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苦手な方はご注意ください。

林檎兵器の隣で

作者: 2991+

 ある時、ひとつの部族がこの森に移り住んだ。

 金色の髪と紫色の目を持つ彼らは、ほんの数十人だけの小さな集落を作り、森の外には出ずに細々と生活を始めた。

 彼らは念動等の能力と独自の神話を持っていて、太陽神キーロンレスタールを崇める民・レスターリャと自らを称する。

 異能と異教を理由に迫害を受けた彼らは、最後の子供を育てていた。

 一族は、異能を以ってしばしば揺りかごから神を祀った祭壇へと逃げ出す赤子を微笑ましく見守った。


『誰がいかに見張ろうとも、祭壇へと好んで抜け出す赤子。一族の誰より強い意思と能力を持った、彼こそ我らが神キーロンレスタールの化身。我らの安寧を守り得るもの。最後にして、最も祖に近きレスターリャ』


 乳飲み子が勝手にいなくなる事態だというのに、誰一人心配などはしなかった。

 赤子は崇める神の名にあやかり、キィルと名付けられた。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


  レスターリャがこの地に根を下ろしたのは、ここが彼らの神話でいう聖地であったからなのだという。

 鼻で笑って、少年は祭壇の上に腰を下ろした。

 彼が祭壇に行ういかなる行為に対しても、一族は文句を言わない。

 キーロンレスタールの化身として育てられた彼にとって、これは正しく彼のためのものでしかない。


「何だって、こんなクソつまらねぇ森が聖地なんだよ。他と何が違うって言うんだ?」


 キィルは口が悪い。

 神の化身として求められるものには全て応えて見せていたから、口調のひとつくらいはと誰も咎めない。

 彼は驚異的な束縛と、際限のない放任との支配下にある。


「くだらねぇよな?」


 まるで友人のように神をかたどる石像の肩を叩きながら、そんなことを問う。


「どこだって同じだと思うぜ。この世には異人とレスターリャしかいねぇ。そしてレスターリャは、これしかいねぇ。ジジババと俺しかいねぇし、まぁ、無理して増やそうって試みるわけでもねぇ。ゆっくりと滅びを待つだけの部族に、なんで聖地が必要なんだよ。大体、俺達が元々いた土地ってのは、この国でさえないんじゃないか。正直、世界全てがレスターリャのものだったなんて神話は暴利だろ」


 口にした彼は、ふと目線を木々の奥へと向けた。他者の気配を感じたのだ。

 事実そこには小さな弓を手にした中年の女がおり、頭上に獲物を探しているようだった。

 鳴き声だけはよく聞こえども、遠すぎる獲物の姿に落胆して溜息を漏らす。


「リノーラか。いいぜ、獲ってやる」


 不敵な笑みを浮かべ、彼はふわりと宙に浮いた。

 手が届かぬほどの上空を行く鳥を『掴んで引きずり下ろし』地べたへと押しつける。不意の重力に悲鳴を上げた鳥は抗う術もなく落下し、ばたばたとその羽で砂を擦った。

 気付いて女が声を上げる。


「…キィル!」

「飯、探してんだろ。それ、やるよ」


 リノーラは鳥の側に駆け寄り、しゃがみ込んだ。こきりと小さな音を立てて簡単に鳥の首を折る。動かなくなったそれを手に持つと、笑顔で立ち上がった。


「ありがとうよ、キィル。この辺も少しずつ動物が減ってきたねぇ。元より年寄りばかりとはいえ、最近は狩りに難儀するのよ」


 キィルも頷いて言葉を返す。


「あぁ。終わりが近いんだろうな。戦を予知するってアエルリの鳥なんて、どの巣もとっくに空っぽだぜ」

「…そう…。ついに異人達が、この森の奥にまでやってくるのね…」


 驚くでもなく、もう一度溜息をついたリノーラはキィルへと媚びるような目を向けた。


「キィル。どうかその時には約束を果たして下さいね。我々はそのために今まで生き長らえてきたのだから」


 言い募るだけの女には、彼が小さく奥歯を噛み締めたのが見えない。そしてキィル自身も、不敵な笑みで上手にそれを隠した。


「俺は皆の願いを叶えるためにいる。生死に関わらず、一族の誰一人として異人の手に渡すことなどない。骨一欠片、髪の一筋までも、俺達のものは俺達のものだ」


 半ば恍惚とした表情の女は幾度も頭を下げて道を引き返していく。完全にその姿が見えなくなってから、小さく笑ってキィルは祭壇を振り向いた。


「くだらねぇよな?」


 呟くと、その姿がかき消えた。


 空間を転移する能力だ。念動や空中浮揚はレスターリャにとって珍しくない。しかし中でも同調や邪視、予知や瞬間移動といった、より特殊な能力を持つものは限られていた。

 多種多様な能力を持つと伝えられる彼らはしかし、全員が全ての能力を扱えるわけではない。

 キィルはいくつもの能力を強大な力で使いこなしていたが、集落には同じ念動力という能力であっても、空の皿をほんの少し浮かす程度の力しかないものもいる。


 長きに渡る迫害の末路。人数は減り、異人の血は混じり、個々の持つ能力も弱くなっているのが現実だった。


 笑って見せた彼が、本当は悲嘆にくれたのを知る者はいない。

 キィルには、一人になりたいときに行く湖がある。

 仲間と鉢合わせることのない場所。

 つまりそこは、彼らが恐れる異人の住処に近しい。隠れ住んでいる彼らは、この森から出ることはない。森の奥であればあるほどに一族は安心した。だから仲間に会いたくないのならば、できるだけ森の外側へと向かうより他ない。


 誰より危機に近い場所でのみ、彼は神という役割を遠ざけることができた。

 仲間達は彼に太陽神の化身としての思考や態度を求める。自分にはできないこと、他の仲間にもできないこと、それらを全て彼にだけ求める。

 求められるがまま、彼は振る舞った。

 自身とその役割との整合は、彼も望んでいることのようだった。


 けれども彼はまた、唯の少年でもあった。彼自身はそれを理解し受け入れていたが、一族は誰一人として認めず、認識すらしていないものが大半だった。

 彼が自分自身に戻ることができるのは、崇める太陽神がすっかりと光を隠した時。日の沈んだ夜。誰もが寝静まったあとにだけ。


 まだ、この時間は太陽神の領域だ。神の化身たるキィルに弱音を吐くことは許されない。

 ひやりとした水の、揺らめく中。


 とぷりと湖の底へ静かに沈みながら、キィルはじっと上を睨んでいた。岩陰から見えるのは、きらきらと光を反射する青い波。水の中にさえ簡単に吸気を引き込んで、身の内の熱が周囲の水に溶けてしまうまで彼はそこにいた。

