永遠の愛なんて存在しない
「君を永遠に愛すると誓うよ」
そう誓ったはずの彼は、いつ頃からか別の女性を愛するようになっていた。
結婚式を目前に控えた頃、エレーナはかつて婚約者が送ってくれた手紙を見返しては、ため息とともに引き出しへしまい込んだ。
「永遠の愛、ね」
そう呟いた声は、自分でも驚く程に冷たかった。
婚約者のオリヴァーとの出会いは、ある夜会だった。
デビュタントを迎えたばかりで社交界にまだまだ不慣れだったエレーナは、緊張のあまり足がもつれて倒れそうになった。
そこを助けてくれたのが、オリヴァーだ。
彼はエレーナを介抱した後、次は楽しい思い出を作ってあげたいからと言って、彼の家が主催する夜会の招待状まで送ってくれた。
一目惚れだったのだろう。惚れっぽいのはお互い様だったのかもしれない。
異性とほとんど関わったことの無いエレーナもまた、オリヴァーが理想的な貴公子のように見えていた。
彼がとんだ浮気性だとも知らず。
「愛を誓う相手がたった一人でなければいけないなんて、誰が決めたんだい?」
いつだったか、彼の浮気を問い詰めた時にまるで相手にしていないとでも言うかのように半笑いでそう返されたことがあった。
遊び人、という性なのだろう。
残念ながら、貴族の男にはよくあることだ。
政略結婚で一生を共にする相手が決められている代わりに、妾や愛人を囲い、気軽に恋愛を楽しむのだと。
だが、オリヴァーは自らエレーナに婚約を申し込んできた。
エレーナは伯爵令嬢で、オリヴァーは侯爵家の次男。
明るく感じの良い青年で、学もあり伯爵家の入り婿としては申し分ない。
当初は両親も婚約に賛成しており、実際、オリヴァーについて調べてみれば人々は社交的な青年で社交界ではとても人気があると言うのだ。
だが、しばらく一緒に過ごしてエレーナは理解した。
『社交界でとても人気がある』————そう、それは確かにその通りだった。
甘い顔で一夜の夢を共に過ごしてくれる、そんな理想的な遊び相手として大人気だったのだ。
だが、エレーナが真に絶望することになったのはここからだ。
オリヴァーの素行について両親に打ち明ければ、二人は困ったようにエレーナを窘めるだけだった。
若い人にはよくあることだから、と。
「良き妻は、夫に寛容であるべきなのよ。そういったことは、見て見ぬふりをしてあげなさい」
「そう心配しなくても、あと数ヶ月したら結婚するんだ。その頃には彼も落ち着くだろう」
二人はまるでエレーナがわがままを言っているかのような態度だった。
オリヴァーと長く婚約関係にあったのに、それを解消するとなると間違いなく相手方と揉める。
その上、今からではオリヴァー以上の良縁を掴むのは難しいだろう。そうしているうちに婚期を逃してしまうはずだ。
「我慢しなさい。子どもじゃないんだから」
見え透いた二人の考えに気づいた時、エレーナは水底に沈んでいくかのような気分だった。
今日の夜会でも、オリヴァーは別の女性とばかり会話していた。
「やあセーラ、今日も君は愛らしいね」
黒髪のスタイルの良い令嬢に、オリヴァーは遠慮せず名前で呼んでいる。
壁の花の私は、それを遠くから見ることしか出来ない。
「まあオリヴァー。また婚約者を置いて遊び歩いているの? ご覧なさいよ、寂しそうだわ」
「おいおい、そんな言い方は良してくれよ。彼女は理解ある人なんだ。それに、僕と君は友人だろ?」
「ふふ、そうね。友人、ね……」
セーラは意味深な笑みをエレーナに向けてから、オリヴァーに腕を絡ませる。
