ニンファエア
一「純白」
春の日差しは暖かい。
いつかの穏やかさを思い出させるようで、あらゆる罪さえ、赦してしまうような……。
「れん!」
雑踏の中で一際響く大きな声に、元宮れんは目を覚ました。
硬い机から頭を離すと、ぼやけた視界の端に友人の顔が映る。
「春休みの課題終わった?」
「……終わってない。」
「えー、じゃあ何呑気に寝てんの。」
「んー…どうせ岬もやってないんでしょー。」
「いや、うちは昨日やろうとしたんだけどー、電話が掛かってきたからさ、」
「彼氏?」
岬はそのぱっちりとした目だけをれんの方に向け、もちろんとでも言いたげに頷く。
おそらく彼女も自分と同じ、課題をやっていないという悲惨な状況なんだろう。
にも関わらず幸せそうという言葉が似合うその表情から、れんは自然と目を背ける。
高校生活二年目、とめどなく流れる時間の中で、れんはわずかに息苦しさを覚えていた。
「……で、その電話でさ……」
「え、まじで!いいなー!」
「よくないよ~結局課題できなかったんだから。」
「いや~でもラブラブじゃん!」
れんの適当な相づちが不満だったのか、気が付けば岬は、れんの席の周りで見慣れた顔ぶれと盛り上がっている。
「れんちゃんはー?彼氏とかいないの?」
そのうちのひとりが、窓の外を呆けた顔で眺めるれんに話しかける。
「……いないよー」
れんは目尻を下げて答えた。
「着任者、発表。」
あー、始業式って暇だな…。
帰ったら何しようか……。
退屈をもて余した手は、胸のあたりまで伸びた髪を弄ぶ。
「みなさん、こんにちは。香坂莉々と申します。担当は美術です。よろしくお願いします。」
落ち着いた、鈴の音が鳴るような美しい響きをまとった声だった。
一瞬でその場の空気がまるごと変わってしまったような気がした。
れんは思わず、その声を捉える。
香坂という教師は、一礼をして後ろへ下がる。
どこか遥か遠くを見据える、くっきりと美しく印象的なアーモンド型の目、筋の通った鼻に薄い唇。
透き通った肌に窓から差し込んだ光が反射する。
茶色がかった髪が下ろされた肩は華奢であるが、凛とした姿勢が見るものを圧倒させた。
れんは息をするのも忘れるくらい彼女に見惚れていた。
変化が起こる予感って味わったことある?
ふいに、いつか観た映画のセリフを思い出す。
理由などまるで存在しない、彼女の存在そのものが、どこか異質で、奇妙なほど惹き付けられた。
「やば……かわいいな、あの先生。」
「あれは凄いわ、俺美術選択しときゃ良かった。」
隣から聞こえてきた会話で、れんははっと我に返った。
強烈に惹かれたのは自分だけではなかったことに安堵しつつも、胸の高鳴りはしばらくおさまりそうになかった。
「でさー、うちはそんなつもりじゃなかったのにあいつ勝手に勘違いしてさ、まあそんなところも可愛いんだけど……って聞いてる?」
「え?ああ、うん。聞いてるよ、良かったね。」
「……れんはさー、彼氏とかつくらないの?せっかく可愛いのに、もったいないよ。」
中学からの友人である、少々恋愛依存気味な美少女、春原岬はことあるごとに彼氏がいる素晴らしさを熱弁する。
何度も出会いと別れを繰り返しながら。
「んー、別に…。好きとか恋とか、よく分からな……いし……」
高二にもなると恋愛をしなければ気が済まなくなるのだろうか。
いつものことだからと軽く流そうとしたれんの頭に、一瞬、先程の出来事がよぎる。
「まだそんな小学生みたいなこと言ってんのー?まぁれんらしいけど。」
「なにそれー。別にいいでしょ。」
彼女のように生きられたら楽しいのかと、れんは岬の横顔を眺めた。
始業式から数日経っても、あの日見た彼女のことを、れんは頭の中心から追い出せずにいた。
それどころか、この感情を確かめたい気持ちに駆られていたのである。
「……そういえばさ……誰だっけあの、香坂先生?って人、美術担当って言ってたよね。……やっぱり美術部なのかな?」
「え?あーあのすごい美人って噂の?知らないけど、黒板に貼ってあるよ、部活の表。」
美術部 顧問 香坂
席に戻るまでの間に、れんの心は決まった。
「私、美術部入る。」
「え?何で?」
何で?
「なんで、だろ。なんとなく?」
れんはれん自身の行動力に驚いていた。
が、何もしなかったらきっとずっとこのままだと、れんの中の何かが告げていた。
先生。
知りたかった。どんな人なのか。何が好きで何を嫌うのか。
「え、何どしたの、美術部ってそんなイケメンいたっけ?」
「……?」
「いやだってれんがそこまでするんだから何か凄いイケメンに惚れたのかと。で?誰なの?」
その瞬間、れんはある予感に駆られた。
いや、違う、恋愛感情なるものではない、私は、そんなんじゃない。
「ち、違うよ!このまま部活とか何もしなかったら受験とかやばいかなーって思ったのと、顧問の先生も変わったし…?っていうだけ!」
無意識に早口になってしまった。
怪しまれただろうか。
岬は、少しの間無言でれんを見つめ、目を逸らして言った。
「ふーん。ま、好きな人できたら言ってよ。」
「……失礼します…」
校舎の一階、中庭に面した、奥深くに位置する美術室に、彼女はいた。
「……あっ、もしかして体験に来てくれた元宮さん?」
また、鈴の音が聞こえた。
途端、ごおっという音がして、強い風がその場に吹いた。
ような気がした。
「……あ、はい。そうです……。」
初めて見たときのピシッと決まったスーツとは違い、比較的ラフな私服を着ているものの、その独特な雰囲気に呑まれないようにするのに必死だった。
「来てくれてありがとう。でも、どうしようか、とりあえず何か描いたりしますか?私もまだ来たばかりで、よく分からないんだけど……。」
香坂はあたりを見回したあと、れんを見る。
初めて目があった。
あまりに綺麗すぎるその目に堪えられず、れんは視線を下げる。
「えっと……私、初心者なので、今日は見学だけでもいいですか?」
「ああ、大丈夫ですよ。じゃあどうぞ座って。まあ見学といっても、まだ誰も来てないし、そもそも部員は三人しかいないらしいんですよ。」
そう言いながら香坂もれんの隣に腰掛け、コンクリートの壁がむき出しの、授業でないと随分広く感じる美術室を見渡す。ただただ古めかしいだけなのに、彼女がいるだけで、どこか洒落た廃墟のように思えた。
そしてその言葉通り、そこにはまだ誰もいなかった。
「そのうち来ると思うんだけど……。」
不安げなれんの視線を感じたのか、香坂は呟く。
れんはちらっと横顔を盗み見る。
目があって、自然に逸らしてしまう。
一瞬の沈黙が流れる。
ふわっと、咲き誇る花を連想させる柔軟剤の香りが、れんの鼻をついた。
心臓の鼓動が心なしか速くなる。
「っ……。」
息を吸っても、うまく吐けない。
頬が熱を持ち出す。
こんな感覚は初めてだった。
「……失礼しま……」
ガラリと扉が空いて美術部員と思われる女子生徒が入ってきた。
れんは短く息を吐く。
「あ、こんにちは。今日は見学の子が来てるから……。まあ、いつも通りにしてー。」
「あ、はい……」
小さく返事をする彼女は、美術部員と聞いて全く違和感のない、地味だが、それでいて芸術家感漂う風貌だった。
「えっと、彼女、部長だから。何か分からないことがあったら聞いたらいいと思う。多分私より詳しい。」
「あ、はい。分かりました。よろしく…」
れんが言いきる前に、ぺこ、と彼女は頭を下げて去っていった。
その後は同じような人がもうひとり来ただけだった。
正直、あとはあまり覚えていない。
彼女たちが何をしていたかよりも、時々指導をしながらもパソコンに向かって仕事をする香坂先生ばかり目に入って仕方なかったからだ。
結局、美術部に入ることをその日のうちに決めた。
香坂先生に言おう、と横断歩道の白線だけを渡りながら、れんは思った。
二「甘美」
「元宮さん」
我が名を呼ばれ振り返る前から、その存在が既に分かっていたような気がした。
「香坂先生。」
「今日の部活、職員会議で三十分くらい私いないから。先描いてて。」
「はい、分かりました。」
ほんのわずかな会話で、息があがる。
常にニコニコしているわけでも、優しさを見せるでもないのに、こんなに惹き付けられるのは何でなんだろうか。
「……好きなの?あの先生のこと。」
岬が無表情でれんの顔を覗き込む。
好きなの?
