第七十三話 母を返して
静けさを取り戻した部屋で、美怜はしばらく黙ってアルの杖を見つめていた。
その中に眠る魔王——そして“アル”という名を持つ存在。その魂の揺らぎを、彼女は確かに感じ取っていた。
「……今の記録、ライアスたちにも伝えなきゃ」
その声に、ティナとカイルが真剣な表情でうなずく。カイルが懐から取り出したのは、魔力で動く通信機の魔道具だった。彼は素早く三重結界を展開し、通信を安定させると、水晶のような装置に魔力を込めて呼びかけた。
やがて、青白い光の中に三人の姿が浮かび上がる。白金の勇者・ライアス。屈強な戦士・ガイア。そして、エルフの魔法使い・リュミナ。
「ミレイ……!無事だったのね!」
最初に声を上げたのはリュミナだった。美怜は小さく微笑み、しかしすぐに真剣な表情で告げる。
「今から、ある映像を送るね。魔王の記憶、そして……アルの真実。これが、私たちの見つけた答え」
美怜は杖に魔力を込める。淡く輝く魔力が浮かび上がり、記録魔法が映像として再生されていく。そこには、かつて魔王が何者として生まれたのか、アルとして過ごした時間、そして——封印の瞬間があった。
ライアスたちはただ黙って見つめていた。言葉を挟むこともなく、食い入るように。
長い沈黙のあと、ライアスがそっと目を伏せて言った。
「……魔王は苦しみの中で生まれた存在だったのだな……。でも、それでも心を得て、“アル”になった……」
「変わるって、こんなにも痛みを伴うんだな」
ガイアが低く唸るように呟く。
ライアスは真っ直ぐ美怜たちを見つめ、重く頷いた。
「君たちが真実を導き出してくれたおかげで、アルの杖に仕込まれていた封印の魔術構造がようやく解明できた。今なら、封印を安全に解く方法がある」
「本当……?」
「でも、封印解除には相応の魔力と儀式が必要だ。それに……もし万が一、魔王の人格が暴走すれば、周囲に甚大な被害が出る危険もある」
「だから、場所を選ばなきゃならない」
皆が頷くと、ライアスは地図を魔道具に投影した。
「《クレール平原》だ。中央都市から徒歩で五日。人も村もなく、開けた場所だ。俺たちはすでに向かっている。そこで合流しよう」
「……わかった。私たちも向かう」
通信は静かに切れた。
四人は顔を見合わせる。静かに、だが確かな覚悟が、そこにはあった。
——出発から四日後の朝。
森を抜け、やや開けた草原の縁を進んでいたときだった。冷たい朝霧の中、不意に空気が変わった。
「……誰かいる」
ツカサが足を止め、手を刀にかける。その瞬間、濃密な瘴気が漂い、前方の木々が影のように歪んだ。
「久しぶりだな。“勇者ごっこ一行”」
姿を現したのは、四天王の一人《蠱惑の牙》セリオ・ヴェリエだった。
だが、彼の表情には哀しみと怒り、それらを抑えきれない激情の波が潜んでいた。
「魔王様を……返してもらう」
静かに吐かれた言葉の直後、あたりは瞬時に変貌する。視界が歪み、木々が黒い花弁となって舞い、空気は毒に満ちていく。
「くっ……幻と毒、両方か!」
カイルが結界を張る。
ティナは拳を構え、ツカサは刀の柄に指をかける。
「セリオ、やめて!」
美怜の声は、毒の風にかき消されて届かない。
彼は幻と毒の中で囁くように叫んだ。
「お前たちは知らないんだ……!あの人がどれだけ優しかったか……!」
黒い花が舞う中、セリオの影が分裂し、いくつもの幻像となって襲いかかる。その一つ一つが、魔王と過ごした“記憶”の影のようだった。
それでも、美怜たちは諦めなかった。
幾度も幻を断ち切り、毒を浄化し、ついにセリオ自身に辿り着く。
「《四律合斬》!」
一撃が、闇を引き裂いた。
幻影が砕け、毒の霧が晴れ、歪んだ空間が正気を取り戻していく。
最後に残ったのは、一人の男——セリオ・ヴェリエ。
彼の体は、無数の裂傷と魔力の乱れでボロボロだった。服は破れ、血に濡れ、顔も腕も泥にまみれていた。それでも彼は、膝をつきながら立ち上がろうとしていた。よろめき、倒れ、それでもまた足を踏ん張る。
「……まだだ……」
唇が切れて、血が伝う。
「まだ……返してもらってねぇ……魔王様を……っ!」
その言葉とともに、彼の魔力が一瞬だけ弾ける。が、それもすぐに限界を迎え、彼の体は崩れ落ちた。地面に手をつき、咳き込みながら、それでも目だけは美怜たちを睨んでいた。
「なあ……返してくれよ……魔王様を……」
声は掠れ、涙混じりだった。
「……あの人は……俺を拾ってくれた……全部、無くした俺を……この名前も、命も、あの人がくれたんだ……」
美怜は思わず息を飲む。セリオの中にある傷の深さが、痛いほど伝わってきた。
「俺が泣くと、黙って横にいてくれた。震えてるときは、そっと手を握ってくれた……!毎晩、頭撫でてくれたんだ……“怖くない”って言って……!」
ボロボロの手で、自分の頭を抱えるようにして、セリオは嗚咽する。
「それが……なんで……なんで、“アル”なんて名前で……まるで別人みたいで……俺の知ってる“魔王様”が、いなくなっちまったみたいで……!」
拳を地面に叩きつける。何度も、何度も。
「お前らにはわかんねぇだろ!?あの人が……俺にとって……“母親”みてぇなもんだったんだよ!! 全部だったんだよ……!!」
その叫びは、枯れ果てるほど痛々しかった。
美怜は静かに歩み寄り、泥にまみれたセリオの前にそっと膝をついた。
「……わかるよ。きっと……全部じゃなくても、その気持ちの一部は、私たちも感じてる」
美怜の声は、涙を含んでいた。
「だから……私たちは、“魔王”も、“アル”も、両方と向き合うって決めたの。どっちかだけじゃない。どちらもその人の一部だから」
美怜は手にする杖を抱きしめる。
セリオは、顔を覆って震えていた。
「……本当に、あの人が……まだその杖の中に……?」
「いるよ」
美怜は優しく答えた。
「だから、助けたい。あの人の全部を」
セリオの肩が、小さく揺れた。
その手は、もう抵抗する力を失っていた。
でも——その胸の奥に残った想いだけは、まだ誰よりも強く、激しく燃えていた。
——誰よりも深く愛していたからこそ、誰よりも壊れそうだった。
けれど、その壊れた心の奥にも、わずかに光が差し込もうとしていた。
静かに、彼は地面に倒れ込んだ。
だがその瞳から流れた涙は、ただの絶望だけでなく、どこか遠く、届かない願いのように……やさしく滲んでいた。
すべては、“魔王”の心が選ぶ未来のために——




