後退
「君は……?」
俺の喉から溢れるように出たその言葉が、静かに響いた。
だが、ペラペラというページを捲る音が返ってくるだけで、返答は無い。
……聞こえていないのか?
それとも、無視されているだけ?
それを確かめるため、少女に近づいていく。そのため足音が鳴るが、それにも気が付いていない様子だ。
彼女の目の前に到着すると、俺は彼女の目線の高さにまで屈んだ。
……改めて見ると、やはり美しい少女だ。
彫刻のような造形美を感じさせる顔立ちは、穏やかな彼女の雰囲気と相まって、神秘的なものまで感じさせる。
いくらばかりそうしていただろうか。
彼女がページを捲る音で正気を取り戻すと、俺は顔を左右に振り、改めて彼女に話し掛けた。
「君は……?」
……………………。
返答は、無い。
暫く待っていたが、少女が次のページへと手を伸ばした辺りで諦め、俺は溜息を吐いた。
無視されているのかとも思ったが、俺が近づいても、近くで声を発しても、何の反応も無かった。
流石に、無視にしては動揺が無さすぎる。
これが聞こえていないフリならば、彼女はその道のプロになれるレベルだ。
そもそも、彼女が俺を無視する理由が見当たらない。
そう考え、もう一度大声で問いかけてみることに決めた。
「君は!どなたですか!?」
そう、問いかけた。
だが驚いた事に、僕の想定していた反応は無かった。
彼女は依然として本に目を落とたままで、すぐ後には何事も無かったかのようにページを捲っていたのだ。
まさか、本当に無視してるのか?
せめて、眉一つくらい反応してくれよ……。
俺が眉を顰めるが、彼女は気にする素振りも見せず、視界に入っていないので見えていませんというような振る舞いだ。
少し、腹が立った。
普段ならこんな事、と思えるような出来事だが、何故か無性に腹が立った。
そっちがその気なら……。
俺は、サッと手を伸ばした。
少女の目の前、つまり本と彼女の間に手を挟む事で強引に読書を中断させたのだ。
すると、淡々と本を読み進めていた彼女に、いきなり変化が訪れた。
「やっ……!」
怯えた、驚きに溢れた声を上げながら彼女は仰け反る。
そして、そのままの勢いで彼女の後頭部が床に迫る。
「危ない!」
俺が手を伸ばすも間に合わず、彼女の頭はドンっという鈍い音を上げながら床と激突した。
「きゃっ!」
床と彼女の頭が激突する瞬間、相当な音がした。
よっぽど痛かったのだろう、彼女は大きな悲鳴を上げた。
彼女は反動で飛び跳ねるように、元の座っていた態勢に戻る。しかし、両手で頭を抑え、身を小さくして蹲っていた。
「うぅ……痛いよぉ」
蹲りながら、苦痛に満ちた呻き声を溢している。
垣間見える彼女のつぶらな瞳には、涙が浮かんでいた。
「何……だ?」
首を傾げながら、俺は呆然と蹲る彼女を見つめていた。
俺はただ手を伸ばしただけ、気が付かせてやろうと読書を妨害しただけ。
なのに、何でこんな事になるんだ。
どうやったらこうなるんだ?
少しばかりの悪戯心は孕んでいたが、まさかこんな悲劇……?を生むとは思ってもみなかった。
そんなつもりは無かったのだが、俺のせいでこうなってしまったのも事実。
少し罪悪感が芽生え、俺は目の前で蹲る少女に謝罪した。
「すまん。まさか、そんなに驚くとは思わなかった。大丈夫か?」
俺の声を聞き、彼女は思い出したかのように顔を上げ、此方を向いた。
そのまま、静寂が訪れる。
彼女はうんともすんとも言わず、俺の顔を呆けたように見つめていた。
ただ、二人の吐息だけがこの場を占めていた。
あまりにも答えが返ってこないので、俺は疑問に思い首を傾げる。
「……どうか、したか?」
俺が口を開いた瞬間。
それが合図だったというように、彼女はハッとすると、目を大きく見開いた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴を上げ、彼女は両足をバタバタと動かして後ろの壁にまで後ずさった。
そして、体力が無いのか余程この状況に混乱しているのか、彼女はハァハァと息を荒げている。
流石に、そこまで怯えられるとは思っていなかった。
……少し、傷付いた。
そんなに怖かっただろうか。
しかし、彼女をここまで怖がらせてしまったのも俺なんだ。
そう深く反省すると、もう一度謝罪しようと俺は口を開く。
だが。
本当にごめん、そう切り出そうとした俺の声は、遮られることとなった。
彼女の怯えきった、微かに震える声によって。
「ば、化け物っ……!」
……なんだと?