 水が音と光を遮断する。

 冷たくて薄暗い水底は、この森の中で太陽から一番遠い場所。昼間における彼の逃げ場は、ここにしかなかった。

 いつだってキーロンレスタールは、キィル自身の味方をしないのだから。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


 それから幾日も経たぬうちに、終末の兆しは現れ始めた。

 始めは数人。次第に大人数で。異人の集団が次々と森の中へと入り込む。

 その手に持つのは松明と剣ではなく、ライトに銃だ。

 森の外に出ないレスターリャには知る術のないことだが、弓矢で狩りをするような時代はとうに終わりを告げている。


 戦の続く世は兵器を進化させ続け、兵は戦場で失った四肢を機械で補い、ついでに生身の身体をも弄繰り回して更なる強さを求める。


 身体の一部を機械化した兵士は機兵、薬や施術で身体能力を無理矢理に引き上げられた兵士は強化兵と呼ばれた。

 穏やかな森の空気にはざわついた余所者の臭いが混じる。

 異物である兵士達は、服装すらも統一されてはいなかった。粗野で楽しげなものや、苦行のように鬱屈とした表情のものもいた。

 その中でも取り分け目を引くのが、赤毛の少年だ。キィルと年の頃は同じようだが、扱いがまるで違う。


「口答えするんじゃねぇ、実験体のガキ風情が! 人間様にでもなったつもりか!」


 殴られた身体は簡単に吹っ飛んだ。

 しかし地べたに倒れた少年はひょいと身を起こすと、悪びれる様子もなくその場に胡座をかいて首を傾げる。

 右目を随分と頑丈に覆った大きめの眼帯が、不気味であった。


「だぁから、口答えしてんじゃなくて。説明をしてんスよ。俺の目玉は失敗作で、まともに役立ちゃしねぇって」

「うるせぇな! ラボラトリィがお前の目玉が今回で一番の大物だって言ってんだから、そうなんだろうが。お前の意見なんざ聞いてない!」


「…まぁ、いいスけど。俺は一応、ちゃんと伝えましたからね」


 上官らしき男は、手に持った銃で少年の顔を殴りつけた。引っ繰り返った少年はまたしても、素早く身を起こす。


「誰が! 起きても! いいっつったんだ、このガキ! クソ生意気な、実験体が!」


 うんざりしたような表情を一瞬だけ浮かべて、少年は素直に殴られた。背中を何度もブーツで踏みつけられ、脇腹を蹴り上げられても少年は声を上げず、動きもしない。


「…ふんっ、わかったら以後は口を慎むことだな!」


 満足したのか、一通り暴行を加え終えた上官は荒い息のまま少年に背を向けた。窺うように、少年は僅かに顔を傾けて目を細める。相手が立ち去ったのを確認した途端に、ぴょこんと身を起こした。


「痛ぇ。いくら丈夫でも、痛ぇもんは痛ぇわ。…つか転がってたらいつまでも寝てるなとか言うくせに、理不尽な世の中ですよ。誤射ですとかいって右目ビーム撃ち込みてぇ。あいつ、首とか色々もげちゃえばいいのにね!」


「…相変わらず馬鹿だな、赤毛。はい、はいって言っていればいいのに」


 陰鬱な表情をした男が、語りかけた風でもなく呟く。少年はついた靴跡を消そうと躍起になって背中に手を伸ばしていたが、そのうちに諦めて溜息をついた。


「基本的には言ってたつもりだぞ。ただ、目玉に期待してるなんて言うから。これは完全に失敗作だから一応言っとかないと、後で騙されたとか言って殴られると思って。…でも、どっちにしても殴られるという…」


「ラボが失敗を認めるわけない。僕らは死ぬまで、とことん切り刻まれて、その性能を試され続けるだけさ」


「…そうだなぁ。困ったもんだわ」


 少年はにっこりと笑って、頷いた。

 相手は、もう少年へ言葉をかける気はないようで、ひたすらに地面を見つめ続けている。後ろ頭を乱暴に掻いて、少年は森の奥へと目を向けた。

 その目がふと、憂鬱そうに曇った。


「虚しいなぁ。実験体の俺達が、新しい実験体を手に入れるために駆り出されるんだ。超能力が戦争に役立つだなんて、本当に皆信じているのかな。暗殺ならまだしも、物を浮かせたりテレポートできたってさぁ」


 周囲には数人の男達がいるが、誰もが俯きその言葉に答えようとするものはいない。


「俺達にするように切り刻んだって、他人にその能力が移植できるだなんて思えないし、ましてそんな兵士を増やせるだなんて想像もできない」


「…静かにしてろよ、ガキ。俺達はお前のとばっちりを食らいたくはない。何も考えるな。俺達には…思考なんて許可されないんだ」


 誰も顔を上げないから、少年には誰が口を開いたのかわからない。

 それでも小さく首を傾げた後に、「はぁい」と返事を返す。軽薄そうな声音に反し、その目は少し悲しそうだった。


 レスターリャがこの森に逃げ込んだ理由。それこそが正に、今ここに少年兵がいる理由だった。

 世界にはレスターリャ以外の異人が溢れている。森の外にはラボラトリィというものが幾つも存在し、人間をより高度な生き物とするべく研究し続けているのだという。異人はいつもレスターリャの能力を自らに取り入れようと目論み、捕らえようと手を尽くした。

 過去にその餌食となったレスターリャも少なくはない。しかしながらラボラトリィは未だレスターリャの持つ能力を暴くことができず、それはそのままサンプル収集と思しき行為の継続を意味した。

 レスターリャの恐れとは古来より続く純粋な迫害を含んではいたが、近年は異人に出会うことと、捕らわれて実験材料にされることとは同義であった。


 彼らの概念では、死後魂は神の元へ送られるのが当然。そのためには仲間の発火能力により遺体が火葬され、灰も残さず風に溶けることが真の安寧とされていた。能力が弱まり、全てを風に溶かすことが叶わぬ今でこそ墓に弔う習慣もできたが、それでも仲間の能力による送魂の火儀こそが死時の憧憬であった。


