36 山草団地にて
昼間に降った雨のせいで蒸暑い七月のある夜、北野絹恵はゴミを出すためそっと玄関を開けた。時間外のゴミ出しは、山草団地の取り決めで本来は禁忌の行為だ。
だが絹恵が飼う柴犬のハナと自治会長の山下竜二が飼う秋田犬のリュウイチが散歩中に大喧嘩して以来、村八分状態で、止むを得ず夜に出す習慣になっている。
最初は丁寧な張り紙で酷くなじられたが、無視し続けるとやがて無反応に変わる。駅からバスで十五分、五階建てのこの団地に住んで四〇年、細身だった絹恵も体型と共にずぶとくなった。夫の幹生は鼾をかいて、ぐっすり就寝中だ。六五歳の絹恵には何の興味も持ってない。
定年退職後も嘱託をしていたが、この三月で遂にそれも契約修了。四月から、朝晩まで続く2人暮らしが始まった。亭主元気で留守が良いとは、言ったものだ。今までの気ままな生活が、独房で囚人を相手にする看守のような、重苦しい生活へと変貌した。
退職金はそれなりにあったものの、今後二〇年を考えると、蓄えは無いに等しい。夫は無策で、海外旅行しようとかハーレーとか言うバイクが欲しいと言うが、冗談じゃない。
駅からバスで十五分の山上を切り開いて作られた当時の新興団地も、静かに人が減りつつある。最近は近所のガキ達が肝試しとか言って不法侵入する事件も起きるから、気が休まらない。
入居当時の四〇年前は、若い家族も多くて付き合いもあった。
皆でバーベキューしたり、クリスマスパーティーもした。
だがその交流も、絶えて久しい。
会長の山下は新参者で元特許庁キャリアか何か知らないが、やたらといばる。周りは下僕で従うのが当然といった、横柄な態度だ。取り巻き連中も従順だから、質が悪い。
息子の豊は都心に出て正社員として何とかやっているようだけど、同居の話は出ない。どうせ、あの嫁の横槍だ。
最初に会った時から、いけすかなかった。
だらしない顔に鼻につく香水の匂い。相性があわないのは、お互いに分かった。豊より一回り若いが、虫の足みたいな睫毛エクステとかをする化粧のセンスは、理解に苦しむ。
私だって昔は、合ハイで天地真奈に似ているともてはやされたぐらいの器量はある。どうせあいつはスッピンになるとブスなんだろう。キャバクラかどっかで騙された息子が悪い。あいつの親は教師だがぞんざいな態度で、団地に来た時に私達を値踏みするような顔だった。
ああ忌々しいったら、ありゃしない。
私が大学生だったら、私より可愛かった弥生にしたように、ゲバ棒でリンチしてやるのに。
それより祐子は何時になったら結婚出来るのやら。
若い頃は合コンとやらに熱をいれ、結局連れて来た彼氏は土方だからってあの人は大反対した。けれどその後は誰とも縁が切れて無職で四十を迎えるのかと思うと、不憫でならない。
ぼんやりした電灯が並ぶ淋しい風景の中、この団地から少し離れた所にある遊園地跡も、更に増幅された侘しさを醸し出していた。団地の開発と併せて開園した当初は大盛況で、2人を連れて何度も遊びに行ったものだ。
だがバブル崩壊後まもなく経営が行き詰まり、気付けば廃園の小さな記事が新聞に出ていた。当時の日本なら、何処にでもあった話だ。
こんな幽かで寂しい町が人生の終着点か……
そう思うと、絹恵は虚しさが募るのであった。
?
ふと何か気配を感じて、遊園地跡の方を眺めた。
そこには、何時もと違った顔があった。
夜中なのに、明るい。
もう廃園になって十年以上は経つから、灯りなんて付くはず無いのに。
また不良ども? 昔みたいにバイクの音はしないけれど。
あの頃は本当に恐かった。
週末の夜はエンジン音やクラクションの爆音に怯えながら過ごしていた。
どっちにしてもまた身の危険を感じるのは嫌だから、警察を呼ぼうか?
体を強ばらせながら観察したが、どうも様子が違う。
その灯りは柔らかく、優しさに満ちていた。
少なくとも、暴走族のそれとは違うようだ。
眩い光にも慣れ目を凝らしてよく見ると、ギーギーっと何かのアトラクションが動いている。
ハっ!?
一匹の光るネズミみたいのが、遊園地へと走り込んで行った。
郷愁の念に駆られ蛍光灯に引き寄せられる蛾のように、絹恵はフラフラと誘われ歩いて行った。




