第二十話 祈らぬ僧侶と、誰かのための金貨
中央都市アークルゼン——それは、石畳の通りが何層にも折り重なるように広がる、巨大な記録と研究の都市だった。
街の中心にそびえるのは、蒼いガラスの尖塔。
その下層部には各種の研究所が並び、錬金術や魔法治療、歴史記録、冒険者登録など、すべての“知”が集うと言われている。
私たちが東門から入ると、カイルは早々に足を止め、振り返った。
「悪い。俺、一人で行きたいところがある」
「……中央治療術研究所、だよね?」
アルが言うと、カイルは珍しく目をそらして、「ああ」とだけ答えた。
「しばらく一人にしてくれ。宿は夜には戻る」
それだけ言い残し、彼は人混みの中に姿を消した。
——気になる。
そう思ったのは、私だけではなかったかもしれない。
でも、私は特に……あの横顔が、どこか“悲しい”と感じたから。
だから、私は小さく踊るように、忍び足で彼を追いかけた。
《静足の舞》。元々はステージで足音を立てずに歩くための舞。今は、彼の影を追うための舞。
踊るように、忍ぶように。
そうして辿り着いたのは——中央治療術研究所の裏口だった。
カイルは、長い時間をそこで過ごしていた。
研究員と思われる女性と、硬い顔で何度もやり取りをしていた。
私は陰に身を潜め、聞き耳を立てる。
「……やっぱりダメなのか。まだ治験段階?」
「申し訳ありません、カイルさん。妹さんの“神経呪縛症”はあまりに例が少なくて……。研究費が集まらず、魔力薬の開発も遅れていて」
「だったら俺が出す。金が足りないなら、いくらでも出す。……治せる可能性があるなら、それだけでいい」
「……わかりました。ただし、完治の保証はできません。それでも——」
「かまわねぇ。俺は、神より金を信じてる」
その言葉に、私は息をのんだ。
神より、金。
僧侶であるカイルが、祈りではなく“金”にすがる理由。
——それは、きっとずっと、彼の中で割り切れない痛みだったんだ。
研究員が去ったあとも、カイルは動かなかった。
彼はポケットから古びた布を取り出す。
……刺繍の入った、可愛いハンカチ。
「……おまえの病気は、俺がなんとかする。神様なんか信じなくていい。俺が……絶対に治すから」
そう呟いて、彼はハンカチを胸元にしまった。
私の胸が、痛くなった。
カイルは、金の亡者なんかじゃない。
誰よりも不器用に、誰よりもまっすぐに“愛”を抱えていた。
私は気づかれないように踵を返し、静かにその場を後にした。
夜、宿に戻ったカイルは、何事もなかったかのように食卓につき、肉をかじりながら言った。
「アークルゼンの情報は収穫が多いな。明日から本格的に動くぞ」
「……うん」
私はただ、うなずいた。
あの時、声をかけなくてよかった。
まだ、彼にその荷物を預けられるほど、私は強くなれていない。
でも、いつか——その痛みに、手を伸ばせるくらいには、なりたいと思った。