原爆
20世紀は核の歴史でもある。ナチスドイツの「悪」に対抗すべく、より強力な武器の開発が進められた。原子爆弾である。アメリカ大統領ルーズベルトは、天才科学者オッペンハイマーをチーフとする原爆開発チームを編成し、20億ドルの予算を投入した。だが原爆実験が成功した時、ナチスは滅んでいた。ルーズベルト大統領も急死し、副大統領トルーマンが後任となった。残る敵は大日本帝国。日本空襲用に開発された超重爆撃機B−29が日本上空を
埋め尽くす。1945(昭和20)年8月6日午前8時16分、広島に原爆「リトルボーイ」投下。8月9日午前11時02分、長崎に「ファットマン」投下。2つの街は一瞬にして壊滅した。原爆の惨状は言語を絶する。たとえ筆者に体験が無かろうと、やはり書き継ぎ、語り継いでいかなければならないだろうと思っている。
第1話「マンハッタン計画」
─ まことにあなたは、正しい者を
悪い者と一緒に滅ぼされるの
ですか。(創世記第18章23節) ─
1923年、ドイツのライツベルク
刑務所で、1人の男が執筆活動に専念
していた。作品の題名は「わが闘争」
作者はアドルフ・ヒトラー34歳。
ドイツ国家社会主義労働党、すなわち
「ナチス」の党首であった。
わが闘争の内容は、人種的偏見に
凝り固まっていた。アーリア人の中核
たるゲルマン民族の優秀性を説き、
ユダヤ人を劣等民族の最たるものと
きめつけた。ゆえにユダヤ人は、世界
に毒を撒き散らす病原菌のような民族
で、滅びて当然だと説いた。ヒトラー
は翌年12月20日に出所。わが闘争
の思想と共に、国民的英雄としてナチス
独裁体制を確立してゆく。
ヒトラーがナチス党首になった頃、
同じドイツの温泉郷・バーデン・
バーデンで、大日本帝国陸軍の若手将校
3人が、軍部政権樹立にむけての「謀議」
を練っていた。国内では、「薩長藩閥」
を打破するクーデター。満州問題は武力
解決。この2つを、国の内外で同時に
実行しようというのである。
岡村寧次・小畑敏四郎・永田鉄山の
三少佐は、「謀議」の同士を求めて、
ライプチヒに留学中の東条英機少佐を
訪ね、快諾を得る。時代は彼らのシナ
リオに沿って、2・26事件と満州
事変、泥沼の日中戦争から大東亜戦争
へと動き始めようとしていた。
絶対的独裁権を手中にしたヒトラー
は、わが闘争の思想を忠実に実行して
ゆく。推定600万人と言われる
「ユダヤ人大虐殺」である。また
反ナチスの反乱分子の処刑、精神
薄弱者・身体障害者の「安楽死」も
併せて実行された。
一方、ヒトラーに「文化を創造する
能力の無い民族」と評されながら、
民族のプライドよりも強大な軍事力を
選択した、おめでたい指導者たちが
いた。大日本帝国陸海軍部首脳たち
である。彼らは内閣を意のままに
動かし、国家予算の50パーセント
を軍事費にあてさせ、親英派を排除
した。バーデン・バーデンの「謀議」
を源流とする、「統制派」と呼ばれる
者たちで、やがて東条英機が中心人物
になっていった。
1936(昭和11)年に日独防共
協定。翌年には日独伊三国防共協定
を結んだ日本は、アメリカ・イギリス
と対立状態になった。さらに、7月
7日の櫨溝橋事件をきっかけにして、
中国大陸全土に侵略を拡大してゆく。
当時、関東軍参謀長だった東条英機
中将は、日中和平の政治運動を推進
している、関東軍参謀・石原莞爾
少将に言った。
「われわれは、あなたを模範として
中国大陸を征服し、勲章をもらい、
武人として勇名を謳われようと
思っているのに、なぜあなたは
それを阻止しようとするのか。
まさか英雄という名前を、自分
だけで独占しようというのでは
ないでしょうね。」
石原が言い返す。
「敵は中国人ではない。東条・梅津
の輩こそ、日本人の敵である。」
東条は、日中戦争拡大派の一人と
して戦争を推進する。むろんこの
戦争の背景には、中国大陸の膨大な
「利権」に群がる、財閥のバック
アップがある。この結果日本は、
対アメリカ・イギリス・オランダ・
フランスなどを相手とする、「大東亜
戦争(1941年・内閣情報室命名)」
をせざるを得ない状況に自らを追い
込んでゆく。
東条は陸軍大臣から首相となる。
「打倒東条」を力説した石原は予備役
になり、故郷・山形で農耕生活に入り、
日本の敗北を予言する。
東条ら軍部は、私利私欲で拡大
させた日中戦争・大東亜戦争を、
もっともらしい大義名分にすりかえる
名人だった。「大東亜共栄圏」
「アジア民族の解放」などの理想
がそれである。もっともらしい美辞
麗句を並べて国民を「教育」し、
特定の価値観をすり込み、欲望を
刺激して生活の豊かさを保障し、
飼い慣らしてゆくのが、戦争指導者
たちの常套手段である。集団心理を
巧みに利用し、情報を操作し、国民
をその気にさせて自殺行為に追い込む
という手口である。
むろんヒトラーも、この手口を実行
した。「大衆は限りなく愚かだ。
大衆は女のように感情だけで動く。
青少年も同様だ。彼らには、車と
オートバイと美しいスターと、音楽
と流行と競争だけを与えてやれば
いいのだ。そのため大衆や青少年
には、真に必要なことは何も教えるな。
必要がないバカのようなことだけを
教えろ。それで競争させろ。笑わせろ。
ものを考えなくさせろ。真に必要な
ことは、大衆と青少年を操る者だけ
が知っていればいい。このあとは、
国家のためと何千回でも呼びかけ
て戦わせ、殺し合わせるのだ。
(ヒトラー地獄の法則)」
日本でもむろん、「お国のため」
のプロパガンダが強力に推進された。
「欲しがりません、勝つまでは。
大和魂総動員。一人一人が御国の柱。
一億一心、銃とる心。黙って働き、
笑って納税。私腹肥やすな、国肥やせ。
国策に理屈は抜きだ、実践だ。」
ナチスドイツは軍事的に強力で、
短期間にヨーロッパ全土を制圧して
いった。極東にあって、アジア・
太平洋全域を勢力圏にしている
大日本帝国と手を組んでいる以上、
世界征服も有り得ない事ではない
かと思われた。ユダヤ人科学者たち
は、恐怖に震えながらも虐殺された
同胞の復讐に燃えた。
「力ある悪には、より強力な武器で。」
ユダヤ人科学者たちは、ナチスより
早く「原爆」を製造し、ベルリンの
頭上に落とさなければならないと
いう、さし迫った状況に追い込まれて
いた。「汝の敵を愛せよ」という
イエス・キリストの言葉ほど、現実的
でない言葉はなかった。
ユダヤ人は、イエス・キリストの
ルーツとして聖書に登場する。アブラ
ハム、モーゼを経て、ダビデ王・
ソロモン王のユダヤ王国に至る。その
後、国は分裂し、ユダヤ人は国を持たぬ
民族として全世界に散っていった。だが、
どのような差別と迫害の中にあっても、
民族の誇りと団結力を失う事はなかった。
ユダヤ人大虐殺という事態に、平和
主義者で、十分な良識と判断力・先見
力を備えたユダヤ人・アインシュタイン
でさえ、ナチスを見過ごしには出来な
かった。1939年8月。彼は渋々
ながらも、アメリカのルーズベルト
大統領に「原爆」に関する手紙を書く
事になる。
ルーズベルトは、原爆の研究・製造
予算に、のべ20億ドルを政府予算
からひねり出す。それは、議会も国民
も知らない事だった。当初原爆開発
では、ナチスが2年程先行していると
考えられていた。そして1942年に、
極秘の原爆製造プロジェクト
「マンハッタン計画(M計画)」が
スタートした。
暗号名「DSM」。マンハッタン
計画の名の通り、本部はニューヨーク
に置かれ陸軍が統括した。総指揮者は、
レスリー・R・グロープス工兵准将。
彼は早速、科学者の人選にとりかかった。
そして選び出されたのが、オッペン
ハイマーだった。
ジョン・ロバート・オッペンハイマー。
1904年4月22日、ニューヨ―ク
生まれのユダヤ系ドイツ人である。
自然科学が好きだった。仏教やインド
哲学を探究し、「全人類の福祉を科学
によって増進させる」のが念願だった。
もし彼が、ナチスドイツによる
「ユダヤ人大虐殺」という事態に遭遇
しなければ、良心的な自然科学者として
の夢を実現させていただろう。しかし
オッペンハイマーの同胞である、ドイツ
系ユダヤ人16万人のうち14万人が
虐殺されていた。彼の夢や良心を吹き
飛ばすに十分な「怒り」だった。
オッペンハイマーは、1943年1月、
原爆研究所である「ロス・アラモス
研究所」の所長に任命された。研究所
はニューメキシコ州サンタフェ郊外の、
人里離れた高台にあった。ここに
全アメリカの頭脳が結集した。研究所
は7部門で構成されていた。理論物理部
(部長/H・A・ベーテ博士)、実験
原子核物理部(部長/R・R・ウィル
ソン博士)、化学・治金部(J・W・ケネ
ディ博士・S・スミス博士)、兵器部
(部長/W・S・パーソンズ海軍大佐)、
爆薬部(部長/G・B・キスティアコワ
スキー博士)、爆弾物理部(部長/R・
F・パシェル博士)、高級研究部
(部長/E・フェルミ博士)。
オッペンハイマーは、これら7部門
の統括責任者だった。当然の事だが、
この研究所で原爆をつくる事に少しでも
疑問を持つ者は除外された。
「爆弾や銃弾で死ぬのも原爆で死ぬ
のも、死ぬ事に変わりはない。」
ロスアラモス研究所での、一般的な
考え方だった。
オッペンハイマーは、自らの原爆開発
もさることながら、ナチスの原爆開発の
動向も絶えず気にしていた。そして
それが可能な科学者は、ハイゼンベルク
をおいて他にはいないと確信していた。
オッペンハイマーより3歳年下の天才
理論物理学者は、「不確定性理論による
量子力学の新解釈」により、1932年
にノーベル物理学賞を授与されていた。
ハイゼンベルクは、ベルリン大学教授
の地位にあった。彼がもしナチスの
原爆製造計画に参加していたならば、
射殺するようにという命令も出されて
いた。だが本人は「ナチスに原爆を
渡してなるものか」と考えていた。
彼は「ボケ」た。意図的に研究を遅ら
せて、ナチスに抵抗した。ゲッチンゲン
大学のワイツゼッカーやホウテルマンス
らも、志しを同じくした。ニールス・
ボーアやリーゼ・マイトナーは、亡命
という手段をとった。
原爆開発がもたついている間に、
一時は無敵かと思われたナチスドイツ
軍にも、敗色が目立つようになっていた。
1943年1月31日、ナチスドイツ軍
はスターリングラードでソ連軍に降伏。
ナポレオン同様、ロシアの「冬」には
勝てなかった。
同年7月12日、独ソ両軍200万の
兵士、戦車・装甲車4000輌、戦闘機
4000機を動員した戦闘がクルスクで
行われ、ソ連が東部戦線の主導権を握った。
9月3日には、イタリアが無条件降伏。
そして翌1944年6月6日。連合軍は
兵員200万人、艦船4400隻、航空機
25000機を投入して、フランスの
ノルマンディ海岸に上陸。「史上最大の
作戦」と言われる大反攻作戦を行った。
東からはソ連軍が、西からは連合軍が、
じわじわとベルリンを目指して進行を
開始したのである。
1944年9月18日。ニューヨーク
郊外のハイドパーク大統領別荘にて、
ルーズベルトとイギリスのチャーチル
首相の秘密会談が開かれ、秘密協定が
結ばれたらしい。この頃、ドイツの
原爆開発は無いと確認され、ヨーロッパ
戦線の勝敗のメドが立ってきた事など
から、原爆の投下対象が日本になった
と言われている。具体的な投下地点と
しては、東京か日本艦隊が集結している
トラック島がよいと考えられていた。
原爆の組み立ては、ドイツ爆撃の基地と
なるイギリスより、太平洋の島の方が
安全であるとされた。
1945年4月12日午後3時35分。
第32代アメリカ大統領・フランクリン・
ルーズベルトが、ジョージア州ウォーム・
スプリングスで急死した。死因はくも膜下
出血だが、真因は過労死と言ってよい。
1932年の大統領就任以来12年。
世界恐慌と第二次世界大戦とで、気の
休まる間などなかっただろう。
午後5時25分。大統領急死の知らせが、
ホワイトハウスの副大統領・ハリー・S・
トルーマンのもとにもたらされた。それ
から2時間もたたないうちに、彼は大統領
