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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

カタバミ

作者: 諒子
掲載日:2026/06/14

その時、とっさに思ったのは世の中には悪気もなくただ間の悪い人間と言うのが存在する。僕の父はその典型だと言われているが、僕にもまた父に似た間の悪さがあるようだ。だから、この学園の裏庭で、孤立してる王太子の婚約者が自ら何やら埋めているのに行きあい、気配を消したまま離れようとして見つかったりするわけだ。

「誰!」

このまま逃げるか、名乗るか。

彼女はこの国の宰相公爵の令嬢、礼を失して良い相手ではない。

だが、婚約者の王太子は最近聖女の力が発動した男爵令嬢と恋仲、彼女の兄を含む周囲の上級貴族の子弟は揃って王太子の恋を応援していて、身分を嵩に聖女を害すると言われている彼女を毛嫌いしている。

自分は辛うじて爵位は持っているが、あまり豊かでない地方領主の息子で、彼女からみれば”その他大勢”だろうから、周囲に侍っていた令嬢たちも居らず一人で裏庭で制服と指を汚している彼女から立ち去ったとしても、立ち去れば誰かも認識されないだろう。

関わり合いになるべきではない。立ち去るべきなのだが、。

答えない僕をどう思ったのだろう、キャンキャン泣き喚くでなく彼女はため息をついた。

「私と関わり合いになりたくないなら行って。」自分が孤立していることはわかっているらしい。

「セオドールです。家名はご容赦を」なんだか彼女が可哀想になって、しかしながら決断もつかずなんとも半端な名乗り方をした。

「セリシアよ。」指の土を払いすらりと立ち上がった彼女は私より10センチばかり背が高い。

指に触れるのは不敬だろう。私は彼女の制服についた土を自分のハンカチで払った。土が落ちたので靴の土も払う。

「ありがとう?」

「いぇ。では」

「あ。」呼び止められたので振り返るともう一度、ありがとう、と心から言われた。余程孤独だったのだろう。


教室に戻ると聖女の周囲が騒がしい。

「なんだと。」このクラスでもないのに入り浸っている王太子が声を上げる。

「アレックス様、ごめんなさい。私の不注意で」聖女の声が響く。普通、王太子を名前で呼ばないよな~と誰もが思う筈だが、側近が黙っているので突っ込む人間はいない。しばらくごにょごにょ話していて、王太子が叫んだ。

「聞いてくれ。」はいはい。殿下の仰せのままに。思ったのはクラスメートだけでなかったらしい。丁度教室に入ってきた担任が左胸に手を当てわずかに首を垂れるので、皆、立ち上がっておなじポーズで控えた。

「私が聖女に送ったペンダントがない。王家に伝わる青真珠だ。王立工房の作品で私の徴が刻印してある。気づいたものは教えてほしい。」

それってプロポーズしたってこと?婚約者いるのに。思ったのは僕一人ではないはずだが、さすが貴族が通う学院、誰も口には出さない。

「ご命令でしたら皆で捜索しますが。」担任が授業をほっぼり出して皆で捜索しようかと言い出した。この人、出世しそう。

殿下は黄金の髪を靡かせ教室をぐるりと見渡してから鷹揚に言った。

「いや、授業をしてくれ。学生の本分だ。」色々突っ込みどころはあるが、皆でもう一度、礼をして授業が始まった。さすが殿下、と言う者までいる。


午前の授業を終えて食堂にいくと、隅の席にセリシアがぽつんと座っているのが見えた。

ランチのトレーをもって歩く間、ざわざわと聞こえるのは殿下が聖女マリーベルに婚約の贈り物をした、そして贈り物が無くなったと言う噂ばかりだ。

翌日、翌々日、日がたつにつれ、噂は殿下の婚約者が嫉妬から殿下の贈り物を盗んだと言うものに変化していった。大げさな捜索も行われていたが見つかったという話は聞かない。


そして卒業パーティの日、セリシアは婚約破棄を言い渡された。

そこで読み上げられた罪の一つが、殿下が聖女に送ったペンダントを盗んだと言うものだ。

「青真珠を返してください。これ以上の罪を重ねないで」騒いでいるところを見ると出てこなかったようだ。ついで聖女がぽろぽろ泣く。そりゃ泣くだろう。王家の青真珠と言えば本来、王太子妃のティアラについていたもので、王太子が勝手に持ち出してペンダントにして婚約者でもない女に渡したのだから、行方不明のままと言う訳にもいかないだろう。

