第三十四話 ザハルという男
夜明け前、美怜たちは“地図にないアジト”へ向けて出発した。
アマネから渡された封書には、黒い墨で描かれた奇妙な地図と、いくつかの符文。そして一枚の羊皮紙が挟まれていた。そこには、たった一言。
《真実を受け入れる者のみ、門は開かれる》
それが、ザハル・アル=ナジルのもとへ通じる唯一の手がかりだった。
数日後。
風も届かぬ峡谷の底。苔とつたに覆われた岩の裂け目。
その狭間に、私たちは“門”を見つけた。
「……この場所、空気が違う……」
アルが肩をすくめ、小声で呟く。
門は石造りで、古い墓標のように無言で私たちを見下ろしていた。中心には複雑な紋章が刻まれ、触れれば脈動するような微かな熱を放っている。
「アマネが言ってた通りにゃ……ここが、“奴”のアジトの入り口……」
ティナが眉をひそめる。
「開けてみよう。……用意はいい?」
美怜が皆を振り返ると、カイルがいつもの軽口を封印したまま、うなずいた。
私はゆっくりと羊皮紙を門に押し当てる。
その瞬間——
「っ……!」
空気が歪み、門が呻くような音を立てて開きはじめた。
目の前に現れたのは、奈落へと続くかのような、螺旋状の石階段。
その奥からは、黒い香のような甘い香りと、金属のような血の匂いが混ざったような気配が、じわりと漂ってくる。
「……行こう」
一歩足を踏み入れた瞬間、背後の門が音もなく閉じた。
逃げ道は、もうない。
どれほど降りただろう。
時間の感覚さえ曖昧になる頃、ようやく視界の奥に灯りが見えた。
それは、異様な空間だった。
天井には数え切れぬほどの黒い紐が吊られ、無数の薬瓶や水晶球、乾いた動物の頭骨が吊るされている。
壁には、流れるような筆致の呪文文字が染みついていた。
中央の祭壇には、誰かの形を模した人形が寝かされている。
——そして、その奥。
黒の長衣に身を包み、背を向けて棚を整理していた人物が、こちらに気づいてゆっくりと振り返った。
「……ほう。珍しい。あのアマネが、“お使い”を寄越すとは」
男とも女ともつかぬ声。高く、くぐもっていて、どこか芝居がかった響き。
エルフの特徴的な長耳、褐色の肌に、漆黒のふわりとした髪。黒耀石の如くきらめく黒い目が、まっすぐこちらを見据えている。
オリエンタルな柄が施された布地をまとい、綺羅びやかなアクセサリーに身を包んだ彼は笑った。
「ようこそ、“真実の工房”へ。私はザハル・アル=ナジル。死者を弄び、生者を試す、黒の錬金術師にしてこの地下の主……まあ、世間は“外道”と呼んでるみたいだけど、褒め言葉さ」
ザハルは、扇子のようなものを片手にひらひらと仰ぎながら、こちらに歩み寄ってくる。
「さて……今日は誰の苦しみを見せに来たのかな?それとも、誰かの絶望に酔いたくて来たのかな?」
「私たちは——」
美怜が口を開こうとしたその瞬間、ザハルはぴたりと私の前で止まり、目を細めた。
「……ほぉ……君の背中。面白いモノを抱えてるねぇ」
まるで嗅ぎ分けるように、ザハルの指先が、美怜の背の三本の武器へと近づく。
「魂を、封じたままこの世界に繋ぎとめる……まるで小さな箱庭を育ててるみたいだ。ふふ……好きだよ、そういう“無茶”な執念」
美怜は目を逸らさず言った。
「私は、仲間の肉体を……“器”を、取り戻したい。魂と、もう一度繋げるために」
ザハルの口元が、にやりと歪む。
「いいだろう。……その願い、預かってあげる。ただし——“対価”は、きちんと払ってもらうよ?」
その声は、まるで毒を含んだ甘美な誘いだった。
「さあ。君は、いったい何を差し出せる?」
——その問いこそが、私たちの覚悟を試す“契約”の始まりだった。