就任式にのぞんでいた。アメリカの政治に
一瞬の空白も許されないほど、世界情勢は
重大な局面を迎えようとしていたのである。
1945年4月28日、イタリアの
独裁者・ムッソリーニは、民衆義勇軍
によって逮捕され処刑。ミラノにおいて、
愛人と共に死体がさらしものにされた。
同じ頃、ソ連軍がベルリンのヒトラー
総統本部に総攻撃をかけていた。
ヒトラーは親衛隊500人に対戦車砲
で本営を固めさせ、愛人のエヴァ・
ブラウンと地下室に篭った。
1945年4月29日、ナチス総統
ヒトラーは、こめかみをピストルで撃ち
抜き自殺。愛人エヴァは毒死した。遺体
は翌朝ソ連軍が検死し、90パーセント
本人であるとされた。5月7日、ナチス
ドイツは連合軍に無条件降伏した。
5月8日が誕生日のトルーマンにとって、
何よりのプレゼントになった。残る敵は
大日本帝国。スターリンは、ソ連軍が
ドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦する
ことを、すでに決めていた。
太平洋戦線では、アメリカ海兵隊が
連戦に次ぐ連戦で、バラワン、ルバン、
ミンダナオ、パナイ、セブ、ネグロス
各島に上陸。日本守備隊は玉砕(全滅)
した。2月19日、約7万5千名の
ニミッツ軍が硫黄島へ上陸。栗林忠道
中将以下、約2万3千名の日本守備隊が
激しく抵抗し、アメリカ軍は死者6千
8百名、戦傷者2万1千名を出した。
しかし3月26日、矢尽き刀折れた
日本軍は玉砕。栗林中将も自決して、
激戦に幕がおりた。
3月26日には、最後の砦とも言う
べき沖縄に、18万3千名のアメリカ軍
が上陸。各地で悲壮なまでの死闘が繰り
広げられた。日本兵10万9千名と、
沖縄市民10万人が死亡した。沖縄戦
の散発的抵抗は9月頃まで続くが、
6月23日の牛島中将の自決を境に、
次第に沈静化していった。
日本軍はこの時点で、戦艦・航空母艦・
戦闘機もほとんど底を尽き、空襲と
艦砲射撃によって都市は焦土と化し、
降伏は時間の問題になっていた。中国
大陸などには、無傷で存在する400万
の大軍が残っていたが、船が無ければ
日本本土に転用出来ない。仮に船を
出しても、沖縄をおさえて制海・制空権
をアメリカ軍が握っている以上、魚雷か
空爆の的になるだけだろう。本土決戦
の一億玉砕か、無条件降伏か。日本の
選ぶべき道は、2つに1つだった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第2話「B29」
1945年7月17日、ベルリン
南西部のポツダム市。イギリスの
チャーチル、ソ連のスターリン、
アメリカのトルーマン三首脳が、
旧プロイセン王家の屋敷「ツェ
ツィーリン・ホーフ」に集まった。
これより8月2日まで、終戦後の
世界をいかにするかの会談が開か
れていた。ポツダム会談である。
この会談の初日、アメリカ大統領・
トルーマンのもとに、一通の電報
が届けられた。
「赤ん坊が生まれた。」
それは人類史上初めて、核分裂に
よる原子爆弾実験成功を意味して
いた。トルーマンは、随行していた
陸軍長官・スティムソン、陸軍参謀
総長・マーシャル、陸軍航空司令官・
アーノルドに実験成功を告げた。
この時すでにトルーマンは、スティ
ムソンを委員長とする原子力政策諮問
機関「中間委員会」の答申を受けて、
「実行」を決断していた。日本に対する
原爆投下は最終段階に入ったのである。
7月16日午前5時20分45秒。
アメリカ・ニューメキシコ州アラ
モード空軍基地内の実験場。高さ
230メートルの鉄塔に吊るされた、
直径1・52メートル、長さ3・25
メートル、重さ4・5トンのプルト
ニウム爆弾が、巨大な火球と閃光に
変容した。爆風と衝撃波が、同心
円状に広がってゆく。そして巨大な
きのこ雲。
それは、実験責任者・オッペン
ハイマーとアメリカの国力が、心血
を注いで作り上げた「赤ん坊」に
違いなかった。41歳にして、
オッペンハイマーは「原爆の父」に
なった。しかし彼が憎んだ敵「ナチス」
は、すでに滅んでいた。
原爆はただちに、B29の基地が
あるマリアナ諸島のテニアン島に向け
て旅立っていった。投下目標は、空襲
で被害をうけていない都市「京都・小倉・
広島・新潟」のいずれかだった。ナチス
の同盟国・日本への使用もやむをえない
というのが、オッペンハイマーの見解
だった。
ポツダム会談は、「東西冷戦」の第一
ラウンドだった。共通の敵・ナチスが
無くなれば、チャーチル・トルーマン
の自由主義陣営と、スターリンの社会
主義陣営という、イデオロギー対立の
構図だけが残る。後に、日本という共通の
敵を失った中国で、蒋介石軍と毛沢東軍
が再度戦う図式にも同様の事が言える。
「原爆が完成しましたよ。」
トルーマンの言葉に、スターリンの
顔がひきつった。
「ほう・・それは・・・」
原爆という最強の武器を手にした
アメリカ軍にとって、ソ連の対日
参戦はあまり意味を持たなくなる。
むしろ日本は地理的に、極東における
社会主義陣営を封じ込める最前線に
位置づけられる。ソ連がでしゃばり
過ぎて、「分け前」を取られ過ぎては
困るのだ。
トルーマン対スターリンの、政治的・
軍事的なかけひきの中で、日本と原爆
は重要なカードだった。ソ連国内に
おいても、原爆の研究を行っていたが、
いまだ完成には至っていなかった。
軍事バランスの大きな開きは、国際
政治での「発言権」にも重大な影響を
およぼす。へたをすると、モスクワも
危ない。あせったスターリンは、対日
参戦によって極東における発言権を
確保しようと考えたのである。
トルーマンは、日本に原爆を落とす
事による日本国民に対する心理的
ダメージや戦略的効果以上に、ソ連に
対する「威嚇」という政治的効果を
重要視していた。戦略的判断のレベル
では、太平洋戦線の現場責任者である
マッカーサー陸軍大将、ニミッツ海軍
大将、ハルゼー海軍大将をはじめと
する軍部の高級指揮官が、揃って
原爆投下に反対していた。レイヒ
統合参謀本部議長もトルーマンに
投下の必要性は無いと勧告し、
スティムソン陸軍長官でさえ、
非戦闘員の大量殺傷に悩んだという。
要するにトルーマンは、「使って
みたかった」のだろう。相手は、南京
大虐殺などをやらかした侵略者、
「黄色いサル」のジャップなのだ
から。かくして日本は、原爆の実験場
となり、東西冷戦の「道具」にされる
事になったのである。戦後アメリカが
国内向けプロパガンダとして、同胞
兵士の命を救い、終戦を早めたと原爆
投下の正当性を主張している。政治家
は嘘がうまい。
ポツダム会談では、ドイツとベトナム
の分断統治を決定した。まずい事に、
インドシナを植民地にしていたフランス
の、ド・ゴール大統領抜きにである。
しかも、朝鮮半島問題は話し合われて
いない。この中途半端な会談が、後に
朝鮮戦争・ベトナム戦争の火種になろう
とは、この時スターリンもトルーマンも
考えていなかった。とにかく、大日本
帝国の降伏が先決問題だった。
アメリカ軍の超重爆撃機・B29。
1942年、ボーイング社が総力を
あげて開発した、日本空襲用の
「超空の要塞」
である。全長30・1メートル、左右
43メートル、機体総重量64トンは、
ヨーロッパ戦線に展開中の爆撃機・
B17の約2倍。約10トンの爆弾を
搭載して(B17は1トン程度)、高度
9千メートル上空を時速480キロで飛行
出来た。
5600キロメートルという長大な
航続距離を生かして、中国・四川省成都
の連合軍基地から、九州を空襲する事が
出来た。B17は、高度7千メートルの
零下40〜50度の極寒の中、酸素マスク
を必要とした劣悪な機内環境だったのに
対し、B29は完全に与圧され、上着を
脱いで葉巻を楽しむ事も可能だった。
B29は、機体の前後左右にプレキシ
ガラス製半球の銃座5基を構え、12・7
ミリ機関砲連装12門、20ミリ機関銃
1門を備えていた。さらに翼内燃料タンク
は厚いゴムや牛皮で守られ、機銃の命中弾
でも火を吹かないようになっていた。
ゆえにB29を撃墜するには、機銃の唯一
の死角である操縦席正面を射撃するという、
高度な空戦テクニックが必要だった。
1944(昭和19)年6月15日が、
B29爆撃編隊の初陣だった。成都を
発した約80機は、7時間後に攻撃
目標の北九州・八幡地区の軍事施設と
軍需工場に対し、高度1万メートル
上空から爆撃した。これに対して日本
は、長崎の大村航空隊の陸軍二式複戦・
37ミリ機関砲で迎撃し、B29・7機
を撃墜した。
しかし、こうした歴戦のパイロット達
による「曲芸」的戦果は稀なものだった。
11月に初めて関東地方に現れたB29
に対し、神奈川のさんまるふた三〇二航空
隊の戦闘機「雷電」は、1万メートルに
追いつく事すら出来なかった。次いで
11月24日の帝都(東京)初空襲に際して
は、110機のB29をただの1機も
撃墜出来なかった。B29の「高々度
精密爆撃」は翌年3月まで続けられる
が、効率が悪くB29本来の能力を
十分に発揮しているとはいえなかった。
1944(昭和19)年6月6日。
ヨーロッパ戦線の連合軍総反攻「ノル
マンディー上陸作戦」に呼応して、
太平洋戦線では「マリアナ作戦」が開始
された。グアム・サイパン・テニアン島
占領作戦である。アメリカ軍兵力約7万
1千名。日本軍は第四十三師団(師団長・
斉藤義次郎中将)の2万8518名と、
中部太平洋方面艦隊(司令官・南雲忠一
中将)の1万5164名の、合計4万
3682名であった。
南雲艦隊は空母3沈没、空母4・
戦艦1・重巡洋艦1が中小破、航空機
295機を失い、半身不随の状態に陥った。
アメリカ軍は、戦車150輌・大砲
1290門・バズーカ砲167門の
圧倒的火力をもって、サイパン島日本
守備隊を圧迫した。7月6日、南雲中将・
斉藤中将が切腹。残りの守備隊も「万歳
突撃」を敢行して玉砕した。
この時、約4千人の日本人非戦闘員が、
島の北端に追いつめられた。マッピ岬
付近の断崖から、女性を含む多くの者が
投身自殺。あるいは車座になって手榴弾
で爆死する集団や、わが子を殺して
後追い自殺する者が絶えなかった。野戦
病院では、患者と看護婦・従軍慰安婦たち
が、青酸カリによる服毒自殺をはかった。
日本人は皆、降伏よりも死を選んだ。
これら非戦闘員の死者は、8千人から
1万人と言われている。戦死者は4万
1244人であった。
テニアン島も同様だった。松本歩兵
第五十連隊(連隊長・緒方敬志)は、島南端
のカロリナス高地に追いつめられて玉砕。
南海の楽園は、次々と地獄へと変貌した。
アメリカ軍は、占領したサイパン・
グアム・テニアン各島に飛行場を建設
し、180機ずつのB29を配備した。
統合司令部をグアム島に置き、第二十
航空団として日本本土空襲を準備した。
1945年1月20日。グアム島の
第二十航空団の司令官に、「爆撃屋」
として知られていたカーティス・ルメイ
少将が着任した。ルメイは、B29の
大編隊をいかに有効に日本本土空襲に
あてるかに心血を注いだ。日本本土に
は十分な夜間戦闘機が配備されていない
事と、高射砲がレーダー管制に切り替え
られていない事を重視。夜間、低空に
よる焼夷弾空襲という戦法を編み出す
に至った。ルメイはB29から機関砲
を取り外させ、その重量分焼夷弾の量
を増やさせた。焼夷弾とは要するに、
火災を発生させ街の住民を無差別に
焼き殺す事を目的とした爆弾の事である。
1945(昭和20)年3月10日午前
0時08分。非武装で、1機約5トン
の焼夷弾を積んだB29・334機の
大編隊が、帝都・東京を空襲した。迎撃
機なし。対空砲火わずか。地上は火炎
地獄と化した。このM69集合油脂焼夷
弾19万発の空襲で、焼死した者は8万
5千人にのぼった。
以後、横浜・大阪・名古屋・神戸・
仙台などの大都市はもとより、中小都市
もまんべんなく空襲をうけた。終戦の
8月15日までに投入されたB29は、
のべ1万7千500機。16万トンの
焼夷弾を投下し、死者35万人、負傷者
