第38話 奸計
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
前話同刻
スタイリス王子は王城の庭からパーティー会場に戻ろうとした。
不機嫌な顔で廊下を歩いていると、側近のブルフ伯爵が待ち構えていた。
伯爵は王子を見つけると嬉しそうに近寄ってきて、周囲に人がいないのを確認してから小声で王子に話しかけた。
「殿下、あの給仕の小娘とはどうなりましたか?」
「いや、何も無い。ちょっと無礼なやつだから注意してやろうと思ったが、どこにも見当たらなかった」
王子の返事の声に不機嫌さを感じ取って、ブルフ伯爵は顔にへつらい笑いを浮かべた。
「おっしゃる通り、パーティーの席でのあの粗相、確かに少うしばかり教育が必要かもしれませんな」
「教育か」
「はい。殿下も、会場のような人目に立つ場所で叱責しては、あの娘も立場が無くて哀れだと思し召されたのでしょう? それならば、どこかの小部屋で一対一で、給仕らしくしおらしい挙措を、手取り足取り、親しく優しくお教えを垂れられてはいかがでしょうか」
スタイリスは「ふん」と興味無さげな顔をしたが、口の端が上がるのは止められない。
「まあ、きちんと行儀作法を習っていないようだから、躾をしてやるのは吝かではないぞ」
「王妃様周りを少し聞き込みましたが、あの小娘、どうやら陛下のお気に入りの養女のようですな。今のうちに上手く手の内に納められれば、殿下の御将来はもう間違いないでしょう。是非、私奴にその機会をお作りさせてください」
「ほう。悪くないな。だが、どうやってだ? かなり手強い娘だぞ」
「そうなのですか?」
「い、いや、噂だ。俺も噂で聞いたのだ」
「そうですか。まあ、お任せください。少し前に、南方から渡来した極めて珍しい物を手に入れましたので」
「何だそりゃ?」
「ふっふっふ。二度と手に入らぬであろうものですが、殿下の御為であれば惜しくはありません」
ブルフは悪い笑みを浮かべてそう言うと、王子の耳元で何事かを話す。
スタイリスも、もうニヤニヤ笑いを隠しもせず、小声で会話を続けた。
「委細は明日」
「よかろう」
頷き合うと、二人は何食わぬ顔でパーティーの席に戻った。
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翌日、ヴィオラが王妃付きの侍女見習としての朝の務めを終えて表にお出ましになる王妃を見送った後、ほっとして休憩場所に戻ろうとした時の事である。
ヴィオラは他の侍女達に付き従って廊下を歩いていた。
見習らしく他の侍女たちの列から一歩下がり、足音も慎ましく静かに歩いていたところ、見知らぬ女に袖を引かれた。
「失礼いたします」
ヴィオラが立ち止まって声の方を見ると、年若い令嬢だった。
「リュークス様、ミンストレル宰相夫人が王妃殿下へのお言付けを託したいとのことでございます」
それを聞いて、ヴィオラはなぜ自分にと戸惑ったが、宰相夫人には王妃様が紹介してくださっていて面識はある。
こういう事は普通にあるのだろうか。
他の者達はヴィオラが立ち止まったのに気付かなかったのか、もう廊下の向こうに行ってしまっている。
どうするべきかと迷ったが、テレーゼ・コルネリア侍女取締からは『一人で行動するときは先輩の許しを得るように』と言い付けられている。
それを思い出して断ろうとした時に、心の内に、聞いたことのない声が響いた。
「(ヴィオラ、良く聞いて)」
ヴィオラがその声に耳を傾けていると、女が訝しんで急かして来た。
「宰相夫人がお待ちでございます」
「申し訳ありません、御夫人のお目に掛かる前に化粧室に行きたいのですが」
ヴィオラが返事をすると女は嫌そうな顔をしたが、頷いた。
「止むを得ませんね。早くしてください」
「はい、申し訳ありません」
ヴィオラは女をその場に残して近くの化粧室に急いだ。
用を済ませると大鏡に向かって顔を確かめ、ぐるっと体を回して見た目も服の収まりも十分に確かめてから女の所に戻った。
「お待たせいたしました」
「では参りましょう」
女が導いた先は侍女達の領域を離れ、貴族達の控室が並ぶ区域である。
その一つの扉の前に立つと女は扉をトントントントンと忙しく叩き、中からの返事も待たずに握りに手を掛けた。
扉を押し開いてヴィオラに声を掛ける。
「どうぞ」
ヴィオラが入り口に近寄ったその時。女は突然ヴィオラの後ろに回り、背中を思い切り押して部屋の中に突き飛ばした。
「えいっ」
「きゃっ」
ヴィオラは部屋の中でたたらを踏み転びそうになったが何とか踏ん張った。
だが女は構わずに急いで扉を閉め切った。
ヴィオラは慌てて駆け寄り扉に取り付いたが、大人の女が体重を掛けて引き付けているのであろう、びくとも動かない。
