第七十六話 母として
杖が放った光は、静かに空へ昇っていく。
その中心に現れた白銀の少年——アルの姿が、確かにそこにあった。だが。
彼の身体から、もうひとつの気配が、そっと浮かび上がる。
それは、かつて“魔王”と呼ばれた存在——深い黒の衣をまとい、悠然と、静かな目を湛えた少女の姿だった。
「——やはり、最後に少しだけ、姿を借りることにしたよ」
アルの影から滲み出るようにして現れた“魔王”は、凛とした声でそう言った。
その気配に、場の空気が張り詰める。
だが、彼女はもう威圧的ではなかった。そこにあったのは、透き通るような静けさと、深い哀しみだった。
「最後にって……」
美怜が一歩、前に出る。
「そうだよ。私は“終わり”を選ぶ者」
その言葉に、セリオの身体がびくりと震える。
「終わり……?どうして、そんなことを……!」
魔王は微笑む。その表情に、かつての狂気はなかった。
「……私はね、どうしても消せなかったの。人間の“大人”に対する、どうしようもない憎しみと殺意が」
「どれだけアルが心をくれても、どれだけ優しい思い出を見せられても——最後まで、私の中の『衝動』だけは、決して消えなかった」
風が吹く。遠くで鳥が鳴いた。
「でも、もう誰も傷つけるつもりはないよ。だから、私は自らを終わらせる。アルという新たな存在に、すべてを託して」
誰も、何も言えなかった。
そして、魔王はそっと振り返る。
「セリオ」
その名を呼ばれ、セリオはまるで時間が止まったように顔を上げた。目元はすでに涙で濡れている。
「あなたを拾ったのは、ただの気まぐれだった。でも、気づけば——私は、あなたを守りたかった。教えたかった。育てたかった」
「あなたが笑えば、私は誇らしかった。あなたが泣けば、胸が締めつけられた」
「私はあなたに、何も与えてやれなかったかもしれない。でも……」
「私は、あなたを——愛していた」
その瞬間、セリオの膝が崩れ落ちた。
声にならない嗚咽が漏れ、肩が震える。
「くそっ……こんなことって……!」
それでも、セリオは顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に言葉を紡いだ。
「……それでも……これだけは……!」
彼は魔王に、まっすぐに向き直った。
「これだけは……言わせて欲しい……!」
「母さん……俺にたくさんの愛をくれて、ありがとう……!」
魔王の瞳に、一瞬だけ光が宿る。
彼女は、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……うん。あなたは私の誇り」
「あなたを愛している」
そして、その姿が、淡い光となって空へと溶けていく。
まるで、初めからそこにいなかったかのように。
セリオは、ただ呆然とその光を見つめていた。
誰も、言葉をかけなかった。
それが、彼と“母”の最後の時間であることを、誰もが理解していたから。
静寂のなか、美怜がそっと近づき、セリオの隣に座る。
「……彼女は、最後の瞬間まで……確かに“あなたの母親”だった」
セリオはゆっくりと頷く。
その涙は止まらなかったが、確かに——その頷きは、別れを受け入れるための一歩だった。
そして太陽は、彼らの上に等しく降り注いでいた。
すべての命の旅立ちを、静かに祝福するように。




