プリンセスの避難訓練
本日は防災の日、ということで……
ある国の海辺にお城が立っていました。
それはそれは立派な建物でした。代々、王様とお妃様とお姫様が住んでおり、お城が建築されてから、ゆうに百年は経過していました。
そして現在。
お城には王様とお妃様と三人のお姫様、お姫様の教育係も兼ねた乳母のハンスが住んでいます。
三人のお姫様は、蝶よ花よと大切に大切に育てられたせいか、勝気でわがままでした。しかし、三人とも美しい姿をしていました。
平民を装って街に繰り出したなら、たちまち誰かにさらわれるか、ナンパされるか、尾行されるかするでしょう。
そんなお姫様達が年頃を迎え、ハンスは心配になりました。お城の中の世界しか知らないお姫様達が、年相応の常識や生きる術を身につけていない、と気づいたのです。
外国では紛争が起こり、国内でも三十年以内に大震災が起こると懸念されています。いつ、お城を失うかわからない情勢になっているのでした。
もし、お姫様達三人が、ぽんっとお城から投げ出されたら、常識や生きる術を持ち合わせていないが故に、命を落とすか、悪い者につけ込まれるかするにちがいありません。
そこでハンスは考えました。国内で懸念されている大震災が起きた時、せめて自分の力で生きようと思えるように、お姫様達を教育しようと。
決して意地悪をしたい訳ではありません。お姫様達のためなのです。
◇ ◇ ◇
九月一日。
世間では防災の日として知られています。
しかし、お姫様達は、そんなことを知りません。いつも通り、朝の十時を十分程過ぎてから、三人それぞれ学習用のテーブルにつきました。
勉強時間は十時からと決まっているのですが、誰一人時間を守りません。そのことにハンスはため息をつきました。
三人は机についたものの、頬杖をついて窓の外を眺めています。ハンスは三人のやる気を出すために、提案をしました。
「お姫様方、只今より避難訓練をいたしましょう!」
――ヒナンクンレン
お姫様達の頭の中では、カタカナで文字変換されました。だって初めて聞いた言葉ですもの。
「一体それは何?」
長女のローレンスが乳母に訊きました。
「地震や火事といった災害が起こった時に、お城から逃げる練習のことです」
難しい学問ではないらしいとわかった途端、三人の顔が輝きました。
「お城の外に出るのね!」
「何か持って行くものは、あるのかしら」
次女のキャロルと三女のクレアが、声を弾ませています。
「遊びに行くのではないのです。避難の練習をするのですよ!」
ハンスはそう言って、クローゼットの奥から、大きなリュックサックを三つ取り出し、テーブルの上に、でん! と置きました。
◇ ◇ ◇
そのリュックサックは銀色で、赤い十字のマークが描いてありました。そう、避難リュックです。クレアが早速、それを背負います。
「何が入っているの! とんでもなく重いわ!」
叫ぶように言ってすぐに下ろしました。ローレンスとキャロルも背負ってみたものの、「あり得ないわ」とすぐに下ろしてしまいました。
お姫様達は体力もなかったのです。ハンスは首を振りながら言いました。
「こんな物も持てないなんて……情けないことです。仕方ありません、避難訓練は諦めて、勉強に励みましょう」
お姫様達はその言葉にカチンときました。
――情けないですって⁈
プライドだけは高いのです。
それに勉強するのは嫌でした。三人は口を揃えて、高らかに宣言しました。
「やってやろうじゃないの! ヒナンクンレンとやらを!」
◇ ◇ ◇
マグニチュード8.0の地震が襲ったという仮定で、避難訓練が始まりました。お城は海の近くにあるので、津波も襲ってくるでしょう。
お姫様達はドレスとヒールでリックサックを背負う、という奇抜な格好になりました。ハンスがジャージとスニーカーに着替えるように説得したのですが、三人は頑として聞きませんでした。
しかし、それはハンスにとって想定内のことでした。だからハンスは、それ以上、何も言いませんでした。
高台にある別荘まで避難します。別荘にたどり着くまでには、曲がりくねった坂道を延々と上らなければなりません。
いつもは馬車でぴゅーっと駆け抜けるので、別荘までの道が、こんなに過酷なものだとは、お姫様達は思っていませんでした。
ドレスには土や落ち葉が付き、ヒールを履く足には靴ズレができ散々です。ついにクレアが根を上げました。
