05 疲れ撃退!
黒曜が私の寝起きする尚紅にやってきたのは、その夜のことだ。
政務が相変わらず忙しいらしく、やってきたのは日がとっぷりとくれた後。春麗や子美が宿舎に戻り、私も化粧水の漬かり具合を見て寝ようとしているところだった。
黒曜は自分の後宮に、まるで忍者のように忍んでやってくる。
大々的に皇帝のおなーりーとやられても困るが、これはこれで心臓に悪い。
「来るなら来るって知らせてほしい」
騒ぎにならないよう声を潜めつつ、怒りが伝わるよう睨みつける。
禁色の袞服ではなく、夜に溶け込むような黒の深衣という念の入れようだ。
「仕方ないだろう。仕事に区切りがつくか分からなかったんだ」
まるで夫婦みたいな会話だと、私は恥ずかしくなった。
顔が赤くなっている気がするので、黒曜に見られないよう背を向けて竈へ急ぐ。
皇帝陛下をもてなさないわけにはいかない。昼間使った茶葉の残りがあるので、私はそれで緑茶を淹れた。
茶器に注いだ緑色の液体に、黒曜もまた目を丸くする。
「今度は何の茶を飲ませる気だ?」
彼は少し楽しげに言いながら、器を手に取った。
正体も分からないお茶をそれでもしっかり飲む気なのだから、もっと気をつけなくて大丈夫なのかと心配になる。
信じられないことだけれど、皇帝が命を狙われるのは日常茶飯事なんだそうだ。
皇太后の失脚でその機会も減ったそうだが、強引な手法で改革を進めているらしく反発も少なくないと女官達の噂で聞いた。
賄賂の取り締まりなんて当たり前だと思うのだけれど、以前はそれが当たり前だったというのだ。
黒曜がしていることは正しいと思うし、私も彼のすることを応援するつもりでいる。
ただ、何かを変えようとすると反発はつきもので、その反発に遭って彼が傷つけられるんじゃないかと、私は心配なのだ。
深潭が口を酸っぱくして注意しているだろうから、私が改めて言うでもないのだろうが。
「ちゃんと、後宮の茶園で貰って来たお茶ですよ」
同時に淹れたお茶を、私の方が先に飲む。
本来、客人より先に飲むのはマナー違反だ。でも相手は皇帝なので、私が毒見をするのが筋だと思う。
口の中には、昼間と同じ爽やかな香りが広がった。
榮のお茶も嫌いではないが、やはり故郷と似た味にほっと懐かしいものを感じる。
「うん、悪くない」
私に続いてお茶に口を付けた黒曜は、穏やかな笑みを浮かべている。
その目の下はわずかに落ちくぼんでいて、あまり眠れていないのだろうかと心配になった。
カフェインの入っている緑茶を出したのは、少し失敗だったかなと思う。
(やっぱり忙しいだ。なら無理してこなくてもいいのに……)
そんな可愛くないことを考えてしまった。
私だって、黒曜に会えるのは嬉しい。でもそのために、無理はしてほしくないのだ。
それに、妃になれと言われて断った手前、二人きりは気まずいという思いもあった。
「ちょっと、待っていて」
私はそう言って、竈の鍋に残っていたお湯で布を絞った。厚めの布を、蒸しタオルの代わりにする。
「これを、目の上に載せて―――」
私の突然の行動に驚いているのか、黒曜は言われるがままだ。椅子に座ったまま首を少し後ろに傾けて、布が落ちないようにしている。
その間に今度は、化粧品の材料入れに使っている薬棚から、ひまし油を取り出した。
尚紅の仕事には欠かせないものだから、いつでも切らさないようたっぷりと常備してある。
「鈴音?」
戻ってきた私の気配に気づいたのか、黒曜が布を取ろうとした。
私は彼の手首をつかんで、それを押し留める。
「待って。このまま」
困惑した様子の黒曜に構わず、私は座っていた椅子を黒曜に近づけた。
そして手にひまし油を付け、もう片方の手で布を取り上げる。
戸惑いがちに黒曜が目を開ける。
「おい、次は何を―――」
「いいから、黙って」
私の中で、完全にスイッチが切り替わった。くつろぎモードからお仕事モードになる。
ひまし油は飲むと下痢になるので、口に入っては大変だ。動揺する黒曜に、口を閉じるように言った。
後は両手で顔を固定し、両手の親指で顔にあるツボを押していく。
ひまし油を塗り付けるように、左右鼻の付け根にある睛明。眼窩の一番眉間に近い端っこにある攅竹。眉毛の真ん中の少し下、眼窩とぶつかる魚腰に、眉尻にある絲竹空。こめかみにある一番へこんだ部分は太陽で、目の真下骨との境目にあるのが承泣だ。
これを順番に、右目は右回り、左目は左回りに押していく。一つのツボを五秒ぐらい押して、ちょっと多めに三周。
二週目ぐらいには眉間の皺が和らぎ、三周目が終わる頃には黒曜は寛いだ顔になっていた。
よかった。
パソコンで目が乾くと嘆く友人のために、調べておいたマッサージが役に立ったようだ。
パソコンではないけれど政務で文字を沢山読む黒曜も、目が疲れて顔の筋肉が強張ってしまうのだろう。
「気持ちいいが、驚かせるのは止めてくれ」
顔についたひまし油を拭っていると、黒曜は頬をわずかに上気させて言った。
布が熱すぎたのかもしれない。
「ごめんなさい。でも楽になったでしょう?」
「それはそうだが……」
黒曜の眉間に、再び皺が寄った。
そのまま彼が頭を抱えてしまったので、私も何が悪かったのか分からずじまいだ。