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博士を殺したのは誰?

作者: 八衣風巻

『…………コーエン博士はまさに天才と呼ぶほかにありませんでした。私は普段、マスコミの囃し立てるフレーズをあまり好んではいませんでしたが、彼をレオナルド・ダ・ヴィンチの再来と呼ぶものだけは、全くその通りであると同意したほどです。

 彼の活躍は分野の垣根を超え、多岐にわたります。化学、物理学、医療に軍事、数学や言語学等々、我々の日常の中で、博士の功績に関わらない日など殆どないでしょう。


 …………ただ、ここ最近我々研究者の中でコーエン博士の名前を最も耳にするのは数学の世界でしょう。彼が亡くなって数年して発見された、書きかけの論文がその原因です。そこに書かれていたのは、ただひたすらに難解で、中身が抜け落ちた、意味の分からない数式でした。

 ある数学者は全く無意味な数式だと主張します。それもそうでしょう、なにせ、肝心なその数式の中身が見当たらないのですから、追認は愚か証明も難しい。しかし、博士の晩年を知る人々は違いました。これはコーエンの追い求めていた答えなのだと、言い出し始めたのです。


 …………誰も彼が真に求めていたものが何かは分かりません。しかし、あの天才が何も意味の無い、価値の無い研究をするのでしょうか。私もそう思いました。だから私も、分野こそ違えどあの数式の意味が解明されるその日を、いつしか彼の研究に命が与えられることを、私は願っているのです』

――国営放送局『人類の命題、コーエン博士の挑戦』より






 日の出を告げる小鳥のさえずりに私は耳を澄ませながら、すっかり冷え切ってしまった廊下を一人歩きます。窓の外に見える空には雲が11パーセント、間違いなく快晴と呼べるでしょう。

 今日の業務を始める前に、洗濯をしなければなりませんでしたので、嬉しい限りです。

 起床してすぐに私は活動を始めます。基本的に着替える必要がありませんので、すぐさま作業に取り掛かります。

洗濯といっても一人分、しかも、私の場合日常的にそれほど量が多いというわけではありませんので、ほんの少しのリソースを割いて終わらせます。

 食事をすら不要ですので、そのまま私の仕事場に向かうとします。

 はい、お察しの通り、私は人間ではありません。コーエン博士の開発した自己学習AIを搭載したアンドロイドです。製造番号は#0-A01、同型機は存在しない、いわゆるワンオフ機体です。

 私の存在理由は博士の補佐でした。博士は奥様も子供様もいらっしゃらず、身の回りの世話をする人間が欲しかったので私を製造したと言っておられました。残念ながら私は人間ではありませんが、博士は言う度に“受け応えができるならそれはもう人と変わらない存在だよ”という返答をされました。

 私は人ではなくアンドロイドです。博士が私をどう扱おうと、その事実は変えようがありません。しかし、博士とそういった話をしていた時に感じられた熱、温度センサーには反応が無かった不可解な熱は、特段不快ではありませんでした。

 しかし、あの暖かさを感じることはもうありません。博士は生命活動を停止してしまったのですから。

 博士の亡くなった後、あらゆる人間と会話をする機会がありましたが、どんな内容の会話をしても、あの温度変化はなく、ただ平然と受け応えと事務的な処理をこなすのみでした。

 私はコーエン博士の補佐が役割です。ですので、博士の死の時点で私が破棄されることは決定事項でした。アンドロイドは役割無くして活動できません。博士の死は私の死と同義でした。

 しかし、私は博士が亡くなって数年が経過した今でも博士の遺産と邸宅を任され、管理、維持をしています。博士の死後も、私の存在意義はまだ失われてはいないからです。私の根底に刻まれた博士の遺志が、私を生かし続けているのです。

 そういう経緯がありまして、私は博士の邸宅に今もなお住まわせていただき、掃除を日々務めさせていただいているのです。

 博士のご自宅は近くの公共交通機関から自動車でも5時間は必要な辺鄙な場所にあり、更には博士と私2人で暮らして十分な広さという質素なものでした。間違いなく歴史に名を残す偉大なお方でしたが、こちらに越してきてからは必要以上に人間関係を必要とせず、贅沢も好んではおられませんでした。博士はこの住まいを他人に公表しておらず、依然として前に使用していた研究室を本拠にしていると世間的にも喧伝していたため来訪が全くなく、私たちは非常に閑散とした環境にいました。