その言葉がれんの頭の中で何度か繰り返された。
「……好き、か。まだ分かんないや。」
それは出会ったばかりだから、という意味合いばかりではない。
好きなんて感情は、よく分からない。
家族のことは好きだと思うし、今隣にいる岬のことも好きだ。
だけど、岬が彼氏に抱くような「好き」は分からない。
分からない、はずなのに、香坂先生に対する気持ちは、友達や他の教師に抱くそれとは違う気がして、彼女に出会ってからずっと胸の奥がザワザワしている。
「おーい、れん?何やってんの。チャイム鳴っちゃうよ。」
あ、チャイム…。もうこんな時間か。
れんは、ふぅと息をついて、筆を置いた。
目の前には、林檎の模型と、それを描いたデッサンがある。
……我ながら筋がいいのでは?
ふと右手を見ると、近くで見なくても分かるくらい、濃く人差し指と中指が黒ずんでいた。
れんは、これまでの人生であまり感じたことのない大きな満足感に浸っていた。
特に感情的になったわけでもないのに、気持ちが高揚している。
若干不純な動機で入部した美術部だが、案外自分に合っているのかもしれない。
……相変わらず部員とは仲良くなれないが。
「よく描けていますね。」
「ひゃっ!……先生。」
集中していたので、背後に香坂がいることにも気付かなかった。
「そんな人をバケモノみたいに……。」
「びっくりしただけです」
職員会議終わりだからか、心なしか疲れているように見える。
「あ、あの先生、今日ってちょっと残ってもいいですか?」
「え?別に、大丈夫ですよ。」
「あの、これだけ完成させたくて……。」
「ああ、先生はまだいるから、いいですよ。」
「ありがとうございます。」
デッサンを完成させられることより、先生ともっと一緒にいられることが嬉しいと思ってしまうことに、れんは少しだけ罪悪感を覚えた。
香坂は変わらず無表情だった。
「これ、良かったら。」
その日の部活終わり、香坂が差し出したのは立方体の小さなチョコだった。
「え、……いいんですか?」
「いつも頑張ってるから。」
香坂は微笑む。
瞬間、れんの心臓は焦ったように速く動き始めた。
こんなに優しい先生の笑顔を見たのは初めてだ。
もっと見たい、そんな欲求に駆られる。
「ありがとうございます。」
そう言うれんの顔の方が、香坂の何倍も嬉しさに満ちていることなど、ふたりは気付く由もないのだった。
甘いものは好きではない。
甘ったるい味は、いつまでも口に残る。
れんは目の前のチョコ菓子と、頬をピンク色に染める同級生の男子を交互に見ている。
「ありがとう。」
張り付けたような笑顔で答えた。
こんなもの、いらない。
こんな自分。
「は?」
岬は綺麗に整えられた眉をきゅっと曲げて、れんを睨んだ。
「それ、どう考えてもれんのこと好きじゃん。」
「だろうね。……だから、あげる。」
岬の眉は更に弧を描いてつり上がる。
「何でよ。付き合わないの。」
れんは表情を変えない。
「だって好きじゃない。気持ちに応えられない。 …甘いものは好きじゃないから。」
強引に、岬にチョコ菓子を差し出した。
腕が、ポケットの中の何かに当たった。
「……?」
それは、香坂から貰った小さなチョコだった。
幸いまだ、溶けていない。
大切にしまっていたら、食べることを忘れていた。
れんはそれを見て、途端に胸がいっぱいになるのを感じる。
不安定な心を溶かすように、それを見つめる。
「それも?」
チョコを手に乗せて静止しているれんを見て、岬が言った。
「こ、これは違う、」
「食べれるの?チョコなのに。」
れんは愛おしそうにそれを眺め、心底嬉しそうに微笑むのだった。
「コーヒーあじ。」
「先生は、」
「ん?」
「甘いものとか、好きなんですか?」
放課後の美術室。
時刻はもう十八時を回ろうとしているが、外の景色はまだ夜の気配を感じさせない。
夏の匂いが鼻をつく。
「好きですね。」
「あ、そうなんですね…。」
れんは筆を止めずに相槌を打つ。
香坂もれんの方には目を向けていない。
「「あ」」
声を発したタイミングが重なった。
「ごめんなさい、どうぞ。」
ほんの少し恥ずかしそうにする香坂。
れんはふっと笑ってしまった。
「この前くださったチョコ…、あのシリーズだったら、何が好きですか。」
「……あの牛柄の、やつ、かな」
香坂はコーヒーを飲みながら答える。
「あ、ミルクのやつですか?」
「うん、そう。」
あんなの甘ったるそうで、食べようとも思わなかった。
「元宮さんは、何が好きなんですか?」
「……コーヒー…です、」
「コーヒーも、美味しいですよね。」
甘いもの苦手なんですか、とは言わない香坂の横顔を、れんは見つめる。
先生、さっき、何を言おうとしたんですか、とは言わなかった。
「あつ……」
「ねー、エアコン全然効かないし…。」
気がつけば、本格的に夏を迎えようとしていた。
美術部に入部して三ヶ月が経って、れんは小さなコンテストに、一度入賞した。
「いや、なんでそんな涼しげなのよれんは。」
「んー、アイス食べてるから?」
「私も食べてるけど!」
「確かに。」
「あ、そういえばさ、美術部はどんな感じなの?まだ続けてるし。しかもなんかこの前表彰されてたし。」
「うん。思ったより楽しいんだよ。…岬も入る?」
れんはいたずらに微笑む。
「いやー、絵は無理だわ。だいいち、恋するので忙しいの。」
岬は両手でハートマークを作って、その間かられんを見つめる。
彼女は相変わらず、恋愛に夢中だ。
「恋かぁ。」
れんは、チョコミントアイスを舌の上で溶かしながら、友人の言葉を反芻する。
「お、なに?好きな人?できた?」
岬にこの話題を振られる度、香坂の顔が浮かぶようになってしまった。
途端に口の中が甘くなる。
「いや?別に。」
「あやしいな。」
本当は、自分でも分かっていた。
でもそれに向き合えるだけの勇気をまだ、持てずにいる、ことも分かっていた。
「できたら…言うから。」
ミントの風味が、鼻を通り抜ける。
「それは…睡蓮?」
「はい。私好きなんです、睡蓮。」
いつも通り、他の部員は十八時を過ぎると皆帰っていた。
残っているのがれんだけになって、まだ昼の匂いを残していた美術室が次第に夜へと傾き始める。そうすると、ふたりはぽつぽつと言葉を交わし出す。
いつのまにかそういう時間ができるようになった。
「睡蓮…か。睡蓮といえばやっぱりモネが有名だけど、れんさん見たことある?」
「モネの睡蓮ですか?」
「うん」
「んー…教科書でしかないかもです……」
「ふふ、だよね。……よいしょっと」
香坂はれんの斜め前にある椅子を引っ張り出し、れんのそばへ腰かけた。
ふわっと香る柔軟剤が、れんの頬を少し染める。
「私、モネの睡蓮が好きで。大学生のときに、お金貯めてジヴェルニーまで行ったんだ。」
