魔法の花は婚約破棄と共に新しく咲き乱れる
春の空は薄く曇ったような色をしているけれど晴れていて、柔らかな日差しが降り注いでいる。
伯爵令嬢であるアーシャは、今朝もせっせと庭で花の手入れをしていた。
育てているのは、愛しい恋人の無事を祈り、武勲の助けとなる魔力を想い人に届けられると言われている「恋の花」だ。
魔法花の一種であり効果については迷信に近いものがあったが、そんなことはアーシャにとっては関係ない。
(迷信でもいいの。ニールのために、わたしが育てたくて育てているのだから)
アーシャは愛しい婚約者のため、泥に汚れることも厭わずに庭の手入れにいそしんだ。
そんなアーシャに声をかけてくる人物がいた。
「綺麗な花ですね」
「ありがとうございます。私の大好きな花なのです」
アーシャは、ニコニコと笑顔で答えた。
話しかけてきたのは宮廷魔法士であり伯爵でもあるルナルディだ。
近くに屋敷を構えているルナルディは、アーシャの家の前をよく通るので既に顔なじみだ。
キラキラと輝く銀髪が美しい優秀な宮廷魔法士に自分の花を褒められて、アーシャは嬉しかった。
「こんな素敵な花を育てる貴女の婚約者さまは、幸せものですね」
「ありがとうございます」
アーシャは、大好きな婚約者のために育てた花を褒められて嬉しかった。
魔法花の一種である「恋の花」は、恋心を糧のひとつとして育つ花だ。
庭の花は、アーシャの恋心を誇るかのように咲いている。
「花弁が大きくて色合いも華やかだ。アーシャさまの心の有り様をも表す素晴らしい花ですね」
「あら、そんな……恥ずかしいですわ」
恋の花には魔力が宿る。
その効用は、想い人の魔力増強だ。
花が大きく立派になればなるほど、想い人への効果は高くなる。
「こんな素晴らしい花を捧げられた婚約者殿は、さぞかし感謝していることでしょう」
顔なじみであるルナルディは、アーシャの婚約者が魔法騎士であることを知っていた。
魔法騎士にとって魔力増強は力強い援護となる。
こんな美しい花をもってして支えてくれる婚約者がいることは、宮廷魔法士であるルナルディには羨ましいことだ。
彼は心の底から思ったことを口にしただけだった。
だが、アーシャからの返事は意外なものだった。
「いえ……そんなことはありません」
アーシャの表情は曇った。
なぜなら婚約者であるニールは、アーシャの育てる花が好きではないからだ。
それは彼の愛情と比例していた。
「おや、こんなに美しい花なのに?」
「花弁そのものは好ましく思ってくれているようですが。この葉が嫌いなようです」
アーシャは恋の花の葉を指さした。
燃えるように赤い花びらに黄金を思わせる雌しべが輝く花弁は、奇妙な柄の入った茎と葉に支えられていた。
緑の茎と葉に走るひび割れのような模様は、雄しべと同じ闇色がかった茶色だ。
「おや、これは……」
見識ある彼には、これの表す事柄が瞬時に理解できた。
アーシャの恋心には嘘がない。
だが、婚約者の方は違うようだ。
ひび割れのような模様は伊達に入ったわけではない。
意味があるのだ。
政略結婚の多い世界では、それを知る者は限られる。
しかし宮廷魔法士である彼にとっては、簡単に読み解ける謎だ。
彼は、憐みと期待の入り混じる感情を忍ばせた視線で、彼女を見た。
溜息を吐いて花を見下ろしているアーシャは、気付いているのだろうか。
ルナルディは、それが知りたくて探るように言う。
「あの……婚約者さまとの仲は、上手くいっていらっしゃるのですか?」
アーシャは憂いを帯びた表情を浮かべた。
「そのはずなのですが……夏には結婚する予定ですし。私は婚約者のことが大好きなのです」
アーシャは言葉と共に溜息を吐いた。
彼女の言葉に嘘がないことは、ルナルディにも分かった。
しかし彼の見たところ、彼女に勝算はない。
だが彼女の負けは、彼の勝ちに通ずる。
「アーシャさまの心が愛に満ち溢れていることは、花の美しさを見れば分かります。こんな美しい花を咲かせる貴女は幸せになってしかるべきだ」
「ありがとうございます、ルナルディさま」
輝くような笑顔を見せる美しい金髪と緑の目を持つ令嬢は、ルナルディの目にはとても可憐で可愛らしく映った。
彼は彼自身の幸せと可憐な令嬢の幸せが重なっていくことを願った。
そして彼女の婚約者が、相応にしてふさわしい罰を受けたらいいと思った。
そんなルナルディの望みが叶ったのか。
夏の思わせる日差しと曇り空が日ごとに入れ代わり立ち代わりやってくる頃、アーシャのもとに残酷な知らせが嵐のように入ってきた。
突然開かれた自室のドアと共に、婚約者のニールが叫ぶように宣言する。
「オレは真実の愛に目覚めた! 婚約を破棄してくれ」
「なんですって? もうすぐ結婚式なのに?」
アーシャは目を白黒させた。
ニールは、赤い髪に赤い瞳を持つ直情的な男性だ。
長い付き合いのなかで彼の突飛な行動には慣れているつもりのアーシャであったが、今回は桁違いだ。
「ああ、そうだ。キミとは結婚しないっ」
「何を言っているの、ニール! もう結婚式の準備は進んでいるのよ? ウエディングドレスだって出来上がっているわ」
式の日取りも決まり、準備は着々と進んでいる。
恋の花は相変わらず茎と葉に妙な模様があったが、花は綺麗に咲いていた。
だからアーシャは、このまま結婚するのだと思っていた。
しかし婚約者の思いは違っていたようだ。
「分かってる。だから、キミの方から婚約を破棄してくれ。かかった費用はコチラで持つし、もちろん慰謝料も払う」
「嫌よ。そんなこと私には出来ないわ」
「分かった。では、キミの父上に相談するよ」
突然アーシャの部屋に飛び込んできたニールは、来た時と同じように嵐のように去っていった。
結論から言えば、アーシャの婚約は破棄された。
先方の都合によるアーシャ側からの婚約破棄であり、彼女には何の非もない。
だからといってアーシャの心が傷付かないはずもなく、彼女は荒れた。
庭に咲き乱れていた恋の花は、みるみるうちに枯れていく。
その見るも無残なその状況は、誰よりも強く彼女自身の心をかき乱した。
(こんな花っ! 育てなければよかった! ニールの為に育てたのにっ! ニールの為にっ!)
