08 悪い報せ
梅樹の花が咲き誇る麗らかな日に、皇帝の座す龍の間は緊迫した空気に包まれていた。
「虎柵県で反乱? 馬鹿な!」
黒曜―――龍宝は思わず紫檀の机を叩いた。
バシンという乾いた音が、房内に響き渡る。
報告した深潭の顔もまた、緊張でわずかに引きつっていた。
「早馬の報せによれば、鎮戍の民兵が多数参加しているとのこと。自分達がいつまでも富まないのは国の失策のせいだと、触れ回っている者がいるようです」
「玄冥宮の様子は? あの女の企てか」
「それはまだ分かっておりません……玄冥宮は多数の兵に包囲されており、近づけるものではないと……」
「とにかく、すぐにでも兵を送らねば。蛮族と手を組まれたら取り返しがつかないぞ!」
話に割り込んできたのは、皇帝の執務室に詰めていた余暉だった。
逃亡生活で国内を放浪した経験を持つ彼は、地理や国内の情勢に詳しい。
「既に手を結んでいる可能性は?」
龍宝の問いかけ、深潭は慎重に言葉を返す。
「例年、蛮族の進軍は収穫を終えた秋の終わりです。今は厳しい冬を終えたばかりで蓄えもなく、また春の作付けを妨害するのは彼らにとっても本意ではないでしょう。現状では、挙兵に蛮族が関わっている可能性は低いかと」
榮の北方に住むのは、季節ごとに移動しながら暮らす遊牧民族だ。彼らは馬の扱いに長けており、精強な兵は食糧を奪うため毎年のように国境線を越えてくる。
しかしそれは大抵秋の終わりという限られた時期だ。蛮族は冬の蓄えを得るため収穫のあとに狙いを定めてくる。それは逆を言えば、田畑の作物を育てるために重要な春から秋にかけては事を仕掛けてこないということだ。
「しかし場所が場所ですから、断言はできません。反乱軍が報酬を約束して彼らを雇い入れれば、鎮圧はより難しいものになるかと……」
深潭のいつも以上に難しい表情に、三人の間には気まずい空気が流れた。
民を守り、侵略を妨害するための鎮戍だがそれが仇になった。
徴兵された民兵を一か所に集めていたことで、反乱が起きやすくなっていたのだ。
一昨年までの皇太后による垂簾聴政によって、国は民からの信頼を失っている。度重なる賦役と徴税で追い詰められた彼らが、反乱を起こしても仕方のない状況ではあった。
「とにかく、その煽動している者達の素性を調べさせろ。玄冥宮のある虎柵県で反乱がおこったのには、何か理由があるはずだ」
前皇帝の正妻である皇太后が、玄冥宮に蟄居させられているという事実を知る者は少ない。
場所を公表すれば彼女の存在を悪用される危険性があると考え、龍宝達はその場所をあえて公開せずにいたのだ。
反乱が起きたのがもし偶然でないとすれば、皇太后の蟄居先を知る者が反乱に関わっているはず。
そこまで考えて、龍宝は用心深く息を吐いた。
「アレはどうしている?」
彼の問いかけに、深潭はあらかじめ答えを用意していたのか淀みなく答えた。
「城下にある私邸にて、大人しくしている様子です。しかし……」
「しかし?」
「邸第に潜入した密偵が、立て続けに消息を絶っています。油断は禁物かと」
龍宝は思わず笑いたくなった。
あちらもこちらも敵だらけ。皇帝なんて名ばかりだと弱音の一つも吐きたいが、深潭と余暉の手前それもできない。
―――鈴音。
ふと、彼は後宮にいる娘を思い起こした。
妃になってくれと言っても、首を縦には振らない女だ。
皇帝の求婚を断る娘など、龍宝は聞いたことがない。
それでも辛抱強く彼女の心変わりを待つつもりでいたが、事情が変わった。
自分はそんな悠長なことを言っていられる立場ではなかったのかもしれないと、思い知る。
「わかった」
龍宝の決断は早かった。
「将軍を呼べ。虎柵県に親征を行う」
その言葉に、向かい合っていた深潭と余暉は言葉をなくした。
親征とは、天子が自ら軍を率いて遠征を行うという意味だ。
兵士の士気は上がるが一方で皇帝を失いかねないという危険があり、建国間もない国ならまだしも、ある程度成熟した国家ではまず行われないことである。
「陛下! 何も陛下自ら鎮圧に向かわずとも」
押し留めようとする深潭の言葉を、龍宝が遮る。
「いや、虎柵県の反乱には即座に、かつ断固として対応しなければならない。各地で後に続く者が出ては困るのだ」
彼は何も、血気にはやって親征を宣言したわけではなかった。
その口調は静かで、落ち着いている。
「皇太后を排したとはいっても、あれの食い荒らした国は病人と同じだ。ほんの少しのことで崩れかねん。反乱が各地に飛び火すれば、もう手当のしようがない」
今、榮の国内には反乱を起こした者達同様、不満を持つ者で満ち満ちている。
皇太后を朝廷から排除して後、龍宝は弱者にも優しい政治を施そうとしたが、まだその試みも末端まで行き渡らないのが現状だ。
そんな中虎柵県での反乱に、各地の不満分子が呼応すればどうなるか。榮は一転して内乱の時代に逆戻りしかねない。。
龍宝の胸にあったのは、その事態だけはなんとしても避けなければならないという責任感だった。
「それはその通りだが、地盤も固まっていない今の朝廷を、お前が空けるというのか?」
皇帝相手にもかかわらず、翠月は不遜な態度で言う。
そんな彼の顔にも、明らかな焦りが浮かんでいた。
ふと、龍宝の張り詰めた顔が一瞬だけ緩む。
「だからこそ、お前を雇い入れたんじゃないか。しっかり働いてくれよ、御史大夫」
龍宝が無理矢理浮かべた笑みに、余暉は虚をつかれた顔になった。