「ジヴェルニー…」
「モネが晩年に過ごした場所。パリの郊外にある。で、今は観光地になっちゃってるけど、モネが住んでた家が残ってるんだよ。」
「へえ。……行ってみたいです。」
れんは筆を持っていることも忘れて香坂の方を見つめていた。
「うん、行った方がいいよ。やっぱりそういう実物を見る体験ていうのは、絵を描く上ですごく大切だよ。…って言っても、そんなひょいって行ける距離じゃないか。」
香坂は幼い子どものような笑顔ではにかむ。
れんは空中に浮いたままだった筆を持った手を、パレットへと戻す。
それから香坂の方へ向き直り、その透き通った目をじっと見つめた。
「先生、私ね、もっと絵を描きたいんです。」
「おお。いいと思います。あなたはセンスもあるし、こうやって熱心に向き合ってくれるから、」
香坂は何故か、そう言いながら目を伏せた。
「え、嬉しいです…ありがとうございます。」
「じゃあ、そんな有望なれんさんに、ひとつ私の好きなお話を教えてあげる。」
香坂は、また少しだけ距離を詰める。
れんはいよいよ耐えられなくなって、さりげなく後退りをした。
「な、何ですか?」
「睡蓮に関する話。」
香坂は短く息を吐いて、遠くを見つめる。
……その昔、ローティスという、美しい妖精がいました。
彼女の美しさに目をつけた男根神プリアーポスが言い寄ってくるので、 ローティスはいつも逃げ回っていました。
それでもプリアーポスが諦めないので、うんざりしたローティスは水辺で神に祈り、真っ赤な睡蓮の花に姿を変えたのです。
「えぇ、バッドエンド……」
「まだ続きがあるの。」
ローティスが花に変身してしばらく後に、この水辺にドリュオペーとイオレーという姉妹が遊びに来ました。
ドリュオペーは、美しい赤い睡蓮を見つけて、それが妖精の変身した花だと知らずに手折りました。
イオレーも、同じように花を摘もうとしたのですが、見ると花から真っ赤な血が滴り落ち、睡蓮も怖がるようにぶるぶると震えていたのです。
ふたりはびっくりして、急いでその場から立ち去ろうとしたのですが、ドリュオペーのほうは動けません。 なんと、足に根が生えてきていたのです。
イオレーも手伝って、 急いで引き抜こうとしましたが、びくともせず、 腰のほうまでどんどん樹皮のようになっていきます。 ドリュオペーは 「この花は摘まないで」と言い残して、とうとう睡蓮に
姿を変えてしまいました……
「え、終わりですか?」
「うん」
「バッドエンドじゃないですか……」
「そうかな?ローティスもドリュオペーも、美しい睡蓮の花として生き続けられるんだよ。素敵だと思うな、私は。」
香坂は目を細めて、少し微笑む。
れんは、理由の分からない不安に駆られて、思わず身を乗り出す。
「せんせい」
「ん?」
「私が大学生になったら、一緒にモネの家、行ってくれませんか…?」
「……いいよ。」
蝉の声が、一瞬、聞こえなくなった気がして、はっと辺りを見回す。
すっかり夜が、訪れていた。
「…帰りたくないなぁ……」
「なに言ってるの、親御さん心配するでしょう?遅くなっちゃってごめんね。今日はもう帰りな。」
時刻はもう十九時半を過ぎようとしていた。
「だって、外、暑いじゃないですか。」
「え?今は涼しいんじゃないかな。」
香坂はエアコンを消して、美術室を閉める準備を始めている。
蝉の声が五月蝿い。
れんは香坂を目で追ったまま、立ち尽くす。
「あれ、まだ残ってたのー?下校時間過ぎてるよー」
美術室の前を通った書道の先生だった。
「あ、すみません。もう帰らせますので。」
れんははっと我に返る。
香坂は笑いかける。
エアコンが切れてくる。
首筋に汗がつたう。
「先生は、付き合ってる人とか、いるんですか」
「いないよ」
蝉の声が、聞こえる。
「先生?香坂先生、」
れんはひとりきりの美術室で、香坂を探していた。
どこ……?先生……
西日が射し込む。熱くて、眩しい。
じりじりとれんの頬を焼く。
けれどれんはカーテンを閉めない。
ただ、香坂を探す。美術室を見回す。
誰も、いない。
自分が今まで何をしていたのかも、思い出せない。
「先生、どこ、」
「ここ」
背後から声が聞こえた瞬間、いつもよりも濃い香坂の匂いが、鼻をついた。
彼女の髪が、れんの頬にあたる。
その方向へ顔を向ければ、触れてしまいそうなほど香坂の顔が近くにある。
長くて細い彼女の腕は、後ろかられんを包み込んでいた。
「っ…!」
れんは、息の仕方を忘れる。
身体が、自分のものではなくなっていく――
「――」
れんは目を覚ました。
びっしょりと全身に汗をかいている。
ゆっくり呼吸を繰り返しながら、身体を起こす。
その手は、自分の意思で動く。
そこは自室のベッドの上で、レースカーテンから薄暗い光が射し込んでいた。
夜が近づいていることが分かる。
午後の穏やかさに身を委ねていたら、眠ってしまっていた。
身体が、ひどく熱かった。
「元宮れんちゃん、だよね?」
他のクラスは終わっているのに、いつまでもホームルームを終わらせなかった担任のせいだろうか。
それとも、あまりにも暑くて、涼しさを求めて強めに美術室の扉を開けたのが悪かったのだろうか。
「ああ、れんさん。いらっしゃい。」
目の前の美少女に気を取られていたが、大好きな鈴の音に引き戻される。
「この子、吉月さん。今日から入ってくれるって。ふたり、同じ学年だよね?知ってる?」
香坂が吉月という美少女とれんを交互に見ると、その美少女はにこりと笑ってれんの方を見つめた。
「吉月依茉です。よろしく!」
思わずどきっとしてしまうような笑顔だった。
「よろしく……あれ、でも何で私のこと知ってるの?」
れんは少し戸惑って、声が小さくなる。
「わたし、前から美術部入ろうって思ってたの!れんちゃん前表彰されてたでしょ?それで!」
「あぁ、あれで。」
他の部員とは一風変わった、美術部には似つかわしくないとても快活な子だと、れんは思った。
「香坂先生!」
「ん?」
「どうですか?なかなかいい感じだと思うんですけど、」
「わ、すごい。吉月さん、もしかして経験者ですか?」
「いやいや!ぜんっぜん!初心者です!」
いつもより聴覚が刺激されて、れんはなんとなく集中できなくなる。
とうとう堪えきれなくなって、時計を見る。
時刻は十八時半を回っていた。
下唇を噛む。
いつも時計の針が六を指す頃には、広く寂れたこの空間で、溺れそうなほど甘い空気に浸っているのに。
たったひとりそこに増えるだけで、れんにとっては退屈極まりないただの古めかしい美術室でしかないのだ。
無意識にれんは香坂を見る。
彼女は依茉と談笑している。
れんには気付く由もない。
いつもなら、少し盗み見しただけで目が合って、どんな感じ?大丈夫そう?
