第八話 文目 ――あやめ―― (R15)
翌年のこと、アヤメの季節が訪れた。
楽しみにしていたその白い花を、リンは見ることがなかった。
「初陣はお味方有利で推移していました。応じてご主君が本陣を前に出した際、流れ矢に……。葬儀はご主君の主催で済ませました」
道場を訪れた父親は、憔悴の色を顔に浮かべていた。
それでも力を振り絞るようにして、これまでの指導と厚誼に礼を述べ。
そして悄然と去って行った。
「女説法師ならば、生涯に得るはずの収入は如何ほどであったか」
「無論、主家で大金を包んだはずだ。怠れば、次の募集に応ずる者がいなくなる。リンのおかげで、一族の男子もお抱えになっただろうなあ」
ここのところ、王都は不景気続き。
武芸者たちも就職に必死で。
飛び交うのはそんな話ばかり。
稽古にならぬ者も多かった。
リンに惚れていた者、色恋のことは無くとも情に篤い愚直な男。
ぼろぼろ涙を流し、喚き叫ぶばかり。
「大の丈夫が何事か! この道にあるならば覚悟の上、立派な最期である!」
日頃穏やかな師範代までが、声を荒げていた。
「どうしたアレックス、重心の据わらぬ。いや、急に背が伸びたのであったな。しばらくは型稽古に励み、体を慣らすことだ」
若い師範代は続く言葉を失っていた。口を開けたまま。
アレックスの相手、リンはいないのだと思い出して。
そのまま天を仰いでいる。
「私もどうかしている。しかし、リンがなあ。今の腕ならば、そう易々と討たれるはずなど無かったものを。……いや、これは未練であった」
肩を落とし、左右に振った首。
「新たな型稽古の相手は……ウォルター、こちらへ! やはり腕には差があるが、お互い学ぶところがあろう」
そのウォルターには、まるで動揺のようすが見られなかった。
正確に履践される型、冴えた剣筋。
異能に恵まれぬながらも努力を重ねただけのことはある。
技だけならば、明らかにリンの上を行く域にあった。
だがアレックスは、その冴えが気に食わなかった。
リンとウォルターは同い年。長年共に鍛錬を続け、撃ち込み稽古の好敵手であった。にもかかわらず何の動揺も、思うところすら無いのかと。
稽古を終えるや、いつものように台所に出てきたウォルター。
練習にならぬとて道場が早く閉められたため、この日は背を丸めていなかった。
悠々と食事を口に運んでいる。
とめどなく流れ落ちる涙に妨げられ、まともに飯も喉を通らずにいた男が――それでもここに来なければ食事にありつくことすら覚束ぬ愚直な武術バカが――その姿の何かが気に障ったものでもあろうか。
「ウォルター貴様! よくも平気で! 仲間が死んだんだぞ!? 女が戦場で……哀れと思わないのか!?」
常に傍らにあるコクイ・フルートが目を怒らせ、腰を浮かせた。
しかしその眼前を遮ったのは、若君自ら伸ばした左腕で。
「戦争とは、つまり人殺しだ。敵を殺す。味方も死ぬ。千年にわたり仕えてくれた家の若党が、装備を持ち去られ首を斬られ、赤裸の胴体だけになって帰って来る。それすら見つからぬこともある」
胴だの首だの、裸だの。
貴族はそうした言葉、「体の部位」を口にすることを憚る。まして食事の場だ。
低いその声に、一同が静まり返ったけれど。
涙にくれる男は執拗であった。
「味方本陣で、遺体を辱められることもなく名誉の死を遂げた、それが幸いだと!? リンの死を喜んでいるのか!? 上流は情に薄いと言うが……お前には心があるのか?」
再びコクイが立ち上がろうとし。
その肩を、ウォルターは掴み止めていた。
「主将が感情に流されて、戦に勝てるか? 興奮して判断を誤れば、さらに何人が死ぬ? そんなことで家の当主が務まると?」
その手は肩にきつく食い込んでいて。
声はさらに、強く抑えられていて。
「ウォルター貴様、我が家を小さいと……俺が次男であることを侮るか!」
武術ひと筋の男、その声は高くなる一方で。
ついに周囲も割って入らざるを得ず。
