心
不意に、屋敷の中に稲光が走る。
その青い光は屋敷の中にいる人々を照らし、その直後、雷の轟が地震のように屋敷を揺らした。
シンの指先に集中していたせいか、突然のことに皆が飛び上がるほどに驚いていた。
中には驚きのあまり、わっという声を上げてしまうものもいる。
シンもそうだった。
シンは、今まで屋敷の庭の外出たことすらの無い程の温室育ち。その影響で気があまり強くないのだろう、雷一つで異常なほどの驚愕と恐怖を感じていた。
皆にとって、余程の光と音だったのだろう。誰も口を開けないでいると、動じた雰囲気のない男性がおもむろに溜息をついた。
「そんなに驚くかよ……。たかが雷っすよ?」
シンを除けば自分が最小年だからか、一応言葉使いは敬語だが、その気安い態度には皆を小馬鹿にしたような雰囲気がある。
流石にその物言いに腹を立てたのだろう。
初老の女性が反論の声を上げた。
「仕方ないでしょう。こんなにも近くであんな大きな雷が落ちたんだから」
言葉使いは落ち着いているように見えるが、声色に隠しきていない怒気が表れている。
「それでも雷は雷。たかが雷っすよ。シンみたいな子供なら分かるけど、大の大人が雷に怯えるのはねぇ」
そう言いながら、やれやれというように顔を左右に振る。
これは彼の悪い癖だ。
彼は、気安く親しみやすい性格のおかげで嫌われているどころか、どちらかと言えば好かれている方だ。
だが、深く考えず思った事をそのまま口に出してしまうので、よくこういった喧嘩を起こしてしまうのだ。
この発言で、完全に怒らせてしまったようだ。
初老の女性は彼を睨みつけながら言う。
「はぁ?貴方だって雷が落ちた時は驚きで肩を震わせていたじゃない!」
どうやら動じていないように見せていただけで、彼も驚きはしていたようだ。
図星を突かれたのか、彼は焦ったように口を開き、反論しようとする。
だが、それはシンの父親の一喝によって阻まれることとなった。
「やめろ!このめでたい日に皆の気が滅入るような事をするな!分かったな?」
誰にでも同じ態度で接する彼だが、自分を救ってくれたシンの父親には頭が上がらないのだろう。
素直に引き下がると、皆に謝罪する。
「……ッ。すみませんでした」
頭が上がらないのは初老の女性も同じようで、場を騒がせた事を謝罪した。
「私も……事を大きくしてしまってすみません」
その光景にシンの父親は満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ早速再開しよう……と言いたいところだが、雷が心配だ。屋敷のすぐ近くに落ちたようだしな。誰か窓から様子を見てくれないか?」
「では、私が確認してきますね」
そう言いながら、窓に近いところに座っていた四十路を超えるであろう男性が立ち上がる。
そして、そのまま窓際に向かい、到着するとぎいぃーーっという音を立てながら窓を開けた。
この居間は屋敷の二階にあるので、窓から軽く見渡せば辺りに何があったかなどはすぐに分かる。
少しすると彼はホッと息をつき、心配そうにする屋敷の者たちの方に振り返った。
「少し見渡してみましたが、特に問題はないようです。これでシン坊ちゃんの誕生日パーティーを再開できますね」
それは、突然だった。
「問題ない?目ん玉ちゃんと付いてんのか?ちゃんと注意深く観察しろよな。まあスキルも使えないゴミが俺を見つけるなんてこと、万に一つもありえないだろうがな」
いつの間にか、それはいた。
外を確認する男性の隣には、誰もいなかった。いなかったはずた。
だが、それはその場に現れた。
そして、それに気が付いだ時には遅かった。
それの外見は、人とあまり差異がない。
目、鼻、口全ての特徴は人と一致し、筋肉隆々な肉体も人とかけ離れてはいない。
だが、ある一点だけは人と大いに異なっていた。
それは、背中に翼がある点。
