにじんでいく。
「私の、力不足です。殿下をお苦しめしたままで……本当に、申し訳ありません」
うつむいた私の前で、殿下が息をのむ気配がした。
「ノーラ、違う。君は何も悪くない。悪いのは——」
「殿下」
ギルベルト様が低い声で遮った。
殿下は唇を引き結び、何かをこらえるように拳を握った。
「……今日は、もう休んでくれ。頼むから」
殿下はそれだけ言って、薬師室を出ていった。
去り際の横顔が、なぜかとても苦しそうに見えた。
扉が閉まると、窓際のオズワルド様が、珍しく真面目な声で言った。
「ノーラ。お前さん、少し寝なさい」
「でも、薬師長」
「寝不足の頭では、見えるものも見えんよ」
その言葉の意味が分かったのは、それから三日後の夜のことだった。
王宮の大広間では、秋の夜会が開かれていた。
王族が出席する夜会には、万一に備えて宮廷薬師が一人控えることになっている。今夜の当番は私だった。
腰の薬箱には、第四十七号の残りに少しだけ手を加えた第四十八号の小瓶を入れてある。次に殿下がいらしたとき、すぐに試していただけるよう持ち歩いていたものだ。
壁際の目立たない場所に立ち、私は華やかな人々の輪を眺めていた。
殿下はその中心にいた。
薬師室で見るのとはまるで違う、完璧な王太子の顔だった。誰にでも等しく穏やかで、隙がなく、感情が読めない。
(……私の前では、もっといろんな顔をなさるのに)
ふとそう思って、胸の奥がちくりとした。
これも疲れのせいだろうか。
そのとき、一人の令嬢が殿下に近づいた。
波打つ赤い髪に、豪奢な深紅のドレス。ハーシェル侯爵家のヴィクトリア様だ。殿下の妃候補として、何度も名前が挙がっている方だと聞いている。
「フェリクス殿下。こちら、領地から取り寄せた特別な葡萄酒ですの。ぜひ一杯だけ」
殿下は礼儀正しく杯を受け取り、口をつけた。
その、数秒後だった。
殿下の手から、杯が滑り落ちた。
床で硝子が砕ける音に、周囲がざわめく。殿下はふらりと体を揺らし、焦点の合わない目でヴィクトリア様を見つめた。
「……ヴィクトリア、嬢……」
その声は、ひどく虚ろだった。
ヴィクトリア様が、勝ち誇ったように微笑んで殿下の腕に手をかける。
私は、考えるより先に走り出していた。
「失礼いたします! 宮廷薬師です!」
人垣をかき分け、殿下の前に膝をつく。手首を取り、目を覗き込んだ。
(脈が速すぎる。乱れている。瞳孔が大きく開いて、焦点がまったく定まらない。呼吸も浅い……)
これが、惚れ薬だ。
本物の惚れ薬の症状だ。
私は迷わず、腰の薬箱から第四十八号の小瓶を取り出した。
「殿下、お飲みください」
殿下の唇に瓶を当て、ゆっくりと流し込む。
一つ、二つ、三つ数えたところで、殿下の瞳に光が戻った。
開ききっていた瞳孔が静かに縮み、乱れていた脈が落ち着いていく。殿下は何度かまばたきをして、それから目の前の私を見た。
「……ノーラ」
その声は、もう虚ろではなかった。
薬師室で毎日聞いていた、あの少し柔らかい声だった。
私はほっと息をつき、床に転がった杯の破片を拾い上げた。底に残っていた葡萄酒の匂いを嗅ぐ。
甘い薔薇の香りの奥に、かすかな土くささ。
「紫蘭の根と、薔薇油。禁制の惚れ薬の典型的な配合です」
大広間が、水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、ヴィクトリア様に集まる。
「ち、違いますわ! わたくしは何も……その葡萄酒は、領地の者が勝手に……」
「この配合は、偶然混ざるものではありません。分量まで正確に量って、誰かが入れたものです」
私が淡々と告げると、ヴィクトリア様の顔から血の気が引いた。
殿下は立ち上がり、王太子の顔に戻って衛兵を呼んだ。
「ハーシェル嬢を別室へ。詳しい話は、侯爵も交えて聞かせてもらう」
ヴィクトリア様は衛兵に囲まれ、真っ青な顔で大広間を出ていった。
後に聞いた話では、侯爵は娘を連れて領地へ戻り、ヴィクトリア様が王都の社交界に姿を見せることは二度となかったという。
騒ぎが収まった後、私は殿下に付き添って薬師室へ戻った。念のため、もう一度診察するためだ。
ギルベルト様は扉の外で待っている。オズワルド様はとっくに帰宅していて、部屋には私と殿下の二人きりだった。
殿下の脈を取りながら、私はずっと考えていた。
さっき見た、本物の惚れ薬の症状。
速すぎる脈。開ききった瞳孔。焦点の合わない目。虚ろな声。
(この四十七日間の殿下は、一度も、あんなふうではなかった)
脈は少し速かったけれど、乱れてはいなかった。瞳孔はいつも正常だった。目はまっすぐに私を見ていたし、声には意思があった。
