16 来訪者
黒曜が親征に出て、ひと月あまりが経った頃。
後宮では毎日のように、よくない噂を耳にするようになった。
「虎柵県にて、禁軍は大変な苦戦を強いられているらしいわ」
「反乱軍は玄冥宮に立てこもり、陛下は攻めあぐねいていると……」
「もしもこれで陛下がお隠れになるようなことがあれば」
「よしなさい、縁起でもない!」
方々で、女官達が寄り集まってはそんな噂話をしている。流石に嬪妃達は表立ってそんなこと言わないけれど、誰もが不安がっているのが手に取るように分かった。
もし皇帝が崩御すれば、その皇帝の妃達は全て髪を下ろして尼になる。
そして仏門に入るということは、この世界では死んだも同じ。まだ若い者も多い妃達が、怯えて言葉少なになるのも仕方のないことだ。
そして、私はといえば……。
「鈴音様、あまりご無理なされない方が」
「最近前にもまして働きすぎよ! 私達もいるんだから、少しは休みなさいよね!」
「へ?」
春麗と子美に、こんな風に心配される始末。
それも当然で、禁軍苦戦の報せを聞いて以来、不安で眠れない日々が続いている。
何かに悩むとそれを打ち消すように仕事にのめり込むのは、昔からの癖だ。
分かってはいるのだけれど、寝台で目をつぶると悪いことばかりを想像してしまって、ちっとも心が休まらない。
「あんたね、ひどい顔してるわよ。そんなのが化粧師だって言ったって、ちっとも説得力ないじゃない」
子美の指摘は最もだった。
でも仕方ないじゃないか。
私は黒曜が―――心配なのだ。
「……やはりわたくしが、城下に降りて内侍監の邸第を探ってまいりましょうか?」
「だめです。無茶しないで」
内侍監とは、雨露のこと。
先日の賈妃の発言以来、春麗は私を気遣って何度もこの申し出をしてくれている。
良かれと思って言ってくれているのは分かるが、私は春麗にだって危険な目には遭ってほしくない。
たとえ彼女が荒事に慣れた人だろうと、もう皇太后に仕えていた時のようなことはしなくていいのにと思う。
こんな風に調子を崩して、心配をかけてる私が言えることじゃないけど。
あれから『賤露』の件は宦官を通じて深潭に知らせたけれど、向こうも忙しいのか返事はないままだ。
閉ざされた後宮の中で他にできることはないのかと、うだうだ悩んでばかり。
(こんなことなら黒曜の言う通り、妃になっておけば―――)
そこまで考えて、はっとした。
自分はあくまで化粧師なのだと、私は黒曜の要望を突っぱねた。
妃になってほしいという彼の言葉が、嫌だった訳じゃない。むしろ嬉しかった。
けれど妃になったところで、自分では黒曜になにも与えてあげられない。
特別美しいわけじゃないし、詩作も楽器の演奏も平均以下。妃達が涼しい顔でこなす高貴な女性の嗜みというやつが、私はどれ一つちゃんとできない。
後宮に入る前に特訓を受けたとはいえ、どれも付け焼刃で、物心つく前からそれらを嗜んでいた妃達の足元にも及ばないのだ。更に言うならこの世界のことについては物知らずだし、数か国語を話すどころか榮の言葉を喋ることさえ、最近やっとまともになってきたところ。
妃の中には、聡明で数か国語に通じる方や、千以上の詩文を諳んじる方もいらっしゃる。
対して私にできるのは、化粧をすることだけ。
化粧を通じて、妃達の心を和ませること。マッサージで黒曜の疲れを、ほんの少し癒してあげられること。
足手まといになりたくないから、黒曜の誘いを蹴った。
なのに今、その選択を後悔している自分がいる。
もし私が妃という立場にいたのなら、主不在で動揺する後宮でもっと他に何かできることがあったんじゃないかと。
権力が欲しいなんて思ったことは一度もないけど、黒曜を支える力が手に入るのなら―――……。
「鈴音様」
考えに耽っていたようで、すっかり手元が疎かになっていた。
お茶の葉を薬研ですり潰していたのだけれど、すっかり手が止まってしまっている。
「あ、ごめんなさい」
思わず謝ると、春麗がそうではないと首を横に振る。
「御史大夫様が、内々にお話になりたいことがあると知らせの者が参りました」
彼女が視線で示した先では、見覚えのある宦官が拱手していた。
彼は確か、黒曜が懇意にしている宦官のはずだ。
私は反射的に、尚紅を飛び出しそうになった。
「化粧師様。御史大夫様が光順門でお待ちです」
光順門というのは、後宮と外廷を隔てる門の一つだった。
御史大夫、つまり余暉が私に話があるという。
それが先日知らせた賤露の件の返事かもしれないと思うと、とてもじゃないがいてもたってもいられなかった。