黙って俯くセリシアのレースで飾られた細い首が見える。

初めて見た彼女の正装は慣習に則り殿下の瞳の色のドレスに髪の色の金色の刺繍とレースが豪華だ。もし、本来の礼法に則って髪をきっちり結い上げ、婚約者として王太子妃のティアラをつけていればどんなにか映えただろう。だが、銀の髪には飾りがなく下ろされたまま、本来傍らにいるはずの王太子は無作法にも他の女の腰を抱き、目を怒らせて檀上から彼女を見下ろしている。

「何とか言え!」

すっとぶれずに一瞬腰を折り彼女は顔を上げた。

「婚約破棄のご命令賜りました。」

公爵家令嬢が、きゃんきゃん喚く女に答える必要はない。

「お前を我が家から放逐する。」王太子の後ろに控えていたセリシアの兄が言い出した。彼女は平民になるようだ。いくら嗣子とは言え、当主でもないのに即決できないだろうから、前から決まっていたのかな。ならこんな衆人環視のパーティで恥をかかせないでもこっそりやれば良いのに。

「賜りました。」

「公爵家の宝石を平民が身に着けることは赦さない。」兄がただでさえ長い足を大股にずかずかと彼女に近づき、手を伸ばしたが取るものはない。見事なレースは纏っていたが彼女は宝石を身に着けてはいなかった。レースに手をかけようとするセリシアの兄を壇上から聖女が止めた。

「やめて!!」と叫んだ。

「おやさしい。」と言う者のつぶやきが漏れたが、あの欲望に爛々と光る眼はセリシアが身に着けている黄金のレースを狙っているように見えるのだが、正直は貴族社会での美徳ではない。

セリシアが今日の断罪を知っていたのだろうか、と僕は思った。礼法通りのドレスにはバリエーションがいくつもある。ティアラがないなら通常の衣装は宝石を使ったものにするはずだが、あえて刺繍とレースにしている。どれも逸品で同じものを作るのは無理だろう。王太子妃のティアラの真珠をなんの資格もないのに手に入れたあの貪欲な聖女がドレスを欲しがるのは目に見えている。

「私が身に着けているのはこの会場に入りました時には資格のあったものですが、現在はございません。放逐された身で立ち入ることは出来ませんので、学園の控室と申し訳ございませんが、着替えに手を貸す貴家の侍女をお貸し願えませんでしょうか?」

貴婦人のドレスは侍女の手を借りないと着られないし、脱げない。まっとうなセリフだ。

「仕方ない。部屋は用意しよう。だが、着替えはない。」

うわっゲスイ。なんか歪んだ嗜好が透いて見えるんですけど、思ったのは私だけではないだろう。辛うじて衆人環視の中、服から宝石を引き千切られることだけを逃れたセリシアは顔を上げなかった。

「この女にはふさわしい迎えがくる。皆は気にせずパーティを楽しんでくれ。」

それって、ろくなお迎えじゃないよね。


潜められた声に下種な笑いが混じって聞こえる中、いくつかの娼館の名前がちらりと耳に入った。

ひでぇ国。


ひでぇがこの国が自分の国なので、新学期には普通に学園に行ったら、教室に聖女は居らず、当然王太子も来ない。午後には噂が聞こえてきた。

卒業バーティの後、王太子はセリシアから分捕ったドレスを抱えた聖女を連れて宮殿に戻り、嬉々として顛末を報告し、国王・王妃両陛下から叱責をうけたそうだ。ばかなの。

両陛下は王太子妃のティアラを王太子が持ち出し保管していたのは、慣例通り卒業パーティで婚約者であるセリシアが身に着ける為だと思い込んでいたとのこと。

「婚約破棄などと言うことを王太子の独断で決められない。そのくらいのことが分かっておらず次期王妃が務まるのか。」王妃はセリシアに対する失望を隠さなかったらしい。

すぐに彼女が召喚されたが、来ない。公爵家は彼女は王宮に居ると思っていたとのこと。翌朝、彼女の兄の馴染の娼館に王宮からの調査担当が向かったのは夕方に近い時間だったと言われている。

まるで見てきた者が語ったかのような噂だが、娼館という単語が出てきた辺りから学生は口を噤んだ。高級娼館に送りこまれた令嬢はその場で競りにかけられ、昼夜を問わず複数の相手に蹂躙されるのだというのは娼館に馴染のある複数の人間が口を揃えることだから、さすがに口にするのは憚られると暗黙の了解が共有されたからだ。