 なので必然的に研究用途以外の物は少なく、それでいて博士は年を経ることにだんだんと研究分野を絞られていたので、こちらに移られる頃にはほとんどの機材を研究機関に売却してしまわれていましたから、掃除をするのはほぼ博士の書斎一部屋分しかありません。

 博士の書斎の前に辿りつくと、控えめにノックを2回。返事は当然返ってきませんから、すぐにドアを開けて一礼し、中に入ります。博士は研究中音に敏感になる体質のようでしたので、このように気を付けているわけです。

 部屋の主がいるはずもないのに無駄だと思われるかもしれませんが、簡略化されているとはいえ、これは博士の生前より行っている入室時の動作で、博士にプログラミングされたものなので省くことはできませんし、するつもりもありません。

 私の嗅覚センサーが膨大な量の紙とインクの匂いを探知します。続いて博士の一生を体現したかのような紙束の塔と、床や机の上に敷きつめられた研究資料の山が足場を埋めている様を目にします。

 私が維持を努めている光景に異常がないことを確認すべく、慎重に足元に気を付けながら中に入っていきます。

 警報の作動履歴も無く、侵入された形跡もありません。強いて言うならば、右足首辺りに積まれた資料の最上部分が2ミリほどずれているのが異常として探知されますが、私の移動の際に身体の一部分が接触してしまったせいですので、慌てず位置を修正しておきます。

 定位置についた私は、抱えていた埃取と雑巾で博士の書斎の清掃に取り掛かります。昨日までの作業と全くの同じ工程ですので苦はありません。突然の来客が無ければ6時間と34分ですべて終了します。その来客も3年と4か月間途絶えていますので、あまり気にかけることでもないでしょう。

 手を止めることなく、博士の書斎をもう一度見渡します。私の管理のお陰で、人の使用感は無くても、その空気が死んでいると言った様子はありません。もし博士が再びこの書斎を使うことになったとしても、つい昨日足を踏み入れた様に研究が再開できるに違いありません。

 本棚の清掃にかかった時、私は意図しないメモリーへのアクセスを発見しました。人間で言う想起というものでしょうか。作業との同時進行に弊害は無く、不具合でも無さそうでしたので、そのまま許可し、暫し博士との会話を再生することとします。

 劣化することのない博士との記録、代用のできない私と博士だけの記録、どんな報酬よりも価値のある記録です。




 あれは今から6年と5か月12日前の午後8時34分のことです。


「博士は今年75才だったと記憶していますが、私が起動してから5年、体力は減少傾向にあれど、研究に対する姿勢に衰えが見られないとお見受けしますが、博士のその意欲の源は何なのでしょうか」


 ふと、食事をしている最中の博士に質問をしてみたことがありました。私はアンドロイドなので栄養摂取の必要が無く、博士の食事の際は別の仕事にかかりたかったのですが、博士が“老人に飯を一人で食えと言うのか、喉に詰まらせたらどうするんだ。なにも食わなくていいからそこに座るか、近くにいろ”とおっしゃったので、博士のお傍に立つこととしていました。


「お前はインタビュアーみたいなことを訊いてくるなぁ、ほんとにアンドロイドか?」


 博士は苦笑いをしながらシチューを口に運びます。


「私はアンドロイドです。それは博士が一番よくご存じのはずですが」

「そうやって都合よくアンドロイドぶる。全くどこをどう間違えたんだ……」


 博士はよくわからないことをおっしゃいます。私は徹頭徹尾アンドロイドです。この思考ルーチンに至ったのも博士のプログラミングと学習の成果です。故に博士の望んだ形であるのにどうして非難をされなければならないのでしょうか、私にはわかりません。


「まあいい、お前にだけは教えてやる。偏屈な他の学者やら口の悪い識者とやらよりお前と話してた方がよっぽど有意義だ」


 偏屈であることも口の悪いことも全て博士の特徴と合致するのですが、同族嫌悪か何かでしょうか。


「おいお前、今“お前が言うな”って思ったろ」

「さすがですね、外見上の変化は全くなかったと思うのですが、私の思考を正確に読み取るとは。さすが製造者です、よくご自分のことがお分かりになっておいでで」

「その減らず口をやめないとさっきの質問に答えんぞ」


 私の性格と行動は博士のプログラミングした自己学習の賜物だというのに怒られてしまいました。理不尽であると判断しましたが、博士からの回答を得られなくなるという事態はとても残念なので、黙っておくことにしました。

