17 釵の意味
宦官の言葉通り、光順門の一室には余暉が待っていた。
しかし一人ではない。
先客がいて、余暉と向かい合ってお茶を飲んでいた。
華妃だ。
話の邪魔をするわけにはいかないと、私は少し悩む。
そういえばこの二人は、親族なんだった。
一緒にいるところは初めて見たけど、戸籍上は華妃が余暉の娘になっていると聞いた。本来は遠い親戚なんだそうだけど、なるほど。そう言われてみれば確かにこの二人はどことなく似ている。
他には、壁の隅に立つ宦官が一人。
恐らく全ての宮門を司る宮闈局所属の宦官だろう。こうして部外者と接見する妃嬪を、彼らはこうして見張っているのだ。
「化粧師がお見えになりました」
どうしようかと迷っている内に、宦官が余暉に新たな来訪者の存在を告げる。
華妃と目が合って、しまったなと思った。
なぜそう思ったのかは、分からないけれど。
「御史大夫様、華充儀、お呼びでしょうか?」
略式で拱手の挨拶をすると、余暉が席から立ってこちらに近づいてきた。
「鈴音。元気だったか?」
余暉とは、以前御史大夫になると聞かされた時に一度会ったきり。
まだふた月ほどしか経っていないはずなのに、やけに懐かしく感じる。
よほど忙しいのか、少し頬がこけていた。
北梨にいた時の中性的な美しさはなりを潜め、その顔は男性らしくきりりと引き締まっている。
自分の方が忙しいはずなのに、その顔には相変わらず私をいたわるような笑みが浮かんでいてやるせない。
少し困ったようなそれは、一緒に暮らしていた時の彼を思い出させる。
(余暉は新しい場所で、やるべきことをやってるんだ。それに比べて私は……)
「勿体ないお言葉……」
うっかり落ち込みそうになるのを立て直して、私は余暉を見上げた。
『賤露』の件に関する余暉の意見とか、虎柵県での戦況がはたして噂通りなのかとか、聞きたいことは山ほどある。
けれど華妃の前でその話を持ち出してもいいものか悩んでいる内に、余暉の方から質問が飛んできた。
「最近はどうだ? 何か困ったことはないか?」
私の焦燥とは裏腹に、彼の言葉は私の身を案じるようなものばかり。
まるで、近所のお兄さんが近くに来たからちょっと寄ってみた、というような雰囲気だ。
こくこくと頷いていると、余暉は少し不本意そうに、袂から玳瑁細工の釵を取り出した。
「これを」
そう言って差し出された釵には、見たことのない花が彫り込まれている。妓楼や後宮で過ごす間に、花の種類にはかなり詳しくなったと思うのだけれど、これには見覚えがない。
「これを、私に?」
更に不可解なのは、釵を差し出す余暉の表情だ。
プレゼントをくれるという割には、その顔は苦渋に満ちている。
まさか変な謂れのある釵なんだろうか?
固唾をのんで次の言葉を待っていると、もたらされた答えは思いもよらないものだった。
「……俺からじゃない。黒曜の馬鹿からだ」
「ばっ!?」
皇帝を堂々と馬鹿呼ばわりする余暉に驚いてしまう。
慌てて華妃や宦官を見るが、彼らに驚いた様子はない。そういえば黒曜って名前は偽名なんだった。
細い花弁が何十二も折り重なる、華やかな花。艶やかで柔らかい玳瑁の色。
黒曜から、宝飾品を貰ったのなんて初めてだ。
嬉しくてふわふわする。
ああでも、それよりも今は余暉に聞きたいことがあったんだった。
「それより、あの……」
私が本題に入ろうとすると、余暉はそれを遮るように私の肩を掴んだ。
驚いて、言いかけていた言葉が途切れる。
「すまんが忙しい。また様子を見に来る。瑞英」
余暉は慌ただしく私から離れると、華妃を呼んだ。
「後宮を頼むぞ」
そう言い残して、彼は慌ただしく去っていく。
慌てて追いかけようとするが、見張っている宦官の手前それもできなかった。私は妃ではないが、それでも許可なく後宮を出ればそれは罪だ。
困惑で立ちすくむ私に、華妃がそっと近づいてきた。
「翠月様はお忙しいのですわ。お忙しくなければ、代わりに私とお茶でもいかが? 鈴音」
「華充儀……」
誘いは嬉しいが、なんだか納得できないものを感じる。
話を切り出す直前まで、余暉は急いでいるような素振りは見せなかったのに。
私には話せないことがあるのかと、思わず疑ってしまう。
考えすぎかもしれないけど。
最近どうも、色々なことを考えすぎてしまう。もともと考えるのは苦手なのに、不安があるといつまでもそれにこだわってしまうのだ。
私はそんなわけで、心配とか考えすぎることに疲れ切っていた。
(華妃には悪いけど、お断りさせてもらおう。優雅にお茶をする気にはなれないや)
戻って仕事をしようと思ったが、そっと耳元でささやかれた言葉にそうもいかなくなってしまった。
『その釵の意味を、教えてあげるわ』
見張りの宦官に悟られぬよう密やかに、しかし嫣然と彼女は微笑んだのだった。