 無念のままに切り刻まれ、死後も地にさえ還されることなく研究施設内に保管され続ける恐怖。家族や友人が捕まれども、取り返しも弔いもしてやれない辛苦。その魂が永劫安らぎと切り離されねばならぬという怨嗟。


 ましてレスターリャはもはや一握の民。発火能力を持つものが先に絶えれば、残りのものが神の元へ辿りつく術は永久に失われる。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


「どうして戦っちゃいけないんだ。異人がここへ来たんなら、戦わなくちゃ何も守れない。戦わずに降伏するってのか」


 紫色の瞳を爛々と輝かせ、キィルは目の前の老人に食ってかかる。予想していたのだろう、相手は静かに、そして強く言い切った。


「戦うのは私達だけだ。いずれにせよ我々は勝てない。祖先ならばいざ知らず、今の我々の能力は決して大きくはない。一矢報いることを望みはするが…それもどこまで通用するものか。我々は異人には勝てない」


 信じられないというように、キィルは首を横に振る。


「なればこそ。俺が出なければ幾らも持たずに、簡単に陥落する」

「お前は戦ってはいけない」

「なぜだ。納得できない」

「お前には使命がある。忘れたか」

「忘れるはずもない。だが、それとこれとは関係がねぇぜ、別問題だ」


 老人が、じっとキィルの目を見つめた。

 キィルは、片眉を上げて睨み返す。

 しばらくの睨み合いの後、老人が溜息をついた。疲れたように呟く。


「お前は昔から、私の邪視が効かない。赤子の頃からそうだった。いかにして寝かしつけようとしても、言うことを聞かなかった」


「ははっ、キィル様にジジィの暗示なんぞ効くかよ。俺に邪視の能力はねぇが、かかるほどの間抜けでもねぇ」


「…キィルよ。ここは我々最後の地だ。例え今回運良く敵を退けられようとも、居所が知れた以上はより大勢の異人が我らを捕らえに来るだけだ。そして、お前が捕らえられたり死んでしまえば、我々は希望を失う。ここで戦うのは一度きり。そして皆死ぬ」


 それを聞いて口を開きかけたキィルを、老人は押し留めた。


「年寄りばかりだ…我々はもう移動しない。出来ないのだよ。ここが我らの墓だ。お前が生まれたときに皆でそう決めた。誰より強いお前の能力があったからこそ、我らは安心して決められたのだ。老衰で死ぬことを求めたのではない。戦って殺されようと病に命を落とそうと、死とはただ死でしかない。我々が求めるのは魂の高潔と安寧だ。…お前がここで死ぬとは我らも思ってはおらん。お前は我らが神の化身。神がそう示すときにのみ、お前は死ぬ。いつであろうと問題はないだろう。お前は、身の始末を己で行えるのだから」


 奥歯を噛んだキィルは、それを隠すため無意識に唇の両端を引き上げた。爛々とした瞳は光を失わないまま、それでも「あぁ、そうかい」と相手への一定の理解を示す。


「じゃあ、一族を集めなよ、長老。異人が来る前に全員の意識と同調しなくちゃなんねぇ。誰がどこにいても、必ず役目を果たせるようにな」


 老人は頷いた。ふと集落のほうへと視線を遣り、数秒じっと立ち尽くす。


「何人か森へ出かけた者がおるな。集まりは明日の朝にするよう手配しよう」


 怒りがキィルの内を満たし、安堵が老人の中に満ちる。

 どちらもただ、もはや数日のうちに全てが終わることだけを理解していた。

 増えぬがための血の廃絶か、他者の手による存在の根絶か。どちらにせよ、レスターリャは滅びを待つだけの民。


 その中で、キィルだけがいつも生を睨んでいた。

 それは老いと若きの差であったかもしれないし、直に体験した迫害の記憶と知識としてのみそれを知り得ることとの差であったかもしれない。奪われても生き残ってしまった者とこれから全てを失う者との差であったかもしれないし、限界を知り唯人として生きる者と求められる以上に神の化身として生きようとする者との差であったかもしれない。


 同じ一族でありながら、いつもキィルは孤独であり続けた。どれほど彼に負担をかけようとも、仲間達は彼の持つ強大な力に夢を見ることしかできない。レスターリャには現実的な繁栄の手段など何もありはしなかったが、理想的な滅びの手段があった。

 そして彼を神格化することで『異人でさえもキィルを屈することはできない』と信じた。


 恐らくは異人に滅ぼされることがレスターリャの末路ではないと、思いたかったのだろう。



 満ちた怒りも徐々に悲しみへと変わる。

 宵闇に、キィルは歩き出した。

 さくさくと音を立てて草を踏み、空間を一蹴りすれば一瞬でつくいつもの湖まで、俯かずに進む。薄明かりが落ち、夜の気配が辺りを包んでいく。

 月を映す湖は、とても明るかった。優しい月明かりと、ようやく訪れた夜に息をついて、彼は太陽からの解放を感じる。


 冷たさに身を任せるのは憂鬱な気がして、珍しく彼は水面を歩いた。

 湖の中心辺りに映る月の側まで、ゆっくりと。


「…ははっ、ひでぇツラしやがって」


 誰よりも力を持ちながら味わう無力感に。キィルは力なく笑った。しゃがみ込んだ水面に映った顔は、昼間ならばとても許せたものではない。水を手のひらで叩き、波を立てて気に入らない顔を消した。