漆黒の羽に彩られたそれの存在だけで、人ではない、化け物ということが一目で分かる。
そう。
こいつは、化け物なのだ。
鮮血が宙に舞う。
同時に、首が飛んだ。
ドンッ。
外を確認していた男性の体が、頭部を失い、力を失い、命を失い、音を立てて倒れた。
その瞬間、叫び声が上がる。
落雷の時を遥かに超える衝撃に、屋敷に住む殆ど人が叫び声を上げた。
喧嘩があったとしても楽しげな雰囲気が失われていなかったシンの誕生日パーティーは、修羅場と化していた。
「っち。うっせえなぁ。人の癖に、蟻の巣ほじくり返した時と反応が大して変わらねえじゃねーか」
彼は不機嫌そうに眉をひそめ、取り乱す屋敷の者たちを見渡す。
そして、少しすると合点がいったとばかりに手をパンっと叩いた。
「ああ、分かった。人とかいう下等生物は蟻と大して変わらないってことか」
そう言うと、口が裂けたように、化け物は嗤った。
「俺は、蟻の巣を見かけたら、踏むタイプだ」
我先にと、居間の出入り口から逃げ出そうとする集団の中心で爆発が起こる。
吹き飛んだ。
血が、体が、数人の命が、一瞬で。
吹き飛ぶものの中に、ロケットペンダントがあった。
それは、シンのお母さんのようだった存在。いつも優しく、シンに温かく接してくれていた彼女が常に身につけていたもの。
そのロケットペンダントの蓋は爆発で吹き飛び、中にあった絵が見えるようになっていた。
彼女がいつも自慢するその絵には、シンと彼女が笑顔で一緒に描いてある。
だが、今その絵に描かれる彼女の顔は血に濡れていた。
「うわあああああ!」
屋敷で数少ない、戦闘経験のある男性。
いつもはヘラヘラしていて、誰にでも気安く、すぐに喧嘩を起こす、シンのお兄さんのような存在。
彼は食卓に置いてあるナイフを手に取ると、化け物に向かって走り出した。
生き残っていた全てのものが祈った。
どうかその化け物を殺してくれ、と。
だが。
「おっそ」
その一言で、片付けられた。
食卓に並ぶナイフが突然宙に浮き、彼を串刺しにした。
そして、数十という数のナイフを体で受け止め、簡単に彼は絶命した。
「はぁ。雑魚ばっかり、か。面白くもねえ。さっさと片付けるか」
その一言と共に、化け物の周りに、無数の鏡のように青い氷の塊が生み出された。
「死ね」
そして、そう化け物が言うと氷の塊が銃弾のように屋敷の人々を狙い撃ちにした。
「シン!」
その声と共に、女性が飛び込んでくる。
彼女は常にシンに対して厳格であり、壮厳な態度を貫ぬき、どこまでもシンを愛していたシンの先生のような存在。
彼女がシンを正面から抱きしめると、次の瞬間ドスッという音と共に、シンに衝撃が襲う。
彼女は、シンを襲うはずだった氷の塊を自らの体で受け止めシンを守ったのだ。
彼女はゴフッと血反吐を吐きながらも、シンの目を見つめる。
「シン、お願い、生きて。…………愛してる」
そう彼女が言い残すと、急にシンに彼女がのしかかる。
彼女を支えるもの。
力が、命が、信念が失われたのだ。
シンは泣いていた。
最初に人が死んでから、ずっと泣いていた。
当然だ。
俺の印象に残る人も、俺が名前すら覚えてない人も、全てが関係無くシンの家族だったのだ。
誰も失われていい命ではなかった。
全てが、シンにとってのかけがえのないものだったのだ。
涙の理由は恐怖からではない。
シンの心中に全く恐怖が無いわけではない。化け物との遭遇は、幼い子供が泣き喚くには十分の今日の恐怖のはずだ。
だが、シンの心中には恐怖とは比べ物にならない程の大きい感情があった。
家族の死による、悲しみ。
自分の命よりも大切な人達の死による、絶望。
だから、シンは泣いていた。
陰から見守る俺に、シンの心情は事細やかに伝わって来る。
喜び、驚き、幸せ。
だが今伝わって来るのは、悲しみと絶望だけ。
シンの心は、泣いていた。