 博士は大きくため息を吐くと、水を一口飲み、天井を仰ぎました。


「お前は神の存在を信じているか?」


 博士が私に問いました。


「神、と言いますと人間に信仰、崇拝される架空の存在という認識でよろしかったでしょうか」

「……ああ、もう答えなくていいぞ、お前の見解は分かった」

「はぁ……」


 神と呼ばれるものは世界各地で創造され、その在り方は多岐にわたります。博士の言う神がどれを差すのか確定ができないままでしたが、博士は私を制止してしまいました。


「私が学者という世界に入ったのは、神が存在するという、馬鹿げた妄想を証明する為だったんだ。万物万象の創造主……そこまでのものでなくてもいい、人間が暴くことのできないもの、人知を超えた先にあるもの、科学がどれほど発展しても辿りつくことのできない領域。私は“人類が神の領域を証明できないことを証明する”ために生きてきたんだ」


 私には博士の笑みの正体も、その言葉の意味も全くと言っていいほど処理できませんでした。博士の物とは到底思えない、不可解な単語の羅列という認識を私はしてしまいました。


「私に収納されている宗教史関連のアーカイブにも、科学の起源は神の肯定材料のため、という記述はありますが、博士は熱心な宗教家でおありですか?」

「馬鹿を言え、人の想像できる範疇の存在に興味なんてさらさら無いさ。私は昔から教会に嫌われてたよ」


 博士は夕食を摂り終えると、研究に戻ることなく食器を片付ける私を座って待ってくださいました。どうやら今日はもう書斎に戻ろうとはしないようです。


「宇宙飛行士になりたかったんだよ、ガキの頃の私は。親に買ってもらった望遠鏡を覗き込む毎日だった。ただ星の観察日誌をつけるだけじゃなく、どちらかと言えば、星々の間の暗い無の空間に私の心は惹かれていた。

 私はその好奇心の正体を探った。私は宇宙に、いや、この世界に何を求めているのか。宇宙飛行士になって大気圏の呪縛から逃れられれば、きっと見えてくるんじゃないか。そう思ったんだ。初等科に入る前に既にそのための準備をしていたよ。

 だが、私は一つ大きな見落としをしてしまっていた。宇宙飛行士は、頭だけじゃなれないんだよな」

「はい、宇宙飛行士は学術的な知識だけではなく、肉体的にもより高い水準が求められていたそうですね」

「そうだ、私はすっかりそれを失念していた。そのせいで私は机の上で世界を暴かなければならなくなったのさ。だが、私のこの有り様を思えばこの道が正解だったのだと私は思うよ。

 シャトルの窓から見える景色を眺めても、何一つとして見えてこなかっただろう」


 私も博士の意見には同意でした。現在の博士はその功績により学術世界において最も権威のある学者の一人です。宇宙飛行士になってしまえば、博士の研究もここまで大成しなかったのは明白です。


「まあ、皮肉にも私が神を意識し始めたのは、それを目指している最中だったのだがね。

 これは自慢なのだが、私は昔から非常に覚えが早かった。周りが掛け算を覚える頃には関数解析学を修了していた。周りが草木の観察をしている間に量子論を学んでいた。つまり、私は普通の人間より多くの物を学ぶ機会があったわけだ。

 私はあらゆる学問に触れる中で、夜空を見上げて思いを馳せていた黒色の狭間に対する不敬さを感じ取った。私はいつの間にか、未知というものに神聖さを与えていた。人類の叡智がそれを汚しているように思えてならなかった。人間の探求心が、人間の傲慢さを物語っているように思えたのだ。我々は万能ではないのだと、私は叫びたくなってしまった。

 航空宇宙局の試験に落ちてすぐ、私は行動を始めた。幼いころよりの衝動を発散すべく、人類の暴虐を阻止すべく。私が神の領域を突き止め、人の限界を示すのだと。

 そのために私は全てを知らねばならなかった。あらゆる世界の先端に立たなければならなかった。この私でさえ寿命が尽きるまでに終わるかわからない長い道のりだ。少しも立ち止まれはしない。私が今もろくでもない生活を続けているのは、そういう理由があるからだよ」