そして、第四十八号。
中身は、第四十七号とほとんど変わらない。
本物の惚れ薬には、数秒で効いた。
なのに四十七日間、殿下の「症状」には何一つ効かなかった。
私はゆっくりと手を離し、殿下の顔を見上げた。
「殿下。解毒は、完了しました」
「……ああ」
「それなのに、殿下の症状は何ひとつ消えていません。私を見る目も、声も、四十七日間とまったく同じです」
殿下は黙っていた。
「……つまり、最初から、薬ではなかったのですね」
長い沈黙が落ちた。
やがて殿下は、観念したように深く息を吐き、両手で顔を覆った。
「……すまない」
その声は、王太子のものとは思えないほど弱々しかった。
「一年前の冬、熱病が王都で流行っただろう。あのとき君は、何日も寝ずに薬を作り続けていた。視察で施療院へ行ったとき、目の下にくまを作って、子どもに薬を飲ませながら微笑んでいる君を見た」
「……覚えていません」
「だろうな。君は患者しか見ていなかった。……あの笑顔を、いつか私にも向けてほしいと思った。それから、ずっと気になっていた。でも王太子が一介の薬師に会いに行く理由なんてない。会いに行ったところで、君は仕事一筋で、相手にもしてくれないだろうと思った」
殿下は顔から手を離し、苦笑した。
「あの日、喉の薬を届けてくれた君と初めて言葉を交わして、我慢ができなくなった。それで……薬のせいにすれば、毎日会いに来られると思ったんだ」
私は、しばらく何も言えなかった。
四十七日間の診療録が、頭の中で一枚ずつめくれていく。
『君のことを考えると、胸が苦しい』
『君が私に笑いかけるところを、一度でいいから見てみたい』
『君が私以外の男に笑いかけるのは、耐えがたい』
(あれ、全部……症状じゃ、なかった……?)
顔に、一気に熱がのぼった。
私はそれを、毎日真顔で「胸部圧迫感」とか「独占欲の亢進」とか書きつけていたのだ。ギルベルト様の前で、読み上げまでして。
「……殿下」
「ああ」
「四十七日分の、薬草代を返してください」
「……全部返す」
「月光草は、満月の夜にしか摘めないのです。次の満月まで、薬師室には一株もありません」
「私が摘みに行く」
「それに、私の徹夜も」
「それも返す」
殿下はまっすぐに私を見た。
「一生かけて、返させてほしい」
どくん、と心臓が跳ねた。
思わず胸を押さえる。脈が速い。顔が熱い。殿下の声が、耳の奥で何度も響いている。
私ははっとして、自分の手首に指を当てた。
(脈拍、平常時より明らかに速い。顔面の紅潮。特定の人物の声が頭から離れない。……これは)
「殿下。大変です」
「どうした」
「……私にも、盛られたかもしれません」
殿下が目を見開いた。
「動悸がします。顔が熱くて、殿下の声が頭から離れません。それに、さっき夜会で、ヴィクトリア様が殿下の腕に触れたとき、胸がひどく痛みました」
「……いつからだ」
「分かりません。気づいたら、です」
真剣に答えると、殿下は一瞬ぽかんとして、それから声を立てて笑い出した。
薬師室で初めて聞く、王太子らしくない、子どもみたいな笑い声だった。
「笑いごとではありません! すぐに解毒薬を——」
「ノーラ」
殿下が、私の手を取った。
手首ではなく、手のひらを。指を絡めるように、そっと。
「その解毒薬は、作らなくていい」
「でも」
「効かないのは、私が保証する」
青い瞳が、すぐそこで柔らかく細められた。
私は何か言い返そうとして、結局何も言えずに、うつむいた。
扉の外から、ギルベルト様の盛大なため息が聞こえた。四十七日分を全部まとめたような、長い長いため息だった。
翌朝。
私は診療録の最後の頁を開き、ペンを取った。
四十七日分、びっしりと症状が書き込まれた記録。その最後に、短く書き加える。
『患者 フェリクス・アルトハイム
診断 恋
処方 なし
経過観察 ——一生』
書き終えたところで、扉が開いた。
淡い金の髪の王太子殿下が、今日も変わらず、少しだけ照れくさそうな顔で立っていた。
「おはよう、ノーラ。今日の症状を報告しに来た」
私はペンを置き、診療録を閉じて、笑った。
殿下が、ずっと見たいと言っていた顔で。
「はい、殿下。経過を観察します」
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
真面目すぎる薬師と、言い訳が下手な王太子殿下のお話、少しでも笑っていただけたら嬉しいです。
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