そして1か月後のある朝、全校一斉に各クラスの担任から王太子と婚約者であるセリシアの婚儀の日程が内定したこと、ホームルームで学園の卒業パーティでの一幕はちょっとした余興だったとが告げられた。次の時間に予定の授業は中止され、臨時に組まれた「王の臣下の心得」の時間となり、夕方まで昼食時間もなしに王族について臣下たる貴族が軽率なことを口にしたばかりに悲惨な末路を辿った実例がこれでもかと教え込まれた。ついでにその授業は3日に渡った。

予定通り2年後の婚儀が発表されたのはその週末で、「臣下の心得」の授業は週1時間になり、やがて授業は通常に戻った。

ついで、聖女が本人のたっての願いから次期王の御代も安寧であることを願い、神殿の祈りの間で100日籠ることが神殿から発表された。100日籠りの間、飲食は行われない。祈りの間は密閉空間で酸素さえもないと言われている。欲望をむき出しにした聖女の姿を知る学園の生徒は更に黙った。

聖女が祈りの間に籠ったと2日後、ある高級娼館で火災が起こった。火の回りが急で従業員もそこにいた客たちも誰一人逃げられなかったと言われている。亡くなった客の中で身元がわかったのは1人の商人のみで、他はわからなかったと発表された。それから数日して、それまで全く元気だった数人の貴族の病死が届けられ、王宮も受理した。点が線になりそうなことが起こるたび、「王の臣下の心得」の授業が行われ、王都は怖い所だと思ったのは僕一人ではないだろう。


卒業後、文官試験を受けて出仕を希望していた地方貴族の何人かが受験を辞退し領に戻った。

僕もその一人だ。そして、戻った自邸の裏庭にカタバミを植えた。

公爵令嬢ともあろう人がよくこんな地味な雑草を手に取っていたのだと思っていると翌年にはこの花は裏庭一杯に広がった。

そう言えば学園の裏庭も翌年はカタバミで覆われていた。

「若旦那様。あれはちょっと。」何度目だろう。正面の庭を整えていた庭師が、帽子を脱いで汗を拭いながら、近づいてきた。何か言った方がいいだろう。

「思い出があるんだ。学生時代の。」恋にさえならないほのかな思い。

「だってさ。」こちらに口答えするのは憚られるのだろう、庭師は後ろで台車を押すひょっろと背の高い助手に向かい「しかしねぇ。範囲は限った方がいいよね。」身の置き場に困ったように助手は肩を竦めた。学園では一番身分が低く、平民の方が金持ちと言われた僕だが、猫の額ほどの土地でも自領では領主になる。上司の庭師とクライアントの板挟みは辛いだろう。

「無力だなぁと思うことがあるんだ。」意味など関係ないだろう。思ったことを言ったところで、助手の帽子からはみ出た髪がきらりと光るのが見えた。

間が悪いのは私だけではないようだ。


「なんです。コイツ。何か失礼なことを?すいません。」領主の息子の沈黙に庭師が慌てる。「先日雇ったばかりで、ちょっとばかり礼儀正しいと思っておりました。まだ早かったようです。私に免じてなんとか。」放っておくとエスカレートしそうだ。

「いや。知り合いなんだ。」私は察しの悪い人間を続けるのを辞めることにした。


***

1学年下のセオドールについては聖女のクラスメートと言う認識しかなかった。

領が遠くても貴族の息子は学園に通わなければならない。その年の学生の中で一番遠いのがセオドールの父の領。貴族籍を辞しても良いくらいの広さの領なのだが、何かあった時の陳情など貴族籍がある方が有利なので籍を持っているのだろう。王家としても貴族の方が呼び出しやすい。

セオドールの存在に気付いたのは、生まれた時から決められていた婚約者がおかしくなってからだ。

その頃、私はかなり追い詰められていた。

王家と公爵家の縁組は政治的な必然だった。兄が産まれた時には跡取りであるにもかかわらず王家も親族一統も打ち揃って落胆したと聞く。跡取りになれる親族の子は他にもいたのだが王家に嫁げる格の女の子が居なかったのだ。女である私が産まれた時には、別室で待っていた勅使から言祝ぎが告げられたと聞く。私がペンを握って署名できるようになった時、一番最初に書かされたのは婚約証明書だった。

