第80話 魔王陛下と朝食を
その日のアリアは朝から困っていた。
正確に言うと、姿はアリアなのだが……
「……どうしよう。恐れていた事が起きたわ」
アリアの中身は、フィスファーナだったのだ。
今朝、目を覚ました時に辺りを見回したら、部屋の調度品が見たことのないものばかりになっていた。
自分の手も、記憶にあるよりも小さくて、そこで他人だと気付き慌てて鏡を見る為にベッドから降りた。
鏡にはやはり、自分ではない別人の姿が写っていた。
……この姿は本来の身体ではない。
アリアという少女の中に、自分が精神体、もしくは魂として入り込んでしまっているのだ。
少しの間に意識があった時に彼女と話したことによって、自分が320年前のタイカーシアからこの地に飛んで来てしまった事は分かっている。
けれども彼女の身体を乗っ取ってしまう形になるなんて……アリアは今、どうなっているのだろうか。
フィスファーナは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
「おはようございます、アリア様」
侍女がそう言いながら部屋に入ってきて、カーテンを開けてくれた。
「お、おはよう」
彼女はどうしたものかと思いながら返事をした。
侍女がいるということは、アリアは高位の女性なのだろうか。
しかし、自分の今の状況を説明しても分かってくれる人などいないだろう……
「アリア様、今日はこちらにお引越しされて初めて魔王陛下とご朝食をご一緒される日ですね」
侍女がニコニコして言う。
「……え?待って、魔王陛下と?」
「ええ。陛下が普段お忙しくて、ご婚約されてからまだ一度もお2人だけでご会食なさるお時間もなかったじゃないですか。
昨晩御自らお部屋の前にいらして『いつも時間がなくてすまない。アリア、明日の朝だけは空いている。朝食は俺の部屋で一緒に食べよう』って仰ったじゃないですか〜」
そこまで言うと3人の侍女が申し合わせた様に集まって頬を染めてキャッと小さく言った。
「私が……魔王陛下の婚約者?」
「あら、嫌ですわアリア様。まだ信じられませんの?まあそうですわよね、結構急でしたもの……でも、相思相愛なのは私共も以前から気付いてましたのよ?」
——アリアって魔王陛下の婚約者だったの?そもそも……王女?なのかしら……
フィスファーナは戸惑う。
その間にも侍女達は顔を洗わせ、ドレスを着せて彼女の髪を結う。
「アリア様。今日はなんだかお淑やかですねえ……少し大人っぽいですし」
支度をしてくれている1人が言う。
「そ、そうかしら?きっと緊張しているのよ……」
フィスファーナが当たり障りのない返答をする。
「そうですか?あんなに兄様兄様と呼んで懐いてらしたのに。
それとも、将来のお妃様としての心構えが少し芽生えて来られましたか?
今日はメイクもピンクよりもコーラル系にしましょうか……」
侍女はそう言うと、ポイントメイクをコーラル系のパレットに交換した。
——ピンク?コーラル系?
320年前はそんなのなかったから分からないわ……
フィスファーナは戸惑いながらも彼女達に任せていた。
ドレスの色味にも考慮した薄いメイクが完成すると、侍女は促す様に言った。
「ほら、出来ましたわ。とっても素敵ですよ。陛下の所に行ってらっしゃいまし」
「ありがとう……あの、やっぱり緊張するからお部屋の前まで連れて行ってくれるかしら」
——だって私、その方のお顔すら知らないんですもの!
フィスファーナは困り果てていた。
「アリア様ったら!お可愛い。分かりましたわ、わたくしが着いていきますわね」
侍女の1人がそう言ってくれた。
侍女とヴェイルの部屋まで行きノックをすると、彼が嬉しそうに扉を開けた。
「おはよう、アリア」
「おはようございます……」
いきなり婚約者と言われた恥ずかしさのあまり、フィスファーナは下を向いたまま挨拶をした。
侍女が丁寧にお辞儀をして下がって行く。
ヴェイルが微笑んで語り掛けた。
「さ、お入り。執事がテラスに朝食を用意してくれているよ」
「ありがとうございます……」
彼女は頭を上げて彼を見た。
その顔に驚愕の色が広がる。
「パトラクトラ?!」
思わず口から名前が出た。
ヴェイルの顔が自分の妹、パトラクトラとそっくりだから驚いたのだ。
瞳の色はまるで違う。けれど、顔立ちや微笑んだ時の表情は、彼女にあまりにも似ていた。
「え?」
彼も驚いてフィスファーナを見返す。
「……あ、申し訳ありません、人違いでした」
彼女は咄嗟に、いけない、と思い謝った。
そんな筈はない、と心の中で言い聞かせる。
「アリア?」
「はい」
「母がどうかしたのかな。彼女は今、ナザガランにはいないんだけど」
「?お母様がどうかなさったのですか?」
「今、『パトラクトラ』って」
「ですからそれは人違いで。私の妹の名前……あ、いえ、何でもありませんわ」
「パトラクトラは俺の母だ。君が……分からない筈がない。なのに、どうして……」
ヴェイルが不安げな表情になって聞いた。
何かの異変を感じた様だ。
フィスファーナは驚いて言ってしまう。
「ええっ?!パトラクトラの息子?あなた様は魔王陛下ですよね。じゃああの子は……お、王太后?」
あまりのことに、もはやアリアのフリも忘れている。
彼の顔が悲しげに曇った。
「アリア」
そして控えめに続ける。
「……君は誰だ?『妹』が『パトラクトラ』?」
「あ、あの……」
彼女は思わず後ずさった。
「まさか……『フィスファーナ=アガン』なのか?」
ヴェイルの口から出た名前に、フィスファーナは全身が痺れるような衝撃を受けた。




