63 恋する若旦那
ヤールは頭が真っ白になっていた。
脳が言葉を理解する事をを拒否るくせに、腹が立つのは
それよりも先に体が熱を持つことだとヤールはそう思った。
目の前の野郎どもだけでなく、店内中から寄こされる
にやにやとからかうような、それでいて微笑ましそうな視線の意味を、
正直理解したくないとすら思った。
けれどもポンコツになり下がった頭でも、導けてしまうほどその答えは簡単で。
「………はぁああぁぁあああ!?」
漸く脳が仕事を終えた瞬間、叫ぶ。
というか、勝手に声が飛び出た。
ついでに座り直したばっかりだと言うのに、気が付いたら立ち上がっていた。
「おーいい反応」
「え、はぁ!?お嬢がここに来たんか!?」
「さっきまでその席に座ってたよ」
普段飄々としているヤールがここまで慌てるのは本当に珍しい。
寧ろ、頬を染め上げ、狼狽える姿なんて初めて見る。
落ち着きなくきょろきょろと店内を見回すヤールに
ああ本当に好きなんだなぁと何処かほっこりした雰囲気が流れた。
自称・空気の読める男であるヤールは勿論それに気付かないはずがなく。
「~~~っ!!」
見っとも無い姿を晒している事と、微笑まし気な雰囲気に耐え切れずに
へなへなと椅子に腰を下ろすと、彼は頭を抱えて机に突っ伏した。
間もなくして小さく、くぐもった唸り声が聞こえた。
髪から覗く耳が真っ赤に染まっているのが、
何とも可愛らしくて、ナシアスはくすりと小さく笑う。
人を食ったような態度の目立つ頼りになる我らがゼドロス商会の”若旦那”も、
恋という病にかかればどこにでもいる青年たちとさほど変わりはないようだと。
「まあ、残念な事に男連れだったけどなぁ」
「…赤毛の垂れ目か?それとも黒髪?」
「素直にアルフェリア=ベルセリオスか
リュグナード=エルトバルドかって聞けよ」
項垂れているヤールの髪をちょいちょいと引っ張って遊びながら
軽い気持ちで更なる爆弾を投下したナシアスは、
次の瞬間前髪の間から鋭すぎる銀色の瞳と目が合ってフリーズした。
完全に瞳孔が開いている。
問いかけてきた地を這うような声にはスコットが突っ込みを入れた。
呆れたようなその声色に「せやって…なんや、呼びたぁないねん…」と
まるで幼子の様な事を言い出したヤールにナシアスはほっと胸を撫で下ろした。
そして気を取り直すように「んん」と一つ咳ばらいをして、
なんや?と未だにだらしなくテーブルに突っ伏したまま
見上げてくるヤールに意識してにこりと笑顔を作る。
ひくりとヤールの頬が引きつった。
「で?その前にお前、俺たちに何か言う事は??」
「…ワイが、悪かったわ」
素直に謝罪するも、年上の弟たちは笑顔で押し黙ったまま。
他に助けを求める様に視線を泳がせるが、パッと逃げられてしまい
ヤールは口を尖らせながら、のろのろと体を起こした。
「…さっきのは、なんや…あれや、言葉の綾ってやつで、
別に本心からそう思うとるわけやなくて…うん、
…あー、もぉ、お前らただ面白がっとるだけやろ!?
ほんま堪忍やて、このとーりや!
なぁ、今度美味い酒でも奢るからそれで許してぇや”オニイサン”たち」
「「よろしい」」
ややしどろもどろではあるが背筋を伸ばして頭を下げ、
しまいには顔の前でパンっと両手を合わせて謝るヤールから欲しかった言葉を
引き出した2人は顔を見合わせて、すがすがしい程の良い笑顔で頷いた。
それを見届けてヤールはまたへなへなとテーブルに逆戻りし、
コントの様なやり取りを生温かな目で見守っていた家族たちから隠れる様に
腕の間に顔を隠した。
一昨日までは時々乱れる事はあっても
コントロール出来ていた感情に振り回されている自覚があった。
誰にも言った事はないのに、何故かそれとなく察せられていたとしても、
決定的な気持ちは言葉にせずにずっとのらりくらりと隠していたと言うのに。
これからもずっと隠し続けていくつもりでいた気持ちを、
伝えてしまった途端に制御不能になった、感情とそれに伴う体温。
今も、さっきまでここにいたと聞いただけで、
そわそわする気持ちが抑えられない自分に気づき、ヤールは羞恥で死にたくなった。
かっこわるい。
こんなんワイのキャラとちゃうねん…!
でも、あかん。
ちょっと考えただけで、”あん時”のお嬢の顔が浮かんできよる…!!
可愛いすぎやっちゅうねんなぁ?!寸止め出来たワイ、ほんま偉いわ!!
誰かもっと褒めてくれてもええと思うわ…!!
