14 朝はみんな忙しい
「大翔!起きて〜」
朝はいつでも戦場だ。寝ぼけ眼の大翔を無理矢理叩き起こし、味噌汁とご飯とハムエッグを食べさせ着替えも迅速に済ませ、とにかく遅刻厳禁で保育園へと送り出し、ミッションを完成させねばならない。
あの事件から一週間ほど経った。だがその後は何の音沙汰もなく、リムジンも迎えに来なかった。
電話をかけようとしても、スマホ自体リモートロックされている。
場所も分からないし、美咲から連絡する手立ては無かった。
それが昨日の夕方、突然に電話が鳴った。直ぐに出ると、富崎さんからだ。
それが、
「お久しぶりです。明日の朝9時にお迎えに上がりますので、宜しくお願い致します」
と、一方的な通話で終わった。
富崎さんらしくないが、時間厳守は正社員への第一歩だ。
登園は8時半から。
自転車を使っても片道二十分かかるし、大翔がこの調子じゃ、家を出るのが8時半過ぎだ。
向こうで仕度に必要な時間も含めたら、9時までに戻ってくるのは不可能に近い。
姉に似てのんびり屋の大翔は、とにかく動作が遅く、内心イライラする。
毎日の習慣で、美咲と大翔は仏壇にお供えのご飯と線香をあげた。
目の前にある和やかな笑顔の男性は、誰なのか美咲も知らない人だ。
ある日姉が写真を持って来て、お父さんは死んだと伝えろと言われたので、遺影にしている。
大翔に教える意味で仏壇を作り、毎日のお供えは欠かさない。
洗濯し忘れたお気に入りのライダーTシャツを着たいと、行く直前でも相変わらずな自由っぷりで駄々をこねる大翔を抑え付け、無理矢理に自転車のチャイルドシートへ放り込む。大翔はまだ寝ぼけているのか、うつらうつらともたれかかっている。ヘルメットは被っているから大丈夫、直ぐに出発だ。
朝の大通りは、ママやパパ達がチャリで本気出して駆ける修羅場と化す。
職場に遅刻しない為に電動自転車の出力をマックスにして、前に後に子供を乗せたママさん/パパさん達がライン取りでせめぎ合い、無意識に段差まで完璧に覚え込んだ道を、ギリギリのコーナリングで吹っ飛ばす。
美咲の自転車は電動ではないが、体格で性能は互角。抜きつ抜かれつの激しい攻防が続く。
負けは死あるのみ。その最中、三歳児ぐらいの靴が一足落ちているのを発見した。
でも今の美咲に、拾って相手を捜す余裕は無い。最終コーナーの保育園がある路地へほぼ直角に曲がりラストスパート、急ブレーキをかけ180度ドリフトでゴールインだ。
「あら桃浦さん、今日は早いね」
未だ寝ぼけている大翔を汗だくで抱きかかえながら入り口に連れて来ると、担任の上原先生は普段と同じおっとりしたにこやかな笑みで迎えてくれた。入園時の大翔は精神的にかなり不安定で、お友達ともトラブル続きだった。けれど今では先生達のおかげで、すっかり馴染んでいる。
年長組になり多少しっかりしてきた大翔は、園に着いたら現金なもので、さっと靴を脱いで下駄箱に入れると奥の方に走って行き、もう一人の担任である青山先生と一緒に、今日の予定を相談し始めていた。お友達が集まったら年少さんと一緒に、近くの公園へ散歩するみたいだ。大翔は自分も以前使っていた年少さん用の台車を、先生と一緒に用意し始めている。
この辺りも住宅が建ち並び開発が進んだから、美咲が子供の頃と比べても、子供が思いっきり遊べる公園はかなり少ない。大翔が話題に出す公園は、保育園から十分くらいの距離で車道を渡らずに行ける近さにある。でも敷地はかなり狭く、滑り台と砂場があるだけだ。
美咲は今日の体温や状態を上原先生に伝えると、既に友達と遊び始めた大翔に「じゃあね」と軽く声をかけ、再び自転車を飛ばし、家路を急いだ。さっきの角を曲がったところ、あの靴は既に無い。きっと誰かが拾って、落とし主に渡したのだろう。
最高ラップに近いタイムで家に戻ったが、既に富崎さんの乗るリムジンが到着していた。
富崎さんに後部ドアを開けてもらい乗り込む。後は何もしなくても、あの建物まで直行だ。
外の景色を見たいが、窓には真っ黒なスモークが貼られ、会社までの道程は窺い知れなかった。