そのくらい重要な婚姻なのだが、王太子は聖女が現れたので聖女と生涯を共にすると言い出した。我が国は王族であっても表向き一夫一婦だ。あり得ないことだから放っておいたのがまずかったようで、いつの間にか私が聖女に嫉妬して聖女に嫌がらせをしていると言う噂が広まっていた。

確かに私は聖女のことが好きではなかった。だからと言って信仰の対象である彼女をどうできるものでもない。聖女の趣味を調べ、彼女の志向に併せてピンク色のテーブルクロスから茶器から椅子に座らせるぬいぐるみまで用意し、聖女を迎える為に花を敷き詰めて茶会に招いたが事態は好転せず、公爵家を鼻にかけて威張る嫌な女、との噂が広まった。何をしてもしなくても悪い方に転がる。いつの間にか私の周囲に人は居なくなっていった。社交界に多くの人脈を持たねばならないのに、人がどんどん離れていき、終いにはうるさいほどいたはずの人が、何処へ行っても私を避ける。すっかり疲れた私はもともと人の居なかった裏庭に行くようになった。

午後のひと時だけ陽が差し、日陰に咲く小さな花が照らされる。

気にいっていたのは紫の花だ。

そこでたまに同じように花を見るセオドールを見かけることがあった。

彼が居ると私は行き先を変え近づかず、彼も同じで一緒に花を見ることもなかったが、そこに人が居ることには何か安心感があった。

ある日、登校していると人にぶつかってこられた。王族はすれ違いざまに毒針で刺されたりすることまで警戒するものだと教えられている。だから、僅かに動いて身をかわしたら聖女だった。どう考えてもわざとだが小さく身をかわして私が謝罪すると、何故か彼女はなにも喚かず離れていった。

何かある。私は自分のポケットを探り、ネックレスを見つけた。

ヘッドには王立工房の職人が細心の注意を払った細かい細工のネットに2つとない王太子妃の青真珠が閉じ込められている。幼いころから見せられそれを身に着ける光栄を言い聞かされいたティアラについている青真珠だ。

来歴がなければ少し大きめの真珠に過ぎない。私はこれをつけ、温かみを感じたことのない両親、常に足を引っ張ってくる兄、愛想よく貪欲な親族の為、あの軽率な王太子との間に子を産み、自分を避けている貴族たちを率いてこの国を拡げていくのだ。

足元から無数の手が絡みつくように感じた。

聖女と王太子はおそらく私が真珠を盗んだと言いたて、叱責はされるだろうが、結局私は王太子の許に戻される。父母の間の女子は私のみだからだ。裏庭に落ちていた小さなスコップで軽くネックレスのヘッドをついてみると、細工は簡単に曲がった。解放された真珠は心なしか嬉しそうに見えた。

「あなたもあのティアラにいるのが嫌だったのね。」海は遠い。なんとなく真珠をカタバミの咲く中に埋め込んだ。


その時、かすかな気配が動いた。

「誰?」

聖女と婚約者が現れると思ったが、現れたのはセオドールだった。

関わり合いになりたくないなら行って、と言うと少し遅れて気づいたと言うように彼が名乗った。

家名はご容赦をと言うが、私はもとから学園の生徒も教師も名前も家名も縁戚関係も覚えている。それを言わないのは、意地の悪い王太子妃教育の成果だ。実のところ、その教育にも疲れている。

名乗って立ち上がると彼は私の制服についた土を払ってくれた。そし屈んで靴も。

私はなんだか泣きたくなった。


心が弱くなったその日は王宮へは向かわず自邸に戻った。

両親も何をしているかわからない親戚たちも不在で、夕食が兄と二人になった。これは有難くない。二人になると兄は常に碌でもない話ばかりする。

「娼館に送られた令嬢が、その場でどうなるか知っているか?」

嬉しそうに自分の皿に載せられたポーチドエッグを突きながら兄が言う。

今日は「青真珠を盗んだ」と言われ、女教師たちから全身くまなく調べられたのだ。そこに娼館の話題は嬉しくない。

「不快そうだね。」不快とか不適切とか、言われるのを期待しているのは明白だが、この際もうちょっと話を聞いておいた方が良いだろう。

「楽しい話ではありませんね。」

「豪華な食事の王家の方に市井の実生活を教えているのだすよ。」

兄は自分の皿の玉子と私の皿の肉を見比べて不快そうにニヤリと笑った。

大貴族の家では普段から山市井珍味が振舞われると思われているようだが、そんなことはない。格式ばった宴席で供される豪勢な食事を綺麗に平らげても同じ服を着る体形を保つ必要があるので普段は粗食だ。私の皿に塩で味付けした肉があるのは息を乱さず長時間ダンスを続ける為の鍛錬を欠かさないからで、王太子の側近が内定しているのを口実に鍛錬をしない兄の皿が野菜と玉子だけなのは当然の帰結なのだが。いつもなら、ありがとうございます本日は結構です、と返して話を切り上げるのだが、その日は言わなかった。