 一緒に映っていた月も揺らいで。


「…隠したって。俺がこんなツラしてることは変わらねぇか…、何だよ、水跳ねちまったかな。冷てぇな」


 しゃがんだまま深く俯いて、目許の水滴を湖へ落とす。ひとつ。…ふたつ。

 はっとしたようにその目が鋭さを映した。紫色の瞳が、注意深く辺りを窺う。

 他者の気配だ。

 凝らすように目を細めて、見当をつけた湖のほとり。低木の葉に隠れた、赤い色。

 ゆっくりと、キィルは立ち上がった。

 背筋を伸ばし、見下すようにその茂みへと身体を向ける。


「透視は目が疲れるからあんまり好きじゃねぇんだがな…ふん? ガキじゃねぇか。まぁ、ガキでも異人は異人。敵には変わりねぇ」


 葉陰に身を潜めていたのは赤毛の少年。

 湖の上に立ち上がったキィルとは逆に、相手は身を低くしようと地に片膝を付く。


 木々を透かして視界を確保できるレスターリャの前にあっては、それも無駄な行為だ。


 動いたのはキィルが先だった。空間転移で少年のすぐ前に現れ、宙から相手を見下ろす。少年は口を『あ』の形に開いたまま、不意の事態に対処できない。


「…あれ。赤毛だとは思ったけど…お前の髪、ホントにすごく赤いな。何これ、林檎みたいだ」


 相手はぎょっとしたように銃を構え、後ろへ飛びすさる。

 混乱と動揺に満ちた相手の目を見つめ、キィルは首を傾げた。見慣れない色彩は、レスターリャとの相違。異人である証。わかっていても、それでも興味を引かれた。


 林檎でもないのに、髪にこんな色が天然でつくわけがない、擦れば落ちるかもしれない…そんな風に思いながら無意識に赤毛を掴もうと試みる。


 しかし、キィルはふと伸ばした手の先を軌道修正した。

 相手の顔の右側を覆う、やけに大きな眼帯。それが随分と邪魔に感じられたのだ。意図を察したのか、相手は慌てて眼帯を手で押さえ、首を横に振る。


「駄目だぞ。これは、触ったら危ないからな。取ったらお前、怪我するぞ。知らないだろうけど、ホントに痛いくらいじゃすまないからな」


 銃を突き付けた相手に言うことだろうか。幼子を諭すような言い方に、キィルはくすぐったそうに口の端を歪める。


「…目は飴色。いや、琥珀かな…?」


「な、何だよ、人のこと飴だの林檎だの…美味しそうじゃないか。マジ腹減る。…お前、幽霊か? さっき湖の上にいただろ…っていうか今も浮いてるな。何だ。お前、何だ?」


「…は?」


 何を言っているんだと言わんばかりの顔をして、キィルは地面に足を下ろした。

 異人とはレスターリャを狩りに来るもので、レスターリャとは宙に浮くくらいは当たり前の種族だ。それを今更「何だ」と問われれば、キィルにしてみれば「お前が何だ」と突っ込まずにはいられない。


 じっと見つめてくるキィルの様子を不審に思う様子もなく、少年は琥珀の左目をぱちぱちとさせてもう一度言った。


「なぁ、幽霊か? 本当は何?」


 口許ににやりと笑いが浮かびかける自分に気付きながら、キィルは小さく首を振った。彼の口が開くのを、少年は固唾を飲んで見守っている。


「ん。とりあえず黙ってろ、うぜぇわ」

「……、え? わぁ、ひでぇ!」


 一瞬理解が追いつかずに訝しんだ少年は、寄越された言葉が説明ですらないことに目を真ん丸にした。その表情に吹き出し、キィルは腹を抱えて笑う。


「ははっ、馬鹿だな。お前、馬鹿だろう」

「…えぇー…? あー、まぁ、なぁ。よく言われるけど…」

「ふふ、あは、ははっ」

「そんな笑うとこか? いいけどさぁ…」


 爆笑するキィルを見た少年は、完全に銃を下ろしてしまっていた。仕方なさそうな顔をしながら、改めてじっとキィルを見つめる。

 注視する気配に気付いて、笑い声を収めたキィルも相手を見つめ返した。


「わぁ、お前の目、すっげぇ紫だな。それ、天然?」

「林檎頭が言うな。紫にすげぇもクソもあるかよ、馬鹿か」

「ぎゃー、お前、ホント口が悪いんだね」

「うん。自覚もあるぞ」


 少年はそれを聞いて破顔した。それを見たキィルも笑おうとして、ふと違和感に気付いたように胸に手を当てる。

 焦りのような感情が、掠めた。


(これは敵だ。馴れ合ってどうする。この世には異人とレスターリャしかいない。今はわからなくとも、すぐにこいつも気付く。俺が獲物でしかないことを。そうしたら)


 …そうしたら?


「おい、どうしたんだよ、急に胸を押さえて。苦しい? それとも痛いのか? 持病とかあるの? 参ったな、俺、何も薬なんて持っ…、むっ? にゃんで引っ張るんだおぉ?」


 かけられた言葉半ばで、思わずキィルは相手の右頬を掴み、勢いよく引っ張った。

 初めてされた心配というものがあまりにくすぐったかったせいなのか。

 それとも、抱きつつある好意を打ち消さねばという義務感からだったのか。自分でも理解できないまま、とにかくその口を黙らせねばならないという焦燥からの行動だった。


 しかし相手は、頬を引っ張られようともちっとも黙らない。


「へぇ、何なんらお? 治っらのは?」


 不意の暴力に怒る様子もなく、頬を掴まれて伸ばされたまま、小動物のように無邪気に首を傾げる。

 出会い頭の警戒を、すっかりどこかへ置いてきてしまったようだ。

 そして返す言葉を思いつけずにいるキィルから反応が返らないとわかると、今度はゆっくりと反対側へと首を傾げて見せた。


「…く…、…ぷっ、…ふはっ、あははっ、もぉ駄目だっ…お前は馬鹿だっ! 何だこの生き物はっ。初めて見る、珍獣がいるぞっ」


「ふぉい」


「…ふぉいって何だよ! 鳴き声か! 珍獣が鳴いたぞ、ふぉいって鳴いたぁっ」


 堪えきれずにキィルは相手の頬を離し、近くにあった木へと顔を突っ伏した。げらげらと腹を抱えて笑い続けるキィルに、少年は目を白黒させて困り笑い。


「いや、オイって言ったのに…。痛いのは治ったのか? よくわかんないんだけど、ちょっと…笑いすぎだろ」


 ちっとも上手に嫌えそうにない。

 そう気がついてしまったキィルの心は、しかし驚くほど爽やかだった。

 悩んだって仕方がない。敵を気に入った、それに何か問題があるのか。


 彼には、うじうじぐだぐだと悩むような様を見せることは許されていなかった。だから、結論は簡単に出た。

 間違いだというのなら堂々と間違える。過ちなら後から力ずくで、幾らでも取り返して見せよう。


(どうせ異人に俺は殺せない。殺すのは、俺なんだ。今、こいつは俺を敵だと認識していない。そんなら、今はいい。これでいいんだ)


