第九話 天真会
東川の塒で、15歳のアレックスは些事に忙殺されていた。
花街の女は男を知り尽くしている。
これまではただの子供に過ぎなかった少年が、潔癖なばかりの思春期を卒業したとすぐに看破した。
若く経験も不足だが、そうなればこの街でいちばん頼れる「男」といえばアレックスなのである。
彼の元には各種の陳情が持ち込まれるようになっていた。
やれ、前の男が付き纏ってうるさいだの、暴漢が店に難癖をつけて困っているだの。ちょっと書類や帳面を見てくれだの。
どうも天真会が経営するクラブが、例の姐さんが仲介しているらしいと知って、アレックスは直談判に出向いていた。
「なんだって言うんです!」
「身分も違うし、アレックスさんはお客様、それもお顧客様。そんな他人行儀な言葉遣いはよしてください」
姿態を作って言われてしまうと、どう踏み込めば良いか分からない。
そこはアレックスもまだ15歳であった。
仕方なく、言われた通りに言葉を直す。
「なんだって私に話を持ち込む? こちらは修行中の身、稽古の時間を奪われたくは無い!」
ぴしりと気合を入れたつもりが、その柳腰に風とばかり受け流されてしまう。
「お金、安定収入が無い。実家も頼れない。何に拠って世に立つつもり? そんなに稽古して、武芸者にでもなるのかしら?」
痛いところを突かれ、押し黙ってしまったところを決め付けられる。
「だとしたら私はあなたを見損なったわね」
腹立たしかった。
頸に鎖をつけられ、頭を押さえ込まれているような感覚。
それだけはどうにも許せぬのであった。
憤怒のあまり、霊気が噴き上がりかけるアレックス。
武人でも無い相手に殺気を放つなどあってはならぬ、そのこと重々承知。
だが怒りを抑えきれず、玲瓏を思わせるその美しい顔を歪めていた。
鋭く光る碧眼に暗い色が増していく。
女は悟った。この忍耐力、大を為す男が必ず備えてあるものだと。
すなわち恩には恩を、恨みには恨みを、万倍にして必ず返す男になると。
このまま決裂してはいけない。後年必ず惨たる事態を招く。
「ごめんなさい、言い過ぎた。……私たちの立場を、意図を伝えます。それで許してもらえるかしら」
一気に霊気が引いていく。
そもそも怒るふり、駆け引きをしていたのかと、一瞬頭をよぎった思い。
まさかね、さすがに15歳で……と一息ついて、寒気を覚えていた。
ならばこの霊気の収縮、理性で押さえ込んだもの。
三十人力と称される少年。怒りを発散させても大抵のことは通ってしまうはず。
しかしごり押しには頼らない。情報を吸収するためならば、意地を捨てる。
その冷たさに改めて恐怖を覚えていた。
「私たち天真会は――いろいろな顔を持っているけれど――異能者の互助会でもあるの。尖った異能者は世に受け入れられない。若い異能者が全能感から調子に乗って破滅することもある。私たちは1000年以上それを目にしてきた。他人事とも思えないし、それをされると異能者全体の肩身が狭くなる」
「だから私を、『世間』に縛り付けておこうと?」
己を縛るもの、頭を押さえつけるもの。
踏み砕き断ち割らずにはいられない。
それは思春期の全能感かもしれない、けれど。
目の前の少年の場合は、それでは済まぬ何かがある。
熟練のホステスには、そのように思えてならなかった。
「縛るつもりは無いし、縛れるものでもない。……三人力のリンさんも、飛躍のきっかけを掴んでいたんでしょう?」
忘れたくて、しかし忘れようもないその名前。
耳にして、アレックスは胸に鋭い痛みを覚えた。
その美しい顔が再び歪む。
「ごめん。でもいつものアイツから聞いてるんだ。アレックスさん、あなたの腕前のこと」
15歳を迎え、背も伸びたアレックスの武術は大きな進境を見せていた。
いや、何か思うところがあったものか、その鍛錬にこれまで以上の真剣さが加わったことが理由であろうと。道場の幹部たちはそう捉えていた。
ウォルター、あるいは先に戦没したリン。
それが戦場に出しても「そう易々と討たれるはずなど無い」腕前である。
一軍の将たる公達や、本来なら戦場に出ることの無い女人としては破格の水準。