42万人の被害となった。
ルメイはこのB29爆撃編隊だけで
勝てると信じていた。なお、蛇足ながら
ルメイは、戦後日本の航空自衛隊を育成
し、政府から勲一等旭日大綬章を授与
されている。戦争とは常に、大量殺人者
を英雄に変えるという理不尽な性格を
備えているらしい。
1945年5月10日。テニアン島に、
前年9月に編成された秘密部隊、「第
509混成群団」が乗り込んできた。
陸・海・空軍の混成プロジェクトチーム
で、彼らを1人1人監視する憲兵も同時
にテニアン入りした。この群団が使用
するB29は、5月にオマハ空軍基地で
特別改良されたもので、航続距離9千
3百50キロの最新型であった。
しかも搭載されたのは、焼夷弾では
なかった。訓練用特殊大型爆弾「パン
プキン」。長さ3・5メートル、直径
1・5メートル、重量4・5トン。オレ
ンジ色に塗装された、ぼてっと丸いこの
爆弾は、後に長崎型原爆となる「ファット
マン(太った男)」と同型・同重量のもの
だった。トルペックスという強化爆薬が
詰められ、爆薬量51パーセントで、
1トン爆弾の4・5倍の威力があった。
パンプキン投下は、7月20日に
開始された。高度9千メートル上空
から、ノルデン型爆撃照準機を用いて
投下し、爆発地点を見つけて望遠
レンズで写真を撮るという作戦だった。
第一目標は福島県郡山市・福島市・
新潟県長岡市・富山県富山市だった。
そのいずれもが、新潟市を想定目標
都市にしていた。
クロード・イーザリー機長の
7301号機は、郡山を目指した。
だが曇っていた為投下せず、目標を
東京に切り替えた。午前8時20分、
茨城県方面より侵入したイーザリー機
は皇居を目指した。雲量97。曇って
いて目視投下が出来ず、レーダーに
よる投下を行った。パンプキンは
やや東に逸れ、東京駅東側の呉服橋
と八重洲橋の中間あたりに落下した。
3名の死者が出た。
福島市の軽工業地帯を目標にした
パンプキンは、渡利の山林に落下。
新潟県東蒲原郡鹿瀬町の昭和電工
鹿瀬工場を狙ったものも、目標を
逸れて被害無し。福島市の品川製作所
を狙った機は、投下に失敗しパンプキン
を海上投棄した。だがやはり、命中
すれば一発でもかなりの被害が出た。
静岡県島田市扇町で死者33名。
福井県敦賀市の東洋紡績敦賀工場で
死者33名。山口県宇部市で死者
25名。岐阜県大垣市高砂町で死者
12名。滋賀県大津市石山の東洋
レーヨン滋賀工場で死者14名。
京都府舞鶴市の海軍工廠第二水雷
工場で、死者97名。福島県いわき市
平で死者3名。愛知県春日井市で死者
4名。新潟県長岡市左近町で死者2名。
東京・保谷市柳沢で死者3名などである。
他にも富山市・神戸市・茨城県
日立市・名古屋市・浜松市・静岡県
焼津市・愛媛県宇和島市・三重県
四日市市・愛知県豊田市など、29都市・
44目標に対して、のべ50機から52発
が投下された。そのうち2発がパンプキン
ではない、本物の原子爆弾だった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3話「エノラ ゲイ」
グアム島の第二十航空団統合司令部
に、「京都・広島・新潟・小倉」4都市
の攻撃中止命令が届いたのは、1945
(昭和20)年7月21日の事だった。
「中間委員会」副委員長・ジョージ・
L・ハリソンらは、第一目標「京都」を
主張した。翌22日、委員長・スティム
ソン陸軍長官は「京都」に強硬に反対。
京都にかわって「長崎」が浮上した。
スティムソンは京都を旅行した事が
あり、大変気に入っていたからだ。貴重
な文化財を灰にしたくなかったのだろう。
しかしここで語られるのは、「京都を
救った男・スティムソン」ではない。
1人の権力者の「趣味」で、数十万の
運命や命がもてあそばれる事の恐さで
ある。京都は原爆の第一目標として保留
されていたがゆえに、通常の空襲被害
からもの逃れられた街なのである。歴史
の皮肉としか言いようがない。
7月25日。ワシントンの陸軍戦略
航空軍司令官・カール・スパーツに、
「原爆投下命令書」が手渡された。
ポツダムにいる陸軍長官・スティムソン、
陸軍参謀総長・マーシャルが承認し、
陸軍参謀総長代理・トーマス・T・
ハンディがサインした公文書である。
8月3日以降、広島・小倉・新潟・
長崎のうち1つに特殊爆弾を投下する
ものとし、この情報発表の権限は
トルーマンとスティムソンだけに
限られるとしてあった。マッカーサー
将軍とニミッツ提督には、「情報」
として命令書の写しが送付された。
7月26日。アメリカ大統領・
トルーマン、イギリス首相・チャーチル、
中華民国主席・蒋介石の連名で「ポツ
ダム宣言」が発表された。この中で日本
の主権は、北海道・本州・四国・九州と
諸小島に限定されるとし、日本に無条件
降伏を勧告した。受諾か拒否かの判断は、
日本国首相・鈴木貫太郎の手腕に
かかっていた。
鈴木貫太郎・77歳。大正時代の連合
艦隊司令長官で、2・26事件の際に
銃弾3発を受け重傷を負った。この年の
4月7日首相に起用され、「和平・終戦」
という最後の大仕事に着手した。ポツダム
宣言の中に「国体の護持」、すなわち
「天皇制の存続」が有るか無いかが、
最大の焦点だった。それ以外の条件は、
受け入れるより他に道はなかった。
鈴木首相は「天皇制」に関する回答
を連合国側から引き出すまで、ポツダム
宣言を「黙殺」した。連合国にとって
「黙殺」は、「抗戦」を意味していた。
重巡「インディアナポリス」によって
運ばれた広島型原爆「リトルボーイ」が
テニアン島に到着したのは、まさに
そんな時だった。
インディアナポリスは、3月26日
から始まった沖縄上陸作戦に参加して
いた。船は日本軍の神風特攻機1機の
体当たり攻撃によって中破。ふらふらに
なりながら、サンフランシスコまで帰投
した。傷が癒えての初仕事が、「原爆
輸送」だった。
7月26日に無事原爆を陸揚げした
インディアナポリスは、グアム島に
寄った後、フィリピンのレイテ島を
目指して航海を続けていた。7月30日
午前0時02分、インディアナポリスは
日本軍伊号五八潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
6本の魚雷は次々に命中し沈没。乗員は
4日間海を漂流している間に鮫に襲われ、
乗員の5分の4にあたる800名以上の
死者を出した。もし、あと5日早く攻撃
されていたら、リトルボーイは海中に
没していた事になる。
8月3日午前9時。中国・広東の第五
航空情報連隊情報室(室長・芦田大尉)
では、アメリカのニューデイリー放送に
聞き入っていた。8月6日、広島に原爆
を投下するという内容だった。放送では
原爆が投下された場合の悲惨な状況を
克明に伝え、「30年間草木も生えない
焦土と化すだろう」という内容で
しめくくった。
この予告放送は毎日3回、当日まで
続いた。長崎の場合も同様だった。
日本本土の民間人も、サイパンからの
放送を傍受している。当然、大本営
情報部も傍受していただろう。だが
「敵の謀略放送」であるとして、
広島・長崎にこれといった対策は
成されなかった。
さらに広島市上空からは、M26爆弾
ケースに詰められた大量のビラが投下
された。
「即刻都市より退避せよ。日本国民に
告ぐ。このビラに書いてあることを注意
して読みなさい。米国は今や何人もなし
えなかった、きわめて強力な爆薬を
発明するに至った。今回発明された
原子爆弾は、ただ1個をもってしても、
優にあの巨大なB29・二千機が1回に
搭載しえた爆弾に匹敵する。この恐る
べき事実は、諸君がよく考えなければ
ならない事であり、我らは誓ってこの
事が絶対事実である事を保証するもの
である。我らは今や、日本本土に対して
この武器を使用し始めた。もし諸君が
なお疑いがあるならば、この原子爆弾
が唯一広島に投下された際、いかなる
状態を惹起したか調べて御覧なさい。」
だが広島市民にとっても「ビラ(単伝)」
は、「鬼畜米英」の謀略にしかすぎな
かった。広島市民は、いつもと変わらぬ
日常生活を続けていた。
8月3日。第二十航空軍司令官の
カーチス・ルメイ少将から、第五〇九
混成群団に対して「特別爆撃任務命令書
第十三号」が届けられた。攻撃は8月6日。
第一目標・広島。第二目標・小倉(現・
北九州市)・第三目標・長崎。作戦暗号
名「シルバー・プレート(銀の皿)」。
作戦には7機のB29が投入される事
になっていた。搭乗員たちはミーティング
で、作戦内容と目標上空の航空写真を
頭の中に焼き付けていった。
8月5日朝。日曜日という事も
あってか、第五〇九部隊はテニアン島
のパンプキン野外劇場で「勝利ミサ」
を行った。祭壇中央に十字架、テーブル
中央に聖書が開いて置かれた。彼らに
とって、イエス・キリストは軍神だった。
機体番号82のB29は、午後2時
45分に「リトルボーイ」を前部爆弾倉
に収納し、未明の出撃を待つばかりに
なっていた。機長のポール・チベッツ
大佐は、1人の整備員に紙切れを渡し、
コクピット下部に文字を描くようにと
指示した。整備員は「ENОLA
GEY」と描いた。人類史に刻まれる
「エノラ・ゲイ」とは、チベッツ大佐
の母親の名であった。
5日夕方。第二十航空軍のB29・
400機と、B24爆撃機の計635機
の爆撃編隊は、焼夷弾を満載して次々
に日本上空へと飛び立っていった。
6日未明、群馬県前橋市に102機、
兵庫県西宮市に261機、愛媛県今治市
に66機、山口県宇部市に111機、
瀬戸内海の機雷投下に30機という
陣立てだった。広島市民は再三再四、
警戒警報のサイレンに悩まされて
防空壕の中へ入り、蒸し暑い眠れぬ夜
を過ごした。
6日午前0時37分(日本時間に直して
記載・以下全て同じ)、シルバープレ―ト
先発機3機が、テニアン北飛行場から
それぞれの目的地へ飛び立っていった。
広島へは、パンプキン爆弾で皇居を狙った、
イーザリー少佐を機長とする「ストレート・
フラッシュ号」。小倉へは、ウィルソン
少佐を機長とする「ディャビット三世号」。
長崎へは、テイラー少佐を機長とする
「フルハウス号」。3機のB29は
エノラ ゲイ号に目標上空の気象を
通報するのが仕事だった。
8月6日午前1時45分、エノラ
ゲイに搭乗員の乗り込みが完了した。
1時27分、エンジンスタート。3号
4号、1号、2号の順で、両翼2基
ずつの36シリンダー・ライト
R3350型ターボプロペラエンジン
が快調に始動。1時35分、機は離陸
の為ゆっくりと滑走路に向かった。
1時45分、広島型原爆「リトルボーイ」
を搭載したB29「エノラ ゲイ」は、
テニアン北飛行場を離陸した。重さ
約4トンの原爆と5500ガロンの燃料、
12名の搭乗員とさまざまな機材の為、
機は重かった。2600メートルの
滑走路をいっぱいに使っての離陸に
なった。
続いて「91号機・ネセサリー・
イービル(必要悪)号」と、「89
号機・グレート・アーティスト号」の
随伴機2機も離陸。3機のB29は、
一路日本を目指した。マクォート機長
のネセサリー・イービル号には、高速度
撮影用のカメラが、チャールズ・
スゥイーニー機長のグレート・
アーティスト号には、パラシュート
付きの科学観測装置が積まれていた。
いずれも、原爆の効果を正確に記録する
のが目的だった。なおチャールズ・
スゥイーニー少佐は、長崎原爆投下機
「ボックス・カー」の機長を務める事に
なる。
漆黒の闇。進路北西246。高度
2800メートル。2200馬力4基
のエンジン音が、エノラ ゲイの細長い
鉄の胴体内に響く。コクピットの計器類
の紫外線灯が、緑色に妖しく光る。
搭乗員はそれぞれの持ち場で、さまざまな
計器類をチェックしていた。
通信士・リチャード・ネルソン伍長は、
IFF(敵味方識別装置)やマイカービーコン
(無線標識)、自動方位測定器を操作していた。
レーダー操縦士・ジェイコブ・ビーザー中尉
は、方位探知機とスペクトル分析器・追跡用
レシーバーなどの「機械」と向き合っていた。