 キィルにとっては初めて見る同年代の少年。

 初めての、恐らくは友人。

 それを殺す苦悩が訪れたとしても、今は夜。同族の目がない限り、キィルが自分に唯の子供でいることを許した時間だ。

 笑い終えたキィルは小さく息をつく。


「…あぁ、笑いすぎて名乗るのが遅れたな。俺はキィルだ。お前は?」


 笑顔で問いかけたキィルに対し、相手は目を見開いて…それから困惑の表情を見せた。

 その急な態度に、拒絶されたのかとひやりとするキィル。紫の目が翳ったのを見て、少年は慌てて顔の前で両手を振って見せた。


「…あ、えと。ごめんな、あぁ、何というか…俺、名前はないんだ。昔はあったのかもしれないんだけど、えぇと、研究所の被験体なもんだから人権的なものはなくてな。実験の度に割り当てられる番号も変わるし…周りはガキだの赤毛だので用が足りちまうし…」


 それで、その、と言ったきり少年は後ろ頭をかりかりと掻いて黙った。


「…そう、か」


 キィルが呟き、呆然とする。


 異人は敵である。レスターリャを迫害し、捕らえ、実験材料にするからだ。キィルはずっとそう思って生きてきた。


 目の前の少年はレスターリャではないのに、実験材料だから人権はないのだという。


「うん。ごめんな、キィル」


 少年は笑った。

 まるで何でもないことのようだった。

 けれども、それはおかしい。


 少年が置かれた状況とは、レスターリャが死を選んででも拒否する状況なのだ。レスターリャは少年と同じ立場にならないためだけに、生まれたばかりのキィルに迷わず重責を与えた。


「どうして…お前が被験体なんだ?」


 理解できなくて、彼は思わず呟いた。けれどもそれは、尋ねてもどうしようもない事柄のようで。傷つけるだけの言葉のような気がした。零れた問いを慌てて回収しようと、キィルは続く言葉を探す。相手の目に浮かぶはずの怒りを探して、顔を上げたけれど。


「…さぁ。気がついたときには研究所にいたから、よくわかんねぇよ。戦争か内乱でもあったとこの難民か、貧民か。拉致られたのか、親に売られたのかも知れないし…まぁ、今のところ何とか生きてるから、そんなことで悩んだって仕方ねぇや。俺は運がいいんだぜ、された実験が役に立ってるくらいなんだ。普通は施術や投薬で作る強化兵ってのは、機械の身体の研究とは別なんだけどさ、俺は機械化も強化も両方されちまってるからやけに頑丈で、殴られても蹴られても壊れにくい。研究所でも私兵軍でも、暴行受けたってそう有用な被験体じゃなきゃ治療なんかしてくれないからな。暇潰しみたいに殺される奴は山ほどいるんだ。俺の身体の頑丈さは、俺の役に立ってる。…だって、死にたくはねぇもんな。いつか脱走するときまでは、うまく生き延びてやらねぇとな」


 あっけらかんと言って、頷きと共に赤毛を揺らして、それからやっぱり笑った。


 何かを言おうとしたキィルは、結局言葉を見つけられずに手を伸ばす。少年は避けずに、目線だけで手の動きを追った。


 わしっと一掴み髪を握り込まれても、まだ抵抗する様子はない。

 己の行動をどう思っているのか、キィルの表情はどこか硬い。

 本当は、キィルは少年を慰めてやりたかったのかもしれない。


 けれど彼はそのやり方を知らなかった。誰に慰められたことはなく、誰かを慰めたこともないのだ。キィルに求められたのは尊大と不遜と、その態度に見合う実行力だ。優しさも穏やかさも、学ぶ機会はなかった。

 それでも何かを伝えたかったキィルは、指に絡んだ赤い髪を一房、やや乱暴に引っ張る。二度。三度。


「なぁに。痛いぞ」


 琥珀の目が細められる。大して痛くもなさそうだ。それが攻撃でも何でもなく、むしろ好意であることを、幸いにも少年は理解してくれたようだ。


「…うん。ううん。あのな。…そうだよな。死にたくはねぇよな。それは、わかる」


 うん、とキィルは繰り返す。少年はじっとキィルの目の辺りを見ていた。


「おい。口が開いてるぞ。また瞳の色でも見てんのか」


 気がついたキィルは相手の目を見返す。少年は、目を逸らさない。


「うん。すげぇ紫。綺麗だなぁ。紫って試薬の色だろ、もっと毒々しいもんだと思ってたのに、全然違う。面白いなぁ」


「…そうかよ」


 つんつんと何度も引いていた髪を、ようやくキィルは解放した。


「そうだな。決めた。お前はソールだ」


「はい?」


「俺はキィル、お前はソールだ。ソールカリューゼンから取ったんだ。わかるか?」


「…いや、わかんねぇよ。いきなり何の話だ?」


「わっかんねぇのかよ。あーぁ、仕方ねぇな、お前は馬鹿だからな」


 一方的なその言葉に、少年は苦笑する。


「えぇ? 酷いんですけど。何なのよ、その上から目線は。お前は何様ですかー」


「だからキィル様だっつってんだろ」


「それで、俺はソール様?」


「様は余計だが、そういうことだな」


 全然わかんない、と少年は更に苦笑した。

 キィルは澄まし顔でわざとらしい溜息をつくと、二歩ほど後ろへ下がった。


「いいぜ、お前はソールだからな、許してやるよ。明日また遊ぼうぜ。月が木にかかる頃、ここへ来い。周りの大人には内緒でだぞ」


「木って…周り全部木なんですけど。月って、どの辺にかかる頃さ? 結構鬱蒼としてるから、空って見えるとこ少ないんですけど。つまり具体的に何時?」


「じゃあな、ソール」


「えっ、いやお前フリーダムすぎ…、あれっ」


 呼び止めようと手を伸べた姿勢のまま、少年は固まった。

 その様を嘲笑うように吹き抜けた風。

 木々がそよぎ、ざわざわと音を立てる。湖面にさざ波が立ち、そして、ゆっくりと静まった。

 理解できない顔をしたまま、琥珀色の目がきょろきょろと辺りを見回す。


 キィルの姿は既にない。


 木の上へと転移したキィルは、じっと葉陰から様子を窺っていた。

 あえて目の前で異能を見せることで、レスターリャであることを伝えたつもりだった。

 幽霊だのと騒いだのは、宙を歩くことに異能を使用するという発想がなかっただけなのだろう。もしくは、前夜に怪談話でもして盛り上がったのだ。


(湖面に立つだなんて、わかりにくかったんだ。だって、あいつは馬鹿なんだ。もっと、ずっと易しくしてやらなくちゃいけないんだ。そうしたら。…そうしたら…きっと)