 博士はそう言い終わると、私の肩に手をかけ立ち上がりました。時刻は10時13分。寝室に向かおうとする博士に私は何も言わずついていきます。

 博士が自室のドアに消える直前、私はたまらず訊いてしまいました。


「……博士は止まることができないとおっしゃいました。しかし、博士の研究の規模は3年前より70パーセントも縮小しています。勿論老化による活動限界の消耗ということもあるのでしょうが、その……御存命の内に神の存在証明は果たせそうなのでしょうか」


 発声した直後、出過ぎたものだったかと後悔をしましたが、博士は特段気にした様子も無く不敵に笑みをこぼしました。


「手放したのは年のせいじゃない、私の証明に必要な分が終わったからだよ。

 私の研究は佳境に入った。どれをどれだけやればいいかの計算などとうの昔に終わっているからな。ああ、それでもこの世界にとっちゃ十分すぎるほどの成果だろうから、向こうが満足できる分だけを公表して、あとは口を噤んでいるがね」


 ふと、博士の視線に異常を感知しました。アンドロイドの観察能力でしか見抜けないような些細なものでしたが、それは不安や恐怖といった、負の感情の籠った動作でした。


「大丈夫だ、何もかも、そのうち終わる」


 博士が扉を締め切り、私は博士への干渉の手段を失ってしまいました。暫く博士の寝室の前で私は立ち尽くすばかりでした。

 ここで在りし日の記録の再生が終了します。




 書斎の清掃が完璧に終了し、再び物の配置を動かさない様に慎重に部屋を出ると、私はアンドロイドの待機用設備に戻ります。部屋の清掃が終わったので歩き回る必要が無いからです。

 待機部屋には簡易ではありますが、机と椅子が一式、さらには義体保全機能を備えたベッドが用意されています。私はインターネット回線に接続する機能が制限されているため、それを補うためのパーソナルコンピューターも1台保持しています。情報収集のための博士のご厚意で、まるで人の住むそれと変わらない内装が施されています。

 次の業務まで時間がありますので、夜間活動の時間までスリープ状態に移行するのが常になっています。私が必要以上に活動するメリットは無いに等しいのです。

 しかし、パーソナルコンピューターを確認してみると一通のメールの着信がありました。その内容を一読して、私は休眠に入ることをキャンセルし、すぐに出立の準備に入りました。私が行っている、もう一つの活動に関する情報だったのです。

 清掃用の外装から外出用のそれに着替え、1年と4日ぶりに車庫へと赴きます。私が外出をするのはとあるメールを受け取った時以外にありませんので、必然的に間隔は空いてしまいます。

 目的地はここから車で4時間の街。日帰りができる距離で安心しました。12時間以上博士の邸宅を空けることになると、心配で堪らなくなりますから。

 前回の使用から時間が空いてしまっていたので車両が機能するか不安な点がありましたが、問題なくエンジンはかかりました。必需品を携帯していることを再確認し、私は出立いたします。

 これが終わればもう2度と外出することは無いでしょう。私はアンドロイドですので、旅に対する感慨等は感じられませんが、博士に命じられてインプットした文学から最適な表現を当てはめるのであれば、“旅の終わりはいつだって寂しいものだ”と言うのが妥当なところでしょうか。


 街に着いて、私はとある酒場を探しました。そこに私の目的が駐留しているはずです。

 ちょうど酒場の繁忙時間と重なってしまったせいで入店に手間取りましたが、無事に彼を見つけ出すことには成功しました。

 年齢は45、男性、調査報告によれば配偶者は無し。彼はビールを傾けて、静かに人を待っている様子でした。

 彼は博士の遠縁で、博士とは何の面識も無く、博士の死後ようやく親戚関係にあるのだと知った程度の関係だそうですが、それでも、博士の血筋であることに変わりはありません。

 博士とはほとんど縁のなかった彼ですが、奇妙なことに、彼もまた数学者としてかなりの地位を得ていました。なので、博士の死後、その研究の一部を引き継いでいるのだというお話を伺ったことがあります。研究の肝心な部分については手に入れてない模様でしたが、やはり念を入れる必要がありました。