「もう、無理だわ! 歩けない!」
そんなクレアに対し、ハンスは落ち着いた口調で言いました。
「リュックサックを開けてご覧なさい」
クレアは言われるがままにリュックサックを開けました。ぎちぎちに物が詰め込まれた、リュックサックの一番上に、きちんと畳まれたジャージとスニーカーが入っていました。
「それにお着替え下さい。そうすれば、随分と楽になるはずですよ」
ハンスは澄まして言いました。
◇ ◇ ◇
結局三人はジャージとスニーカー姿になりました。
背に腹はかえられなかったらしく、三人は文句を言いませんでした。
再び歩き始めると、ハンスが言った通り、格段に楽になったのがわかりました。三人のテンションは若干上がりました。
別荘に続く最後の坂道に差し掛かりました。残りの力を振り絞って、お姫様達と乳母は歩みを進めます。そうして、ようやく別荘に辿り着きました。
「あぁ、もうクタクタだわ……」
キャロルは別荘に入ってすぐのホールにある、ソファーに腰かけました。
「本当に……喉が渇いたわね。ハンス、お茶を淹れてちょうだい」
ローレンスはハンスに向かって言いました。
「何をおっしゃいます! 避難訓練中ですよ! 喉が渇いたのなら、リュックサックの中に入っているペットボトルの水をお飲み下さい!」
ハンスはピシャリと言いました。ローレンスもキャロルもクレアも疲れ果てていて、言い返す気力もありません。
素直にリュックサックを開け、ペットボトルを取り出しました。それは二リットルのものでした。
「こんなものが入っていたなんて……どうりで重たいはずだわ」
三人はペットボトルのキャップを開けました。それに口をつけて飲むなんて生まれて初めてです。
王様とお妃様が、三人の姿を見たら激怒するでしょう。
「災害の最中という設定なのですから、構いません!」
ハンスに言われて三人はラッパ飲みをしてみました。
――ぐいぐい喉に入ってくるわ
――お行儀が悪いのが少し楽しいわね
――癖になったら、どうしましょう
三人は妙な背徳感を得たのでした。
◇ ◇ ◇
日が沈み、別荘の中が薄暗くなってきました。
「ハンス、灯をつけてちょうだい」
クレアが言いました。
「今は訓練中です。停電している設定なのです」
お城も別荘もオール電化でした。
「停電中は電気を使えません。リュックサックに手回しで充電できるライトが入っています。それをお使い下さい!」
「はぁ?」
「何ですって?」
「もう帰る!」
我慢の限界に達したお姫様達は、怒り狂い立ち上がりました。が、行きの道中を思い出し、あの長い距離をまた歩かねばならないのかと思うと、怒りは蒸発して消えてしまいました。
肩を落として広間に戻ると、リュックサックの中から、手回し式充電ライトを取り出しました。
しゃーこ、しゃーこ音を立てながら、渋々ハンドルを回します。しばらくしてスイッチを入れると、仄かな灯がつきました。
「優しい光だわ」
「なんだか幻想的ね」
「たまには悪くないわね」
三人は口々に言いました。
その時、ぐぅとお腹が鳴りました。
◇ ◇ ◇
「ハンス、夕食はどうするの?」
ローレンスが尋ねます。
今日は料理人が同行していません。お姫様達は不安になりました。朝食を食べたきりでした。もし、お城に帰るまで何も口にできないとしたら、死んでしまう! と思いました。
「非常食がリュックサックの中に入っています」
仄暗い闇の中でハンスが言いました。口元しか見えなかったので、まるで占い師が喋っているように見えました。
三人は早速、リュックサックの中を漁り始めました。〝カンパン〟と書かれた筒状の缶詰を見つけました。
「パンと書いてあるのだから、これが非常食という物にちがいないわ」
ローレンスがキャロルとクレアに言います。二人も同じ缶詰をリュックサックの中に見つけました。ハンスに明け方を教わり、手先が器用なクレアが缶を開けました。
「何なの! コレ! カチカチじゃない!」
カンパンを一つ手に取り、キャロルが叫びました。
「お気に召さないのなら、召し上がらなくても結構ですよ」
ハンスはそう言って、自分のリュックサックに入れていたカンパンを口に放り込みました。ハンスは黙々と口を動かしています。
それを見ると、お姫様達は、ますます空腹を覚えました。恐る恐るカンパンを口に入れます。何の味もしない上に、口の中の水分が、あっという間に奪われます。
――不味い! 不味すぎる!