 キィルはそう考えた。


「…やっぱり…、なのかな…」


 ぼそりと呟く声が聞こえて、キィルは木に身を寄せ耳をそばだてた。

 敵であることを理解したときに、ソールの態度がどう変わるのか。それを見届けてから立ち去りたかった。


 明日、再び会おうと言ったのは気まぐれだった。遊べたらいい。そう思ったのも嘘ではなかった。けれど。


「もしも明日仲間を連れてきたのなら、集落へ辿りつく前に皆殺しにしてやってもいい。ジジイどもにわかるものか。バレたところで何が変わる。異人になど…いや、仲間にさえ…誰にも俺を閉じ込めることはできない」


 爛々と好戦的に輝く紫色の瞳。やや俯いた赤毛を見下ろす。

 相手が敵となる瞬間を見逃すまいと一挙一動を見つめていたその目が、聞こえてきた声に丸くなった。


「別に、いっか。幽霊でも」


 信じられないものを見るように、キィルは眼下の景色を見る。

 ソールと名付けられた少年は不思議そうに湖の中へ手を入れている。ぱしゃぱしゃと手で水を混ぜながら、「普通の水だよなぁ? 変だなぁ? 明日聞いてみようかなぁ?」などと呟いている。


 紫色の瞳に喜色が灯る。唇の両端が、上がろうとするのに気づいた。堪えようと歯を食いしばりかけ、しかし無理だと判断したキィルは素早く宙を蹴った。居住地への移動。両手で口を押さえて、声を出さないようにと飛んだ。


 場所を明確に意図しなかったため、自宅より少し離れた草地に現れたキィルは、着地を誤って草の上を転がった。

 拍子に口から手が外れ、転んでしまった可笑しさとあいまって笑いが止まらなくなる。


「…痛ぇ…、もぉ。…ふふっ…ははっ、嫌になるなぁ、もぉ! あははっ、何だよアレ、本当に何なんだ、おっかしい!」


 腹を押さえて縮こまっては、寝返りを打つように大の字になる。


「…気づいてない…目の前で飛んでやったのに、まだ気づいてない。馬鹿だ。間違いない、馬鹿だろ。ははっ、何なのアレぇ。ふぉいって鳴く生き物ー」


 はぁ、と小さな溜息で呼吸を整え、目許に溜まった涙を拭う。ようやく身を起こしたキィルは、満足そうに空を見上げた。


 頭上に輝く月。


 これこそがレスターリャの神話における、ソールカリューゼンだ。


「…きっと正しい。太陽が沈むときに…月が現れるのは。あいつに名付けるのは、きっと正しい。あれは俺のソールカリューゼンだ。俺がキィルで、あいつがソールなんだ」


 片手を空に伸ばして。キィルは嬉しそうに笑う。敵であるはずのソールが、キィルの心配をした。琥珀の目を細めて笑うその姿が、無性に心を温かくさせた。


「空には星や雲があるけれど、太陽ってのは孤独なもんだと思ってた。でもお前なら俺と同じように、あまねく空を照らすものなんだ。空には一緒に二つもいられないんだろう…だから俺がお前を蹴落とすのか、お前が俺を蹴落とすのか…。それでも、あぁ、悪くない。クソくだらねぇ、俺の役目を果たしても。…同じ空にお前がいるんなら、きっと、悪くはないんだ」


 キィルは空を仰いだまま目を閉じた。己がそう在れと育てられた太陽を、嫌おうとしたわけではなかった。それでも、彼が密かに憧れたのは月だったのだ。

 月の光は、優しく降り注ぐ。

 しがらみに嘆いた日にも、課せられたものに怒りを覚えた日にも。穏やかに眠る夜にも、悪夢に怯えた夜にも。

 孤独だと知っていた彼の上にも、月はいつも、ただ光を落とした。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


「来なさい、我らが神の化身。時が近い」


 祭壇に寝転がる彼に、長老は声をかけた。面倒くさそうに目を開けて、ゆっくりとキィルは立ち上がった。促されるままに老人の後を追い、飛び石を跳ねるようにごく近距離の瞬間移動を繰り返す。


「歩いても同じではないか。お前は本当におかしな子供じゃな」


「歩いたら普通に追い越すぜ」


「空間移動の能力のない老人に対して、ゆっくり歩くという配慮はないのか」


「なぁんで俺がジジイに配慮すんだ。これから、全員の血ぃ飲まなきゃなんねぇんだろうが。配慮されたいのはこっちだぜ」


 ひょこひょことついてくるキィルに、老人は目を細めた。


「…本当に同調できるのであろうな」


「はん? 誰に物言ってんだ」


「同調の力を持つものは極めて少なかった。先祖返りでしか現れない、遠い昔に失われた力だ。現在は、お前以外もういない。しかし、もしお前が同調できねば…万が一仲間が連れ去られた場合に、彼らを燃やしてやることが難しくなってしまう」


「できるさ。試したことはないが、自分の能力が何かくらいは知ってる。そういうもんだろ。こんなことにホラ吹く意味がねぇ」


 老人は振り向き、立ち止まった。キィルもその目の前でぴたりと足を止める。不意に老人が、手を差し出した。

 指先から、じわりと血が滲んでいる。


「ほれ、舐めろ」


「…おいおい、ジジイの指舐めろとか、何の拷問なんだよ…。大体そんっなに疑うんなら、こんなギリギリで試すんじゃねぇよ。どうせ心の中を読まれたくはないから今まで同調しなかったんだろ。必要なときにはさっさと同調しろとか、神経疑うわ。何様だよ、キィル様に対して。あ、長老様か」


