第113話 リヒトの命令
ナザガランは朝を迎えていた。
その日も天気は穏やかで、雲の少ない空に優しい恒星の光が昇って来ていた。
「おはようございます、陛下」
「おはよう」
リュークとヴェイルがいつもの出勤時間に顔を合わせる。
今日はそのまま定例会議に出席する予定だ。
グラディスが魔王代理を務めているが、伝達時間の短縮の為、彼の側には2人の側近も着かせていた。
魔王職と参謀職は休んでいる彼らだが、父からの外部外交報告事項を確認する為にも会議には出席していた。
更には、昨日鬼族の地で発見した王太后パトラクトラと公子ロイについて、改めて話し合うつもりもあった。
2人は並んで魔王城の1階のロビーに向かう。
会議が行われる戦略会議室がある、第2棟に行く為だった。
「……」
歩きながら、リュークが額を押さえる。
「具合が悪いのか?リューク」
ヴェイルが心配そうに聞く。
「……夜中から何だか頭痛がしていまして……」
「大丈夫か?しかし……実は俺も……」
彼の様子に奇遇そうに返す。
ヴェイルも夜中から原因不明の頭痛に悩まされていた。
「冷えたかな?」
「翼があるんだし、冷えることはないと思うが……食事も摂ったし、もう暫くしたら身体が温まって治るかも知れない」
「まあなんとかなりそうではありますが……」
ロビーが近付き、リュークが言葉を直す。
「そう言えば、最近フィスファーナ様はどうされています?」
「彼女には、この翼に出て来る神の魔法陣の術式を、解析する為に研究して貰っている」
「神の魔法陣を、ですか……まあ確かにご丁寧にラキシャ語と、一部古代エルフ語になってますよね。
しかし、解析して貰ってどうするんですか?」
「翼がなくなってもエレメントで再現出来ないかと思って。折角だから、転んでもタダでは起きない精神で」
「そうですか……逞しいですね……」
そう答えたリュークが不意にふらついた。
——コロセ……魔王を……殺せ……
「……!」
頭の中で声がした。
昨晩から込められ続けているリヒトの命令だった。
彼が目を見開いた。
「嘘だろ……?」
「リューク?!どうしたんだ」
驚いたヴェイルが支えようと近付いて来る。
「……に……げろ……」
彼を振り払うようにし、必死の思いで何とか声を絞り出す。
「え……?」
危機を感じた呟きは、小さくて聞こえなかったようだ。
「ダメ……だ、早く……っ!」
リュークが顔を上げた。
「な……!」
その顔を見たヴェイルが驚く。
瞳の色が……藍玉色に染まっていた。
しかし、異変に気付いた時にはもう遅かった。
「リューク……?うわっ!」
リュークが素早く動き、彼の胸元を突然掴んでそのまま壁にドン!!と押し当てたのだ。
「陛下!リューク殿下?!」
ロビーカウンターの受付の人間や側近達が驚いて騒めく。
「リュー……ク……何を……」
ヴェイルが信じられない思いで彼に問う。
しかし聞こえないのか、藍玉色の目で見据えたままグッと胸元を締め付けて来る。
「あ……やめ……」
なんとかして彼の腕を外そうとするが、強い力に抗えない。
「早く!グラディス陛下を!!」
周りの人間が慌てふためいて呼びに行く。
アウドラとミシュレラも駆け付けた。
「リューク!やめて!!」
「リューク!」
2人の切迫した声も届かないようで、そちらを見もしない。
リュークは一瞬片手を緩め、改めてヴェイルの首を持った。
「う!」
彼が苦しげに呻き、締めさせまいとその腕を掴む。
「リューク!なんて事を!!」
アウドラが駆けつけようとしたが、ミシュレラが危険を感じたのか止める。
リュークはギリギリと首を絞めて来る……
抗い難い力に、こめかみがドクドクと音を立て始めた。
込められる力と抗う力に筋肉の震えが伝わって、お互いの翼がガサガサと小刻みに揺れる。
「やめ……てくれ……」
なんとか言葉を出す。
「ヴェイル!リューク!お前達何をやっている?!」
グラディスが来て2人の間に入ろうとした。
「うわっ!!」
途端にリュークから火焔が巻き上がり、彼を近付けさせまいとする。
周囲から悲鳴が上がった。
グラディスはからくも焔を避けた。
「父上っ……ぐっ!」
ヴェイルが父を気遣い、声を掛けようとするが、気が逸れた隙に更に締め上げられてしまう。
「俺が……分からないのか……」
負けまいと抵抗するように顎を下げ、リュークを睨み付けながら両手で締め付ける指を開こうとする。
しかし彼はもう片方の腕を胸元から離し、パッと両手で締め上げ出した。
「あぐ……っ!」
勢いに堪らず顔が上を向いてしまう。
ヴェイルの細い首に指が食い込んだ。
——殺せ!