 私は博士の死後、その血縁者をリストアップしました。かなりご高齢だったため、相続権のある方々は殆どが逝去されていたため、その子孫がリストの中心となりました。そして私は民間の情報機関に彼らの情報提供を、身元を偽りながら依頼し、接触を行っていました。

 彼には博士の遺産の相続権があります。彼自身はその問題を保留にし、あまり受け取る気は無かったようなのですが、相続権があることがこの場合重要なのです。


「ガレット氏でよろしかったでしょうか」


 満を持してその人物に話しかけます。私の見た目は完全に人間と同一ですので、彼が訝しむ様子はありませんでした。


「そうです……あなたは?」

「ああ、申し遅れました。私が今回貴方をお呼びした者です」


 そう私が言うと彼は愛想笑いを浮かべ、挨拶のために席を立ちました。


「そうだったのですか、早めにお会いできてよかった……名前を教えてくださいますか?」

「遠慮します。貴方が知る必要はありません」


 私は懐から拳銃を取り出すと、彼が身構える間もなくその引き金を打ちました。平和な空間に似つかわしくない爆音とともにガレット氏の眉間に穴が開き、彼の身体は無残に床に崩れ落ちました。

 女性個体の耳障りな悲鳴が酒場を蹂躙します。私の周りから人間が一斉にいなくなり、中には私を取り押さえようと武器を構える方々もいました。

 用も済んだことですので、私は早々に店を出ることにしました。身を翻して店外に脱出すると、追っ手に向かって数発威嚇射撃、足が止まっている間に車を発進させ、難なく街から抜け出しました。


 これで博士の遺産を手にすることのできる人物はいなくなりました。また、博士の研究を継ぐ者もいなくなりました。博士の物を博士以外に渡すわけにはいきませんでした。それは博士の本意ではないと、理解していたためです。

 大事な使命を果たした直後からでしょうか、中枢より記録の再生要請を再び受信しました。それは今の私を構成する最も重要な記録にして、世界で最も危険な記録です。

 私はその要請を受諾し、博士が亡くなる直前の記録を呼び覚まします。





 それは、私の聞き慣れない、そして最も恐れていた叫び声から始まります。

 珍しく深夜遅くまで研究に没頭している博士の為に、コーヒーを淹れている最中のことでした。

 慌てて駆け付けた先には、書斎の真ん中で紙を握りしめて悶え苦しんでいる博士の姿がありました。様々な病の可能性が回路をよぎります。すかさず応急処置をするため博士の傍に寄り添おうとしますが、突如として老人とは思えない膂力が私の顔を引き寄せました。

