悪とは
子供の姿が消えた直後、ドスッという衝撃音が屋敷に走る。
そして、その音と共に化け物が弾き飛ばされた。
そのままの勢いで床に叩きつけられ、化け物は呻き声をこぼす。
「ぐっ!」
化け物は、突然自分の体を襲った痛みに顔を歪ませている。
だが、この攻撃に疑問を抱き、同時に頭を働かせていた。
子供の攻勢を受けてから、常にその瞬間移動のような攻撃は警戒していた。
問答の最中から【スキル】について煽っている時まで、油断はしていなかったのだ。
だが、今の攻撃は一切捉えることが出来なかった。
先程の奇襲も、反撃こそ叶わなかったがこの目で捉え、防壁を貼ることは出来たのだ。
だが、反応すら出来ず一方的に攻撃を受けた。
【スキル】で身体能力増加を授かる可能性すら考慮して警戒していたのに、だ。
幾ら考えても、さっぱり分からない。
化け物は、考えれば考える程更に困惑する。
それにより、態勢を持ち直し戦闘態勢に入っても尚、攻撃を仕掛けることが出来ないでいた。
今、化け物の見つめる先には、ボーッと佇む子供の姿がある。
そこは、化け物に数十本のナイフで串刺しにされて絶命した、まだ若かった男性が倒れ臥す場所。
子供は、そこで何をするわけでもなく、ただぶつぶつと何かを呟いていた。
それを化け物が聴き取ろうと集中する。
だが、子供の発する言語は化け物の知らない未知なもの。
その所為もあり呆けたように佇む姿は、何を思っているか想像がつかず、不気味さを醸し出していた。
動かない子供と動けない化け物、この場は静寂で包まれていた。
しばらくその状態が続いていると、不意に子供が動き出す。
うつ伏せで倒れていた男性を、丁寧な手つきで仰向けに寝かし直したのだ。
そして、刺さっていた全てのナイフを抜き取ると、不意に涙を溢した。
「……待ってろ。馬鹿兄貴」
そう呟くと、子供は漸く化け物の方を向く。
その目には黒い炎が灯っており、その手には8本のナイフが握られていた。
そのナイフは、倒れていた男性の腹部に刺さっていたもの。
ナイフの先端は血に濡れており、そこからポツポツと落ちる血液は零れ落ちる涙のよう。
子供は涙を拭い、構えた。
「行くぞ」
化け物は、冷や汗をかいていた。
態勢を立て直しても攻撃を仕掛けず、しばらく様子見していたがそれは悪手だったと後悔する。
子供が此方を向いた瞬間、ゾクっとした寒気が背筋を襲ったのだ。
先程までとは明らかに何かが違う。
その小さな身は幼子のような明るさではなく、はっきりと黒を幻視してしまうような気迫を醸し出していた。
化け物は幾千もの戦いをこなし、幾千もの強者を倒してきたがこんな経験は初めてだった。
自然と、一歩後ずさってしまう。
化け物がしまったと思うも、既に遅い。
それが合図というようにまた、子供の姿が消えた。
その瞬間、化け物は背後に悪寒を感じる。
それを感じたと同時に防壁を背後に貼ろうとするが、遅かった。
既に、化け物の背にはナイフが突き立てられていたのだ。
「ぐああああっ!」
大気が、地震のように震えた。
余程の痛みだったのか、化け物は苦しみもがいている。
「うるせえ……」
その絶叫に、いつの間にか化け物の前に現れていた子供が両手で耳を塞ぐ。
不愉快、いうように眉を顰めていた。
しばらく化け物が叫びを上げていたが、目の前にこの痛みの元凶がいると気付いたのだろう。
漸く叫び声が収まった。
だが、その目は怒りに染まっており、血走っていた。
今にも子供に襲い掛かりそうだ。
しかし、それを気にもせず、追い討ちをかけるように子供は口を開いた。
「遅い……な」
それは、化け物が攻撃を仕掛けてきた男性に先程放った言葉の、意趣返し。
当然、化け物は更に顔を赤く染める。
化け物は、生まれてから今この時まで、最強だった。
幼児期から既に、共に暮らす大人達に引けを取らない実力を保持していたし、外の世界に出てさらなる強者と戦う事もあったが、負けることは一度も無かった。
多彩な攻撃【スキル】に、一時的にだが無敵になれる強固な防御【スキル】を持つ事で、戦いが長引くことはあれど、苦戦となることすら無かったのだ。
それにより肥大化したプライドは、化け物にとって最も重要で守るべきもの。
だが、それをいとも簡単に傷付けられた。
そして、今自分の体を激痛となって襲っている肉を抉る異物の感触に、絶え間無く溢れる血の感触。
それは、感じたことが無い、最強が感じる筈が無い、不愉快な痛み。
その二つは、化け物から理性を奪うには十分だった。
「ああああああ!」
突如、居間にある家具全てが浮かび上がった。
食卓からそこに並ぶ皿やフォーク、更には椅子から壁際に置かれていたタンスまで全て。
そして。
「死ねやあああああ!」
その叫び声と共に、子供に向かい家具が雨のように襲い掛かった。
子供の視界が襲い掛かる家具で埋め尽くされる。
周囲を見渡しても、そこに隙間はない。
子供は、遅い掛かる家具に閉じ込められたのだ。
そして。
ガシャン!