とか話しかけてくれる。
こっち見てよ先生。
何度そう思っても、れんにはどうすることもできなかった。
「あれ、そういえば時間は大丈夫ですか?うちの部は特に制限はないので、好きな時間に帰ってもらっていいんですよ。」
れんはどきっとした。
「あ、そうなんですねー!でもわたしは大丈夫です!早く帰っても仕方ないんで!逆に何時までだったらいいとかあります?」
「一応下校時間の十九時半が最終ですかね。」
「分かりました~そこまではいていいんだ!」
もしかしたら、今日はまだ入部したてだし、勝手が分からないだけで、なんていう淡い期待は、いとも簡単に崩された。
れんはいまにも泣き出したい気持ちを抑えるので必死だった。
「れんちゃん!」
十九時半を迎える十分ほど前、れんはいつも通り片付けを始めていた。
れんの表情になど、依茉は気づくはずもなく、明るい声を発し続ける。
「れんちゃんもいつもこの時間まで残ってるの?」
「うん。ギリギリまで描いてたいから。」
れんは、胸の奥を掴まれたような気持ちになる。
「おぉ~すごい!ねね、良かったら一緒に帰らない?」
「…いいよ。」
「やった~」
依茉と仲良くなれば、こんな感情を抱かなくても済むかもしれない。
れんはそんなことばかり考えていた。
「れんちゃん、香坂先生に気に入られてるよね!」
帰り道、と言っても家が離れていることが分かったので校門を出るまでの間だが、彼女はいきなりそう話しかけてきた。
「え…そうかな……」
「うん。わたしからはそう見えたな~。こう、信頼!ってかんじ!」
依茉は、いつもニコニコしているという点では違うが、その表情から一切の感情を読ませてくれないところは香坂と似ていた。
依茉のことを好きになりたかった。
「あ、えまちゃん。昨日言ってたあの資料なんだけど、」
え
れんは、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受けた。ようにさえ感じた。
依茉が入部してから一ヶ月ほど経って、夏休み真っ盛り。
夏休み明けの大きなコンクールに向かって、美術部も活気に満ちている。
が、れんはどうにも、集中できないままでいる。
えまちゃん。
香坂は確かにそういった。
その響きが、れんを何よりも苦しめた。
辛かった。
十分辛くなるだけには、れんは香坂を好きになってしまっていた。
もう引き返せないところまで。
「れんさんは?どんな感じ?」
窓際で呆けているれんを見かねてだろうか、香坂はれんのもとを訪れた。
「あっ、……いやちょっと、いい感じに色ができなくて、悩んでて、」
「どこ?」
「えと、こことか……」
香坂はれんのキャンバスを覗き込んで、うーんと言いながら口元に指を添える。
「そうだね…例えばここは滲ませてみるとか……」
香坂の言葉は、今のれんには全く入ってこない。
ただ香坂の艶やかな髪から香る匂いだけが、れんの胸を苦しくさせた。
「……すみません、ちょっと、今日は具合が悪くて……早退してもいいですか?」
ますます胸が苦しくなる。
「えっ、大丈夫?無理しないで、今日は帰った方がいいよ。ひとりで帰れる?送ろうか?」
「…………大丈夫です。ひとりで帰れます。お世話になりました。」
れんは静かに泣きながら帰った。
えまちゃんえまちゃんえまちゃん。
何度も香坂の声が響く。
"れんさん"
その言葉だけが、特別な響きをもってやまない。
「う……」
汗で髪がべっとりとうなじに張り付く。
涙を拭う手の甲が濡れている。
明日からはお盆で、しばらく部活もないということに気が付いたのは、家に着いてからだった。
「夏祭り?」
その夜、突如岬から電話がかかってきた。
「そ。明日。」
「そういえばあったね。いいけど、彼氏は?」
そういうイベントこそ彼氏と行くものではないのか。
そう思うと、なぜかまた香坂の顔が思い浮かんで、れんはため息をつく。
「なんか外せない用事あるっぽくてさ。けど夏祭りは行きたいし。」
れんは二つ返事で承諾した。
「んまー」
「なんだっけそれ」
「いひゃやひ」
「え?」
「いかやき」
「へーいいな、私も食べようかな。」
「あそこに売ってる」
人混みをかき分けて、座れる場所を探しながらも岬は口を動かし続けている。
あたりが次第に薄暗くなり始めているのに対抗するかのように、喧騒は大きくなる。
それでも友人の声だけは聞き取れるのだから、人間の耳というのは随分都合良くできているとれんは思った。
「てかれん、今日可愛いね。髪とか。」
「え、ほんと?ありがと。せっかくだし、気合いいれちゃった。」
いつもは無造作に下ろしているだけのロングヘアーを、今日は編み込んでポニーテールにして巻いてみた。
もしかしたらのミラクルに期待して。
「花火って何時から?」
「二十時」
「見るよね?」
「もちろん。」
どうして祭りというのは、こうも心の奥底にある願望を引き出してやまないのだろうか。
夜の空気に映し出される不自然な明るさ。
何かをひたすらに焼く匂いと、汗と香水とアルコールが混ざった匂い。
蛍光色を放つブレスレットに、謎の安っぽい半面をつけて笑う友人。
そういう異質なひとつひとつが、単純で都合の良い人間を日常から切り離して、靴擦れさえ特別にさせる。
「ふー」
「お腹いっぱい」
屋台を何周もしたせいで空腹も満たされて、れんと岬はギリギリ花火が見えそうな川沿いの柵に寄りかかった。
「あとは花火かー。今年はどれくらいやるんだろ。」
岬はだらっと柵に身をあずけて、れんを見つめる。
「にしてもれん、なんか可愛くなったよね?」
「さっきも聞いたけどそれ。」
れんは岬の方を見ずに答える。
「違う違う。今日の格好じゃなくて、最近、可愛くなったよなーって。」
岬は何か言いたげに、れんに近付く。
祭りの熱にあてられたんだ、れんはそう言い訳することに決めた。
「みさき」
岬は何も言わない。れんが何か言うのを待っているようにも、何も期待していないようにも見える。
「…………好きな人、できた。」
「うん。」
「でも、付き合えない。」
「……うん。」
「でも、好きなの。」
「うん。」
「すきなの。」
「うん。……いいじゃん、それで。それ以上もそれ以下も、なくない?」
岬の横顔を照らすそれが、人の手でつくられたものであろうと月の光であろうと、れんにはどうでもよかった。
ふたりは、まばゆい輝きを待つ、まだ暗い夜空を見つめる。
多分ほんの少しだけ、時が止まっていた。
「岬?」
突然、男性のものと思われる声が聞こえた。
あたりの喧騒が大きくなる。
男性は岬の方へ向かってくる。
「岬!来てたんだ。良かった。もしかしたら会えないかなって思っててさ。」
背は高いが、まだ幼さを残す表情を見るに、同い年くらいに見えた。