オリヴァーはそれを拒むことなく、二人は寄り添いな音楽に合わせて踊っている。
エレーナは、ただ憂鬱な気持ちでそれを眺めることしかできない。
(私、何のためにここに来たのかしら)
ふと気づくと、遠巻きにクスクス笑われているのに気付く。
二人の令嬢だ。確か、どちらかの女性はオリヴァーと以前踊っていた。
気まずさに思わず視線を床に向けた、その時だ。
「——————踊っていただけますか?」
顔を上げる。
恭しく手を差し出していたのは、イノセント侯爵家の令息カインだった。
以前、オリヴァーから友人だと紹介されて会話したことがあった。
「まあ、イノセント侯爵令息様」
「お久しぶりですね。オリヴァーは相変わらずのようだ」
「ええ。お恥ずかしいところをお見せしてしまい……」
「いえ。それより、あなたは踊らないのですか?」
「見ての通り、婚約者の手は塞がっておりますゆえ」
「では私ではどうです? 私の両手は塞がっておりません。あなたのために空けておきました」
急に何を言い出すのかと驚かされる。
「イノセント侯爵令息様。それは……」
「良いではありませんか。こんなにも可憐なあなたが壁の花になっているなんて、あまりにも勿体ない。私には、オリヴァーが他の女性に目移りするのが心底理解できないですよ」
「褒めすぎですわ。私はただ、オリヴァーの良き婚約者としてありたいだけで……」
お世辞なんて気まずいだけだ。
エレーナは視線を泳がせ、建前を並べてサッと会話を終わらせようとするが。
「それで、彼の浮気を黙認すると? それは良き婚約者ではなく、ただの言いなりですよ」
「……っ!」
カインがにこやかに微笑みながら、変わらず優しい声音でエレーナの心を突き刺した。
思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
図星だった。
今のエレーナは、全て諦めてただ周囲の言うことに従うだけの状態だ。
だが、ただ婚約者の友人と言うだけの他人に面と向かって指摘されるなんて恥ずかしくて耐えられない。
「無礼ですわよ。私は言いなりなんかじゃありませんわ」
しかし、言い返したエレーナに対してカインが気を悪くすることはなかった。
「やっと私を見てくださいましたね」
むしろ、その表情は喜んでいるようにすら見える。
「否定していても、あなたのそれは従順なだけでそこにご自身の意思はないでしょう?」
「いくらご友人とはいえ、私たちのことに口出しなさるのはご遠慮いただきたいですわ」
「ふふ、私はあなたを心配しているんですよ。エレーナ嬢」
エレーナには、カインが何を考えているのか理解できない。
ただこれ以上会話を続けていると目を逸らしてきた現実が突きつけられるようで苦しかった。
「私はあなたの笑顔を久しく見ていない。どの夜会で見かけても、あなたはいつも人を寂しくあの男を目で追いかけてばかり」
「……それの何がいけませんの?」
「いいえ。ただの、私の自己満足です」
カインはちらりとホールで踊るオリヴァーに視線をやる。
「ですが、一つ言っておきますよ。たとえ結婚しようと、あの男が自身の行動を改めるとは思わない方が良い」
エレーナはもう耐えられなかった。
「……だったら、私にどうしろとおっしゃるのですか。今更この婚約を覆すことなど……!」
みっともない醜態を晒してしまいそうになったが、カインがそれを遮り、一通の封筒を差し出した。
「これを」
突然突きつけられたそれを、エレーナは恐る恐る受け取る。
(招待状……?)