家具が、衝突した。
誰がどう見ても、子供は即死。
「……ハッ、馬鹿めが」
辺りは、ぶつけられた家具や、人の死体と血溜まりなどで、地獄絵図と化している。
その中で、はぁはぁ、という化け物の乱れた呼吸が静かに響いていた。
どれほどそのままだっただろうか。
化け物がその場から立ち去ることを決め、よろよろと歩き始めた。
だが、不意に。
「何処へ行く?」
化け物の背後から。
声が響いた。
化け物はその声で、体に蛇が纏わり付いたような、そんな感覚を覚える。
「まだ、ナイフは余っている」
子供は7本のナイフを器用に持ち、化け物の背後で笑った。
その笑い声は5歳の子供に相応しい、高く、何処か愛らしさを感じさせるものだった。
だが、化け物にはその笑い声は黒く、ゾッとするようなものに聞こえた。
突如、化け物の姿が消えた。
それは、化け物が屋敷に侵入する際に使用した【スキル】。
体を透明にし、他人に見られることが無くなるその【スキル】は逃走や奇襲に役立ち、持っているだけで重宝される。
化け物は、その【スキル】を奇襲以外に使ったことが無かった。
戦闘で逃走する場面など無く、化け物自身逃走の為にこの【スキル】を用いることはないだろうと考えていた。
だが、 本能的に使っていた。
そうしないと、死ぬと感じて。
そして、そんなプライドを傷付けられる出来事が起きたのにも関わらず、化け物の足は居間の窓。
つまり、逃走の為の出口に向かっていた。
もう、化け物の頭には逃走の二文字以外は無かったのだ。
化け物が窓に近付いていく。
あと10歩も進めばもう外だ。
今すぐにこの息苦しさから逃げ出す為に、早足で向かう。
あと9歩。
見つかる筈は無いが、何故か呼吸が荒い。
あと、8。
肩が震え、心臓の動悸が激しさを増す。
7歩。
何故か、自分の故郷がフラッシュバックする。
6。
何故か、懐かしい。
もう、5歩だけ。
何故か、無性に帰りたい。
4歩。
あと、すぐだ。
あと少しで、故郷へ帰れる。
化け物の胸の内に、希望が灯った。
だが、次の瞬間。
「無駄だ」
絶望の鐘が鳴った。
化け物の両足の脹脛に、ナイフが刺さる。
「うわあああああ!」
急に脚に力が入らなくなり、そのまま床に倒れ臥す。
痛みに体を転がせ、のたうちまわる。
既に、化け物の透明化は溶けていた。
だが、化け物の目は居間の窓を凝視している。
転がりながらも、少しでも、と進んでいる。
だが、子供の攻撃は止まらない。
「あと5本」
容赦無く、化け物の両腕にナイフが突き刺さる。
これにより、腕に力が入らなくなり這いつくばることすら叶わなくなる。
だが、まだ終わらない。
「あと3本」
うずくまる化け物の両翼にナイフが降り注ぐ。
翼を貫き床にまでナイフが刺さったことにより、身動き一つとることさえ出来なくなる。
化け物が倒れ臥す床は大量の血に塗れていた。
だが、まだ化け物は死んでいない。
ナイフが食事に使用する為のものだった所為で体には深く刺さらず、致命傷には至っていないのだ。
「あと、一本」
そう言うと、目の前で泣き喚く化け物を見下ろす。
化け物は涙を流し、お父さん、お母さん、と叫んでいた。
「さよなら、だ」
ナイフが、化け物の頭目掛けて振り下ろされた。