1 ”始まりの日”へのカウントダウン
夢を見ている最中に「ああこれは夢だ」とわかる事がたまにある。
何故ならそれは今の現状とは遠く離れた昔の出来事だからだ。
私がまだあの家にいて驚くほどに美しい両親と
可愛らしい妹たちに囲まれて暮らしていた頃の記憶。
色とりどりの薔薇が咲き誇る中庭を
光り輝く蝶々たちが縦横無尽に飛び回る、幻想的な風景。
あれからもう10年が経とうとしている。
低かった背がぐんと伸び、それに伴う様に様々な経験をしてきた。
あの頃の様な愛らしいドレスではないまるで男の様なこの服装も、
傷などひとつもなかった白魚の手から遠くかけ離れ分厚くなったこの掌も、
その結果なのだからあの日々を懐かしく思いはしても、今を悔いる事はない。
これは自分が望んだことだから。
ただ、今も変わらず家族が幸せである事を祈っている。
――がさりと少女が眠る洞窟近くの茂みから一匹の獣が現れた。
白くふさふさした毛が美しく、その背に大人が乗れるほど大きな狼で
鋭い牙が並ぶ口にこれまた幼い子供ほどもある鳥の様な生き物が銜えられている。
それをどさりと少女から少し離れた場所に落として
狼はぐっすりと眠っている少女の頬を優しく鼻でつついた。
冷たい感触に少女の整った眉がぐっと寄せられる。
それでも起きないのを見て狼はその大きな口を開き
べろりとなだらかな曲線を描く頬をなめた。
少女もこれは無視できなかったらしく「ぅうん…」という
小さな呻き声と共に長い睫毛に縁取られた目をそっと開く。
アメジストを連想させる美しい紫が狼の姿をとらえ「おはよう、シロ」と
挨拶しながらゆったりと細められたのを見て狼は満足そうに鼻を鳴らした。
巨体の後ろでふわふわの尻尾が機嫌よさそうに揺れている。
「なんだかすごく懐かしい夢見た…誕生日が近いからかなぁ…」
自分とシロという狼以外に誰もいないので外聞を気にすることなく、
ふわぁあと大きな欠伸をしながら起き上がった少女が両手を突き上げ伸びをする。
そしてふと空を見上げ生い茂る高い樹木の隙間から見えた青空にそっと目を細めた。
最近はずっと雨や曇天ばかりで久しく見ていなかったその色を彼女は懐かしい色だと思った。
あの日、たった一人で迎えた7歳の誕生日もこんな色の空だったなぁ、と。
「私、もう17歳になるんだ…」
「早いね、シロに出会ってからもう10年になるよ」と
お利口にお座りしている狼の頭を優しく撫でる。
すると彼は気持ちよさそうに金色の瞳を伏せ、甘える様に少女の手にすり寄った。
獰猛そうな見た目に反して大人しく、そして出会い頭から
何故かくっ付いて離れないこの狼に10年前の少女はシロガネと名付けた。
今では頼りになる相棒となった彼だが、カッコいい名前を与えたにも関わらず
呼びやすさからもっぱらシロと略してしまい、
威厳たっぷりな狼なのにまるで犬のようである。
だが厳つい見た目の割に甘えたで行動も
まるっきり犬のそれなので、仕方ないよねと思う少女であった。
そこでふと洞窟の入り口に彼の大好物の大きな鳥型のモンスターを見つけて、
朝から重たいなあ…と思いつつもキラキラした目で尻尾を振っている相棒の期待を
無視するわけにもいかず、彼らの朝食は鳥の丸焼きになった。
そうと決まれば肩を滑り落ちる黒く長い髪は邪魔なので
早々に紐で一つに縛り上げてチャームポイントとも言えるポニーテールを作り、
少女の一日が始まった。
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森の中を全力疾走する狼の背にしがみ付きながら、ふと今朝の事を思い出し
「久しぶりに見たあの夢は何かの暗示だったんだろうか」と少女は思った。
なんせ何も悪い事をしていないのに
何故か騎士たちに追いかけられているという非常識な現状である。
まあ時折少しばかり手荒な事をした事もあるのは認めるが、
ここ最近は大人しくしていた為納得できない。
思わず現実逃避したくなるのも無理はなかった。
「待てー!」「止まれー!」と追いかけてくる男たちの声と
逸れることなく後をつけてきている蹄の音に少女ははしたなく舌を打った。
するとそれを聞いた狼が「わぉん!」と何かを促す様に一声吠え、
機嫌悪そうに唸り声を上げる。
「このまま逃げ切りたかったけど
向こうも追跡のプロがいるみたいだし、仕方ないよね」
「がう!」
薄っすらと殺気だっている狼の毛並みをひと撫でし、
ため息を付いた少女に同調するように狼が吠える。
嬉々として方向転換を図ろうとする狼の背から
丁度いい位置にあった太い枝へと器用に両手をかけた。
ぐっと後ろにかかる力を上手く利用して、
くるりとその枝の上に着地するころには見慣れた白い毛並みが
先ほど飛び越えた茂みの向こうへと消えかかっていて、少女は慌てて叫ぶ。
「怪我させたりしちゃ駄目だからねー!」
返事なのか遠ざかっていく遠吠えに少女は苦笑いを浮かべつつ、
狼の背から飛び移った時に脱げてしまったフードを被り直し、呼吸を整える。
そして小さく歌い始めると風が彼女の周りに集まりだした。
足元へと集中するそられらを確認し、彼女は枝を蹴って隣の木へ。
それを繰り返しながら森の中を進んでいく。
その間も紡がれる旋律は途切れることはなく、
鬱蒼とした薄暗い森の中に少女の澄んだ声がそっと響いては消えていった。