だー!もぉ!!と自棄になったヤールは
ぐしゃぐしゃと頭をかき交ぜてから、いっそのこと開き直る事にした。
からかわれるのも、かっこ悪いのも、心底嫌だけれど。
でも、
後悔は、してへん。
最善やったと胸を張って言える。
それは紛れもない本心だった。
本当は一生伝えるつもりのない気持ちだったけれど、
昨日は”言わなければいけない”のだと心からそう思ったのだ。
そのせいで家族たちにはからかわれるわ、自分の感情に振り回されて
見っとも無い姿を晒す羽目にはなるわ、不本意な事もあるが、それでもやっぱり。
…やわっこかったなぁ。
睫毛、めっちゃ長かったし、肌すべすべやった…
ぽかんとした顔は間抜けで、幼くて、――あまりにも無防備で。
ほんま、可愛かったぁ……!!
後悔は微塵もしていない。
むしろあんな可愛い姿を見る事が出来たのだから、
言ってよかったとすら思っている。
思い出せば出すほど、自分が馬鹿になっていくのが分かる。
語彙力がどんどん死んでいき、恐らく最終的には可愛いしか言わなくなる
自分が簡単に想像出来てヤールは一人げんなりとした。
そんな彼の頭上では「流石ナシアス!」「おうよ」そんな言葉と共に
パンっ!とハイタッチが交わされている。
そして馬鹿みたいに高い酒をリクエストしてきた大人げない2人に
ヤールはじとりとした目を向けながら「で?」と先を促した。
「あぁ、赤毛の方だったよ」
「ちゃうわボケ!いや、それも気にはなるけど、
んな野郎の事より、お嬢の様子はどうやってん!?」
「悪い悪い、ちょっとからかいすぎたな」
「ほら、一口やるから落ち着け?な?」
「子ども扱いすんな!」
があ!と吠えると2人は可笑しそうに笑いながらも、
ヤールが若干涙目になっているのに気づいて
流石にこれ以上からかうのはやめようと目配せをした。
大事な家族の可愛い恋を、ただ可愛がりたいだけなのだ。
普段こういったいじりをしない2人なのもあって、ヤールからすれば
彼らの可愛がり方は大分乱暴で物凄いダメージを食らうものであったのだが。
「つーかさ、自分から会いに来るように仕向けといて、
その狼狽えっぷりはどうかとオニイサンたちは思うわけよ」
「ぐっ…しゃーないやん、まさかこの店に来るなんて予想外もええとこやわ。
…そのうちワイが、連れてくる予定やったのに…!」
いつの間にか追加された生クリームたっぷりなシフォンケーキを口に運びながら、
スコットが呆れた様子で空いている左手で自身の後頭部を指さす。
彼の言いたい事に気づいたヤールは言葉を詰まらせ、
自身の髪を束ねている”見慣れた”髪紐の端を指に絡めて遊ぶ。
そして唐突にセラがこの店にやってきた理由に思い当たり、
脳裏に浮かんできた赤毛の優男に「あんの色ボケ騎士が…!」と舌を打った。
「おー、こわっ。頼むから、騒ぎだけは起こしてくれるなよ」
「誰がするか」
「そうだな、ヤールがお嬢の不利になるような事をするわけないよな」
「……」
苛立ちを露わにするヤールを宥める様に
ポンポンと優しく頭の上で弾む大きな手の平。
明らかな子ども扱いにムッとして顔を上げれば、
予想していたニヤニヤ笑いではなく、柔らかな笑みがそこにはあって。
ヤールは思わず口を噤んだ。
恥ずかしい。そんな目で見ないで欲しい。
そう思うのに”見守られている”この現状を、心の底から拒む事は出来ない。
くすぐったい。
頑張れよと応援されているのが、伝わってくるようで。
口の端がむずむずして、妙な表情を作る自覚があったのでキャラではないが、
やむを得ずヤールは頬を膨らまして誤魔化した。
子供っぽい誤魔化しに2人が軽く噴き出したので、どうやらバレバレだったようだが。
「そう膨れるなよ色男。
大丈夫だって、ちゃーんとお前、意識されてたよ」
「そーそー、騎士さんの手前あえて聞く事はしなかったし、
お嬢から話を振ってくる事もなかったけど、
あれは相当気にしてると見て間違いない」
にやりと笑う2人にヤールは「へぇ…」とそっけない返事を返す。
けれども一度上げた顔をまた腕の中へと隠してしまう
その動作が彼の心情を筒抜けにしていた。
髪から除く少し落ち着いていた耳の赤さが、またぶりかえしている。
可愛い奴めと男に向ける感想ではないはずの気持ちを、
何度味合わせる気だろうかこの男は、とナシアスはひっそり思った。
スコットは先ほどのセラの様子を思い出し、喉の奥で笑みを殺している。
隣に座るアルフェリアに気取られないように注意を払い、
まるでこの店に夢中になっているかのように振舞いつつも
彼女はずっとドアを気にしていた。
ゼドロス商会が運営するこの店に、
いつ若旦那が顔を出しても可笑しくはないからだ。
それをヤールに伝えると彼は腕の中でまた小さく唸り声を上げる。
スコットの話からその時のセラの様子を想像したのか
「…あかん、可愛すぎて死ぬ…」ぼそりと零れ出た素直すぎる感想は
聞かなかった事にしてやるのが、大人の気遣いだろうと
2人は可愛がりたくてむずむずする気持ちを押し留めた。
「……で、なんでメアリのリボンを貸し出す事になったんや?