 キィルがさっと手を振る。老人の指先から、一滴の血が宙を移動した。嫌そうに舌先を出して、キィルは血をその上に乗せる。


「…キィル?」


「ほら見ろ、余裕で同調したぜ。ほぅ、証明してぇのか。何を答えりゃいいんだ、ババアへのプロポーズの言葉か? …っておい、プロポーズの言葉がねぇじゃん。完全にババアに押し負けた結婚じゃねぇか。だせぇ」


「…コホン。お前の…」


「俺の母親がジジイの娘だってか。初耳だが、いらねぇ情報だな。別に感動も何もねぇし。そんなん、俺らが滅びる瀬戸際に知らなきゃいけないことか?」


 馬鹿にしたような言葉に老人は笑った。


「確かに同調しておるようだ。すまなかったな…お前に両親のことを話さずに」


「経緯はわかった。お前の猛反対で彼らが駆け落ちした結果、父親が異人に見つかって殺されて、更に逃げ帰ってきた母親のせいで前の居場所が見つかって、…成程、まさに阿鼻叫喚だな…。いや、だから俺は別に何も思わねぇって。なんで俺がお前を恨まなくちゃならないんだ。…おい、感傷に浸るな、気持ち悪…うっ…後悔とか全力で流し込んでくんの、マジやめろ。うわ、何これ気持ち悪いっ」


「なんじゃ、弱音を吐くな。神の化身ともあろうものが」


「正気か、こんな、死ぬほど弱音吐いてんのはお前だぞ、クソジジイ」


 顔をしかめて、キィルは吐き捨てた。

 少し意識を向けただけで相手の情報が全て把握できる。隠した感情も、今考えていることも、本人が覚えていない記憶さえも。

 相手の強い思いを感知すれば、まるで自分がそう考えているかのような錯覚に陥る。


 これを村人の人数分保持せねばならない。


 そう気がついて、キィルは内心で戦慄した。たった一人との同調で混乱していては話にならない。うまくやらないと、他人の記憶と感情に引きずられる。


 脳内で過去の情景を再生し続ける老人を、殴って黙らせてしまいたくなる衝動を堪えた。

 同調した意識と自分の意識との癒着を剥がし、何とか頭の中で境界線を引くことに成功する。


 先に試してみて良かった、とキィルはひっそりと身震いした。一度に多数の人間と同調するのは、実は危険そうだということがわかった。一人ずつ慣らしていかないと、自分の意思がどれだかわからなくなってしまう。


 キィルはゆっくりと深呼吸をした。脳内で声を出すつもりで、自分の考えていることを強く思うようにする。


 眉を寄せて額を押さえていると、老人がこちらに目を向けたのがわかった。


「キ」

「できる。全員と同調する。うまくやるさ、俺はキィル様だからな。血を集めておいて一人でゆっくりやりたいところだが…乾いた血では同調できない…と思う。先行くぜ」


 そう言って、キィルは空を蹴った。


 行き先は集会所。少ない仲間達が既に全員集まっていると、老人の血が教えていた。

 見慣れた室内へと飛び込むと、ざわざわとしていた声がぴたりとやんだ。

 皆、キィルと同調するために集まっているのだ。やがて訪れるその時に、キィルの手で燃やしてもらう…そのためだけに。


 一族全ての意識と癒着せず自分を保たねばならない緊張。長老が抱え込んでいた負の感情の大きさと、恐らくはそれが同調すべき人数分存在することへの悲哀。その一切を表に出さずに過ごしてきた仲間への不審。誰一人、生を望まないことへの落胆。誰かが異人に捕まった場合には、生きたままでも燃やしてやらねばならない憂鬱。同調した心に大きく響き渡るであろう、断末魔への恐怖。


 全てを不敵な笑みに隠して、いっそ健気なほど、彼は尊大な態度を演じ続けた。


「キィル様は有能だからな、血は一滴で十分だ。小さく指先に傷を付けるだけでいいぜ。…ははっ。老体には重労働かもな」


 差し出されたナイフを取る。キィルは近くにいた男の手を掴み、その指に刃を滑らせた。ほんのわずかな切り傷。じわりと染み出した血を宙に滑らせ、口に放り込む。


「これでいいぜ。次の奴」


 あっさりと終わった儀式に周囲が微かにざわめいた。同調の能力を有するものがいない中『血を飲んで同調する』という行為自体が大袈裟なイメージとして先行していたらしい。迂闊に混ざらないよう自分の意識を強く持ち、キィルは次々と仲間と同調する。


「こんなもんで本当に同調できるのか?」

「コップ一杯くらい飲んでもらわないと安心できないねぇ…」

「あら、あんた。そんなに出血したら敵が来たときに戦えなくなるんじゃないの」


 軽口さえ零れ始めた中で、彼は黙々と作業を続ける。これで敵の手に落ちることはないという安心感からか、仲間内には笑いが広がっていく。キィルの息だけが上がっていくが、周囲は誰も気づかない。

 長老が集会所の扉を開けた時には、全ての仲間と同調を終えたキィルがかき消えるところだった。


「…キィル!」


 長老の声に、周囲ははっとして戸口を見る。キィルからナイフを回収した男が「あ。終わったから帰って寝るって…たった今行っちゃいましたが…」とすまなそうに答えた。


(いや、いいんだ。この場で伝えることは、同調したキィルには聞こえるのだろう)


 長老の言葉に、仲間達は半信半疑の思いを寄せる。本当にそう? あれだけの血でできたのかしら? この場にいないのに声が聞こえるか? 我らが神の化身を、疑うつもりじゃないけれど…。


「…うるせぇ…」


 呻いて耳を塞ぐ、それでも声は頭に響く。逃げ出した森の中。誰もいないはずの湖の側で。もはや頭上の神の存在など気にする余力もなく、キィルは歯を食いしばった。


 景色も空気も地面も、まるで周囲の全てが他人でできているようだ。

 何もかもが好き勝手な声を発し、何もかもが狂気にも似た薄暗い喜びに浸食されていく。


(異人達はもうすぐ集落へと辿りつくだろう。せめて最後は奴らに一矢報いてやりたいものだ。滅びには抗えぬとしても…)


「黙れ、この死にたがりども…どいつもこいつも…あぁ、まるで生きる気がない…何がそんなに嬉しいんだ…死ぬことの、何が…」


(男達はこれから準備を始める。我々には武器もないが、いつ奴らが現れてもいいように石を積み、棍棒を用意しよう)