彼はナチスをやっつける為、真珠湾攻撃の翌日
(1941年12月8日)に陸軍航空隊に入隊
した男である。12人の搭乗員中ただ1人の
ユダヤ教徒だった。「人間」と向き合うの
ではなく「機械」と向き合う事が、彼らの
「戦争の現場」だった。
エノラ ゲイ機長・ポール・チベッツ
大佐は、1915年生まれで当時30歳。
ヨーロッパ戦線では、B17爆撃機の
パイロットだった。彼のポケットには、
12本のカプセルが入っていた。致死量
の青酸である。もし作戦に失敗して捕虜
になった場合、彼らには2通りの選択が
出来た。ピストル自殺か服毒自殺である。
日本の軍隊の場合、「戦陣訓」が徹底的
に教育されていた。「生えて虜囚の辱め
をうけず。死して罪禍の汚名を残すこと
なかれ」として、捕虜よりは自殺を選択
した。しかし人命を重んじるアメリカ軍
のやり方としては、「青酸カプセル」は
異例の事だった。
副機長・ロバート・ルイス大尉は、
当時26歳。爆撃手・トーマス・フィレ
ビー少佐は「無口な爆撃専門家」と
呼ばれ、原爆投下のボタンを押した男
である。レーダー技師・ジョー・
スティボリック中尉。航法士(ナビ
ゲーター)・セオドア・ヴァンカーク中尉。
整備員・ドゥゼンバリー軍曹。機尾銃座射手・
ジョージ・キャロン軍曹。モルモン教徒の
電子テスト係・モリス・ジョップリン中尉。
彼は放射能に関する科学知識を持っていた、
数少ない男である。兵器係は海軍のパーソンズ
大佐。副機関士兼副射手・ロバート・シュー
マード軍曹。
彼らはいずれも、全米陸軍航空隊から
慎重に選び抜かれた下士官以上の将校
たちで、戦闘のプロフェッショナルたち
である。年齢は25歳から30歳で、命令
を忠実に実行する、愛国心にあふれた軍人
だった。彼らは、祖国の同胞たちを救う為
に、必殺の武器を抱えて飛ぶ「騎兵隊」の
ような英雄的行動であると固く信じていた。
事実搭乗員たちは、離陸前に映画班や
写真班の照明を浴びた「スター」であり
「ヒーロー」だった。騎兵隊は常に正義で
あり、インディアンは悪そのものだった。
軍隊という、命令によって動く組織に
あっては、彼らに自由意志は存在しない。
彼らは、命令し判断・決断する者たちの
意志の反映であり、「道具」にすぎない。
彼らがいかに信仰心厚いキリスト教徒・
ユダヤ教徒・モルモン教徒であったと
しても、それらの個性は無視され、
エノラ ゲイの搭乗員として抽象化
出来た。
また命令する者たちは、彼らの純粋な
愛国心を巧みに利用する。仮に彼らの
1人が、これから行う行為の恐ろしさに
気がついて反乱を起こしたとしても、
代わりの誰かがやる。自らは冷笑され、
軍法会議にかけられてアラスカ送りに
なるのがオチだろう。しょせん彼らは、
人格無きシステムの中での、使い捨て
の部品にすぎない。「悪魔に魂を売った
男」と名指しされるのは、彼ら12人
の搭乗員などではなく、一握りの戦争の
親玉たちだろう。周囲の反対を押し
切って原爆投下を決断したトルーマン
大統領と、スティムソン陸軍長官ら軍
首脳部こそが、ヒトラーとナチスと同じ
「虐殺王」と呼ぶにふさわしいだろう。
硬質な鉄と機械の胴体の中で、彼らの
戦争心理を推察する手がかりがある。
空戦200回以上、日中戦争と大東亜戦争
を、零戦のパイロットとして終戦まで戦い
抜いた、日本海軍航空隊のエース(撃墜王)
坂井三郎は、著書「坂井三郎空戦記録
(講談社刊)」の中で次のように記している。
彼がパイロットになって間もない昭和
13年、日中戦争の南昌攻撃に際し、
飛行場近くで中国人を機銃掃射し、後に
彼らの死体を発見した時の事である。
「私は今までの数回の戦闘で、幾度か敵機
を撃った。また敵を攻撃した。燃えさかる
敵愾心で攻撃した。しかしその場合、
いつも攻撃の相手は「敵機」であり「敵兵」
であって、そこに「人間」を意識した事は
なかった。今こうして、私に撃たれて死んで
いる「人間」を見ると、麻酔から醒めた時の
痛みのように、心がうずくのである。私は
1人で黙々とそこへ穴を掘り、静かに二個
の死体を埋めて黙祷した。」
この時坂井は22歳。彼は続けて語る。
「私はまだ、戦争に慣れていなかったのだ」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第4話「広島」
─ 1日にして全人類の葬儀は終わる
永い時の経過に、幸運が生み出した
一切 磨きあげ、卓越せるもの一切
すぐれて美しきもの一切 偉大な
王座も 偉大な国土も 一切が深淵
に落ち 一切が一刻にして滅びゆく ─
セネカ(紀元5?〜65年・古代ローマの
政治家・後期ストア派の哲学者・悲劇
作家。教え子に皇帝ネロがいる)の予言詩
第二総軍司令部が置かれていた街・
広島市。1940(昭和15)年の、第5回
国勢調査における人口は、34万3千9百
68人。ほかに軍人4万人、郡部からの移動
1万人。軍需工場などで強制労働をさせら
れていた朝鮮人労働者が、韓国原爆被害者
協会1972年4月発表の数で約5万人。
8月6日朝、広島市には、約45万人の
人々が暮らしていた。
この中には、満州国(中国東北部)から
広島文理科大学や広島高等師範学校に
留学していた中国人留学生数十人、
宣教師や修道女を含む日系アメリカ市民、
ドイツ・ロシア・モンゴル・東南アジア
諸国の市民も含まれている。さらに
広島城の大本営には、B24爆撃機
「ロンサム・レディ号」のパイロットなど
6名の、アメリカ人捕虜もいた。彼らは
祖国から見捨てられ、原爆の犠牲になった。
ETA(到着予定時刻)8時15分。なぜ
朝だったのかという、素朴な疑問がある。
答えはあった。
「日中の時間をなるべく長くして、原爆の
効果をきちんと研究し、写真を撮りたかった」
というのである。普通、こういう行為の事を
「実験」と呼ぶ。
午前3時。エノラ ゲイ機内では、
ウラン235などの最終起爆装置の
取りつけにかかっていた。しかし
この時点で、二重三重の安全装置に
守られている「リトルボーイ」は、
まだ目覚めてはいない。直径71
センチ、長さ3・5メ―トルの
砲弾型原爆の黒い胴体には、搭乗員
たちがクレヨンで落書きをしていた。
「必勝」「武運長久」というオーソ
ドックスなものに混じって、
「エンペラーを葬れ」というものが
あった。
果たして「リトルボーイ」は本当
に爆発するのか、搭乗員たちは疑問
に思っていた。実験に成功したのは
長崎型「ファットマン」であって、
リトルボーイは理論的産物にすぎな
かったからだ。つまり彼らは、史上
最悪の「人体実験」を行おうとして
いたわけである。
午前5時05分30秒、日の出。
搭乗員たちは晴れがましい気分で、
勝利を確信したという。5時45分
硫黄島上空通過。ここまでの距離、
1160キロメートル。広島まであと
3時間。ゆっくりと高度を9千
メートルまで上げ、進路を西北西
231に変針。四国上空を目指す。
硫黄島の飛行場には、エノラゲイの
アクシデントに備えて、チャールズ・
マックナイト大尉を機長とする代替の
B29「トップシークレット」が待機
しているという、用意周到さだった。
また、鹿児島県大隈半島東方海上に
潜水艦2隻。薩摩半島南西海上に、
海軍のPBY飛行艇1機と潜水艦1隻が
それぞれ待機。搭乗員救出用具を積んだ、
特別武装のB29「スーパーダンボ」も
上空でスタンバイし、海軍の巡洋艦・
駆逐艦と連携しながら、救助協力体制
にも万全を期していた。
この朝は快晴。抜けるような青空が
広がっていた。7月16日、硫黄島
南方海上で発生した台風8号は、
ゆっくりとした速度で西に進み、8月
1日に沖縄から上海東方海上に抜けた。
その後北北西に進路を変え、8月3日
に朝鮮半島の北部に上陸した。台風の
影響で、西日本一帯は8月4日まで、
雨や曇りのぐずついた天気が続いたが、
5日頃から太平洋高気圧が日本列島を
すっぽりとおおった。6日の朝は全国的
によく晴れた、夏の暑い一日が始まろう
としていた。
午前6時30分、リトルボーイに
「赤プラグ」が挿入された。投下すれば
爆発する状態である。
午前7時09分、広島県に警戒警報
発令。警戒警報は、天気予報で言えば
「注意報」にあたる。広島市民は
「定期便」と呼んでいた。昨夜も2度
の空襲警報が出され、何事もなかった。
市民にあまり緊迫感はなかった。この時
すでに、義勇隊や学徒動員、女子勤労
奉仕隊などが各所で、建物の強制疎開
作業を始めていた。
空を見上げると、日ざしはきつかった。
「なして京都と広島だけが無傷なんじゃ
ろのう?」
「きれいな街じゃけん、敵さん、別荘
でも建てるつもりなんじゃろ。」
広島市民は、そんなうわさ話をささやき
あっていた。
警戒警報の主は、イーザリー少佐が
機長の気象観測機、B29「ストレート
フラッシュ号」だった。午前7時30分、
エノラ ゲイに入電。
「Y3─Q3─B2─C1」
暗号電文はチベッツ機長が翻訳した。
「広島上空、低中高とも雲量10分の
3以下。第一目標を爆撃せよ。」
続いてウィルソン少佐の「ジャビット
三世号」、テイラー少佐の「フルハウス
号」から入電。
「小倉・下関方面、9千メートル上空
まで快晴。」
「長崎上空、わずかに雲あり。されど
天候に問題なし。」
チベッツ機長は搭乗員全員に告げた。
「広島だ。」
午前7時30分、原爆搭載機「エノラ・
ゲイ」、科学機材搭載機「グレートアー
ティスト」、写真撮影機「ネセサリー・
イービル」のB29・3機編隊は、四国
上空から広島市西側と南側の高射砲台を
避けて、東側の竹原方面から侵入。
進路を西にとり、広島上空を目指した。
午前7時31分、広島県の警戒警報は
解除された。人々は防空壕から出て、
やれやれと胸をなでおろした。あわただ
しい朝の生活が再開された。職場へと
市電に乗り、自転車をこいだ。茶の間
でラジオを聞き、中国新聞を読む人も
いた。配給の米と味噌で朝食の雑炊を
流し込み、「今日も暑くなるな」と、
挨拶がわりに言い合っていた。
午前7時38分、エノラ ゲイは高度
9970メートルまで上昇し、水平飛行
に入った。爆撃手のトーマス・フィレビー
少佐は、ノーデン爆撃照準器に神経を
集中し始めていた。
8時09分。編隊の先頭を飛行する
エノラ・ゲイが、広島市を視野に入れた。
「間もなくIP
に突入。」
IPとは、爆撃投下飛行開始地点の事で
ある。搭乗員全員に緊張が走った。爆撃手
フィレビーは、EP
を捜して照準器を覗いていた。目標地点は
「相生橋」。大田川が、本川と元安川に
分流する地点する地点であった。
「全員、対閃光防御用メガネ着用。」
チベッツ機長の指示が飛ぶ。ニュー
メキシコ州での実験の際、原爆の閃光
は400キロ離れたテキサス州エルパソ
で目撃され、轟音は150キロ離れた
地点にも響いたという。
8時15分。フィレビーは照準器の
十字中心点に「EP」をとらえた。同時
にパーソンズ大佐が、リトルボーイの
自動時限装置を作動させた。エノラゲイ
の爆弾倉が開いた。ネセサリーイービル
のカメラが、その様子を映し撮ってゆく。
同じ頃地上では、NHK広島中央放送局
の古田アナウンサーが、警戒警報の原稿
を持ってマイクに向かっていた。
17秒後、リトルボーイは自動的に
エノラ・ゲイから切り離され、落下して
いった。
「午前8時13分、中国軍管区発令。敵
大型機3機、西条上空を西・・・」NHK
のラジオ放送と同時に、広島市内に再び
警戒警報のサイレンがけたたましく鳴り
響いた。
グレートアーティストの爆撃手・カー
ミット・ビーハンは、「リトルボーイ」
落下を確認すると、パラシュート付きの
爆風測定通信機材3個を投下した。この
作戦のコードネームは「センターボード」。
ルイス・アルバレイス、ローレンス・
ジョンストン、ハロルド・アグニューと
いう3人の科学者が同乗し、計測器の信号
をモニターしていた。
計測器は、高度4300メートルで
パラシュートが開いた。
「きれいじゃねぇ。」
「あれ、なんじゃろうか。」
広島市民は、青空の中にキラキラ光る
物体を見上げていた。