どこかの夜会の招待状のようだった。
「婚約者が他の女性に目移りしてばかりなら、あなたも同じことをなされば良いではありませんか」
「なっ……!」
「興味があればいらしてください。お待ちしていますよ」
カインがそう囁いた時だ。
間が悪いことにオリヴァーがエレーナの所へやって来る。
「カイン? エレーナと、何を話して……」
「おっと、もう戻ってきてしまいましたか。それでは失礼いたします。またお会いしましょう」
カインは手を振って素早く退散していった。
エレーナは気まずさから、受け取ってしまった招待状を後ろ手に隠す。
「どうしたんだ、他の男と会話するなんて珍しい」
オリヴァーの表情がいつもより硬い。彼は機嫌が悪い時はいつもこういう顔をする。
まさか、エレーナがカインと会話していたのを見て急いで戻ってきたというのか。
そう思うと、なんだか気に食わない。
「別に……あなただって他の方と踊っていたではありませんか。他にも待っている方がいらっしゃるのでしょう? 私のことはお構いなく」
「なんだい、急に僕を追い払うようなことを言って」
ツンと顔を背けたエレーナに対して、オリヴァーはにやりと笑った。
「もしかして、僕が構ってくれないから嫉妬してるんだろ?」
「—————え?」
「はは、エレーナは可愛いなぁ。そんなに僕のことが好きなんだね」
エレーナの怒りなど微塵も感じていないように、オリヴァーはへらへらと笑う。
「大丈夫だよ。僕の婚約者は君だけだから」
エレーナは唖然としてしまい、何も言えなかった。
エレーナの真剣な訴えを、ただの嫉妬だと言って相手にすらしてくれない。
(あなたは——————もう愛しているなんて、言ってくれないのね)
自分の中でスっと気持ちが冷めていくのを感じる。
自分は他の女性を愛しているのに、どうしてまだエレーナは一途に想い続けてくれるのだと勘違いできるのだろう。
エレーナの顔が曇っていくのにも気が付かず、オリヴァーはまた他の女性に話しかけられている。
「オリヴァー! また今日も踊ってくれるわよね?」
見たことの無い二人の令嬢だ。
「やあアンジェリカ。そちらは?」
「前に話してた従妹よ! 可愛いでしょう? 一緒にお話しましょうよ」
婚約者の前で名前で呼び合うなんて。それに、会話からして何度も会っている様子だ。
(彼は顔が広くて、友人が多いから……そう、それだけ。みんな彼の大切な『友人』なんだから、ね)
アンジェリカと呼ばれた令嬢は、隣のエレーナに今更気づいたようだ。
「……そちらは?」
俯いているエレーナを、怪訝そうに見ている。
「ああ、えっと……僕の婚約者さ」
「婚約者? 彼女が、あの?」
一体どんなふうに紹介したのだろうか。
アンジェリカはエレーナを不躾にもじろじろと見ている。
まるで、オリヴァーとは不釣り合いな変な娘だと思っているのが丸わかりだ。
「ずいぶん控えめな方なのね」
「人見知りなんだ。ほら、エレーナも僕みたいに友人を作ってもっと賑やかに楽しんだ方がいい。しばらく自由に踊っておいでよ」
さっきまでカインと会話しただけで不機嫌になったくせに、今度は暗に追い出そうとするなんて。
友人なんてロクにいないことを分かっているくせに。
(どうして、一緒に夜会に来ているのに、私だけ気まずい思いをしているのかしらね——————)
エレーナはもう我慢ならなかった。
『——————あなたのそれは従順なだけでそこにご自身の意思はないでしょう?』
カインの声が、再び頭の中によみがえる。
「ええ。そうですわね。私も……あなたの言うとおり、自由に振舞ってみますわ」
「あ、ああ」
自分から言ったくせに、エレーナがキッパリと返事をするなんて思わなかったのだろう。
それに構わず、エレーナはオリヴァーの横から立ち去っていく。
背後からは、和気あいあいとした楽しそうな男女の声が聞こえてくる。
気が付けば、手の中の招待状を強く握りしめていた。
***
数週間後、エレーナはカインに招待された夜会へ赴いた。
エスコートするのはオリヴァーではない。カインだ。
「やはり来てくださいましたね」
伯爵家へ迎えに来てくれた馬車の中で、カインはエレーナの姿を見て微笑んでいる。
その笑みはどこか妖しげで、濃い紫の瞳は底知れないものがあった。
「せっかく招待していただいたのですから。それに、こんなに素敵なドレスまで贈って下さったのに、お断りなんてできませんわ」
イノセント侯爵家から贈り物が届いた時には驚いた。
そしてその中身にも。