お姫様達は思いましたが、空腹には勝てないのでした。
◇ ◇ ◇
夜も更け、眠ることになりました。
お姫様達は今日まで、天蓋付きの、ふかふかのベッドでしか寝たことがありませんでした。なので、ハンスが
「これがお布団代わりです」
とリュックサックから取り出した、銀色のアルミ製シートを見て、絶句しました。
「こんなものに包まれて眠るなんて、屈辱以外の何ものでもないわ……」
ローレンスはそう言いつつも、アルミ製シートに包まりました。シートに包まれると、じんわり温かくなり一日の疲れもあって、お姫様達は、あっという間に眠りに落ちたのでした。
翌朝、三人は首や腰の痛みで目が覚めました。そんなことは生まれて初めてでした。
「イタタタ……」
「嫌だわ、動けない」
「なんてこと……」
泣き言を言うお姫様達を、ハンスは顔色一つ変えることなく見つめています。
「今日、お城に戻りますよ」
優しく微笑みながら、そう言いました。
本当は三日間くらい別荘に留まろうかと思っていたのですが、初めての避難訓練なので、一日だけにしてあげようと考え直したのです。
◇ ◇ ◇
昨晩の残りのカンパンと水で腹ごしらえをし、お姫様達はハンスの先導の元、お城に向かって歩き始めました。
靴ズレも痛いし体も痛い。お姫様達は泣きたくなりました。それでも、泣くことも、「もう、動けない!」と、わがままを言うこともなく、黙々と歩きます。
そんなお姫様達の姿に、ハンスは感動していました。もっと早くに三人のうちの誰かが、根を上げると思っていたのです。お城に戻ったら、三人の頑張りを王様とお妃様に報告しようと思いました。
いよいよ、お城が近づいてきました。最後の石段に差し掛かりました。
「帰って来たのね……」
声を絞り出すようにしてクレアが言いました。
お城に着くと、お姫様達はバッタリと倒れ込みました。そして、死んだように眠りこけました。
ハンスは王様とお妃様に、三人の頑張りを報告しました。それを聞いて、王様とお妃様は大層喜び、その日の夕食はお姫様達の好物ばかりが並びました。
王様とお妃様の親バカぶりに閉口しましたが、ハンスはご褒美に一週間の休暇をもらったので、南の島にでも行って日頃のストレスを発散することにしました。
早速、飛行機のチケットを取り、颯爽と空港へ向かいました。
◇ ◇ ◇
ハンスの休暇三日目。
とある知らせが飛び込んで来ました。
お姫様達が暮らす国を地震が襲ったというのです。三十年以内に起こると言われていた、あの地震でした。ハンスは居ても立っても居られなくなりました。
しかし、国に戻る飛行機も船も、震災の影響で全て欠航になっていました。
そこで、ハンスは毎日祈ることにしました。
王様、お妃様、三人のお姫様の無事を。
それからさらに数日が経ち、ハンスの元に新しい情報が飛び込んで来ました。
王様、お妃様が被災した国民に別荘を貸し、お姫様達は、お城に備蓄してあった非常食や毛布といった物資を国民に配っている、と。
ハンスはそれを聞いて、涙を流しました。
あんなに勝気でわがままだったお姫様達が、国民のために体を動かしている。あぁ、あの日、避難訓練をしてよかった……そう思ったのでした。
読んでいただき、ありがとうございました。
地震に豪雨、台風。自然災害が多発していますね。
日頃からの備えが大切だとわかっていても、実際には何もできていません。
そろそろ本気で備えないとな。