お嬢は邪魔になるって下ろしたままにはせーへんと思うとったんやけど」
「あぁまあ、確かにトレードマークだって聞いてたポニーテールは健在だった」
「問題はそのリボンだ。借り物だから、早く返したいっつってな。
一目で良い品だってわかる、“紫色”のリボンだった」
脳内のセラにやられ、一人身もだえていたヤールだが暫くして復活した。
2人にはまだ聞かなければいけない事が残っている。
いちいち反応していたら、全然話が前に進まないとヤールは自分が
その話の腰を折っている事を棚に上げて、ずっと気になっていた事を問いかけた。
そして2人の返答に彼は「むら、さき…」と気になるワードを繰り返し、
「……ぅ゛あ゛ぁ゛あ゛ああ…!」再び頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
脳裏にはブリザードを背負ってこちらを見据える絶対零度のアメジスト。
それは恋する男が必ず対峙しなければならない、最強のラスボス…
つまり、彼女の父親という存在である。
それがこの国の実質ナンバー2である、宰相エリオル=ヴェールヴァルドだと
言うのだから、頭を抱えるなと言う方が無理な話だ。
我ながら物凄い人を相手にしようとしてんなぁ、と
ヤールは半ば自棄になりながらそんな事を思った。
…可笑しいな、想いを告げたあの時は
ただ窮屈そうなあの場から連れ出してあげたい一心だったというのに。
よくよく考えると、龍の宝を奪って逃げる、盗人の気分になってきた。
どちらにも“愛”しかないのだが、どちらを選ぶのかはセラの心次第である。
「お前、本当にすげぇ相手に惚れてんなぁ」
「態々言うなや…!」
「で、リボンをご所望だったんだがな、生憎ウチは取り扱ってない。
ラッピング用のリボンでいいって言い出したお嬢に、」
「メアリが自分のリボンを貸し出したってわけか」
ここまで言えば答えはわかるな?そう告げる視線に
頷きを返して、続きを答えれば彼らは「「ご名答」」声を揃えてニッと笑う。
楽しそうな彼らを見ていたら何だか力が抜けてきてヤールもへらりと笑みを返した。
そしてふととある事に気づく。
「…つーことは、今、お嬢オレンジのリボンつけとんの?」
「そりゃそうだろ?わざわざ、借りたくらいだし」
「……」
ぼそりと呟いたヤールに当たり前だろ?何言ってんだと
思った2人は次の瞬間、うわぁと引いた声を上げかけた。
態々聞かずともヤールが今どんな想像をしているのかが、わかるほどに緩んでいる。
彼らの視線に気づいたヤールは「やかましい」と文句を言い、
2人は「「何も言ってねぇよ」」と真顔で返した。
ごもっともなので、ぐっと言葉に詰まったヤールだが笑みだけを浮かべ
静かにこちらの様子を眺めてくる2人にもごもごと言い訳を口にする。
「ほんま珍しいねんぞ、お嬢がそういう女の子っぽい恰好すんの。
…うわ、見たい。めっさ見たい…!見たい、けど、シロやんがなぁ……!」
ちゃんとご機嫌がとれる物を用意できない限り、血を見るのは必須である。
セラと付き合いが長い分、ヤールはしっかり彼女の相棒の恐ろしさも学んでいた。
いくらセラが治癒魔法に長けているとしても、
それとこれとは話が別なのは当たり前である。
痛い思いなどしないに越した事はない。
またもや唸り声を上げ始めたヤールを呆れたような顔で見下ろして、
ナシアスはもう一人行動の可笑しな家族がいる事に気が付いた。
「メアリ、お前までまたにやけてるぞ」
「!…だって仕方ないじゃないですか!
あの“白猫のお嬢様”が今、私のリボンをつけてくれてるんですよ!?」
「にやけるなって方が無理です!」と言い切った
メアリの熱の上げ様にナシアスは自然と苦笑いが浮かぶのがわかった。
それが気に入らなかったのか、いかに白猫様が素晴らしいかを
語り出したメアリの勢いに「お、おお」完全に飲まれているナシアスを見て
「…そういやぁメアリはお嬢の大ファンやったなぁ」とヤールがぽつりと呟いた。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか、と
オレンジのリボンを揺らしているだろう思い人に思いを馳せながら。