今にも雨粒が落ちてきそうな曇天のもと、アーシャは泣きながら、枯れた花を引きちぎるようにして抜いた。
何本もある恋の花の中には、枯れていないものもあった。
そのことがアーシャの悲しみをより深くする。
「お手伝いしましょうか?」
ルナルディはアーシャの側に寄り添うようにかがんだ。
彼は知っていた。
恋の花には相手の心変わりによって、茎と葉に独特の紋様が表れることを。
だからルナルディは、いずれアーシャの恋は終わりを告げ、彼にチャンスがやってくると知っていた。
しかし彼にとってのチャンスは、彼女の涙と共にやってきた。
そのことが、思っていた以上にルナルディの心には痛かった。
ルナルディは恋の花を根元から引っこ抜きながら、彼女が二度と悲しむことのないように、しっかりとアーシャの心を手に入れたいと願った。
曇天から雨の雫が本格的に滴り落ち始め、アーシャはルナルディの手によって家の中へと戻された。
その際、家人とルナルディとの間に思惑ありげな視線がやりとりされたことなど、泣きぬれているアーシャは気付かなかった。
気付けばアーシャは侍女たちの手により湯船に浸けられていた。
泣いても、泣いても、涙は湧いては落ちてくる。
ここは湯船の中なのだ。
泣いたところで支障はない。
アーシャは思い切り泣いた。
泣いて泣いて、泣き疲れても涙は流れる。
アーシャは泣きながら湯船から上がった。
そして、ふと気づく。
湯船に恋の花の小さな芽が浮かんでいることに。
体に種が付いていて、温かな湯の中で芽を出したのだろうか。
殻から芽をのばしているだけの小さな存在が、湯船の中で酷く目立つ。
彼女はそれを湯からすくって潰して捨ててしまおうかと思った。
しかし実際には、そうはしなかった。
湯船に浮いた小さな芽をそっとすくい上げて、近くにあった桶のなかに入れたのだ。
どうしてそうしたのか、彼女自身にも分からない。
その様子を見ていた侍女は、それをそっと浴室から下げると庭に植えるよう庭師へ依頼した。
♡♡♡
そして月日は流れ、十年の時が経った。
婚約破棄騒ぎで実家を追われたアーシャの元婚約者は、魔力量が下がって戦闘中に負傷し、二度と戦えない体になり魔法騎士の地位も失った。
職も失った彼の前から愛する女は去って真実の愛は散ったと伝え聞いたアーシャだったが、元婚約者がその後どうなったのかについては知らない。
今となっては全ては過去のことだ。
あの後、アーシャはルナルディと結婚した。
アーシャが知らない間に婚約は整っていて、あれよあれよという間の結婚だった。
彼女は戸惑ったものの、庭先に咲き乱れる恋の花を見てしまったら断る理由もなかった。
アーシャはいつの間にかルナルディと恋に落ちていたのだ。
宮廷魔法士であり伯爵でもあるルナルディは結婚相手として申し分のない相手だった。
身分も釣り合いがとれていたし、収入も十分にあり、なにより見た目が良い。
輝く銀髪の美丈夫の隣で頬を赤く染めるアーシャは幸せそうに見えた。
やがてルナルディは宮廷魔術師の長となり、男の子と女の子、ふたりの子供の親にもなった。
アーシャのお腹にはもうひとり子供がいる。
二人の仲は良好で、子供たちは健康で、家族はみな仲が良い。
申し分のない幸せな家庭を築いたアーシャとルナルディが住む屋敷の庭には、今日も赤青黄色と彩りも華やかに恋の花が咲き誇っていた。
~おわり~