この人を愛しているから消えてほしい? 随分身勝手なのですね。ま、貴方への執着はありませんので、消えて差し上げますけれど。
その日、彼に呼び出された私はこの目で見てしまった。
私の婚約者である彼ルィーカスが知らない女性と唇を重ねているところを。
すぐには理解できなかった。暫し固まることしかできなかったけれど、徐々に脳が動いてきて、やがて状況が把握できてくる。そして徐々に、婚約者がいる身でありながら別の女性と唇を重ねている彼への黒い感情が湧き上がってきた。
だが、それをそのまま露わにはしない。
ここで怒って暴れるようでは馬鹿だ。
何よりも大切なのは冷静さ。
どこまでも落ち着いて、落ち着いているように見せて、対峙しなくては。
彼がこんなミスをするとは思えない。
きっと見せつけられているのだ。
「あぁ、悪いなぁ、用事中だったんだ」
「いえ」
唇を重ねることが『用事』か。
どこまでも馬鹿げている。
「で、用なんだけど」
「はい。何でしょうか」
すると彼は女性を抱き締めたまま返してくる。
「お前との婚約、破棄するから」
彼は恐ろしいほど落ち着いていた。
「この人を愛しているから消えてほしい」
一応でも婚約者同士だったのだ、少しくらい罪悪感があるものかと思っていたが、彼には罪悪感なんてものは欠片ほどもなさそうだ。
「本気で仰っています?」
「もちろん」
「そうですか……分かりました、では、そうします。消えますね」
随分身勝手なのですね。
そう言ってやりたい気分だったが、言わなかった。
彼への執着はない。
だからここは消えて差し上げよう。
◆
あの後、私は彼から慰謝料をもぎ取ることに成功した。
父親の知人にそういうことに詳しい人がいたので、彼の知恵を借りて、支払ってもらえるようもっていけたのである。
それでも心のもやもやは消えない部分もある……が、何もないよりかはましだ。
それから私はもう結婚やら何やらには生きないことを決めた。
結婚することがすべてではない、そう思うから。
私は私なりの道を行く。
そして、私なりの幸福を見つける。
◆
あれから数年、私は今、山で遭難した人を救助する仕事をしている。
今はまだ見習いのような地位だが、最近になってやっと山へ入れてもらえるようになった。それまではほぼ基礎的な訓練ばかりだったのである。いざ山へ入ることができるようになってきて、徐々に実感が湧いてきている。
これからも頑張ろう。
辛いこともあるだろうけど。
でも、人のため、誰かのために、生きようと思う。
これは先日親からの話で知ったことなのだが。
ルィーカスはあの後結婚するもすぐに妻と気が合わなくなり浮気をしてしまって、それによって離婚することとなったそうだ。また、離婚の際、相手女性からかなりの額を払うよう要求されたらしく、抵抗も虚しく支払わなくてはならないこととなってしまったらしい。
また、その件で親とも喧嘩になり、ルィーカスは今は周囲に味方が一人もいないような状態に陥って苦しんでいるそうだ。
◆終わり◆