「もうよせ! 仲間の死を悼まぬ者などいるわけもないだろう? ウォルター、コクイさんも……大目に見てやってください」
聞き苦しさに、アレックスは目を逸らした。
庭の片隅に咲く白いアヤメへと。
皐月の陽光を跳ね返して、痛いほど目を射られる。
嫌な花だと、その眩しさを避けるように俯いていた。
「呑みに行くぞ。酒とはこうした時のためにある、違うか? そして我等を下流扱いするならば、ウォルターよ。上流たる者、当然奢らずにいられぬであろう?」
先輩……天真会の男は、相変わらず間を取り持つのが巧みで。
ひさしぶりに訪れた酒肆でも、気の滅入るような話をすることはなくて。
「彼女は輪廻の環に還った。いや、リンは聖神教だったか? ならば天に帰った。とにかく献杯だ!」
形ばかり口に含んだ酒は、相変わらず苦かった。
しかしすっと喉を通って行った。
どうしたわけかと、杯を口から離したアレックス。
中を眺めれば、滑らかな琥珀色の液体。以前と変わるところは無かった。
ぐっと傾ける。
苦かった。
だがその苦さが、なぜか当然のもののように思われて。
杯は空になっていて。
男達は、とうに二杯目、三杯目に口をつけていた。
喚き、あるいは笑い、泣き、女に戯れながら。
アレクサンドルの前にも二杯目が置かれていた。
つと鼻を突く、香り高い酒。さらに辛く、そして苦い飲み口。
やはり喉を通って行った。
その舌触りを、喉越しを、うまいと称して良いかは分からなかったけれど。
するりと流れ落ちていった。
身体が、まぶたが熱くなる。
「アレックスさん、飲むと黙っちゃうんだね」
「飲み比べの時も倒れてたし……眠くなるタイプ? 気をつけなよー? 食べられちゃうぞー?」
姐さんと呼ばれるこの店のナンバーワンが、背中から身を寄せて来た。
うなじをくすぐる息。
その優しさとは裏腹に、口にされた言葉が耳を刺す。
「感づかれると面倒よ? みんな狙ってたんだから。ヤキモチ妬かれて、ある事ない事でっちあげられたら……かわいそうでしょ? 騒ぐか、触るか、潰れるか。さっさと選んじゃいなさい」
顔の強張りを覚えたアレックス。
改めて首を上げてみれば、女たちの探るような目。
「あ、いや。酒ってこんなに旨かったかと思って……」
嘘ではない。が、確かに嘘をついていた。
「あー。そういや呑めなかったよね」
「初々しいなあもう! そうそう、急に分かるんだよね!」
「ならこっちなんかどう?」
クラブにいつもの雰囲気が帰って来た。
男達は、あいも変わらず。
「おいアレックス、また高いのを開けられるぞ?」
「ウォルターの奢りだろ? 冗談だって。モテ税だ。アレックスに払わせろ」
「ほどほどにしとけよ? せっかく背が伸びてるところなんだから」
いつもどおりのその景色に、アレックスはなぜか胸の痛みを覚え。
「ええ、皆さんで開けてください。私は帰って寝ます。背を伸ばすために」
財布を投げて店を出た。
酔っているせいか、景色が違って見えた。
夜も闌、表通りのあちこちに、男と女が姿を見せていて。
いつものように秋波を送られ、嬌声を投げられ。
そして男に睨まれたけれど。
その景色が、アレックスには以前と違って見えていた。
本気で声をかける女がいた。
手を繋いだ男の気を引こうと、少年を当て馬に使う女がいた。
本気でアレックスを睨む男がいた。
女に応え、嫉妬するふりの男がいた。
知らなかった、文目。さまざまな模様。
見えるようになっていた。
頑なであったアレックスの目を開いてくれたのは酒、いやリンであった。
出陣前、春の夜寒に肌を寄せ合い眺めたアヤメ。
その白いつぼみはいまだ固く、内に向かって閉じていたけれど。
リンは開花を信じていた。待ち望んでいた。
花はほころび、柔らかく咲き誇る日を迎えつつあった。
咲かせた年上の少女は、そのさまを見ること無く世を去った。
少年の目に映る夜の明かり。ぼうっと滲んでいった。
堪え難くて目を閉じれば、白い花が、月に照らされた白い顔が浮かんできて。
リンが愛した花。
アレックスは好きになれそうになかった。