ネセサリーイービルは、後に全世界で
使用される事になる映像を撮影する為
に、90度旋回。エノラ・ゲイは4トン
の重量を失って、フワッと3メートル
上昇。チベッツ機長は右急旋回して、
山陰方向へ急速離脱。グレートアーティ
ストは機体を60度傾け、右155度に
急降下旋回し、南東方向へ離脱した。
午前8時15分と言えば、戦後日本の
世の中ならば、NHKの連続テレビ
ドラマの始まる時刻である。8時15分
17秒に高度9600メートルから投下
された「リトルボーイ」は、爆発する
まで43秒間落下し続けた。
8時16分。この瞬間、広島市民は
全てを根底から断ち切られた。「リトル
ボーイ」のウラン235は、「相生橋」
から南東に200メートルほどずれた、
広島市細工町十九番地(現・大手町一丁目
5─24)島病院上空580メートル地点
で核分裂反応を起こし、摂氏数百万度と
言われる「ファイアーボール」を生み
出した。太陽表面のコロナが、数百万度
あると言われている。つまり地球上に、
小さな人工太陽が出現したのと同じ事に
なる。ファイアーボールからは100分の
1秒後に、大量の放射能が放出され、
1秒後に半径310メートルの球に膨張
した。島病院から南東160メートルの
産業奨励館、現在の原爆ドームあたりを
中心に、広島市民球場や大手町一帯を
すっぽりと包むほどの大きさである。
膨張したファイアーボールは、40
万度の熱線、大量のガンマ線、秒速50
0メートルの衝撃波を同心円状に放射
して、約10秒間輝いた。この間の地面
の温度は、3千から4千度に達したと
考えられている。ファイアーボール内に
いた人間の肉体は、瞬間的に燃え尽き、
蒸発した。おそらく本人は、死んだ事
すら気づかなかったに違いない。この
一瞬で蒸発してしまった死者は、推定で
2万1千人と言われている。
高熱の衝撃波は、産業奨励館屋根の
銅板を熔かし、「死の同心円」を描きな
がら周辺に広がっていった。爆心地
(グランド・ゼロ)から1500メートル
南の山中高等女学校では、校庭で朝礼が
行われていた。生徒の身体は宙に舞い
上がり、地面に叩きつけられた。同時
に肌が焼け、おさげ髪に火がついた。
学校の建物は崩壊し、鉄骨がねじ
曲がった。50人中12人が即死した。
広島市に地獄が出現した。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第5話「命の水」
広島市は、原爆爆発から10秒で
壊滅した。高温高圧の爆風は、秒速
380メートル。1平方メートル
あたり最大12トンの圧力で、同心円
を描くように広がっていった。半径
300メートル以内では、人間は
一瞬のうちに黒焦げの「炭」となって、
地面に崩れ去った。同時にあらゆる
物が燃え、同じく炭化した。
また爆風の圧力によって、人間の
体は上から圧縮されて、眼球・舌・
内臓などが搾り出されて死亡した。
中には、口から溢れ出した胃や腸を
両手で持って歩き、もがき苦しんだ
後に死亡した人もいたと「目撃者」
は語っている。
目撃者? そう、科学的には絶対
生存不可能な、死亡率98・4パー
セントの条件下で、78人もの人々
が生き残ったのである。日本銀行で
18名、富国ビルで16名などで
ある。そのうち2名は、中町と塚本町
の「路上」にいてである。世界最大の
奇跡の1つだろう。その証言によると、
爆発直後は「ピカ(閃光)でもドン
(爆発音)でもなく、真の闇より暗くて
深い闇があった」のだと言う。話を
聞いただけでも、背筋が凍りつく思い
がする。まるで、人類の業の深さを
象徴するような闇ではないか。
爆心から半径700メートル位
までは「全裸地帯」と呼ばれ、肉体
の形は残っているものの、衣服はなく、
皮膚は真っ黒に焼けただれて死んで
いる人がほとんどだった。死亡率
95パーセント。鉄筋コンクリートの
ビールはほとんど全壊。建物の下敷き
になった上に、火災で焼かれた圧死体
も数知れない。熱風で皮膚も肉も内臓
も焼かれ、ドロドロに融けた肉体。
爆風に吹き飛ばされ、全身こなごなに
なった死体。体に大量のガラス片・
コンクリート片・鉄筋・木片などが
突き刺さり、床や壁・天井などに叩き
つけられて、首がちぎれ、手足が切断
され、胴体がバラバラになった死体。
まさに言語を絶する。
高温高圧の爆風は、半径5キロ以内
の建物をほぼ壊滅させ、数多くの人々が
3度の熱傷を負った。この熱傷の後遺症
が「ケロイド」である。人間の皮膚が
20パーセント以上焼けただれると、
生命に危機が訪れる。激烈な痛みと喉
の乾きを訴えながら息絶えた人々の死体
が、街の至る所にあった。
「慈仙寺内で児童が先生を囲んで輪に
なったまま焼死。死体は黒焦げで、男女
の区別がつかない。」
「炊事場の鍋の中に白骨2体発見。妻と
長女のものだと思う。」
「防火用水の中に、年輩の男の人が
入っていた。身体は大きく膨れていた。
腕時計が残っていたのでのぞいてみたら
8時15分を差していた。」
「秋月喫茶店の前に遺体あり。ショック
で飛び出したのかどうか、母体と胎児は
ヘソの緒でつながっていた。」
「恵子は炊事場でジャガイモをむいていた。
そのままで半分胴体が残っていた。」
「父は神棚を拝む姿勢のまま、半分焼けて
死んでいた。」
(NHK広島局・原爆プロジェクトチーム編
「広島爆心地・生と死の40年」より抜粋)
1人1人の状況を書いていてはキリが
ない。だが覚えておいて欲しい。これら
思わず目をそむけたくなりそうな悲惨な
状況の積み重ねが、何十万人という数字
になっているのだという事を。
爆心から南に3・5キロ離れた広島地方
気象台でも、衝撃波で壁に窓ガラスが突き
刺さった。このように数多くの人々の肌に、
大小無数のガラス片が突き刺さった。
また、ガンマ線1万3千ラド、中性子線
1万4千ラド、という放射線が人々を
貫いた。人々は放射線病に襲われた。
歯茎や鼻・毛穴からじわじわと血が滲み、
髪の毛や眉毛がごそっと抜け落ちた。
白血球やリンパ球が急激に減少した。
高熱にうなされ、震えるほど寒くなり、
黒い血を吐いた。苦しんだ後に死が
待っていた。彼らの全身には、紫色の
斑点が浮かんでいた。
人体や建物を粉にした、膨大な量の炭素
の塵は、きのこ雲となって高度1万4千
メートルにまで達した。雲には約200
種類の放射性物質が混在していた。塵は
大気中の水蒸気を集めて、巨大な雨雲に
発達。午前9時頃から約1時間、滝の
ような雨が爆心地北西部に降り注いだ。
「黒い雨」である。水を求めて喉の乾き
を訴えていた人々は、その雨を飲んだ。
30度あった気温が急激に下がり、
ぞくぞく震えるほどの寒さになった。
一方、原爆投下20分後には、市内
の各所で火柱が上がり始めた。炎が炎
を呼び、炎の竜巻となって吹き荒れた。
遺体の上にも、まだ生きている人にも炎
は襲いかかった。その肉体は、青い炎を
出して燃えていた。街中の空気は、ドロ
ドロと茶色っぽく淀んでいた。
誰もが水を求めていた。防火用水の
中には、必ず死体があった。血の色と
混じって、赤黒くドロッとしていた。
大田川・天満川・元安川・本川・京橋川・
猿股川。水を求め、火災を逃れて、人々
は川に飛び込んだ。この年の梅雨は長く、
大田川が氾濫するなど川の水量は
多かった。水は黒く濁っていた。
広島市立第一高女の44名は、元安川
に飛び込んだ。誰もが半死半生の体
だった。本来ならこの場所は、桜並木が
美しい所だった。夏は子供たちが水遊び
をして歓声を上げていた。彼女たちは
雷雲と火炎と黒煙で淀んだ空を見ながら、
「天皇陛下万歳」を三唱し、「君が代」
を合唱しながら死んでいった。
広島二中の生徒・320人も、川の
中にいた。最期に「海ゆかば」を歌い、
天皇陛下万歳を唱えながら息絶えて
いったという。
午前11時。中国新聞社社員・松重
美人は、爆心地の南南東2・3キロ
地点に立っていた。「広島師団司令部
報道班員」の腕章をして、カメラを
持っていた。だがあまりの惨状に、
シャッターを切る事が出来なかった。
かろうじて歩ける避難者が、助け合い
ながら宇品方面を目指していた。服は
着ているが、裸足の者が多かった。松重
は迷いを断ち切り、歯を食いしばって
シャッターを切った。そして非難民や
死体、廃墟となった街を撮り続けた。
その頃、江田島幸の浦船舶練習部
の「第十教育隊」に、救援隊が組織
されていた。少年兵1500名のこの
部隊は、陸軍特別攻撃隊、すなわち
「神風特攻」の訓練中だった。また
軍医1名・衛生兵12名・衛生下士官
2名・衛生見習士官1名の16名から
成る医療救護班も、広島市内へ向かった。
広島市内45の病院中、42の病院
は壊滅した。3施設と医師30名・看護
婦126名が、かろうじて生き残った。
彼らは当日から、仮設の救護所を設けて
負傷者の手当てにあたったが、ほとんど
お手上げの状態だった。軽いやけどに
対して亜鉛華油か亜鉛華軟膏を塗ること
ぐらいしか出来なかった。薬品油が
なくなると、食用油や機械油で代用した。
外傷用のヨードチンキやマーキュロ
クロムも不足がちという現実だった。
被爆した負傷者は、安佐・佐伯・
賀茂などの郡部へ向かって避難しよう
と、必死になって歩いた。途上にある
学校・寺・役場などの施設は、負傷者
で溢れた。その場所で力尽き、足洗い場
の泥水を口にしてから死んでいった人々
も数知れない。似島の陸軍病院には、
約2万人が押し寄せた。
午後1時。黒い雨の集中豪雨の後
も、雷雲は断続的に発生して横川一帯
が激しい雷雨に見舞われているにも
かかわらず、市内の火災はいよいよ
激しく拡大していった。黒煙の柱が幾筋
も立ち昇っていた。救護活動は遅々と
して進まなかった。鉄道も電話も使用
不能。連絡は徒歩の伝令という有り様
だった。それでも、第二総軍司令部は
呉鎮守府経由で大本営に、「広島市壊滅。
未だかつてない高性能爆弾によって、
言語を絶する被害をうけた」と報告した。
大本営参謀本部第一部長・宮崎周一中将
は「いわゆる原子爆弾ならんも発表に考慮
を要す」と、はっきりと広島に原爆が投下
されたという認識を示している。その日の
午後、侍従武官・蓮沼しげる蕃を通じて
天皇裕仁にも、広島の惨劇は伝えられた。
午後6時。気温28度。火災はまだ
続いていた。広島県知事・高野源進は、
比治山下の多聞院に県防空司令部を設置
して、内務省や近隣諸県に医療や食糧
の緊急援助を依頼した。広島城の大本営
が壊滅した陸軍は、陸軍船舶部(暁部隊)
の佐伯文郎を司令官として、広島市内の
警備・遺体処理・道路の復旧を主とする
部隊を組織した。
海軍は、呉鎮守府を本部とする救護班
が出動した。警察・消防・近隣医師会・
婦人会・町村役場・地域義勇隊が、
それぞれ独自に救護班を組織した。
軍は道路を確保する為に、瓦礫と遺体を
道の両側に積み上げた。婦人会や地域
義勇隊は、炊き出しを中心にして救護
活動を続けた。地獄の状況下にあって、
人々は助け合いながら徹夜で働いた。
7日になると、山口・浜田・加古川・
福知山・岡山の陸軍病院から医療救護
班が到着。警察などと協力して、トラック
などで負傷者を移送する作業が本格
化していった。彼らは呉海軍病院や、
遠く島根や山口の病院へと移送されて
いった。一方遺体は西連兵場などに
集められ、重油をかけて燃やされた。
それでも道端に積み残された遺体は、
高さ2メートルの壁を作っていた。
こうした救護活動に従事した人々の
多くが、二次被爆者として白血病や
癌に侵され、死んでゆく事になる
のである。
エノラ ゲイは原爆投下後、南方へ
離脱。8時16分には、爆心から約
8キロ離れた上空を飛行していた。
閃光に続き、衝撃波が2回あった。
機体が細かく軋み、やがて静かになった。
搭乗員たちは緊張感から半ば解放され、
重たい疲労感に襲われた。仕事のない
者は、仮眠をとったりキューバ葉巻
「ロミオとジュリエット」をふかしたり
していた。食事はサンドイッチとパイ
ナップルジュースだった。
テニアン基地に攻撃成功の知らせが
届いたのは、午前10時半の事だった。