だがその腕前を、アレックスは入門時点で具えていた。
15歳のいま、アレックスの実力はその二段がた上を行っている。
明確に達人の部類、腕前だけならば師範代一歩手前にして道場の幹部級という域に達していた。
それを知りながら、「武芸者を目指すべきではない」と告げる姐さん。
ならば彼女の話には聞く価値がある。
リンの名を耳にして得た胸の痛みに耐えながら、アレックスは耳を傾けていた。
「武芸者が嫌なら、軍人よね。そのために何が必要かは分かってる?」
「指揮能力、統率力。それを鍛えるために必要なのは……」
動員力。
よく鍛えられた兵、そして士官をどれだけ抱えているか。
例えばリーモン家は「号して万」、実数で三千の兵を動員できる。
やはりアレックスと大きく違わぬ武芸の腕を持つコクイ・フルートを始め、出頭ものの幹部郎党だけで五指をもって数える。そのそれぞれがまた一族郎党を抱え、固い結束と統率を兵に及ぼす。
これではそもそも、まずい戦をすること自体が難しい。
現にウォルターは、アレックスに初めて出会った日よりも遥か以前に初陣を済ませていて。
「慌ててしまって、失敗したよ」などと謙遜しているが、実のところはタイミング良く突撃命令をかけ敵部隊を潰滅させたと聞いている。
その後も数度出陣し、道場にある姿そのままの堅実な戦ぶりで着実に功績を重ねていた。
いっぽうで、道場に毎日顔を出す熱心な弟子。武術専一に打ち込む男達。
裏返せば彼らの多くは、戦に出る機会すら得られぬ者たちなのであった。
アレックスもまた同じ。三男坊では参戦の機会を得ることが難い。
一介の武芸者で終わりたくなければ、どうかして軍功を挙げなければいけない。
そのためには参戦の機会を得、そして生き残ることが絶対条件で。
さらに「独り立ち」し、兵を抱え養うことが必要である。
アレックスは真剣にそのことを思い悩むようになっていた。
目の前の姐さん、そうした自分の志望を理解している。
何かを教えてくれようとしている。
ならば辞を低くし礼を尽くして教えを請うべきである。
アレックスは、改めて一礼を施していた。
「花街と戦場、まるで関係ないと思う? いろいろなものが落ちているし、落ちてくるのよこの街は」
身分の差、圧倒的な「暴力」の差を持ちながら、どこまでも下手に出る。
その姿勢を知る男に恐怖と……痺れのようなものを覚えながら、しかしなお女は踏みとどまった。
「掴みたければ、踏み込まないと。私から教えてあげるのはここまで。後はあなた次第」
天真会の教義を、店がここにある目的を思い出して。
クラブの経営陣の一角として、自分を頼るホステスたちを守る姉として。
そのプライドが女を救った。
「なぜ教えてくれる?」
嘘はつけない。後が怖い。いや、告げたくなっていた。
だから女は、そのプライドを正直に口にしていた。
「妙な目で、色眼鏡で見てほしくない。敵視しないでほしい。妓を、異能者を、身分低き者を。必死に生きる者たちを、弱く汚い者たちを」
少年の眉が上がる。不平の色が碧眼に浮かんでいた。
「弱いとは思わないが……かりに弱いとしても、汚いとは決して思わぬ」
敬語を使う必要など無い、そう言い向けたのは女であった。
しかし今や少年は、当然のように上から言葉を投げていて。
その事実に一抹の寂しさを覚えもしたが、対峙するための冷静さを再び取り戻すこともできた。
「今のアレックスさんはそうかもね? 王都の中流貴族、ヴァロワの家って、社会のほんの上澄みよ? 『下』から見れば、大臣や伯爵とも変わらないの。でもあなたは、自分を上流とは思ってない。……そういう人が出世して大貴族にでもなった時、今と同じ姿勢でいられるかしら?」
何を言っているのか、アレックスにはまだ理解できずにいたけれど。
「成り上がり者は貴族を叩くか庶民を叩くか、どっちかなの」
その言葉に、反射的に答えていた。
「庶民を叩くような真似はしない。約束する」
現に自分は上流貴族に反感を覚えることが多いと、胸の内に頷いたアレックス。
しかしその時姐さんが見せた目の意味を、彼はすぐに知ることとなった。