01 プロローグ
ガタン!
房の中に、黒檀の軋む鈍い音が響いた。
「忌々しいっ……なんで儂がこんな目に!」
憤っているのは、干した棗のような老人である。
小柄で顔は皺だらけ。その声は甲高く、それらの特徴は男性器を切り落とした宦官のそれと符合する。
王都にある広大な邸第を訪ねる者はなく、がらんと寂しい有様。
使用人達は怯え、主人の悋気に巻き込まれぬよう縮こまって震えている。
宦官御殿も日暮れの有様、などという謡言まで流行る始末。
矜持の高い彼にとって、現状の悲惨さはとても受け入れられるものではなかった。
貧しさから男という性を捨て、汚いことなら何でもやってきたのだ。その辿り着いた先が、現状の不遇などと納得できるはずもない。
男は抑えきれぬ怒りを飲み込み、大声で笑いだした。
静まり返った房室の中で、よく響くその声は地獄の亡者を思わせる。
「もう少しだ……見ていろ青児。こうなれば国ごと奪いとってくれるわ」
もう一度机を殴りつけ、男は低い笑いを零した。
***
後宮の中でも最年長の妃は、その少しハリのない肌に手を添わせ、眉を寄せる。
顰められた顔には、隠そうともしない疑いの色。
「本当にお前が、尚紅の化粧師だというの?」
棘だらけの言葉に、私は拱手の姿勢のまま返事を返した。
「はい」
「まるで仙術でも使うように、女を美しくしてしまうと聞いたけれど、本当かしら?」
「戦術は使えませんが、少しでもお妃様方のお役に立てればと思っております」
緊張で喉が渇いた。
私を見据える視線はずっと、品定めでもするように鋭いものだ。
「では教えてもらおうか。わらわがより美しくなれる法を」
与えられた言葉を押し戴き、私は深く頭を下げる。
「畏まりました。わたくしにお任せください」
―――宮下鈴音、二十三歳。
二十一世紀の日本から榮国に来て、四度目の春を迎えようとしている。
専門学校を卒業して、メイクアップアーティストになるという夢に向かってやっと一歩を踏み出すという時だった。
見知らぬ世界に放り込まれ、知り合いもいない、言葉も通じない中でなんとか今日まで生き抜いてきた。
はじめはひどいパニックで戸惑うことも多かったけれど、色々な人に助けられて今ではこうして後宮で化粧師として働いている。
「それで、一体どうするつもり?」
妃の房を辞した帰りしな、後ろに付き添っていた子美が不機嫌そうに言う。
不機嫌そうなのは照れ隠しで、本当は私のことを心配しているのだろうけれど。
彼女は以前、使用禁止になっていた鉛白を使った罪で後宮を追い出された女官だ。
けれど黒曜の口利きで、城下から私と一緒に後宮に戻ってきた。
意地っ張りで素直じゃないけれど、本当は心の優しい女性だ。小柄で猫のようなつり目が可愛らしい。
実家は白粉の卸しをしているだけあって、この世界の化粧に詳しく今ではとても頼もしい仲間だ。
「鈴音様に対して、その口の利き方は何ですか」
間髪おかずに、窘めたのは春麗。
彼女は一年前まで皇太后に仕えていた女官で、とても美しくて聡明な人。
頬に大きな傷があるのだけれど、最近では私のした化粧を真似て傷を目立たなくしている。そうしていると本当に輝くような美しさで、彼女がお妃様でも何の不思議もないのにと思ってしまう。
皇帝から直々に頼まれたらしく、私に対して時々過保護だ。
「はぁ? あたしは別に」
「長年後宮に勤めていて、最低限の礼説も守れないのですか? なんなら私が躾け直して差し上げましょうか?」
そしてこの二人、なんだかんだで仲がよろしくない。
気が合わないのか、よくこうして言い争いになっているところを見かける。
春麗は声を荒げて怒るなんてこと滅多にしないけど、その代わり絶対零度の視線を繰り出す。なので私も子美も、気圧されてしまうことが多いのだ。
「ま、まあまあ二人とも。帰ってお茶でも飲みましょう。確かめたいこともあるし」
「確かめたいこと?」
「なんですかそれは?」
二人の気を逸らすことができたのはいいけれど、今度は訝し気な四つの視線が突き刺さる。
(中間管理職って、もしかしたらこんな気持ちなのかもしれない)
気まずい思いを笑顔で隠しつつ、私はなぜかそんなことを考えた。