「お出しください!」
呼ぼうが、力を込めてドンドンと叩こうが、どうにもならない。
どうすれば、と思ったその時に、部屋の空気がおかしいのに気が付いた。
振り返って部屋の中を見ると、机に置かれた香炉から怪しげな桃色の煙が朦々と立ち上っている。
「これは……」
女は廊下で扉を引きながら耳に気持ちを集めて室内の様子を一心に窺っていたが、部屋の中でヴィオラが倒れて床に崩れ落ちる音を聞き取ると声を立てて嗤った。
「くっ、くくくっ」
兄が言っていた。
この香の甘いような苦いような香りを嗅げば気持ちが良くなり、つい、さらに深く吸ってしまう。
そして意識が薄れて倒れてしまうのだ。再び目覚めたときには……。
兄もこんな小娘が欲しいとは物好きな。
「やんごとなき平民上がりの、ぽっと出の侍女見習様、迂闊でしたわね。くくくっ」
女はまた嘲笑うと扉の錠に鍵をかけ、兄に成功を告げるために小走りに廊下を駆け去った。
一方、女が後にした部屋の中でも、似たような言葉を心の内で呟いている者がいた。
「(してやったりと中も確かめずに立ち去るとは、やんごとなきお貴族様のお嬢様、迂闊でしたわね)」
女が廊下を走る音が響いて去ると、気を失って倒れていたはずのヴィオラがすんなりと立ち上がった。
その身体から緑色の光が溢れ出す。
その光が徐々に薄れた後には、ヴィオラだったはずの者はその形を変えていた。
蜻蛉を思わせる四枚羽に小さい体躯、触れれば折れそうな嫋やかな白い手足。
纏った薄い衣服は緑色、昨日ヴィオラに助けられたフェアリーの姿。
ヴィオラに話し掛けた女が何か邪悪を企んでいると見て、言わずと知れた、化粧室で入れ替わっていたのである。
本物のヴィオラは侍女達の控室に急いで戻り、今は既に、休憩する先輩達に遅れを詫びてから熱い紅茶を心を込めて淹れていた。
妖は四枚の羽をはためかせて飛び上がると、机の上で煙を上げている香炉に近づいた。
「(桃媚香とはね。王族貴族とあろう者達が、下品で卑しい事をする)」
机に降り立ち、香炉に両手を触れて何事かを呟く。
それに応じて、室内に立ち込めた怪しげな煙がゆらゆらゆらと、凝縮しながら妖魔が触れている香炉に近づいてすーっと吸い込まれ、香炉の銀に、淫ら気な燻んだ桃色がうっすらと加わった。
これで良いだろうと香炉の上に右手をかざすと小さな空気の逆さ渦が生じ、香は室内に新たな煙を放ち始めた。
「(でも私にとっては至れり尽くせりの好都合。大した連中ではないけれど、少しは面白くて美味しい夢を見せてくれるかしらね。楽しみにさせてもらいましょう)」
フェアリーの姿の妖は可憐な顔を歪めて思いきり悪い笑い顔をしてから手を上げた。
するとまた光に包まれ、大きくなりながら形を変える。
光が消えた時には、この国有数の名花、『永遠に萎れぬ胡蝶蘭』ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢が立っていた。
背格好だけではなく、濃いブルネットの髪も青い瞳も、高い鼻も豊かな唇も生き写し、彼女の好みの濃紅のドレスもそのままである。
だがその背中からは蝙蝠のような翼が、腰からは先に鏃の付いた尻尾が、それぞれドレスの背と裾を持ち上げて、いずれも艶光りして黒々と顔を出している。
「(おっといけない)」
翼と尾に気が付くと、さっきまでフェアリーだった妖魔は慌てて服の中にそれらをしまい込んだ。
「(こんな姿を釣り餌にせずとも、人がこの香を多く嗅げば気を失い、次に醒めれば淫ら気を起こした上に目の前の相手が想い人の姿に、聞こえる声は聞きたい言葉に変わってまた夢に堕ちるのだけれど)」
桃媚香、元は識慕香の名で知られ、少量用いて鏡を見れば、真に慕い想う人の姿がそこに映って現れるという。
揺れ動く己が心を扱いかねる令嬢方が想いを定めるための、それが本来の使い方なのだ。
だが、振られた相手に大量に嗅がせれば、こちらを想い人と錯覚させた上に淫ら心を起こさせて、意識のないうちに我が物にできるという、極悪非道に用いられたために産地である南方で厳しく禁物となったはず。
「(もしヴィオラが嗅いでいたら、抱き起した人間を愛しい殿下と思い込んで、矢も楯もたまらず胸の内に飛び込んでいたことでしょうね。質の悪いこんな香、どうやって手に入れたのかしら? まあ、効果は御自身で試していただきましょうか)」
ファレノの姿の妖魔は肩を竦めて「(はぁっ)」と呆れた溜息をつくと、部屋の壁際に置かれていた寝椅子にしどけなく横たわった。
香炉の香はくすぶり続け、怪しい煙を昇らせる。
薬臭い匂いが流れるが、こんなものは人ではない妖魔には何の効き目も有りはしない。
ヴィオラを陥れようとした悪漢がやって来るのをウキウキわくわく待ちながら、妖魔は寝息を装った。
次話に続きます。