そして岬は、れんには見せたこともない表情で、その彼を見つめて、近寄る。
「来てたの?用事は?終わったの?」
「早く終わらせた。連絡したのに、既読つかないから。」
「あ、友達と来てたから……」
こちらを振り返る岬と目が合う。
こういうときのハウツーは、これまでの岬との関係の中で学んできた。
「あっ、初めまして。岬の友人の元宮れんです。岬、何か親からそろそろ帰ってこいって言われちゃったから、もう帰るね。今日はありがと。」
「え?ああうん、こちらこそ……」
れんはふたりから離れて、すたすたと歩きだした。
とりあえず人混みから抜けだしたかった。
ひとりになった以上、この人混みにはなんの意味も持たないのだから。
方向も曖昧なまま、ひたすら歩いた。
"れんさん"
鈴の音が聞こえている。
頭のなかで、鳴り響いている。
お祭りの音よりずっと大きく。
もし今、隣にいてくれたら。
普段とは違う髪型を、可愛いと思ってくれるだろうか。
甘いものが好きなら、りんご飴も好きだろうか。
ヒールの高いサンダルを履いたら、背の高い彼女と並んで歩いても劣らないだろうか。
そんなことを考えても、れんの隣には誰もいないのだった。
なんで私は、こんなところで、ひとりで歩いてるんだろう。
かかとの痛みが増す。
背後で花火があがる音と、歓声が聞こえる。
「せんせい……」
れんは誰もいない路地で、うっすらと光る空を眺める。
目に映る夜空が、滲んでいく。
三「信頼」
「随分と涼しくなってきましたね。」
香坂は窓を開けて、吹き込む風に目を細める。
れんは思わず、彼女の柔らかくなびく髪に見惚れた。
「……そういえば先生は、夏祭りとか、行きましたか?」
香坂は帰宅する生徒を眺めて、それかられんを見つめる。
「夏祭り…とかは基本行かないかな。今年もあったのは知っていたけど、仕事していた気がします。」
「そうなんですね……」
れんは、期待したことを少し恥ずかしく思った。
「わたしは行ったよ!れんちゃんは?」
「私も行った。」
「そうなの?会いたかった~。」
「依茉も行ってたんだね。全然気づかなかった。」
コンクールへの出品も終わって、放課後の美術室の空気は、少しだけのんびりと流れるようになった。
「あ、もうこんな時間。ふたりとも、そろそろ帰りな。」
「はーい。暗くなるのも、早くなりましたね~。」
れんは夏の日の、香坂とふたりで過ごした放課後を思い出す。
蝉が五月蝿かったことも、じっとりと暑かったことも、書道の先生に注意されたことも。
昨日のことのように、五感に染み付いて、離れようとしない。
依茉が来てからは、そんなことももはや夢であったように感じられてしまう。
れんは薄手のカーディガンを羽織る香坂を見つめる。
以前より少し髪が伸びた気がする。
それから少し……痩せただろうか。
だがこの人は季節が巡ろうとも、ずっと綺麗なままであることに変わりはなかった。
まるであのとき話してくれた、睡蓮に変わった妖精、"ローティス"のように。
れんはぼんやりと、そんなことを思っていた。
「れんちゃん?帰らないの?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。帰ろ、依茉。」
「気を付けて帰ってね。」
鈴の音が鳴る。
秋の天気は、変わりやすい。
その日は、夕方から降りだした雨が、れんたちが帰る頃にはすっかり豪雨になっていた。
古めかしい美術室の窓が、ガタガタと小刻みに揺れて、激しく雨が叩きつけられる。
「すごい雨……ふたりとも、帰り大丈夫?」
「いやーこんな中絶対帰れないんで、迎え呼びました。」
依茉はけろっと答える。
「れんさんは?」
「うちは……仕事なんで、無理だと思います。自分で帰ります。」
れんは困ったように笑う。
「ええ、れんちゃん大丈夫?送ろうか?」
「いやいや、家反対でしょ?申し訳ないし、大丈夫だよ。」
「えーでも……あ、今着いたみたい。え、ほんとに送るよ?」
依茉はあざとく首を傾げる。
何故かれんは雨にでも当たりたい気分になって、少々強引に断った。
依茉が帰ってから香坂はしばらく黙っていたが、急に帰る支度をし始めた。
雨はますます勢いを増すばかりだ。
「さ、帰るよれんさん。」
「え?先生ももう帰るんですか?」
「うん。れんさんと一緒にね。」
当たり前でしょみたいな顔でれんを見つめてくる香坂。
こういうときに何を言っても無駄なことは、今までの付き合いで、れんは何となく分かっていた。
……そういうところも好きだった。
「……ありがとうございます。」
豪雨のお陰とはいえ、予想外のドライブデートに、れんはドキドキしっぱなしだった。
香坂の車はとても良い匂いがして、落ち着くのに落ち着かない矛盾をれんに抱かせる。
微妙に手足の長い不細工な猿のストラップが、ミラーにぶら下がっていた。
「最近映画を見たんだけど」
何の脈絡もなく、香坂は切り出す。
何だか今日はいつにも増して、何を考えているのか分からない。
「はぁ…」
「ロードムービーで、車での描写が多いんだけど、助手席から運転席を見るアングルが、すごく良くて。でも私、基本運転席に座ることの方が多いから。誰かの運転する車に乗りたいなーって思った。」
助手席からのアングル……
れんはドライブデートに緊張して前しか見ていなかったが、少し右を向いて、運転する香坂を眺めてみる。
ハンドルを持つためにカーディガンを少し捲っているので、華奢だけれど綺麗に筋肉が着いている腕が露出している。
そこから視線を前に移せば、長く細い指に綺麗に整えられた爪がハンドルに添えられている。
心臓の鼓動が焦ったように早くなってくる。
怖いものみたさのような気分で、今度は視線を後方に移す。
女子高生の自分でさえちょっと思うところがある鎖骨から首にかけてのライン。
そして、横顔。
月明かりに照らされて、より一層色っぽく映ってしまう。
運転中の横顔は、いつもより少し真剣で、それでいて楽しそうで、れんが隣にいるからかひとりのときはしないであろう表情をしていて――
「そんなに見つめられたら照れるよ」
「いやだって、先生が助手席からのアングルとか言うから」
「れんさん、いつか免許取って車乗せてね。」
そのときは私たち、どういう関係でいるんでしょうか?なんて、聞けるはずもなかった。
その日は、一晩中雨が降り続いていた。
「おめでとう、えまちゃん。すごいよ。」
依茉が、コンクールで大賞をとった。
審査が何回にも分けて行われる大きなコンクールだったので、それが分かる頃にはすっかり寒くなっていた。
れんは、ひたすらにもてはやされる依茉の顔を、美術室の端から目を細めて見つめることしかできなかった。
その日は珍しく、依茉は十八時を過ぎると帰っていった。
仲が良いという両親にも、早く喜ばしい結果を報告したいのだろうか。
