06 叶わない願い
「まあいい。それより、そろそろ答えは出たか?」
「答え? なんの?」
「俺の妃になる覚悟はできたのか? と聞いているんだ」
顔から火が出るかと思った。
先ほどとは、比べ物にならないほど顔が熱い。
見ることはできないけれど、きっと茹蛸のように真っ赤になっているに違いない。
「な、なななななに言ってるアル!」
不意に出た『アル』に、自分が動揺していると思い知らされる。
春麗の厳しい指導で直っていたおかしな言葉遣いも、驚くと地が出てしまうのだ。
でもそれは、黒曜が悪い。
突然、私が驚くようなことを言うから。
「だって、それは……」
マッサージのために近づいていた距離を、ずずずずと後ずさった。
黒曜はすっと立ち上がり、私を追い詰めるようにゆっくりと近づいてくる。
「前に言っただろう。俺の妃になってくれと」
「でもそれっ、断ったアルよ!?」
そう。私は断った。妃にはなれないと。
しかしその答えは、黒曜を納得させるのには不十分だったようだ。
「あの婆ァを追い出すのに十年以上待った俺が、そんなすぐに諦めるとでも?」
自嘲するように、彼は言った。
『婆ァ』というのは、一昨年の終わりに離宮に蟄居を言い渡された彼の義母、皇太后のことだ。
幼くして皇太后の傀儡になった黒曜は、乳兄弟である深潭と一緒に皇太后没落の時を虎視眈々と狙っていたのだという。
そんな彼にしてみれば、私の抵抗なんて可愛いものかもしれない。
というかむしろ、黒曜の方が執念深すぎるのだ。
いつもは素知らぬ顔でどちらかというと素っ気ない風に見えるのに、実は熱血漢で執念深いなんて反則だと思う。
「諦めるも何も、私はそんなつもりは……」
まごついている間に、壁際にまで追い詰められてしまった。
黒曜との身長差は大きくて、こんなに近づかれては上を見上げなければ顔も見えない。
でも顔を見るのは妙に気恥ずかしくて、私は思わず俯いてしまった。
複雑に編まれた黒曜の髪が、目の前でつやつやと光っている。
一年以上伸ばして、ようやく鬘の要らなくなった髪を一房、節くれた指が掴んだ。
引っ張られるのかと怯えたが、黒曜のそれからの行動は私の想像を超えていた。
彼は私の目の前で、その毛先に口づけたのだ。
「なっ!」
何かを言えば息がかかりそうな距離だ。
叫びを堪えるため、思わず顔を両手で覆った。
「気は長い方だが、だからと言っていつまでも我慢できるわけじゃない。俺に無理強いはさせないでくれ」
耳元でそう呟くと、間近にあった黒曜の体温は去っていった。
恐る恐る顔から手を外すと、部屋から出ていく黒い背中が見える。
戸が閉まった瞬間、膝から崩れ落ちる。
今まで黒曜は、口では乱暴なことを言っていても、何かを強要しようとしてきたことなんてなかった。
花酔楼から無理矢理連れ去った時だって、結局はお金と言葉で私を説得して、後宮へ間諜として忍び込んでほしいと頼んできたのだ。
国で一番偉いはずの彼が、頭まで下げて―――……。
私はお金が欲しくて、彼の頼みを引き受けたんじゃない。
わざわざ花酔楼の皆から手紙を届けてくれた、黒曜の誠意に感動したんだ。だからバレれば殺されるかもしれない、間諜なんて危険な役目を引き受けた。
そんな黒曜を、嫌いなはずはない。
むしろ好きだと思う。
(でもお妃様になんて、なれるはずないよ。私はこの世界では身寄りもなにもない孤児で、妃になっても黒曜に何もしてあげられないのに)
つまるところ、私が黒曜の誘いを断っている理由はそれだった。
後宮には沢山のお妃様がいる。
美しい人、聡明な人。無邪気な人。何かに秀でた人。
百花とはよく言ったもので、ここには多種多様な花が咲き、しかもそれぞれに確かな後ろ盾を持っている。
その中の誰を皇后にしても、きっと黒曜には何かしらの恩恵があるはずだ。
名門貴族の令嬢や、或いは諸外国から献上された姫を寵愛すれば、彼の目指している国づくりに少しでも早く近づくことができる。
でも私は、そうじゃない。
妃になったところで、黒曜には何も与えてあげられない。
後ろ盾はないし、日本にいた時だって一般家庭の子供だった。今も昔も、権力にはちっとも縁がない。
だから妃になる資格なんて本当はないんだ。
それにもし、黒曜の妃になったとして。
私は自分より美しい他の誰かと、黒曜を共有することなんてできない。
きっと今より苦しくて、悲しいはずだ。後宮に残ることを決めたことすら、後悔するかもしれないと悩んだのに。
だから私は今のまま、尚紅の化粧師として黒曜の傍にいたいのだ。
そうすれば、苦しい思いをしなくて済むから。いい国を作りたいという、黒曜の夢の邪魔にならずに済むから。
でもそれを正直に言ったところで、気にするなと言われるのは目に見えていた。
だから私ははっきりと拒絶もできないまま、ただ問題を先延ばしにすることしかできないでいるのだ。
けれど―――この中途半端な態度を後悔する日が来るなんて、その時の私には想像もつかないことだった。