14 信頼するには
「こんな相談をしてしまって申し訳ない、です。せっかく華充儀が許してくださったのに……」
「子美を後宮に連れてきたこと、後悔しているの?」
華妃の静かな問いに、私は子美に対して自分がどんな感情を持っているのか、改めて探ってみる。
彼女が鉛白を使っていると知った時は、怒りで頭が真っ白になった。
鉛を含んだそれは、皮膚から吸収されいつしか人を死に至らしめるからだ。
いや、それだけではない。鉛白はそれを使った女性だけでなく、その女性から新たに生まれ出る命すらも蝕む。榮では白粉を顔だけでなく、広く開いた襟ぐりや胸元など広く塗るので、母親の乳房から乳を貰う子供はそれを舐めてしまうことは十分に考えられた。
実際、日本も江戸時代には鉛中毒と思われる疾病を持つ子供達の記録が、数多く残されている。
(でも……)
私は城下に下りて、子美がどうして鉛白に固執していのたか、その理由を知った。
彼女は鉛白の商いを専門にしていた実家を憂い、実家を窮地に陥れた鉛白禁止の勅令に反発していたのだ。
実家を無くしたくないという彼女の想いは、私にも理解できるものだった。
もう、帰ることはできないのかもしれないけれど、私にだって実家はかけがえのない場所だ。帰ることはできなくても、死ぬまで思い出し続ける。幸せになってほしいと願い続ける。
家族って、きっとそういうものだと思う。
家族を案じ危険を冒した彼女を、私は嫌ったりなんてできない。
余暉の邸第にいる時、彼女の不器用な優しさに触れてしまっただけに、余計に。
「信頼してないとは、違うです。子美は不器用だけれど、心の優しい人。怒りっぽいけど、理由なく怒ったりするような人じゃない。彼女のお陰で、助けられていることいっぱいあります。私は―――尚紅にはまだ味方少ないですけれど、彼女は信頼できる仲間だと思ってます。だから無理矢理連れ戻すじゃなくて、彼女には自分から望んで戻ってきてほしい。私に愛想が尽きたというのなら……他の部署で仕事する仕方のないことですけど」
つっかえつっかえ話す私に、華妃は辛抱強く付き合い、そしてにっこりとほほ笑んだ。
「ですって。ここまで想われていて、まだ戻りたくないなんて駄々をこねる気かしら?」
華妃の言葉に、どういう意味だろうと首を傾げる。
そして彼女が視線を向けた先を見やると、奥にある衝立から子美が姿を現した。
まさかの登場に、言葉がない。
子美の後ろには、春麗の姿もあった。
「え、どうして……?」
驚いて、思わず立ち上がる。
子美が華妃の元にいるなんて、想像もしていなかったことだ。
「実はね、数日前にわたくしの房に、子猫が忍び込んできたの。土地勘があるから見つからないとでも思ったのでしょうね。宦官に捕まえられた彼女を、春麗が解放してもらいたいと何度も嘆願に来ていたわ。でも、さすがにそのまま放免というわけにはいかなくてね」
「な……」
思わぬ成り行きに、私はすっかり動転してしまった。
どうして子美は、華妃の房に忍び込んだりしたのか。
華妃と子美の間には鉛白の件での因縁がある。
これ以上子美が彼女の機嫌を損ねれば、その一存で首を切ることすらできるのだ。
そう考えたら、血の気が引いた。
私はその場に這いつくばり、床におでこをつけた。
叩頭。皇帝に謁見する時と同じ、最上級の謝罪方法だ。
鼓動は早鐘のように高鳴り、反対に房の中はしんと静まり返る。
「どうかお許しください。子美は尚紅の女官。彼女の咎は私の監督不行き届きです!」
床にたたきつけた言葉が、房室の中に木霊する。
すると、華妃が私に近寄ってくる気配がした。頭のすぐ近くに、彼女の羽織った薄布の先がはらりと落ちる。
「顔をあげて、鈴音」
ゆっくりと、私は彼女の言葉に従った。
「先ほどの言葉、しかと聞きました。わたくしは今一度、子美を許しましょう」
「華充儀……」
彼女の優しい言葉に、思わず泣きそうになった。
女官をきちんと罰するのは、妃の仕事の一つでもある。それをしなければ後宮内での秩序が乱れ、ひいては妃自身が侮られることにもつながりかねない。
それでも彼女は、子美をもう一度許してくれるという。
ありがたいやら申し訳ないやらで、私はしばらく立ち上がることができなかった。
そんな私を、春麗が助け起こしてくれる。
おずおずと進み出てきた子美に、私はなんと声を掛ければいいか分からなかった。
「それでは鈴音。しっかりね。今日の化粧ありがとう」
まるで何事もなかったように、華妃は私達を笑顔で見送った。
「本当に、ありがとうございます……」
それ以外の言葉なんてなくて、でもそれだけではこの感謝を言い表すにはとても足りなくて、私は苦しかった。
「それと、子美」
「……はい」
子美は、先ほどからずっと血の気の引いた青白い顔をしている。
己のした事の、危うさを思い知ったのだろう。
勝手なことをした彼女への怒りもあるが、今はそれよりも憔悴し切っているらしい彼女が心配だった。
「これだけは言っておきます。三度目はないと思いなさい。あなたの首は皮一枚で繋がっているだけだということを、忘れないで」
ぞっとするような、冷たい声音だった。
私まで、ぴしりと体が固まる。
子供めいたピンク系の化粧に不釣り合いの、華妃の美しさゆえの迫力に生きた心地がしなかった。
「分かりました……」
子美の声は震えていた。
とにかく私と春麗は子美を連れて、急ぎ足で尚紅へと戻った