第七話 舞人
アレクサンドル少年の住所は、「左京は二緯五経」であった。
その一帯を転々と移りながら暮らしていた。
東西32km、南北40kmの広がりを有する王都は条坊制を採用している。
北の城壁から一緯、二緯、……九緯まで。
東西は中央を南北に走る朱雀大路から東(西)一経、二経……五経まで。
つまりアレックスは王都の東北部にごろついていた。
北郊のソシュール道場に通う便を考えて。
なお、王都の土地事情であるが。
まずは「王者南面」の謂により、王宮が王都の北辺中央に座している。
そのため左京の土地は北にゆくほど地価が高い……いやそれ以前に、高位の貴族でなければ居を構えることができない。
東川沿いは王都郊外の商業地ゆえ、そうした身分の理屈とは関わり無いはずが。
それでも北へゆくほど、いや二緯に近づくほど――二緯以北には「良いお店」は存在しない。東川の西岸が王族居住地、東岸が「学園」の敷地とされているから――品が良い、あるいはお高く止まった、女子供でも安心な、そういう街になっている。
逆に南へ向かうほど本場のディープな雰囲気を増す。街の縄張りも東西方向……主に東の郊外へと膨らみを見せる。
が、人間の欲望さながらにどこまでも広がるかとすら思える繁華街も、四緯と五緯の中ほどで突如として断絶を迎える。
その南にはメル家の下屋敷(有り体に言えば城郭である)が鎮座しているから。
メル家。キュビ家と並ぶ王国最大の軍閥である。
もと「外国」であったものが、数百年前相次いで王国の傘下に加わって後は辺境の防人を務めている。
「文の立花、政のトワ、武はメルとキュビ」と呼び慣わされる四大氏族としてその名も高い。
アレクサンドルのヴァロワ家やウォルターのリーモン家、またオーウェル家などは「独立系軍人貴族」と呼ばれている。
1000年の昔に国を開いた英雄王、その親衛隊員たちの子孫である。
乱暴にまとめるならば、独立系軍人貴族とは「旗本御家人」の如きものである。
メルとキュビは「外様の大大名(現役戦国大名?)」というわけ。
つまり「左京は五緯五経」の近辺にはメル家ご一党、本物の軍人たちがたむろしている。
街場の好漢では相手にならぬゆえ、繁華街はそこから南へと延びることがない。
ともかく。
アレックスの塒「左京は二緯五経」は、繁華街でも安全で上品な地域。
町娘も安心して出待ち追っかけを楽しめる。
ことに最近はお目当てのアレクサンドル様ご本人が街を浄化してしまったから。
ではアレックス少年が現れるその以前、この地域で「良い顔」であったのは誰かという話だが。
これまた鼻筋通った甘い顔の美青年であった。
「近衛舞人のご嫡男だそうですよ? アレクサンドル様とほぼ同じ身分ですね」
乳兄弟にして従僕のニコロ少年、どこから情報を仕入れてきたのやら。
四角い顔に似合った武骨な手で、くるくると果物の皮を剥いて差し出しながら。
近衛府には軍楽隊が存在し、舞人・楽人が在籍している。
噂の美青年ダヴィド・サレジオはその家柄、やはり独立系貴族らしい。
リーモンが「譜代の小藩」ならヴァロワは「旗本」であり、サレジオは「御家人」であろうか。それぐらいの違いはあるけれども。
大きな目で見れば、宮廷における同派閥ではある。
だがアレックスは、ダヴィドが好きでなかった。
まず背が高い。見下ろされるのは腹が立つ。
後発のアレックスにケンカを売ってくるかと思いきや、それも無い。
と言うのも、ダヴィドはこの町に住んでいるだけなのだ。
女が集まり騒ぎ、そのたび男とトラブルになってはやはり蹴散らしているらしいあたり、アレックスとよく似ているけれど。
アレックスと異なるのは、女性に積極的なところ。
いつも違う女を周りに侍らせている。それも三人四人と。
町のごろつきども、ケンカを売ろうにもダヴィドの周囲から……いやそれどころか店先から路地から非難の声を浴びせられ、売りようも無いことすらしばしば。
女を盾に取るかのごときその態度が、卑怯なもののように思われてならぬ。
たまに通りですれ違おうものならば、「夢の競演」というわけで、それはもう大騒ぎになるのが煩わしい。
その際こちらに会釈を見せる、余裕の笑顔が腹立たしい。
いったいあいつは何者なのだ。
だいたい嫡男ならば近衛府に出仕できるではないか。
アレックスはかつて一度、料理屋の二階からダヴィドの喧嘩を目撃した。
両手に剣を持っていた。およそ双剣は利き腕を攻に、逆腕を防に用いるものであるはずが、左右の動きに違いを見せぬ。搦め手から妙な角度で突きを入れても重心が安定している。その体幹の強さとバランス感覚には学ぶべきものがあると思えた。