日頃のエレーナは淡い色合いの落ち着いた可愛らしいドレスばかりを着ているが、カインが贈ったドレスは華やかな紫色のドレスだ。ふんだんに使われたフリルとレースで可愛らしさがありつつ、露出した胸元や引き締まったウエストはエレーナのスタイルの良さを際立たせる。
大振りな宝石のネックレスがアクセントになり、単なる露出ではなく優雅な上品さも加えられ、これまでのエレーナとはまるで違う、大人びたコーディネートになった。
「やはり、思った通りよくお似合いですよ。日頃のあなたも素敵ですが、こういった衣装の方があなたの魅力をより際立たせます」
「お上手ですわね」
素っ気なく返すエレーナだが、カインはむしろ満足そうだった。
両親はいつもと違う装いのエレーナにも特に気にかけず、イノセント侯爵家からの贈り物もオリヴァーからのものだと思い込んでいたようだった。
今日もオリヴァーと出かけていると信じて疑っていない。
エレーナがまさか、婚約者ではない別の男性と夜会に出かけるなんて夢にも思わなかったことだろう。
「お世辞なんかではありませんよ。今のあなたを見たらきっと、オリヴァーは驚くでしょうね」
「ええ、本当に。でも、こうすることをあの人も望んでいたのですから。しばらく自由に踊っておいで、と」
「しばらく、ね……あなたが望むのなら、私はあなたと最後まで踊る覚悟はありますよ」
最後の一曲を踊る……それを意味することが分からないほどエレーナも無知ではない。
社交界において最後の一曲を共に踊る相手は、意中の相手を意味する。婚約者、夫婦、特別な関係であることを指している。
それを、エレーナと共にとカインは言ったのだ。
「冗談じゃないわ。愛なんて簡単に薄れるもの。イノセント侯爵令息様も、こうやって他の女性に声をかけているんでしょう?」
エレーナはもう、甘い言葉で簡単に騙されたりはしない。
至極穏やかに冷静に、カインの言葉を一蹴する。
「心外だな。私には、あなただけですよ。言ったでしょう、あなたのためにこの両手は空けてあると」
カインに婚約者はいない。
あの時はわざと気付かないふりをしたが、空いている両手————つまり、彼が今まで誰とも関係を結ばなかったのは、エレーナとの婚約を望んでいるためということを言っている。
「……っ、私たちにほとんど交流はなかったと思いますが」
「一目見た時から、あなたに夢中だった。いつかこうして、私の色に染め上げてしまいたいと狂おしいほど恋焦がれるくらいには」
「そんなの、一瞬の気の迷いですわ。きっとあなたも私を愛さなくなる」
「いいえ。あなたが愛を信じないというのなら、信じてくださるまであなたを愛し続けましょう。私はあの男とは違う。あなたを決して手放すことなどしない」
二人の視線がぶつかり合う。
「まるで私と結婚することが決まっているかのような口ぶりね」
「いけませんか? 私とあなたでは家格も釣り合いますし、学も、人脈もある。オリヴァーと条件面ではほとんど変わりません。それならば、愛してくれない夫より、私の方が良いと思いませんか」
「さあ、どうでしょう」
エレーナはカインの甘い囁きを、ただ微笑み受け流す。
「これからどうするかは、私が私の意思で決めます。オリヴァーだけじゃない、イノセント侯爵令息様の言いなりにも私はなるつもりはありませんから」
あの時、カインがわざと焚きつけるようなことを言ってきたのは分かっていた。
だが、流されたわけではない。それに乗ったのは、自分の意思だ。
「ふふ。どうぞ、心ゆくまで私の愛を試してください」
「望むところよ」
馬車が止まる。
会場にたどり着き、カインのエスコートで入場する。
煌びやかなシャンデリアの下に集っているのは、華やかに着飾った若い男女たちだ。
その中には、オリヴァーの姿もあった。
オリヴァーと目が合う。彼は驚愕してこちらを見ていた。
「エレーナ……?」
あれほど好きだったオリヴァーの姿を見て、エレーナの心は一切動かなかった。
オリヴァーが知らない女性と一緒にいても、もはや見慣れた光景のようにエレーナの視界を通り過ぎていく。
やはり——————永遠の愛なんて、どこにも存在しないのだ。
(だから、私も別の人を愛するわ。あなたへの想いを捨てて)
エレーナはもう、オリヴァーへ振り向くことはなかった。
ただ、目の前にいるカインだけを見ている。
「踊ってくださるかしら、イノセント侯爵令息——————カイン様」
「ええ、喜んで。エレーナ嬢」
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