湧き上がる歓声と拍手。誰もがお祭り
気分になった。早速、戦勝祝賀会の準備
が始まった。数百個のパイ料理、数千個
のホットドック、大量のビールやレモ
ネードが用意された。掲示板には本日の
イベントとして、オールスター・ソフト
ボール大会、映画「おやすい御用」の
上映会などが、盛りだくさんに書かれて
あった。
午後2時58分。エノラ・ゲイは
テニアン北飛行場に無事帰り着いた。
映画班や写真班をはじめ、多数の仲間
が搭乗員たちを迎えに出た。カール・
スパーツ将軍がチベッツ大佐に殊勲
十字章を贈った時、興奮はピークに
達した。まさに英雄たちの凱旋だった。
鳴り止まぬ歓声をよそに、搭乗員たち
はただただぐっすり眠りたいと願って
いた。彼らが投下した原爆「リトル
ボーイ」による直接の死者は、24万人
以上と推定されている。
トルーマン大統領はその頃、ポツダム
会談を終えて巡洋艦オーガスタ艦上に
あった。グラハム大尉がトルーマンに、
原爆投下成功の極秘電報を手渡した。
トルーマンは喜びのあまり、思わず
グラハム大尉の手を握って言った。
「これは歴史の中で、もっとも偉大な
出来事だ。」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第6話「長崎市浦上」
8月7日朝。天皇は侍従長・藤田
尚徳に、広島の状況を詳細に報告
するよう命じた。その日の夕方陸軍
は、広島に参謀本部第二部長・有末
精三中将を団長とする調査団を派遣
した。調査団の中には、この年の6月
に原爆研究を中止した、理化学研究所
の仁科芳雄博士も同行していた。一行
は飛行機トラブルにより、8日の夕方
広島入りし、原子爆弾が投下された事
を確信した。
淵田美津夫海軍中佐。彼は運命の糸
に導かれるように、焦土と化した広島
にやって来た。淵田は日米開戦の発端
となった、ハワイ真珠湾攻撃の航空
戦闘隊長だった。1941(昭和16)
年12月7日午前6時(ハワイ時間)、
淵田は空母赤城の一番機に乗り込んで
発艦。アメリカ太平洋艦隊の基地・
真珠湾を目指した。
日本軍艦爆隊や雷撃隊が、アメリカ
の主力戦艦に800キロ爆弾を命中させ
ているのを見届けた淵田は、日本軍
司令部に「トラ・トラ・トラ(われ奇襲
に成功せり)」と打電した。軍人として
の絶頂期だったのかもしれない。それ
から4年。淵田は呆然として広島の廃墟
に立っていた。
「ノーモア・ヒロシマ」と日本人が
言えば、「リメンバー・パールハーバー」
とアメリカ人が言い返す。淵田は2つの
言葉の板ばさみになった。戦後、淵田
はキリスト教に改宗し、1952(昭和
27)年洗礼を受けた。渡米して全米各地
1千ヶ所あまりを布教して回った。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは
何をしているのかわからずにいるのです。
(ルカによる福音書第23章34節)」が
淵田の座右の銘だった。
7日・8日と、日本は米軍に対して、
何の応答もしなかった。米軍はB29
による焼夷弾爆撃を、淡々と続けた。
内閣情報局は、原爆投下の事実を公表
する事に強く反対した。作家の大佛次郎
は、日記に次のように書いている。
「8月7日/広島・呉の知人からの電話
で、広島に投下されたのが原子爆弾
らしいと知る。8日/大本営発表、例の
如く簡略なもので、損害若干である。
革命的新兵器の出現だということは、国民
は不明のまま置かれるのである。
9日/その後も新型爆弾に対する昨日と
同じ注意。毛布などをかぶれを繰り返す。
国民を愚にした話である。真偽は知らず、
今日は長崎に同じものを投下
したというが、一切発表はない。隠す
つもりらしいのである。」
朝日新聞に「原子爆弾」の活字が登場
するのは、11日になってからだった。
北九州八幡工業地帯に224機、広島県
福山市に151機のB29が爆撃の為に
飛び立った8日夕刻。東郷茂徳外相は
宮中地下室に参内し、天皇に拝謁。
「原爆投下の惨状あまりにもひどく、
もはやポツダム宣言受諾やむなし」と
言上した。天皇は東郷に賛同し、「なる
べく早く戦争の終結を見るように取り
運ぶ事を希望す」とのお言葉を述べら
れた。
同じ頃、モスクワの日本大使館・
佐藤大使のもとに、ソ連政府の対日
宣戦布告文が届いていた。またテニ
アン島の第509混成部隊に対して、
第二十航空野戦命令書第17号が発令
された。特殊爆弾による2度目の攻撃。
第一目標・小倉。第二目標は長崎。
機体ナンバー7292の77号機・
B29「ボックス・カー」は、黄色い
エナメル(尾翼は黒)で塗装された
プルトニウム型原爆・ファットマン
(太った男)を爆弾倉に呑み込み、
未明の出撃を待っていた。
9日午前0時。ソビエト軍は対日
参戦を決行。満州国境を越えて、怒涛
の進撃を開始した。テニアン島では、
ジョージ・マクォート機長の88号機
が小倉へ、チャーリー・マクナイト
機長の95号機が長崎へ、気象観測機
として飛び立とうとしていた。
午前2時50分。ボックスカーの
搭乗員13名の乗り込みが完了した。
機長・チャールズ・スウィーニー少佐、
25歳。5月まで第393爆撃戦隊
の隊長だった。エノラ ゲイ右翼
「グレートアーティスト号機長」に
続き2度目の出撃である。副機長・
ドン・オルバリー大尉。沈着冷静な
戦闘のプロ。第三操縦士・フレッド・
オリビー中尉。爆撃手は照準器の達人、
カーミット・ビーハン大尉。航空
機関士・クハレック特務曹長。ナビ
ゲーター・ジム・ヴァン・ペルト大尉。
尾部銃撃手・パピー・デハート見習
曹長。無線係・スピッツァ軍曹。
走査器係・ギャラガー軍曹。
レーダー係・エド・バックリー軍曹。
それに追加乗員3名。原爆投下指揮官・
フレデリック・アッシュワーズ海軍
中佐、33歳。助手・バーンズ海軍
中佐。放電探知装置担当・ジェイコブ・
ビーザー中尉。
午前2時56分、ボックスカーは
離陸準備を完了し、4・5トンの
ファットマンを積み、3時ちょうどに
離陸した。その2分後、フレデリック
Cボック機長の計測機器搭載機
「グレートアーティスト号」、
ホプキンズ機長の写真撮影機「ビッグ
スティンク(大騒ぎ)号」が離陸して
いった。
広島作戦の時と同様に、硫黄島基地
に代替のB29・1機。九州の大隈半島
と薩摩半島沖に、海軍の潜水艦や水上艇、
特別武装のB29「スーパーダンボ」
4機が、護衛と救出を兼ねて待機して
いた。
午前4時。外務省ラジオ室と同盟通信
は、モスクワ放送のソ連対日参戦の
ニーュースを傍受。この知らせは直ちに、
外相の東郷茂徳と内閣書記官長・迫水
久常にもたらされた。午前8時、東郷と
迫水は、小石川丸山町の鈴木貫太郎首相
宅を訪問。終戦の意志を確認した。東郷
は次に、海軍省の米内光政海軍大臣を
訪ねた。米内も終戦に異議は唱え
なかった。
午前9時55分。内大臣・木戸幸一
が天皇に呼ばれた。木戸は天皇に、ソ連
参戦を知らせた。天皇は終戦を決断し、
その旨を鈴木首相へ伝えるよう、木戸
に申し伝えた。鈴木首相は天皇の意向
を木戸から聞くと、拝謁せずに首相官邸
へと向かった。
ボックスカーは硫黄島上空を通過後、
高度を上げながら西北西に進路をとり、
薩南諸島方向へ向かった。この間に
写真撮影機「ビッグスティンク号」が
高度を誤り、1万2千メートルまで上昇
してしまった。この為ボックスカーは、
待ち合わせ場所の屋久島上空で旋回
するハメになった。だがいくら待っても
現われない。スゥイーニー機長は2機に
よる作戦決行を決断し、北九州小倉上空
を目指した。
この日は全国的に快晴の天気だったが、
前夜の焼夷弾爆撃による火災の煙で、
小倉兵器庫の上空に黒雲が漂い、爆撃
照準機に目標をとらえる事が出来
なかった。おまけに日本軍の高射砲が
数発飛んできた。高度は完璧だった。
零戦10機も接近してきた。燃料も不足
してきている。アクシデント続きに、
スウィーニー機長は苛立った。もたもた
している場合ではない。ファットマン
を落とさずに帰るわけにもいかない。
スウィーニー機長は、小倉上空を
10分間旋回した後、再度決断した。
「長崎だ。」
午前10時、ボックスカーは第2目標
の長崎へ向かった。午前10時55分、
長崎上空。爆撃手・カーミット・ビー
ハン大尉は、第1目標の三菱重工長崎
造船所を求めて、長崎港の海岸線に
注意していた。だがここでも雲に邪魔
された。
ボックスカーは、長崎上空を旋回
しながら飛んでいた。スウィーニー
機長がレーダー爆撃を決断しようとした
時、ビーハン大尉が叫んだ。
「雲の切れ間に第2目標発見。」
即刻、スウィーニー機長の指示が飛ぶ。
「ようし。目視投下用意。全員対閃光用
眼鏡着用。」
第2目標とは、三菱重工長崎兵器
製作所の事である。長崎の市街地から、
北に約2キロメートルほど離れた場所
にあった。この「第2目標の第2目標」
は、運命のいたずらに翻弄されながら、
爆心地へと変貌してゆく。午前11時
01分20秒。B29「ボックスカー」
の爆弾倉から、長さ3・5メートル、
直径1・5メートル、重さ4・5トン
の、ボテッとした形のプルトニウム型
原爆「ファットマン」が投下された。
11時02分。目標から北に500〜
600メートルずれたファットマンは、
松山町のテニスコート上空530
メートル付近で核分裂反応を起こし、
巨大なファイアーボールを発生させた。
長崎市北部の爆心地から半径2キロ
以内には、長崎医科大学、長崎医科大学
付属病院、三菱病院浦上分院、浦上第1
病院、浦上天主堂、長崎刑務所浦上支所、
城山国民学校、鎮西学院中等部などの
施設があった。広島の時と同様、巨大な
ファイアーボールの出現によって、人間
は瞬時にとけ去るか、黒焦げになって
即死した。建物は衝撃波で全壊した。
原爆は、病院・学校・教会といった
文教施設を直撃した。爆心地である浦上
地区は、住民の約半数がカトリックの
信者だった。原爆を命令した者や投下し
た者、投下された者が皆カトリックの
信者だった事になる。
広島同様、長崎にも多くの外国人が
暮らしていた。強制労働に従事させ
られていた、推定1万3千人前後の
朝鮮人。福建省出身の在日華僑200人。
牧師や修道女として来日していた、連合
国側の市民などである。医者も看護婦も、
入院患者も医学生も、浦上天主堂のマリア
像もロザリオも、ジュネーブ条約第2章
「傷病兵の保護」などという国際法も、
すべてが一瞬のうちに消えてしまった
のである。そして残ったのは、放射能障害
で苦しむ人々と無残な死体と廃墟の街・・
ファットマンによる直接の死者は、約
4万人と言われている。
永野長崎県知事は、防空本部の防空壕に
いて無事だった。彼は西部軍管区参謀
長らに電報を打ち、手持ちの情報を伝えた。
「敵B29、長崎に新型爆弾投下」の情報
は、福岡・熊本・佐賀の近県に臨時
ニュースとして伝えられた。これを受け、
諫早・大村・針尾の海兵団に即刻医療
救護班が編成された。この日の午後には、
諫早海軍病院の軍医2名、看護婦8名を
含む13名が現地に到着した。続いて
島毅を隊長とする、針尾海兵団第1次
救護隊が到着。大村海軍病院、佐世保
海軍病院の軍医・看護婦が続いた。
また、奇跡的に軽症で済んだ長崎医科
大学外科学教授・しらべらいすけ調来助
ら、16名の医者・看護婦・学生も、当日
午後から医療救援に従事。浦上第1病院の
医師・秋月辰一郎らは、翌日から診療活動
にあたった。誰もが、地獄のような状況下
にあって、不眠不休の治療救援活動を続け
ていた。
午前11時50分。15坪程の狭くて
蒸し暑い宮中地下室に、鈴木貫太郎首相、
東郷茂徳外相、米内光政海相、阿南惟幾
(これちか)陸相、梅津美治郎
参謀総長、豊田副武軍令部長の
6名に加え、平沼騏一郎枢密院議長と
陸海軍の軍務部長が陪席して、最高戦争
指導会議の「御前会議」が開かれた。
天皇の終戦決断に対し、東郷・米内・
平沼が賛同し、阿南・梅津・豊田が反対
した。
会議は平行線のまま延々と続き、休憩
を挟んで深夜にまで及んだ。8月10日