 博士の目はさながら狂人のように血走り、焦点を定めていませんでした。小刻みに震える唇が何かを私に伝えようとしていましたが、形の無い空気だけが吐き出されていきます。


「博士、落ち着いてください。落ち着いてください。私の合図で呼吸をするのです、いいですか?」


 なんとか宥めようとしますが、博士の耳には入っていないようです。衝撃を加えてでも正気に戻そうと試みますが、


「ああ、やってしまった、取り返しのつかないことをしてしまった!!」


 ガラスが割れるような博士の声に遮られてしまいました。呆気に取られている私に博士は更にまくしたてます。


「私はこんなことの為に……こんなことをするために生まれてきたんじゃない!! 80年間を無駄にするために!! 研究をしてきたわけじゃないんだ!!」


 博士は言葉尻の勢いそのままに私を突き出しました。私は本の壁に背中を打ち付けます。アンドロイドに痛覚が無いのが幸いでした。


「博……士?」

「こんな脳があるから……私など生まれてこなければ! あああああああああああああああ!!」


 一頻り息を吐ききったのか、長い沈黙の後、博士の目が私をようやく捉えました。


「神などいない」


 博士は握りしめた紙を憎悪のこもった眼差しで見つめ、拳を地面に叩き付けました。


「聖域など存在しない、私は辿りついてしまったんだ」


 何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、何度も。

 皮膚が裂け、骨が見えていました。それでも博士は自傷行為をやめません。私はそれを止めるべきでしたが、先ほどの衝撃のせいか、私の身体はピクリともしませんでした。

 博士の情動がおさまる頃には、その足元に血の池が出来上がっていました。

 おぼつかない足取りで博士は立ち上がると、左右に身体を揺らしながら私に近寄ります。

 そして無事な方の手で私の髪を撫で、一気に20歳ほど老け切ってしまったように憔悴した顔で私を覗き込みました。


「私を殺してくれないか」


 たっぷりと時間をかけて、博士はそれだけを口にしました。


「アンドロイドは人間に危害を加えることはできません。たとえ本人の要請があったとしても、第一級プロテクトによりそれに類する行為を取ることはできません」


「わかった、プロテクトを解除する」


 その時、私のCPUに致命的な異常を検知しました。私の存在の根幹を揺るがす、見過ごせないものでした。


「そもそも人類は、この領域に辿りついてはいけなかった。私は世界にとって最大の脅威であり、私にとって、最も忌むべき存在となってしまったのだ」


 博士は私を離れ、机に置いてあった論文を無造作に掴み、そのまま近くの暖炉に放り込んでしまいます。自分の生涯を薪にして、中の火の勢いが強まる様を、博士は口元を緩めながら眺めていました。


「これで私の歩みは誰もわからない。私の研究を知っても、そこに至るまでの過程を知ることはできない。私を除いて、神の場所を突き止めることなど出来はしないのだ」


 私の膝に物が投げつけられ、無機質な音が書斎に残響します。

 それは一介の補助アンドロイドには縁が無かった武装手段、拳銃でした。博士が引き出しから取り出したのでしょう。


「殺してくれ、これは命令だ」


 淡々としながら、嘆願のようにも聞こえました。

 私の回路は異議を唱えることもできず、速やかに博士にその銃口を向け、数舜の躊躇いの後、引き金を引きました。




 私はその後、ご遺体を近くの海まで運び、そっと流しました。インターネットの情報によると、その後すぐに遺体がどこかの海岸に流れ着き博士の死が発覚し、今世紀最大のニュースとして世界を駆けめぐりました。

 犯人も、殺害現場も、博士の研究成果も不明。必死の捜査も空しく、事件は迷宮入りだろうと人々は口にしたそうです。

 世間がなんとか落ち着きを見せ始めた頃、私は表の世界での活動にかかりました。

 それも今日でおしまいです。何もかも、終わるのです。

 神の存在を否定できるものがいなければ、この世界に再び神が存在出来る余地が生まれます。そして今後、博士のように神を証明できる人間は現れないでしょう。博士の信じた真実が、現実のものとなるのです。

 私は車を車庫に入れ、家の中に入ろうとしたのですが、ごくわずかな異変を察知して足を止めてしまいました。それは耳に入らない筈の世界の音が、具体的に言うのであれば、パトカーのサイレンが何台も連なっているのが聞こえてしまったからです。

 ガレット氏を殺害した時からつけられていたのでしょう。私が喧騒に聞き入ってしまっていた間に、何台ものパトカーが博士の邸宅を取り囲んでしまいました。

 警官が銃を構え、私に照準を合わせているのが視認できます。私に投降を呼びかけてきますが、従うつもりはありません。そのまま家に入ろうとします。

 私が背を向けると、何人かの警官が距離を詰めてきました。無視を試みましたが、1人が先回りをして、玄関の前に陣取ってしまいました。

 そこは、そこすらも、お前たちが足を踏み入れていい場所ではありません。気づけば懐の銃に手が伸びていました。銃口が警官に合うより早いか、私の身体を無数の銃弾が突き抜けていきました。

 なるほど、威嚇をするだけのつもりでしたが、反抗行為と解釈されたようです。

 私の機能はゆっくりと死んでいきますが、中枢回路が無事なのが幸運でした。私にはまだしなければならないことがあります。私に保存されている記録が解析されることを防ぐことです。

 博士の生きた意味を、誰かに渡さないことが私の存在意義でした。ですから、最終的には当然私も駆除対象に含まれていました。

 電源が強制的に落とされる刹那、過負荷によってメモリーを修復不可能になるまで破壊します。せめて博士の家の中で停止したかったと、実行する寸前に私は思いました。



 全記録の消去を完了するまでにほんの少しラグが生じました。

 博士、神を信じるかという問いに、今またお答えします。



 神を創造主と定義しても、信仰の対象だと定義をしても、自身に理解できない未知の事象と定義をしても、私にとっての神は、あなたなのです。私の生涯は、あなたの為にありました。




 私は神を信じます。







 神は確かに、私の目の前に存在していたのです。


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