久しぶりにふたりの間に、沈黙が訪れた。
「何か久しぶりだね。えまちゃんが来る前は、こうやって皆が帰ったあとにふたりで語り合ったよね。」
香坂は回転する椅子を、れんが座っている方へと回す。
ふたりのあいだには、依然として物理的に距離があるままだ。
「懐かしいですね。私は何気に、あの時間がすごく好きでした。」
「それは私もだよ。」
思いもよらない香坂のひと言に、れんは今まで抑え込んできた感情が溢れる。
「…………依茉は……すごい、と思います。ほんとに。私には、そんな才能、なくって。」
れんはえへ、と笑う。ふりをする。
香坂は何も言わず、れんの隣に座る。
「そうだね。えまちゃんは凄いよね。……でも私は、れんさんの絵が好きなんだよね。」
そう言いながら、無造作に置かれていたれんの作品を眺める。
れんの作品は、睡蓮をモチーフにしていた。
それから、こどもを諭す親のように力強く、れんを見つめる。
「……え?」
れんは戸惑う。
「とても繊細で、この世の美しいものをすべてぎゅっと詰め込んだようで。まるでれんさん自身のように見える。…もちろん立場上は、そんなことは言えないよ?だからこれは個人的な話。……内緒ね?」
次はいたずらっ子のような表情を浮かべて、れんを見つめて小さく笑う。
「この絵を描くときは、いつも先生のことを思っていました。……あのとき話してくださった、ローティスを思って。…だからお世辞でも、先生がそう言ってくださるなら、たぶんすごく幸せな絵なんじゃないかな……」
「お世辞じゃないよ。」
「もう何でもいいです」
「そんなに私のこと好きでいてくれてるの?」
「……はい」
ふたりの目が、ほんの少し、熱を帯び出す。
溶けてしまいそうなくらい、甘い甘い時間が流れる。
ふたりは永遠とも一瞬とも感じられるほど、見つめあっていた。
あまりにも自然とそうしていたから、そのまま互いの唇が触れてしまったことなんて、何にも特別なことではなかったんじゃないかとすら、思えるほどに。
「さっむ」
「ね。早くない?まだ十二月なのに。」
れんと岬は、手を温めるには熱すぎたココアの缶を、引き伸ばしたセーターの袖で弄ぶ。
「でも十二月といえば……」
岬は何かいいたげにれんの方をちらちらと見る。
「師走?」
「ちがーう、クリスマス!でしょ!」
「あー……」
岬が言わんとしていることは、れんには容易く想像できた。
が、彼女と違って、れんは特別なクリスマスなど過ごしたことはなかった。
「……誘ってみたら?」
「は?」
「クリスマスデート。…何か進展あったんでしょ。」
岬はあっつと言いながら缶を開ける。
「なんで分かるの」
「分かるよ」
れんは白くなった息を吐き出す。
「クリスマス、一緒に過ごしたい、とは思うよ。けど、ね、……」
無理だよ、私は生徒のひとりでしかないんだから。
例え香坂先生がそれ以上の感情を抱いてくれていたとしても。
「誘うだけならタダでしょ。」
ココアが温くなる。
……頬が、熱くなる。
冷たく張り詰めたような冬の空気。
乾いた風が吹き抜ける。
クリスマスに浮かれる世間から切り離され、まるで遥か昔からそこに存在していたかのように佇む美術室。
ストーブの匂いと、独特の絵の具の匂い。
いつもの柔軟剤。
その日、依茉はいなかった。
れんは黙々と描き続ける。
香坂も何か言うわけでもなく、ただ分厚い本のページをめくりながら、湯気をたてるコーヒーを口元へ持っていく。
ここちよく、ゆったりと時間が流れる。
途端、香坂は突然に立ち上がった。
「ちょっと、職員室に行ってくるね。しばらく戻ってこないかもしれないから、何かあったら連絡するなり来るなりしてね。」
「あ、はい、分かりました。」
ぴしゃ、と静かに扉を閉めて、香坂は出ていった。
広い空間にひとりきりになってしまうとなんだか落ち着かなくて、れんは先程まで香坂が座っていた場所を眺める。
ストーブも暖房も効きだして、なんだか意識がぼんやりしていた。
朝からずっと手を動かしていて疲れたし、ちょっとだけ……
そう思いながら、れんは机に突っ伏す。
……どれくらいそうしていたんだろう。
れんは、記憶に刻み込まれた匂いに目を覚ました。
姿勢はそのままにうっすらと目を開けると、制服のセーターの上に何かがかかっている。
それが何かは見なくても分かった。
れんは姿勢を起こす。
「おはよう。大丈夫?疲れてたんだね。でもそんなとこで寝てたら風邪引くよ?ただでさえここは寒いのに。」
「…………すみません……これも…」
れんは自身の身体に掛けられていた香坂のカーディガンを畳んで、彼女のところまで返しに行く。
「ああ、はいはい。……帰ってきたら突っ伏して寝てるもんだから、心配したよ。けど気持ち良さそうに寝息たててたから…」
香坂は愛おしそうな目でふっと笑う。
れんはまだ、微睡んでいたのかもしれない。
「好きです。」
そう口走ったことに気が付いたのは、香坂のなんとも言えない表情を見てからだった。
「……何が…?」
「先生のことが。」
「あぁうん……先生も、れんさんのこと好きだよ?」
れんの言う"好き"の意味くらい、香坂は分かっていた。
それでも逃げなければならない理由はなんだったのか。
「それは……生徒として、ですか…?」
「うん。」
「人間としては……?」
「好きだよ。」
れんは次第に焦り始めた。
もう引き返せないなら、と思う間もなく、言葉が溢れる。
「大好きです。先生のこと。……私と付き合ってください。」
「……」
香坂は目をそらさない。優しい目で、れんを捉えたまま。
「……私が、生徒だからですか?それとも、同性だから…?」
れんは今にも溢れてしまいそうなほど、その目に涙を溜めていた。
「…んーん。そんなの、私からしてみれば関係ない。」
香坂はれんの涙をその綺麗な指で拭う。
「でも、私がこんな人間だから…ごめんね。今以上の関係には、なれないんだ。」
『好きです。先生のことが。』
少なくとも、いちばん大切だと胸を張って言える生徒ではあった。彼女が惚れた相手が、自分でさえなければ……。
実を言うとあのとき、彼女の想いに答えられない理由も、今まで明かせなかった自分のことも、全てさらけ出してしまいたい衝動に駆られていた。
でもそんなの、なんの罪滅ぼしにもならないことに、彼女の涙で気が付いてしまった。
「香坂先生?」
莉々ははっと顔を上げた。
「すみません、ちょっとお聞きしたいんですけど……」
「はい、何でしょう。」
こうなってしまった以上、何かしらの形で責任を取らなければいけないことは、十二分に分かっていた。
でも私には、何もできない……
何よりも傷つけたくなかった、誰より幸せを願っていた大切な生徒を、傷つけただけだ……
また同じことを繰り返す。
ごめんね、紬……