「想像できないかな?」

「検査ですか?」とりあえず答える。

「違うね。」顔立ち自体がいくら整っていても今の兄は醜い。鏡を見れば良いのに。

「中に入るとすぐに競りが始まる。」売り手が商品を検分せずに競りか。純粋に驚いた。

「落札したものにその場で、」兄のナイフが卵を開き、黄身がとろりと流れた。その黄身を兄が何度も突く。「何人もに、何度も。」嬉しそうに黄身を掬って口に入れた。わざとぴちゃりと音を立てるのは上手いなと思う。

「仕方ないのだよ。時間をかけるとろくなことがない、、、。首を吊る者までいるのだから、」嬉しそうに今度はナイフについた黄身を舌を出して舐めている。この人との食卓はどんな人間を前にしても涼しい顔をして冷静に食事を続ける訓練にはなるのだが。

「数人に押さえつけられ、準備もなしに直ぐに挿れられる姿は可憐だが哀れだよ。かなり痛いそうだ。藻掻いて爪が剥がれた令嬢もいる。」

兄の話には現実味がありますぎる。どうやら彼はそのイベントに居合わせたことがあるようだ。自分より下位の者をとことんバカにする兄のことだ人前で欲望を剝き出しにしたりはせず、ただ冷静に観察していたことだろう。

本当に食事が不味くなるが、黙って口に運び続けた。

「可哀想な令嬢に同情はしないのかな?」

「貴族の中にはそういうことを好む者もいるでしょうが、王族がなさることではないので、」

悔しそうに兄が笑う。なんだかろくでもないワナがありそうだと思った。


断罪劇の後、娼館に送られた。

すぐに競りかと思ったが窓もない部屋に入れられた。

王太子妃教育では敵の手に落ちた王族の妻は、とにかく素早く自害するように教えられる。王が情にとらわれて判断を誤ることを招かない為だ。王の子を産む女はいくらでもいる。逆に自らの血に継承権がある王族がとにかく身体を傷つけないようにどんな手段を使っても生き延びるようにと教えられるのと対照的だ。

この部屋には布がありひっかける金具もあるので簡単に首が吊れる。王太子妃教育を知っている兄は、私に首を括らせたいのだろう。

扉が開いたので毛布をかぶって隅に逃げると、黒いレースで飾られた真っ赤なドレスの驚くほど色の白い女が入ってきた。

「怖いのは仕方ないわ。でも、逃げようとしても無駄よ。身体を傷つけたら後の稼ぎが悪くなるからやめておいた方がいいわ。痛い痛いと言うけど薬を使うからそんなに痛くないわ。毎日のことだから慣れるし大丈夫よ。」女は優し気に笑うと私の頬に指を滑らせ、水差しを置き鍵をかけて出て行った。