午前2時20分。御前会議の場で天皇は、
ポツダム宣言受諾を最終決断した。世に
言う「聖断」である。昭和天皇・裕仁
44歳。宮中上空には、月が煌々と輝い
ていた。
長い夜が明けた。午前6時45分、
外務省電信課はスイスの加瀬俊一、
スウェ―デンの岡本季正両公使宛てに、
ポツダム宣言受諾の電報を発信した。
この日の夜には「大日本帝国無条件降伏」
のニュースが全世界に流れ、アジア・太平洋
全域では大祝賀ムードに酔いしれた。第二次
世界大戦が終わろうとしていた。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第7話「原爆投下はなかった」
1945(昭和20)年8月14日
深夜。陸軍航空士官学校生徒隊付
隊長・畑中健二大尉と上原重太郎
大尉らは、クーデターを計画。天皇
が終戦の詔勅を録音したレコード
を奪おうとした。近衛第1師団長・
森赳中将に決起を促した。森は
これを拒否。畑中と上原は、
ピストルと刀で森を殺害した。
しかしこの反乱は、朝5時まで
には鎮圧され、畑中らは自決した。
8月15日午前5時30分。
永田町の陸軍大臣官邸内大臣室
にて、陸相の阿南惟幾大将は、
「一死以テ 大罪ヲ謝シ奉ル」と
遺言し、切腹して果てた。楠正成
の忠義を尊敬していた、標準的な
軍人だったという。
この日は、東北・北海道地方は
曇りがちで涼しく、東京から西は
晴れて蒸し暑かった。午前6時半。
太平洋艦隊司令長官・ハルゼー提督
は、戦艦ミズーリの艦上にあって、
航空機による攻撃中止命令を発した。
日本の上空から、ようやく爆撃機の
姿が消えた。
正午。NHKのラジオ放送が、
昭和天皇の終戦の詔勅を、全国民
に向けて発信した。当日の朝日新聞
は「大東亜戦争は遂にその目的を
達し得ずして終結するのやむなきに
いたった。科学史上未曾有の残虐
なる効力を有する原子爆弾と、これ
に続いて突如として起こったソ連の
参戦とは大東亜戦争を決定的な
段階にまで追い込んだ」と、終戦に
至った経過を説明している。
この「玉音放送」の1時間前、
蒋介石は重慶中央放送局から中国
および全世界に向けて、日本の
無条件降伏をラジオで告げた。
「〜満州事変から数えれば14年余。
日本の中国に対する侵略行為はここに
終結した。その間、中国国民が受けた
苦痛と犠牲、圧迫と汚辱は数限りない。
日本が侵略した区域は、東北4省
(満州国)をはじめ、河北から広東、
広西まで23省にのぼり、爆撃などの
被害を受けなかったのは、チベット、
外蒙などの辺境地域だけであった。
この間戦闘は3万8千931回に達し、
331万1419人の将兵が死傷した。
非戦闘員の死傷も842万人に達し、
さらに一家離散、飢餓などの被害者
を加えれば、その数は膨大なものに
なる。
一方、公私有財産の直接的損失は、
掌握出来ただけで、略奪された銀行
の金銀、破壊された産業施設、交通
施設などを、1937年現在の米国
ドルに換算して、313億3千13万
6千ドルに達する。(同年の日本政府
支出7億7千万ドル)
私はこれが世界で最後の戦争に
なることを希望するとともに、日本
に対する一切の報復を禁止する。
中華民族が伝統とする至高至貴の
特性は、「旧悪を念ぜず、人と善を
なす」である。決して日本人民を敵
とせず、また敵人のかつての暴行に
対して、報復を加えないものとする。」
この放送は後に「徳をもって怨みに
報いる」の言葉で呼ばれ、中華民国が
日本に対処する基本的信念になった。
事実中華民国政府は、日本に賠償金
を要求せず、なけなしの輸送機関を
総動員して、日本人の全員帰国を
実現させている。親日派・蒋介石の
「仁愛」は、敗戦国日本の救いと
なった。
一方、8月15日にフイリピンの
マニラにいた、アメリカ太平洋方面
陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー
元帥は、トルーマン大統領より連合国
最高司令官に任命された。8月28日
午後2時05分、マッカーサーは愛機
「C54・バターン号」のタラップ
から、コーンパイプをくわえ、神奈川県
厚木飛行場に降り立った。
占領軍は早速、連合国最高司令官
総司令部(GHQ)を設置し、農地改革、
労働改革、財閥解体、教育改革、言論
の自由などの民主化政策を強力に推進
した。
1946(昭和21)年5月からは、
極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷
された。東条英機元首相ら7名が、
A級戦犯として絞首刑。終身禁固16名。
BC級戦犯5700名のうち、死刑
985名、無期懲役475名。
キーナン首席検事官は、マッカーサー
やイギリス政府からの進言をうけて、
6月18日、東京裁判における天皇
訴追問題は不起訴とした。同年11月
3日、前文及び11章103ヶ条から
成る「日本国憲法」が公布された。
それは象徴天皇制、基本的人権の保障、
二院制の民選議会などを骨格とし、
戦争の永久放棄をうたっている。
「第二章戦争の放棄(戦争の
放棄・戦力の不保持・交戦権の否認)
第九条日本国民は、正義と秩序を
基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と武力による威嚇
または武力の行使は、国際紛争を解決
する手段としては、永久にこれを放棄
する。
二・前項の目的を達するため、陸海
空軍その他の戦力はこれを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
歴史には、表もあれば裏もある。言論
の自由という表看板とはうらはらに、
GHQは日本に対し、原爆に関する報道
を封じ込めた。原爆使用が非人道的だと
いう世論が形成され、反米感情が高まっ
てはまずいからだ。
「1945年9月12日付・エルパソ・
ヘラルド・ポスト紙・・広島・長崎で、
残留放射能による死者が続出していると
いう日本側の報道は大嘘だ。(原爆製造
最高責任者だった将軍の談話)」という
記事のように、アメリカ政府は科学者
たちに、「1945年9月末までに、
広島・長崎において原爆の放射能で
苦しんでいる人間はいない」と発表
させた。
さらに日本のマスコミに対し「プレス
コード」を設定し、印刷物をすべて検閲
した。日本の過去の戦争を正当化する
発言、日本は神の国であるとする発言、
米兵の暴行事件、連合国の対日方針
不一致を暴露するもの、そして原爆に
ついてのあらゆる記事である。記者たち
は、原爆について書いても検閲で削ら
れる事を誰もが知っていた。怖かった
のは「発行停止」だった。このように
して、反米的な言葉は全て排除され、
度が過ぎると軍法会議にかけられた。
日本のジャーナリズムが敗戦国の
悲哀を味わう中、間隙を縫って一度
だけ原爆報道は成されていた。8月
22日付朝日新聞西部本社版の記事で
ある。
「残虐の極・原子爆弾 死者八万(軍隊
を除く) 道路には死屍累々」と長崎の
惨状を写真と共に掲載し、吉田記者の
広島被爆体験記、渡辺記者の長崎体験記
を掲載した。以後1952(昭和27)年
夏号のアサヒグラフに、焼けただれた
被爆者の写真が掲載されるまで、原爆
報道は沈黙する事になるのである。
連合国の対日方針不一致の暴露
とは何か。言うまでもなく、トルー
マン対スタ―リンのバトルである。
スターリンは北海道北部の占領と、
東京へのソ連軍駐留(東京分割統治)
を画策していた。マッカーサーおよび
トルーマンはこれを断固として拒否。
原爆の無いソ連としては、これ以上
強引にはなれなかった。
またトルーマン大統領は、1951
(昭和26)年11月から、「パネルD
ジャパン」という、対日心理作戦を
秘密裡に実行した。日本の反米感情を
抑える為、あらゆるメディアを使って
情報操作を行うプロパガンダである。
ジョンМアリソン駐日大使を委員長と
する、PSB(心理戦略評議員会)が
作戦を実行した。その成果もあってか、
広島・長崎の惨状は日本人からも置き
去りにされる事になったのである。
ところがどっこい。広島・長崎の
人々は、原爆の残留放射能によって、
地獄の苦しみを味わっていた。放射能
は骨髄の急性障害を引き起こす。極端
な白血球やリンパ球の減少である。
じわじわと人体を侵し続け、白血病・
甲状腺がん・乳がん・肺がん・多発性
骨髄腫・原爆白内障・染色体異常・
体内被爆児小頭症などのさまざまな
病気となって現れ、死に至るので
ある。病院で、自宅で、がんの激痛
にのたうちまわりながら、やせ細り、
原爆投下を呪いながら、数多くの人々
が無念の死をとげていった。
被爆当日、高温高圧の衝撃波に
よって、大小無数のガラス片が肉体を
貫いた。ガラスは皮膚に刺さり、血管
を切り、筋肉から骨にまでめり込んだ。
40年後・50年後に至るも、体内
からガラス片が出て来る。
街には、原爆で身寄りをなくした
子供や老人も数多くいた。絶望して
自殺する老人。生存の為に暴力団の
手先となって働く子供たち。体や顔
にケロイドの残る、結婚前の女性たち。
広島・長崎の市民にとって、国と国
との戦争は終わっても、原爆との
戦いは始まったばかりだった。
1945年9月初め、チベッツ大佐
やスウィーニー大佐などの「原爆投下」
関係者が、長崎市を訪れた。街には
すでに死体はなく、火傷した人の姿も
見えず、復興に精を出す人々が働いて
いるだけだった。彼らはさほど心の
痛みを感じる事もなく、普通の観光客
になっていた。
原爆孤児の救済に立ち上がったのは、
広島修道院や長崎・聖母の騎士などの、
カトリック系修道会だった。広島・
流川教会の谷本清牧師は、いわゆる
「原爆乙女」と呼ばれる女性たちの
為に、聖書研究グループを組織した。
谷本の呼びかけに答えて、日本ペン
クラブの石川達三らが原爆乙女たちの
治療救済を支援した。また作家の
パール・バックらは、1949年
3月23日、ニューヨークに「広島
ピースセンター」を設立し、反核
運動に立ち上がった。
1957(昭和32)年9月21日。
写真家の土門拳は、広島赤十字・
原爆病院の一室にいた。週刊新潮の
依頼により、戦後の広島を取材に
来たのだった。土門もまた、他の
日本人同様、玉音放送も原爆も過去
の出来事だと思っていた。しかし
土門は、原爆の現実に打ちのめされた。
病室のベッドに寝ている、豊島小学校
6年生の梶尾健二は、急性骨髄性
白血病で間もなく死を迎えようと
していた。
健二は原爆投下当時、母の胎内に
いた。母は8月7日に広島市に入り、
伯母を捜して6日間歩きまわった。
健二は胎内被爆者となった。放射能は、
ゆっくりと時間をかけて人間をなぶり
殺しにしてゆく毒物である。
「先生・・写真を撮って・・」
この世の理不尽を訴えるような健二の
声を、土門は生涯忘れなかった。
日本画家の丸木位里、当時44歳。
彼は父親と多くの親戚を原爆で失った。
8月9日広島着。焼けただれ、死体の
山が連なる街を、彼は一ヶ月近くも
さまよい歩いた。海から川へ逆流した
腐乱死体が、強烈な死臭を放っていた。
位里はそこで、一瞬にして命を絶たれた
数多くの霊と対話し、怒りと絶望の闇を
自らの魂に刻印した。
霊は位里と妻の俊の筆を通じて
形になった。1950(昭和25)年、
位里と俊の共同制作により「原爆の
図 第一部・幽霊」を完成させた。
以後1982(昭和57)年までに
15部を制作。全世界1億人以上の
人々がこの絵を見る事になる。
さらに丸木夫妻は、「南京大虐殺の
図」「アウシュビツの図」「水俣の
図」「沖縄戦の図」などを次々に
発表。人類社会の闇を告発し続けた。
修道中学3年生の平山郁夫は、
爆心地から2・5キロ離れた陸軍
兵器補給廠の材木貯蔵所にいた。
グレートアーティスト号が投下した、
落下傘付き測定機材を目撃した。
彼が貯蔵所内に入ったのと、原爆
の閃光とがほぼ同時ぐらいだった。
爆風。熱い衝撃波。底知れない
恐怖感に襲われた。平山はその後
20時間余をかけて、生口島
瀬戸田町の実家へ避難した。