『りり、』
『あ、おはよ。珍しいじゃん。』
『ほんと、一限早すぎて…めっちゃギリギリだった……』
『髪ボサボサだよ、もう。』
紬は、私が大学に入学してすぐにできた友人だった。
おっとりしていて可愛いくって、美術に振りきりすぎて日常生活がおぼつかない危うささえも、私はすぐ好きになった。
『じゃあね、お疲れ。』
『また明日ね~!』
『莉々。』
『裕希!今終わったとこだよ。裕希は?』
『俺は今日、三限だけ。』
裕希と付き合いだしたのは、大学二年の春。
華やかな見た目に反して優しくて誠実な裕希のことが、私は大好きだった。
多分彼も、私との未来を本気で考えてくれていたと思う。
私と紬の関係が大きく変わってしまったのは、あの夜、私が彼女を家に誘った日だった。
私も紬もお酒は強くて、翌日も休みだったから何も気にせずに飲んだ。
言い訳がましいけれど、もちろんそのときだって、裕希のことは変わらず好きだった。
『りり……』
お酒のせいだと言ってしまえば終わったことなのに、私も紬も意識ははっきりしていた。
人間というものは時に、本当に大切なものを失ってしまうことにも気が付かず、目の前に甘さに飛び付く。
たった一晩のせいで、罪の意識に囚われて生きていくことになるのに。
私と紬はその夜、いとも簡単に友人の壁を飛び越えてしまった。
そしてそれは、裕希に知られてしまうことになる。
『女だったら浮気じゃないとでも思ったの?……俺、なんかした?……なんか莉々に嫌な思いさせること、した?』
『お前と出会わなければ幸せだったのに!俺の人生、うまくいってたのに!消えろよ…もう、俺の人生から消えてくれよ……』
裕希は優しいと思っていた。
でもそれは、私のことが好きだったから。
結局私の彼への裏切りは、彼自身の仮面を外させることになってしまった。
もう、側にいることはできなかった。
そしてそれは、紬も同じだった。
『ごめん、莉々……私が悪いの。……でも、好きになっちゃったんだもん、莉々のこと…性別とかどうでもよくなるくらい、好きだったから…』
『紬……』
『でも、出会わなければよかった……。こんな思い、するくらいなら。……ごめん、もう私の前に現れないで。』
それから、誰かから好意を感じると、すぐに逃げるようになった。
人と関わることに、喜びも楽しみも見いだせなくなった。
教職についたのは、美術を教えたかったわけではなく、画家としてやっていくにはあまりにも才能に欠けていたから。
それでも頑張ればどうにかなっていたかもしれないのに、私は逃げた。
楽な道を選んだ。
もうどうでもよかったから。
『香坂先生。』
ただ、出会ってしまったのだ。
運命を狂わす少女に。
元宮れんの何にそんなに惹かれるのか、自分でも分からなかった。
はじめは、愛想のよくない私にも好意ダダ漏れで接してくる姿を、拒むことができなかっただけだ。
あまりにもまっすぐで、不器用で、誰より一生懸命で、自分より出来の良い子と比べて落ち込んで、なのにそんな弱さを見せようとしなくて、絵が大好きで。
そんなどうしようもない人間臭さと、扱い慣れてなさすぎる愛、そして小さな花が咲くようなような笑顔から、いつしか目が離せなくなった。
でもこうして好意を伝えられてしまった以上、それから目を背けることはできない。
自分のために、何より彼女のために、早く曖昧な関係を切るべきだった。
普通の、教師と生徒に。
「え、もしかして、香坂莉々?」
莉々は、その日の仕事帰りに寄った図書館で、かつての恋人、裕希に再会した。
「今以上の関係にはなれない」
香坂莉々はそう言った。
れんは、イルミネーションで彩られた街をひとり歩く。
口元まで巻いたマフラーが濡れている。
ダッフルコートのポケットに、冷たくなった手を入れて強く握りしめる。
感情の行き場を探し求めていた。
久しぶりにふたりきりになったあの日、触れた柔らかさと温もりは嘘だったの?
家とは反対の方向にひたすら進んでいたら、クリスマスを楽しもうとする人で賑わう駅前まで来てしまっていた。
駅の中心に位置する、大きなクリスマスツリーを見上げる。
今のれんにはあまりに眩しすぎる光だった。
……こういう、景色を、一緒に見たかった。
特別でもなんでもない日を、特別だと笑いあって過ごしたかった。
自分が初めて好きになった人に、 同じ"好き"を返して欲しかっただけ…………
「うぅ……」
眩い輝きを見上げたまま、幼いこどものように泣いた。
名前も知らない誰かにどう思われるかなんてどうでも良かった。
ただ、あの人の心に触れたかった。
身も心も愛して欲しくなってしまった。
これだけ自分の心をさらけ出しても、あの人は自分の心に触れさせてはくれなかった。
「好き…………」
「……久しぶり。」
「……」
目の前にいるのは、本当にかつての恋人だろうか?
なんでこんなところまで来てしまったのか。
莉々は、先程再会した裕希と、図書館近くの喫茶店にいた。
「なんか言ってよ。せっかく会ったんだからさぁ。」
「……もう会わないつもりだった。」
裕希は変わってしまった。
見た目の話ではない。
どことなく醸し出す雰囲気が、莉々の記憶の中の彼とは違う。
「……てかなんでクリスマスイヴにひとり図書館なんかにいるわけ?彼氏は?あ、彼女か。」
「…もういいでしょ。用がないなら帰る。」
莉々はおもむろに立ち上がった。
「おい、待てよ。」
裕希は莉々の腕を掴む。
「相変わらず綺麗じゃん。……昔のこととかもう許すよ、だからさ、」
裕希は莉々の耳元で囁く。
「やめて」
莉々は強引に振りほどこうとするが、裕希は離してくれない。
「んだよ、もう女としか寝れねーのかよこのレズが」
「やめて……」
裕希をこうさせたのは自分だ。
私が、私なんかが彼と出会ってしまったせいで……!
莉々は掴まれていない方の手で置いてあったテーブルナイフを手に取り、自身の首に近づけた。
その目には涙が浮かぶ。
「っおい!何してんだよ!」
「……私のせいで……!…もう、いらない、こんな……!」
首にナイフが近づく。
裕希は莉々の手からそれを奪おうとする。
その反動で、勢いのまま、ナイフは裕希の手首をかすめる。
ゆっくりと手首が紅く染まる。
ナイフが、落ちる。
莉々には、すべてがスローモーションで動いているように、見えた。
四「清純な心」
莉々はあてもなく車を走らせ続けた。
きらきらと光る人工的な輝きが通り過ぎる。
イルミネーションの光が、滲み始める。
とめどなく涙が頬を伝う。
どうにも心臓の音が煩くて、ラジオをつける。
聞いたことのあるラブソングが流れる。
裕希とも、二度クリスマスを共に過ごした。
そんなことを考えても、当時のことなど全く思い出せない。
十年も前のことだから?
彼は変わってしまったから?
