07 遥か遠く
雲州虎柵県。
榮の最北部に位置する、かつての皇帝が荒ぶる虎を封じ込めたという伝説の残る地である。
皇太后―――前皇帝の皇后であった女が、勢力を失い蟄居を命じられた離宮がこの地にはあった。
榮国の最北。広大で寒冷な草原を背に、その土地は長年蛮族の襲来に脅かされてきた。
季節と共に移動する彼らは遊牧民で、冬の訪れとともに南下し食糧を求めて榮の村を襲うのだ。
そのため、虎柵県には鎮戍と呼ばれる前線基地が置かれ、冬になると常時最大で一万人を超える兵が滞在していた。
この兵は兵募と呼ばれる臨時に徴兵された平民であり、その多くは近隣の地方に住まう若者だった。
そんな中、皇太后が蟄居のために与えられたのは玄冥宮という古い建物だ。
前王朝から引き継がれたその建物は、元は卜占を行うために建てられた廟宇だった。だから宮というのは名ばかりで、隙間風は吹く、耗子をは出るのひどい有様だ。
そんな玄冥宮で彼女は一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
そこに、なにやら慌ただしい足音が近づいてくる。
足音の主は、部屋に入った途端声を張り上げて言った。
「妈妈、今日という今日は手伝ってよね。食糧庫の耗子を、一網打尽にしてやるんだから!」
箒を手に宣言するのは、流行の襦裙ではなく古めかしい深衣姿の、大層な美人だ。
その名も佳佳。またの名を芙蓉といい、ついこの間まで王都で妓女をしていた。
妓女といってもその位は様々で、彼女の場合はその最上位。金持ち御用達の花酔楼に、この人ありと謳われた妓女である。
しかし傾城の名を恣にした面影は既になく、少し焼けたのその顔には生命力に満ち満ちていた。
かつての客達は彼女の変化を残念に思うかもしれないが、見る者によってはその瞳の輝きにより深く心奪われてしまうに違いない。
深衣は袖口の広がった一枚着を体に巻き付けて胴で縛る衣服だ。彼女は更にそこに襷をかけて袖をまとめ、働くための準備を万端整えていた。
「そんなこと、哀家にできるわけないじゃないの」
口をとがらせるのは、とても芙蓉の年の子供がいるとは思われないような美女だ。
その唇は紅を塗らなくても赤く、ゆったりとした声音は楽に耳を傾けているかのよう。
彼女が悪名高き榮の皇太后だと知らなければ、男どころか女ですら二人の美女に釘付けになったことだろう。
先年離宮に送られた二人は、この一年でようやくこの北方の街に慣れ始めたところだ。
「できるできないじゃなくやるの! 耗子にお米を食べられたら、折角蟄居で済んだというのに飢え死にしてしまうじゃないの」
「食糧なら王都から送らせればいい。哀家の娘ともあろうものがぎゃーぎゃー騒がないで頂戴」
「お上品にしてお腹が膨れるか! もういい! 私が先に行くから、着替えて絶対に手伝ってよね」
男を篭絡していた頃とは何もかもが違う態度で、芙蓉は来た時と同じ素早さと騒々しさで部屋から出て行った。
皇太后は、静かにその背中を見送る。
面倒くさそうな口調とは裏腹に、彼女の口元にはうっすらと笑みが浮いていた。
しかしその小さな笑みは、部屋の中に吹いたささやかな北風と共に消えてしまう。
芙蓉と相対していた時の柔らかさがごっそり抜け落ち、彼女は北風よりも更に冷たい口調で言った。
「……して、今更このようなところに何用じゃ?」
するといつの間にか、音もなく部屋の角に黒ずくめの男が立っている。まるで冥界から命を取りに来た鬼のようだ。
男はすぐさま膝を折ると、零落した皇太后に敬意を払う姿勢を見せた。
「お気づきでしたか。流石は榮にこの人ありと謳われたお方」
それを皇太后は、軽蔑したとでもいわばかりに睥睨する。
「今更哀家に媚びを売ってなんになる。見え透いた世辞はいらぬ。さっさと要件を申せ」
厳しい対応だが、しかし男に臆した様子はない。
「我が主が、貴方様のお力を借りたいと」
「ではすぐさま帰ってその主とやらに伝えろ。貸すような力はもう哀家にはない、とな。金も力もすべては奪われた。哀家はこの地で朽ちるのみよ」
「おや、一時は王都で権勢を振るったお方が、随分と気弱なことを仰る」
どこか芝居めいた男の物言いを、皇太后は鼻で笑った。
「嬲るか。人を呼んでもよいのだぞ。警備を抜けてここまで来たのは見事じゃが、包囲されてはいかな破房子とはいえ抜け出ることもできまい」
「そう虐めてくださいますな。貴方様にとっても、悪くはない申し出かと」
しかし皇太后はにべもない。
「聞かぬ。主の声で耳が穢れたわ。兵を呼ばれたくなくばとっとといね」
「そう言わずに……」
猫なで声を出す男に、愛想は尽きたとばかりに背を向ける。
しかし、それで終わりにはならなかった。
「実に美しい、娘さんですね?」
男の呟きに、皇太后の顔つきが変わる。
「……どうやら、余程人を呼ばれたいようじゃの?」
「おやおや恐ろしい。わたくしはただ、美しい娘子ですねとお褒めしただけですよ」
笑みの形で歪んだ男の目。
話を続けながらも、皇太后は振り返らない。
「気味の悪い男じゃ。哀家をなぶりたいのならさっさと殺せ。覚悟ならとうにできておる。むしろ短気なおぬしの飼い主が、よくも一年も哀家を放っておいたものじゃ」
男の素性に、皇太后は察しがついているようだった。
まだ春にならぬ北方の冷たい風が、窓から入り込み彼女の髪を揺らす。
「まさか、そのような勿体のないこと」
次の瞬間、男の気配は皇太后の背後に一瞬にして移動していた。
結ってもいない黒く艶やかな髪を一房、男がぎゅっと握る。まるでいつでも殺せるのだから、それが今である必要はないとでも言わんばかりに。
「雨露様からの伝言です。青児を弑し、聖母神皇とその娘子に、再びこの国を差し上げる、と」
低い囁きを、皇太后は一瞬たじろいだ。
そしてそれを隠すように、低く笑う。
「ふん。鹿を逐って山を見ぬ昏が」
利益を追って道理を失った者の喩えを口にし、彼女は団扇で口元を隠した。
「その話、詳しく申せ。協力してやらんこともない」
すると男は、我が意を得たりとばかりにもう一度にたりと笑ったのだった。