20代の平山は、白血球の減少
と貧血で何度も倒れ、死の恐怖と
直面した。苦しみもがく友人たち
の姿を夢に見てはうなされた。
のたうちまわる精神の、闇の彼方
に仏教があった。1959(昭和34)
年、平山は「仏教伝来」を描き、
日本画家としてデビューする。だが、
広島の被爆体験はトラウマとなって
克服出来ずにいた。
彼がヒロシマを主題に筆をとった
のは、戦後34年を経た1979
(昭和54)年の事である。「広島
生変図」。画面いっぱいに描かれた
紅蓮の炎。一体の不動明王。全てを
焼き尽くすかのような炎は、平山の
内なる闇を昇華へと導いてくれたの
だろうか。
彼はその翌年から、奈良・薬師寺
三蔵院の、高さ2メートル、幅42
メートルの大壁画制作にとりかかった。
それは、玄奘三蔵がインドに仏教を
求める17年の旅がテーマだった。
2001年1月1日、壁画は完成し、
彼は70歳になっていた。原爆の
後遺症は未だに残っているという。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第8話「ヒバクシャ」
少し架空の物語におつきあい願おう。
A国の王は、対立するJ国の町の住民
10万人を捕虜にした。どの町の住民
を選ぶかは、くじ引きで決めた。捕虜
の大半は、女性や赤ん坊、少年少女や
老人、牧師や修道女、教師や医者と
いった人々だった。A国の王は捕虜
たちを鉄鋼所前の広場に集め、J国
への見せしめの為、捕虜たちを1人
ずつ溶鉱炉へ投げ込むよう、部下の
軍団長に指示した。真っ赤に煮え
たぎった溶鉱炉の中は1400度。
投げ込まれた人間は、骨も残さず
瞬時にとけ去った。
しかし10万人ともなると、大変
な労力を要した。これからも10
万人ずつと考えていた。王はもっと
簡単な方法はないかと思った。
そこで天才と呼ばれている科学者
を呼んだ。科学者は人工太陽を
研究中だった。
「王様、ついに出来ました。」
科学者は薄笑いを浮かべながら
言った。
「この人工太陽を使えば、100
万人の人間をたった1秒以内に
全員とかすことが出来ます。死体
がまったく残りませんから、残虐
だという印象を与えません。D国
の王が極悪人扱いされているのは、
死体を山積みにしたまま放置して、
写真やフィルムに残っているから
なのです。死体さえ消してしまえ
ばいいのです。人間の想像力とは、
しょせんその程度のものにすぎ
ないのです。」
A国の王は、それを聞いて狂喜した。
「これは歴史の中で、もっとも偉大な
出来事だ。」
A国の王は、早速それを実行した。
その被害は予想を遥かに超えた悲惨
なものだった。A国とJ国はその後
同盟関係を結んだ。時は流れ、J国
の長老は言った。「人工太陽の使用
は、法律に違反するとは言えない。」
1946年7月。マーシャル諸島
ビキニ環礁で、戦後初の核実験
「クロスロ―ド作戦」が行われた。
ビキニ島民167人は約200キロ先
のロンゲラップ島に強制移住させられ
た。死の灰はロンゲラップ島にも降り
注いだ。南海の楽園は放射能で汚染
され、1300人以上が被爆した。
同地域での核実験は、計67回に
達した。
人類史は「核」の時代に突入し、
核開発競争が「米ソ冷戦」と共に加速
していった。1949年8月26日、
ソ連初の核実験。1950年1月31日、
トルーマン水爆製造を指示。1952年
10月3日、イギリス初の核実験。同年
11月1日、アメリカ初の水爆実験。
1953年8月12日、ソ連初の水爆実
験。1954(昭和29)年3月1日、
ビキニ水域での水爆実験で日本の漁船・
第5福竜丸被爆。1957年5月15日、
イギリス初の水爆実験。同年8月22日、
ソ連ICBМ(大陸間弾道弾ミサイル)
実験成功。1960年2月13日、
フランス初の原爆実験成功。そして
1962年10月、キューバ危機。米ソ
対立の果てに、全面核戦争寸前の状況に
なった。
1964年10月16日、中国初の
原爆実験成功。きのこ雲を見て、兵士
たちが狂喜乱舞する姿が印象的だった。
続いて中国は、1967年6月17日、
水爆実験にも成功した。中国核の脅威
を感じたインドは、1974年5月
18日、初の地下核実験に成功した。
まさに泥沼の核開発競争だった。かつて
インド原子力の父・バーバ博士が、
ネルー首相に核爆弾製造を進言した事
があった。ネルーは言下に拒否した。
そんな、古き良き時代もあった。
原爆と言えばトルーマンである。
1950(昭和25)年12月1日、
全国紙に「原爆の使用も考慮」と、
もし中共軍の朝鮮侵略が成功した
ならば、共産主義の侵略はアジアや
欧州にも伸びるだろうから、それを
阻止する為に原爆を使用する事も
有りうるという記事が載った。
かくの如くアメリカは、国家
安全保障会議の文書で共産主義を
「絶対悪」と定義し、これと戦い
勝利する事は「神の意志」であると
まで言い切った。水爆開発は、共産
主義と自由主義のどちらかが生き残る
ゼロサム・ゲームになっていった。
核の時代の戦争は、奇妙な論理の
世界だった。使ってはならない爆弾
が戦力の中心であり、それをいかに
使わないかが戦略の中心だった。
そして、使わない為の核弾頭の精度
を上げ、実験し、量を増やしていった。
軍人たちは実行出来ない核戦略を緻密
に組み立てる事に、膨大な労力と経費
をつぎ込んでいった。
では日本はと言えば「非核三原則」
が守られている。1967(昭和42)年
12月の国会で、佐藤栄作首相が強調
した政策で、「核兵器をつくらず、
持たず、持ち込ませず」というもので
ある。アメリカの核積載艦が日本に
寄港する場合、どこかに核だけを降ろし
てくる事はないので、持ち込ませずと
いうのはかなり怪しいところだが、
大体は原則通りという事にしておこう。
核の時代の始まりは、放射能に
対する無知、あるいは無神経から
始まる。その実例をいくつか紹介
しよう。南太平洋やネバダ砂漠に
おけるアメリカの原水爆実験の際、
アメリカ軍兵士たちは、きのこ雲の
サンプルを採集させられたり、
きのこ雲へのパラシュート降下訓練
をさせられている。ハンフォード
核兵器工場では、放射能を大気中に
放射する実験が行われ、地域住民に
白血病や甲状腺がんが多発した。
この工場勤務者には、骨肉腫や
脾臓がんが多発し、先天性奇形の
新生児も500人近く生まれている。
医学的には放射能と白血病・癌など
の病気との因果関係は確定的である
にもかかわらず、これを否定し続ける
政治家や官僚が多数存在している。
旧ソ連では、1965年から
1988年までの24年間に、石油
やガスの資源調査に39回、石油採取
の為に21回、地下ガス貯蔵施設建設
や貯水池・ダムの建設に35回、ガス
採取に1回、核爆発が行われた。
むろん貯水池やダムは死の湖になった
ままである。放射能の危険性について、
知らなかったのか、何も知らされて
いなかったのか。いずれにせよ、大量
の「ヒバクシャ」を生み出した事だけ
は間違いない。
これまでに行われてきた核実験は、
2千回以上にのぼる。旧ソ連のセミ
パラチンスク核実験場は、1991年
8月に閉鎖されたが、周辺住民の
放射能汚染まで消去出来たわけでは
ない。加えてアメリカ・スリーマイル
島やロシア・チェルノブイリでの原発
事故がある。ベラルーシ共和国には、
チェルノブイリ事故で放出された
放射能の約7割が降り注いだ。その
結果、特に子供たちの甲状腺がんの
発生率が、通常の70倍を超えたと
いう。
むろんベラルーシでは、大人たちの
がん発生率も急増している。肺がん・胃
がん・乳がんを中心に、40パーセント
以上の増加率である。もしも欧米社会
が広島・長崎の被爆の現実を直視し、
放射能の怖さを啓蒙していたならば、
かなりの数の「ヒバクシャ」を出さずに
済んだだろう。その数、2500万人
以上と言われている。
1971年、第3次印パ戦争に敗れた
パキスタンのズルフィカル・アリ・
ブット首相は、「草を食み、餓えて
でも核を持つ」と公言した。イスラム
に核兵器を、という合言葉でリビア、
アラブ産油国から資金援助を受け、
中国の技術協力のもと、パキスタン
は核開発を進めていった。
一方1974年の核実験の後、
24年間実験を凍結していたインドで、
1998年インド人民党のバジパイ
政権が誕生した。彼は核兵器導入を
公約し、「インドの誇りの為に命がけ
で取り組む」と国民に訴えた。かくして
「オペレーション・シャクティ(力の
作戦)」はスタートした。5月9日、
ポカラの核実験場に運ばれたプルト
ニウム爆弾を地下へ埋め込み、爆発
実験が行われた。米軍の軍事偵察
衛星の目を盗んでの作業だった。
11日に3回、12日に2回、実験
は続けて行われ、いずれも成功した。
パキスタンは喉元に核ミサイルを
突きつけられた。アメリカはパキス
タンに対し、安全保障の確約は出来
なかった。13日、シャリフ首相は
国防会議を招集した。折しもカシ
ミール州で印パの対立が激化し、
砲撃戦が始まった。国内ではデモが
激しくなり、核実験を行わないと
反政府暴動が起こりかねない状況に
なっていた。パキスタンの世論調査
では、国民の70パーセント以上が
核実験を支持していた。
5月20日、シャリフ首相は決断
した。5月27日午前9時、核兵器が
カーン実験場へ運ばれ、最終点検が
行われた。シャリフ首相はアメリカの
クリントン大統領からの電話で、
25分にわたって実験中止の説得を
うけていた。シャリフ首相は言った。
「私にも実験を止める事は出来ません。」
5月28日、5回にわたってパキ
スタンの核実験が行われた。国民は
歓喜し、「アッラーは偉大なり」を
絶叫した。これを受けてイラン外相が
パキスタンへ飛び、軍事同盟の強化に
ついて話し合った。記者会見の席上、
イラン外相は言った。
「われわれイスラムの核の力が、
イスラエルを抑える」と。
核兵器の「力」に対する信仰は、
決して衰えていない。インドの世論
調査では、91パーセントが
「核実験を誇りに思う」と答えて
いる。広島・長崎の惨状を多少なり
とも知る日本人にとっては、かなり
絶望的な数字と言える。この子供
じみた熱狂は、「原爆でぶっとばせ」
とフットボールチームに声援を送る
アメリカの女子学生の姿と重なるもの
がある。彼らは何も知らないのだ。
1978年、ニューヨークの国連
軍縮特別総会が開催された時、国連
本部の廊下に広島・長崎の原爆被害者
の写真を展示する提案が成された。
だが入手した写真を見て、国連の
方々はあまりの悲惨さに愕然とした。
このような残虐な写真を果たして
展示してよいものか。あまりに刺激的
過ぎるのではないか、というのである。
国連のお偉い方々というのは、
想像力がまるで無いらしい。たとえば
ニューヨークなり、パリなりローマ
なりに、直径300メートルの人工
太陽が突如出現したならば、その中の
人間の肉体がいかなる事になるのか、
想像してみるといい。熱は100万度、
衝撃波の圧力は数万トンと仮定して。
オランダのハーグ国際司法裁判所
では、核兵器の使用は国際法に違反
するかという、あまり意義深くない
議論が成されている。しかも外務官僚
を中心とする日本政府の立場としては、
「違法とまでは言えない」というもの
である。確かに日米安保やら日中関係
など、核保有国との外交関係を考慮
すると、このような不思議な論理に
ならざるをえないのかもしれない。
だがそれでは、せっかく戦力放棄の
平和憲法を持ち、非核三原則を守り、
広島・長崎での被爆体験を持つ国の
発言としては、かなりお寒い。
原爆はナチスに対する怖れから
生まれた。怖れはさらなる怖れを
呼び、さらなる怖れをつくり出す。
1957年4月16日。旧西ドイツ
の核武装計画に対し、ナチスの原爆
製造に抵抗したハイゼンベルクら
18人の科学者は、次のような声明
を発表した。
「いかなる原爆の製造、実験および
使用にも、参加することを断固として
拒否する。」
ハイゼンベルクが「何をしなかったのか」
に対して、あるいは不動の信念に対し
て敬意を表したい。