いや、違う。
もう終わってしまったから。
莉々の中で、彼との思い出など過去のことに過ぎなくなってしまったのだ。
ただ、自分を好いてくれた人を傷つけた。
その罪の意識だけが、今日まで莉々を蝕み続けたのだった。
だからもう、怖かった。
すべてに怯えていた。
それでも、れんは、れんだけは、好きになってしまった。
何も恐れず、何からも逃げず、彼女がくれる想いのまま、彼女の笑顔が導くまま。
彼女の存在だけが救いだった。
でも今はもう。
涙に濡れるその目は、どこか遠くを眺めていた。
特別な前夜が終わって、また特別な日が来て、年の終わりが訪れて、それから新たな年を迎えた。
香坂はある覚悟をもって、れんのもとを訪れた。
「れんさん」
窓際で昨日見た夢を思い出していたれんは、突如教室に訪れた香坂に、驚きを隠せなかった。
「え、先生……」
怯えたように香坂を見つめる。
「今日、部活来てくれる?」
香坂もまた、震える子犬のようにれんを見つめることしかできなかった。
なぜわざわざ教室を訪れてまでそんなことを聞くのか、れんには分からない。
もちろん、香坂の顔を見るのが辛いれんは、部活など行きたいはずもなかった。
が、彼女のすべてが語っていた。
ただひとり、れんだけに向けて。
美術室の前で、れんは立ち止まる。
今まで、何度頬を紅潮させながらこの扉を開けたことだろう。
美術室には香坂との思い出が詰まりすぎて、れんには辛かった。
なぜか、れんはどうしようもなく大きな不安に駆られた。
何かが告げている気がしてならないのだ。
淡く甘い夢は、終わりに近づいていると。
香坂に出会ったあの春の日と同じくらい、強い予感だった。
そんなはずない、香坂との未来は、何度も描いてきたのだ。
深呼吸をする。
扉にかける手が、震える。
「失礼します」
そこには、香坂がひとり、座っていた。
いつも通りの、絵の具が混ざった匂いと、ストーブの匂い。
そして湯気のたつコーヒーを口元に運ぶ綺麗な手。
「あれ、他の皆は、まだ来てないんですか?」
れんは入ってきた姿勢そのままに、香坂を見つめる。
「んー?あぁ、今日は部活休みって言ってあるからね。」
香坂は依然としてれんを見ない。
「え、でも私には、部活来れる?って……」
「うん、今日はれんさんに、どうしてもしたい話があったんだ。急にごめんね。」
嫌な予感が当たってしまわないように、れんは祈るしかなかった。
鞄を持つ手が、冷たくなっていく。
香坂は立ち上がって、入り口付近から動かないれんのもとへ歩いた。
そして、れんの目を見つめた。
「私、教師辞めようと思うんだ。」
香坂の言葉は、れんの頭の中を何周かして、どこか遠くへ飛んでいってしまったように、感じた。
聞き取ることはできたけれど、到底理解はできなかった。
「……なんで…?」
「……れんさんには、ちゃんと話すね。」
この前、……れんさんが告白してくれた日、昔お付き合いしていた人に再会したの。
その人と別れることになってしまったのは、私のせいなんだけれど。
けどその人は、変わってしまっていた。
それが私のせいなんだと思うと、死にたくなった。
それで衝動的に、ナイフを持ってしまって……
止めようとしたその人を、傷つける結果になってしまった。
幸い大した怪我にはならなかったし、向こうも謝って、それから何かがあったわけではないんだけれど、それで分かった。
もうここにはいられないって。
「……なん…」
決めたの。教師をやめる。
……だかられんさんとも、もう、会えない。
そのセリフを言うときだけ、香坂は涙をこらえるような表情になった。
「こんな先生で、ごめんね。」
れんは、震える手を、握りしめた。
「それでも、好きです。」
「……え?」
「私に先生の抱える苦しみは分かりません。何がそんなに先生を思い詰めるのかも、私の何が先生にそんな顔をさせてしまうのかも、私には分かりません。それでも、先生のことが好きです。大好きです。……だから――」
やめるなんて言わないで。
れんの頬を透明な涙が伝う。
息があがっている。
「あなたに、人を愛することの何が分かるの?私は、あなたの教師でいながら、あなたの手で描かれる絵をこの世でいちばん愛しながら、自分で自分の命を断ち切ろうとしたんだよ。まして、それを止めてくれた人を傷つけたんだよ……」
れんはその瞬間、初めて莉々の心に触れた。
ような気がした。
莉々の心は冷たくて、尖っていて、れんが今まで触れた何より暖かかった。
「……だから、分からないって言ってるじゃないですか…人を愛することなんて分かるわけない。でも、先生が、教えてくれたんでしょう……」
莉々は初めて、れんの前で涙を見せた。
れんは莉々のもとへ近寄り、背伸びをして莉々の唇に自分のそれを重ねた。
莉々の心に、触れた。
もう二度と離さないと、決めた。
それから、一年と、少し。
れんは高校を卒業した。
桜が、舞っている。
あの春と、景色はなにも変わらない。
「あ、れんー!」
れんは、こちらに走ってくる人影に手を振る。
「あれ、れん、もしかしてピアス開けた?」
「うん。かわいいでしょ。」
「可愛いけど、いたそー。」
れんは時折、小さな痛みを求めるようになった。
何を誤魔化したいのかは、自分でも分からなかった。
「岬も、髪染めたんだ。似合ってる。」
「え、ほんと?えへへ~」
岬は、あれからずっと彼氏が変わらなかった。
進学を機に遠距離になるらしい。
莉々が姿を消してから一年が経つけれど、れんは変わらず、莉々だけを想い続けていた。
「れんもいい加減、新しい出会い探しなよー。」
最近話題のカフェで、カラフルに彩られたパフェを崩しながら、軽く岬は言う。
「ん~、なんか、あれを越える恋ができる気がしてなくて。」
「とか言ってるけど、まだ諦めてないだけでしょ?いつかどこかで出会えるんじゃないかって。」
莉々が亡くなったことを知ったのは、その夜のことだった。
"繊細で、この世の美しいものをぎゅっと詰め込んだような"
いつか莉々は、れんの絵をそう言った。
そんな場所だった。
れんは、莉々との約束の地、ジヴェルニーのモネの庭を訪れていた。
赤、白、ピンク、黄色、紫……
色をつけるのさえもったいなく思える美しい花。
パステルカラーに彩られた家を飾る植物たち。
歩みを進めれば進めるほど、酔ってしまいそうなほど美しい庭に、魅了される。
モネの生涯を感じさせる洗練された家の中を、見て回る。
なかなか決心がつかなかった。
ここまで来てもまだ、怖かった。
それでも、莉々のことが忘れられないから、一生彼女のことを思っていたいから。
約束を果たしに来た。
睡蓮の咲く「水の庭」へと、れんは足を踏み入れた。
そこは、聞いていた通り竹林で覆われていた。
日本らしさはあまり感じなかった。
ただその美しく佇むしなやかな竹は、睡蓮をより一層魅力的に見せていた。
広くどこまでも広がる池に、睡蓮が咲いていた。
池に対しては随分小さく思えるけれど、何よりも美しく、確かにそこに凛と存在する輝きは、まるで、莉々自身を見ているようだった。
"ローティスは水辺で神に祈り、真っ赤な睡蓮の花に姿を変えたのです"
"ローティスもドリュオペーも、美しい睡蓮の花として生き続けられるんだよ"
れんさん
鈴の音が、聞こえる。