間合いを詰める動きは円転の妙による。相手の得物をかわしつつ高速で半回転、また逆回転。一切軸がぶれぬ。目を回すどころか、視線を敵から切ることが無い。間合いを遠ざける際は飛び退るが、その下半身のバネたるや相当なもの。
まさに舞、それも熟練の動き。
王都最大の祝典、五月の祭礼で舞を披露していた近衛軍楽隊に劣るものではないどころか、いかな檜舞台に立ったとて、あれほどのパフォーマンスを見せる者などそうはいないはず。
何が不満でこんなところにとぐろを巻いているんだと、表舞台に立てぬ身の怒りが……口にはできぬ憤懣が腹のうちに沈殿し、アレックスはいたたまれぬ思いに苛まれていた。
その祭礼が終われば六月、水無月、雨の月。
道場帰りのアレックスはそぼ濡れに舌打ちしながら、こうなっては走るも歩くも同じことだと、歩調を緩めつつ目抜き通りを下っていた。
きれいどころも遊冶郎も、この日ばかりはさすがに姿を見せぬ。
せいせいする、雨降りも悪くない……と心中に強がりを呟いたアレックス。
闘争の気配をその身に感じて振り向いた。
入門しておよそ一年、天賦の才に長足の進化を添えた少年は「気」を知る域に達しつつあった。
日頃喧騒の花街では難しいが、こう静まり返っていれば。噴き上がる大きな気配を過つことは無い。
自らは気配を殺しつつ、路地裏の小さな広場へと歩を進める。
物陰より、すいと一気に踏み出せば。
半裸の男が、天空に向けて腕を伸ばしていた。
並ぶ陋屋、その屋根の隙間は正方形を切り取る窓のごとく。
その遥か向こうにある灰色のカーテンを、目一杯に伸ばした掌もてこじ開けようとしていた。
蒼穹に飛び込まんと、高く飛躍する。
雨を雲を振り払わんと、鋭い回転を繰り返す。
脚を曲げ、そして伸ばしながら。
舞を学ばずとも知れた。
気高く美しくあったが、それはもがく男の姿であった。
届かぬことを知りながら、なお天を目指さずにはいられない慟哭であった。
現に激しく回り飛び続けるダヴィドの蹠は泥にまみれ、血を滲ませている。
「なぜだ!」
思わず声をかけていた。
「なぜその技を持ちながら、こんな陋巷に逼塞る! 表舞台に立って良いはずだ! 立たなくてはいけないはずだ!」
若く熱く、正直な怒号。
魅了された観客に、冷静的確な評論家に、男は笑顔を向けていた。
「一再ならずあなたの剣技を拝見しました。天才は舞をも知るものですか」
少年を天才と看破していた。
自らの舞が一流であること、いっさい謙遜しなかった。
物陰にかけてあった上衣を纏ったダヴィド。
いまだ雨は止まず、衣から透ける鍛え抜かれた上半身は薄桃色に上気していて。
「いかがです?」
その肌艶を思わせる色鮮やかな果物を差し出してきた。
「傷物ですが、それゆえかえって甘さが増すということがあるそうです。花街に出入りの果物売りが教えてくれました」
甘かった。そして、強い酸味。
口中に広がる濃厚な味わい。
「が、貴人への贈答には出せぬでしょう? 曲がった野菜、大きすぎる花、傷入りの果物」
背を見せていた。両の腕を大きく広げつつ。
「身長が伸びすぎました。近衛舞人の背は170cm以上180cm以下。185cmを超えるなどあってはならぬ。焦りを覚え節食したときには遅かったのです。逆に骨の成長に難が生じてしまった。私は肩甲骨のかたちに品が無い」
骨のかたちに品位だと?
何を言っているのかとアレックスは耳を疑った。
だが、大きすぎる花……近衛府で周囲の舞人と合わせることを思えば……いや、それでも。
「馬鹿げている! あんまりだ! それほどの技を、いや人の心を打つ力を持っているのに」
「ええ。三男坊であるがゆえに逼塞せねばならぬのも馬鹿げている。この街からあなたの姿を目にしなくなる日を、私は楽しみに待ち侘びています」
背を見せたまま、立ち去っていた。
こいつの姿を目にしたくないと、アレックスも思ってはいた。
同類ゆえに嫌悪していた。
だが同類ゆえに悲しんでいる、自分に期待を寄せるこの男は。
あの舞を、幾たび踏んだことであろう。
どれだけ泥を浴び血を流せば、その心に至るのだろう。
いつしか雨は止んでいた。表通りに喧騒が帰ってきた。
ダヴィドの姿を認めた女たちの悲鳴も。
気配を遠くに感じつつ、アレックスはその場に立ち尽くすばかりであった。
王族居住地:現在の京都御所
学園:京都大学
メル家下屋敷:六波羅探題・六波羅北方
が、それぞれモデルです。