少女が目指しているのはこの先にある仲の良い老夫婦が営む、小さな宿屋。
基本的に大所帯で動く騎士たちはそれに似合う大きめの宿を利用するため、
彼らがこの先にある宿屋の存在を知らない可能性が極めて高い。
なのでそこに逃げ込んでしまえば、少女の勝ちだった。
その前にこのルートで行けば険しい崖があるのだが、
風を味方につけた少女にとっては大した問題ではない。
問題だったのは、追いかけっこの勝利を確信し
意気揚々と崖のすぐ傍の大木を蹴り空中にその身を投げた後。
着地地点に思いもよらぬ人物が偶然にも通りかかっていた事だった。
「ぅえっ!?ちょ、ごめんなさいお兄さんそこどいてーっ!!」
勢いよく飛び出し着地地点を確認してぎょっとした少女が慌てて叫ぶ。
途端に彼女が纏っていた風が拡散し、
それに気づいて更に焦るも現状ではそれ以上何も出来ない。
もう一度風を纏うには時間が足りないし、
着地場所をずらそうと崖を蹴ろうにも離れすぎていて足が届かず、
衝突を避けるには落下地点にいる青年にどいてもらうしかなかった。
少しでも着地の衝撃を和らげるために少女はもう一度旋律を奏で始める。
それに応える様に新たな風が少女を取り巻いたが、
それは先ほどと比べると遥かに弱い物だった。
――青年は静かな森に突然響いた高い声に首を傾げ、声が聞こえた頭上を見やる。
そして思いもよらぬ、こちらに向かって降ってくる人影に「んん!?」と心底驚いた。
ただでさえ人と出くわす事が稀な深い森でこうして出会う事だけでも驚くのに、
「どいてーっ!」と叫ぶその人物の声色からして
女性である事がそれに拍車をかけていた。
極めつけはこのとんでもなく非常識な状況である。
誰がこんな高く険しい崖の上から人が降ってくると思うのか。
正直なところ、降ってくるのが男なら彼は素直にその言葉に従ったかもしれない。
怪我をしようとも全く持って自業自得なのだから。はっきり言って自殺行為である。
けれども残念ながら現在この非常識な状況を作り上げているのは女性で、
それは彼がその場から退く理由を封じるに値するものだった。
だから彼はぐっと足腰に力を入れて、
その長い両手を広げ衝撃を待つしかなかったのだ。
――少女はというと、どいてくれればそれでよかったのに、
何故か両手を広げて受け止める体勢を取った青年に
「正直邪魔なんだよ!」と舌打ちしそうになっていた。
けれどもどう考えても善意からの行動であることは明白で、
少女は叫びたいのをぐっと堪え眉をひそめるだけに留まり
仕方がなくその腕の中にお邪魔する事を決意する。
接触するタイミングを見計らって
少女は自身の魔力を左手首を飾っているブレスレットに込めた。
細身の輪っかに埋め込まれている小さな宝石がキラリと輝き、
纏っていた弱い風が急に力を増した。
「っ!?」
青年は彼女を受け止めたのとほぼ同時に突然襲った強風に思わず目を細めた。
咄嗟に腕の中にいる彼女を守る様にぎゅうと抱きしめる。
一体何が起こったのかと警戒し鋭い眼光で辺りを見回すも、
人っ子一人いやしない。その上強風が吹いたのは一瞬の事で、
誰もいない事を確認して瞬いたその一瞬でそれらはすうっと拡散した。
辺りに静寂が舞い戻り、何だったんだ?と警戒しながら青年が
不審な出来事に眉を寄せていると「えっと…あの、」というか細い声と共に
腕の中の小さな体が居心地悪そうにもぞりと動くのを感じて、
視線だけは絶え間なく辺りを警戒しつつも安心させるように心がけながら声を出した。
「突然の無礼は謝罪しますが、危ないのでもう少し我慢してください」
「…あの、さっきの風でしたら起こしたの、私です」
低いが聞き取りやすい声でそう告げる青年に大事に抱き込まれたままの少女は
青年の様子を見やりどうやら自分が起こした風を不審に思っているのだと気づき、
おずおずとそう告げる。
すると予想もしていなかった言葉に驚いた青年が思わず、と
いった様子でがばりと彼女の細い両肩を掴み引きはがした。
そして「すみません…」と申し訳なさそうに項垂れる小さな頭を
まじまじと見下ろして「本当に…?」と戸惑った様子で
確認してくるので少女は小さい声で「はい」と頷いた。
「突然ご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません。
あと、受け止めて頂きありがとうございました」
「いえ…驚きましたが、お怪我もないようで安心しました」
ぺこりと頭を下げて礼を述べる彼女に青年はハッとした様子で背筋を伸ばし、
丁寧な態度で答えながら頭を上げる様に促した。
それに従った少女が顔を上げ、
初めてしっかりとお互いの顔を見た二人は揃って目を見開いた。
――そして少女は悟った。
今日は何かと可笑しなことばかりが起こっていたが、
本当の面倒事はここからなのだと。
飛び降りている最中に脱げてしまったフードを無礼を承知で被り直せばよかった、
いやそれよりも”こう”なることが嫌で伸ばしてる前髪の乱れを
何で今に限って直さなかったんだ私!とどれだけ後悔しても後の祭りである。
いつもよりもクリアな視界で自分の目を凝視するダークブルーの瞳と、
何故か彼の背景に見える光り輝く薔薇たちを見て少女は口元を引きつらせた。
なんだかものすっごく嫌な予感がする、と。