今、この子はなんて言った?
化け物?
俺の事を?
彼女の言葉が信じられず、それが真実かと俺は彼女を見定める。
だが、冗談でも聞き間違いでも無いようで、彼女の表情は青ざめ、肩はプルプルと震えていた。
何かの誤解だと思った。
何故か、その表情に寒気がした。
だから、早く訂正しないと、早く俺が化け物では無いと教えてあげなきゃ、と思った。
「俺は、化け物なんかじゃないよ……!」
今、俺は悲痛な面持ちをしているだろう。
こんなに動揺する必要ないのに、自分でもそう思う。
だが、そんな思いとは裏腹に、俺の声色からは必死さが滲み出していた。
しかし、彼女もまた必死な様子だった。
本気で俺を化け物だと認識して恐怖しているのだろう、此方に指をさし、小さく声を溢した。
「だって、だって貴方は……!」
その表情が、何故か嫌だった。
怯えた声色が、不思議と嫌に感じた。
彼女の怯えが此方に伝わってきて、吐き気がした。
次の言葉を聞きたくなかった。
今すぐに遮ってしまおうと、俺は早口でまくしたてる。
「違うよ!俺は化け物なんかじゃない!だって、だって!」
折角落ち着きかけていた胸が、激しい動悸と共に暴れ出す。
そのせいか、体はガタガタと震えていた。
今は、違う。
今だけは、駄目。
「だって、化け物は俺みたいなのじゃない」
脳裏に、微かに何かがよぎった。
その次を言えば、それは止まらなくなる。
やめろ、やめろ。
奥底で、何かが叫んでいる。
なのに、止まらなかった。
俺は、必死だった。
「化け物は、翼が生えていて、凶暴で、人を殺して、人を殺して、皆を…………っ!」
覚えていた。
ついさっきのことだ、忘れられる筈がない。
でも、一度落ち着けば、少し間を置けば、そういうことは忘れられる。
それが、俺が前世で学んだ処世術。
ずっと向き合っていたら辛い。
だから、一度目を背け、一旦落ち着く。
その後退は、逃げではない。
後になってから対処するための、準備期間のようなもの。
飯、遊び、女の子、仲間。
いつも、今から目を背けれるもので落ち着いてきた。
心を守ってきた。
今回も、そうすればいいと思った。
何かを見つけて、その何かに縋ればいいと思っていた。
事実俺は、目論見通り何か、を見つけた。
山のように積み重なった古い本の匂いは、自然と俺の心を落ち着かせてくれた。
不思議に満ちた彼女との出会いは、俺の思考を一旦リセットさせるほどの衝撃だった。
でも、その彼女に重ねてしまった。
彼女の表情は、化け物が現れた時に屋敷の皆がしていた表情と変わらない。
彼女の怯えは、俺に伝わってきたシンの心情となんら変わらない。
その彼女の恐怖が他の誰でもない、俺に向けられるのは、無視できなかった。
「違うよ、違う。違うんだよ……」
胸が、張り裂ける程に痛い。
酷く、息苦しい。
本当に、しんどい。
苦、しい……。
最後に溢れた言葉が静寂に消え入ると共に、俺の意識はそこで途絶えた。