リュークの頭の中にただ一言が繰り返されて行く……
「離し……」
苦しげな息の元、喘ぐ様に声を出す。
「あ……あに……う……え……」
消え入る言葉で、彼は最後に誰よりも信頼している者への敬称を囁いた。
その苦悶に歪んでいた目元がふと弛み、開いて動かなくなった瞳から光が失われて行く……
——……兄上……?
その言葉に、リュークがハッとした。
……周りの景色が止まり、自分だけが動いている様な気がした。
なのに、心臓はギュッと早く脈打ち出す。
「ヴェイル……?オレは……」
自分が今、してしまっている事に驚愕し、手を緩めた。
手の中のヴェイルが目を開いたまま、力無くずり落ちる。
リュークは反射的に腕を出して抱き抱えた。
「!ヴェイル!?……嘘だろ?……オレ……が?」
——オレが……こいつを……殺……
どうしようもない強烈な罪悪感が胸を襲う。
——その時突然、氷が混じった豪風が吹き、彼を正面から突き飛ばした。
ドオォン!!
「うわっ!!」
「きゃああああっ!!」
「リューク!」
リュークの身体が吹き飛ばされ、ロビーカウンターに激突した。
見ると豪風と共に胸元に人の頭2つ分程の大きな氷の塊が打ち付けられており、止まった身体からゴロンと転がり落ちて来た。
幾つもの突起が刺さっていた胸元から血が滲み始める。
多少の事では傷む筈がない背中の白い翼が、堪らずバラバラと音を立てて、数本の風切り羽根の先が折れた。
「無事かっ?!」
グラディスが急いでリュークに駆け寄り、容態を見る。
周囲には巻き起こった氷の欠片と大量に発生した霧が渦を巻いて視界を奪っていた。
逃げ惑う臣下で辺りが騒然としていたが、急激な気温差で巻き起こった、瞳を刺す様な冷たい風に皆が堪らず目元を覆い、その場から動けなくなってしまった。
風が止み、目の前が晴れて来た時……
霧の向こうに誰かがぼんやり見えて来た。
「……あれは……」
「……ヴェイル……?」
正気に戻り、胸を押さえるリュークと、側に居たグラディスの顔が驚きの色に染まる。
そこには、瞳を藍玉色に変えたヴェイルがいた。
彼は鋭い氷の結晶が幾重にも重なって作られた長刀をガツンと床に突き刺し、ゆっくりと立ち上がる。
——リューク=ノワールを殺せ……
周囲に漂っていた氷の欠片が彼に集まり出した。
それはパキパキと音をさせてその身体を覆って行く。
覆われた部分が、みるみる硬質の鋼玉の鎧へと変化して行く様子が見て取れる。
最後に無表情になった顔の頬の端からジワジワと氷が這って行き、見開いた光る瞳も覆うと冑に変化した。
全身を災禍の鎧で包んだヴェイルは、そのまま獲物を確認するかの様にこちらを向く。
「あれは……アイツは本当にヴェイルなのか?」
息子の異質で禍々しい気配に、リュークを支えるグラディスが呟いた。
——リュークを殺せ。
ヴェイルの頭の中でリヒトの声がする。
「……はい。主」
彼は短く返事をすると、動けずにいるリュークに向けて、氷の長刀を右手に持ち、キシンと音を立て一歩を踏み出した。