どうやら私には首を括る決意をする時間と、実行して絶命する時間が与えられているらしい。

私はまず毛布を集めて眠っているように偽装した。

錠前は頑丈だったが構造は単純で、部屋にあった娼婦のドレスの飾りを曲げたら簡単に開いた。少し歩くとすすり泣く声が聞こえた。

「こんなじゃ今晩は、ああ、火傷まである。」先ほどの女の声がする。

「蝋じゃなくて炎でやられたんです。」すすり泣く声が続く「あの客は、、赦してもらえませんか。」

少し間があった。どうやら薬を塗っているらしい。

「今晩は良いわ。さぁ水を飲んで。追加料金を貰うから休んでいなさい。」赤いドレスが部屋を出て私の部屋の前で立ち止まり覗き窓から中を確認して立ち去っていった。

私が気の毒な娼婦の部屋に滑り込むと娼婦は深く眠っていた。枕もとの水差しからは眠り薬の匂いがした。部屋の構造は同じだから覗き窓の位置は分かる。

親切にもパンまで置いてあった。眠る娼婦の部屋で覗き窓の下死角を選んで蹲りパンを口にした。昨日から何も食べていなかったのだ。

迎えが来たのは翌日だった。私は彼らを盗んだ娼婦のドレスで迎え、死にきれなかったので修道院に行きたいと言った。

が、死なないよう監視を受けて、婚姻日が決まった。

少しして聖女が魅了魔法の使い手であると神殿に診断され、神に祈るために飲食を絶つ行をすることになった。宗教体系が出来る前の聖人には広範囲魅了の使い手が間々いて対処できていたそうだが、体系の整ってしまった今の宗教では広範囲魅了の使い手は手に余るらしい。

側近たちにも処分が下り、聖女が周囲からいなくなり王太子は一旦、大人しくなったが、聖女が行に入ると妄言を繰り返すようになった。最初は空腹を訴えるだけだったのだが、私を娼婦と呼び、

「お前は王妃にはなれない。お前が王妃になると国が亡ぶ。」と聖女そっくりの声で叫ぶようになった。少しして、王太子の姿を王宮で見かけることがなくなった。面会はこちらから希望しなかったし、呼ばれることもない。公式行事は欠席のまま婚儀の準備だけが進んだ。そのうち王太子に視察旅行の命が下り、彼を乗せた馬車が谷底に落ちた。


議会では私とその時10歳の第2王子との婚姻が審議されてたが、結局、私の希望で喪に服す為に修道院入るのが許可されたと知らされた。

残念ながら父母の間の娘は未だに私だけ、どうやら第2王子が婚姻年齢になるまで修道院で待たされるらしい。王太子との婚約が解消されてからどうも私は元気になったようで逃げ出そうと策を練ったが、修道院に向かう馬車が谷底に落とされた。逃げ出せたのは、修道院を逃げ出す準備があったからもあるが、単に運が良かったのだろう。髪を切って男装した私は道中あちこちで「聖女と恋仲だった王太子の婚約者が王太子の命日に同じ事故で亡くなった。」と言う恋物語とも怪談ともつかない話を聞きながら国境近くへと旅をした。


産まれて初めての自由。何をしても何処に行っても良いなどと言うことに経験がない。

危ないことも数えきれないほどあったが、運よく隣国に接する土地まで来れた。王家か家は私が逃げ出したことに気付いたかもしれない。

越境の簡単な土地にすぐ入り隣国へ向かうのは危険だとの判断し、少し離れたセオドールの領に入ったのは彼に会うことを期待したからではない。セオドールは文官を希望していた。成績も評価も充分に合格ラインだったので今頃は王宮に出仕しているだろう。

そう自分に言い聞かせ、情報を集めるため庭師に弟子入りした。園芸は私の唯一の趣味だったのだ。本当にそれだけのつもりだった。

そこであっさりと領主の館に入れ、カタバミを見るセオドールをまた見ることができるとは思ってもなかった。

彼は、同じ背丈と同じ姿で、変わらず静かに小さな花たちを見ていた。

そして今度も私に気付いてくれた。


***

おそらく彼女は国境を越えるルートを探しているだろう。

そう思った僕が彼女の道案内を買って出たのは、同情ではなく自身にも理由のあることだった。


子爵だった父は妻との間に子供ができず10年目に離縁をし、妻の一番下の妹を後妻として娶った。

1年後、男の子が、3年後には女の子が生まれた。

すべてが順調に見えた家に、離縁した前妻が新しい嫁ぎ先で生んだ長子である僕が戻されたのは僕が8歳の年。

既に跡取りとして育てられていた後妻の息子にも、母の再婚先で年齢の離れた義兄たちに可愛がられていた僕にも迷惑な話だったが、全員が幸せいっぱいではないが僕らはなんとかやっていった。


王都が怖すぎて領に戻ったが、まだ元気な母と義父、義兄たちに会いたい。自分は貴族より商人に向いている。

そして、できれば彼女と一緒に居たい。その思いを父だけには伝えた。

***

国境近くの領から領主の長男がいつの間にか居なくなった。

後日、王都に長男の病死と後妻の産んだ次男が予定通り領主を継ぐことが届けられたが、領では長男は庭師の手引きで同性の貴族と駆け落ちしたと言う噂が流れていた。


噂が消える頃、王立学園の裏庭に薄青のカタバミが咲いた。

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