(老体の最後のお仕事じゃのう)

(念動の使えるものが前線だ。発火能力のある奴もな)


「…ちくしょう…うるせぇってのに…」


 明るく笑いながら、皆が皆全てを諦めていた。口にする言葉にはない、暗い思い。


 ようやく解放されるんだ。もう疲れた。けれども研究材料にされるのは嫌だ。あぁ、死ねばようやくあの人に逢える。異人どもめ、この手で一人くらいは葬ってやる。なぜ我々レスターリャがこんな目に合わなければいけないの。娘のかたきを取ってやる。大丈夫、キィルがいるんだ、モルモットになどされるものか。我々は神の元へ行ける。我々だけは、確実に神の元へと行けるんだ…。


 仲間達が胸に秘めた迫害と虐殺の記憶。目にしたもの、伝えられたもの、怒りと悲しみと…それが終わるのだという仄暗い喜び。


 彼は神の化身として生きることで、己とその小さな世界を救おうと足掻いていた。キーロンレスタールは、キィルの味方をしない。キィルにとって、自身がその化身である以上当たり前のことだった。神は自身を救うために存在を形成したりはしない。神とはいつだって、別の誰かのために存在するものだ。


 同時に諦めてもいた。キーロンレスタールを崇めながらも滅びゆくレスターリャ。ならば、キーロンレスタールなどはこの世に存在しないのだ。自身と同じ、虚構というわけだ。そのように、思ってもいた。


 キィルが過ごしてきた日々の記憶とは違う、人々の心の闇。

 誰の命も救えないことを思い知った。


 一体何のために生きてきたのだろう。こんなにも終わりを喜ぶのなら。こんなにも、疲れを訴えるのなら。


「…わかってる。赤子でも、力があった。そう。最初から俺に殺させるつもりだったんだ。俺に力がなければ。あの時に皆で自決するはずだったんだ。死体を渡すことなく、滅びるためだけに。…俺を…」


 幼い頃から言い含められてきた。


 いつか、異人がやって来る。奴らは数が多すぎるから、逃げきることはできないだろう。捕まったら、仲間を全て燃やすんだ。骨も残らぬように。灰も残らぬように。お前にはその力がある。誰より強い力がある。あの時できる限りは灰にしたが、奪われた仲間の身体は、もう取り戻せない。奴らは灰でさえ、研究所に持ち帰ったかもしれない。


 教えられるがままに覚えた。


 あぁ、わかったよ。その時には、俺が皆を燃やしてやろう。誰にも身体を渡さないように、何も残さないように。皆が風に溶けてしまえるように。俺にはその力がある。誰より強い力がある。


(…でも…)


 何のためにそうするんだっけ。

 誰のためにそうするんだっけ。

 もう疲れてしまったのに。もうすぐ全てが終わるというのに。死んでしまえばそれまでだ。切り刻まれても何も感じないだろう。


 いいや、ただ死ぬのでは駄目なんだ。燃やしてやらなくちゃいけないんだ。生きていようが死んでいようが、燃やさなくちゃいけないんだ。つまりは敵だの味方だのはどうでもよくて、救ってもくれない神の元へと行ければそれでいいんだ。…そいつの元に行けたら、何が楽しいんだろう。わからない。でも、皆がそうしたいって言う。皆って誰だ。皆と俺とは何が違うんだ。混ざってしまって、違いはどうにも見つけられない。


(…俺も、そうしたいのかな…?)


 でも、それはやっぱり、死ぬってことなんだろう。俺は…。



『死にたくはねぇもんな』



 どこかで、小さな言葉が揺れた。

 仲間達の声と混ざり合い、景色も時間も感情もぐちゃぐちゃ絡まった記憶の中に、赤い色が見えた。どこかで、見たことがある色だ。


『うまく生き延びてやらねぇとな』


 …そうだよな。

 だって。死にたくはねぇ。


 ゆるりとキィルの意識が引き寄せられる。赤い色。髪の色。

 いつ見た髪の色だろう。昨日だ。昨夜出会った、少年の髪の色。まるで林檎のようだと思ったっけ。


(…目は…。何色、だったっけ…)


 琥珀の瞳。だけど、左しか見えない。どうして右目を隠しているんだろう。


(…やくそく…。そうだ、もう一回…会おうと、約束したんだっけ…)


 また一緒に遊びたいと、確かに思った。


(約束したのは俺だ。名前をつけたのは俺だ。他の仲間じゃない。他の誰でもない)


 溜息をついて、不確かな手を握りしめる。

 これは他の誰のものでもない、自分の身体。動かそうとして。動かなくて。


「…動かないわけ、ねぇだろ。この野郎、俺の身体だろうが…キィル様に、不可能は…っ」


 ばしゃりと小さな水音が聞こえた。不意の冷たさに、指先から感覚が覚醒する。


「…水…」


 音のした方へのろのろと目を遣ると、右手が湖に沈んでいた。薄暗くてよく見えないが、引き戻した腕は泥や草にまみれている。


「…随分暗いな…。え…、…もう夕方…? うそだろ、朝、から…同調…したのに…」


 ぼやけた目を汚れた手で擦っても、視界はちっともクリアにならない。重い身体を何とか引き摺って移動し、湖で顔や手を洗った。粘つく口の中も濯ぎ、地面に水を吐き出してようやく息をつく。傾きかけた日は木々の陰に隠れ、既に夕闇の気配が濃い。


 辺りに目をこらせば、そこら中に吐き戻したり地面を掻きむしった跡が見られた。徐々に意識がはっきりとすると、身体中がずきずきと痛む。眉を寄せて確認してみると、あちこちに引っかき傷ができていた。


 彼自身には記憶にないが、随分と長くここでのたうちまわっていたことを、認めざるを得なかった。


「…はは…無様だな。でも、ちゃんとできた。うん。全員と同調してるし、俺も俺でいられてる。…ソールのお陰だな…」


 もう一度会えたら、今夜は敵の自覚を持っているだろうか。


 そろそろ持っているといい。でも。まだ、持っていないといい。戦場で迷わないように、もういい加減に気づけばいい。けれど。…あと少しだけ、もう少しだけ気づかなければいい。

 見たこともなかった赤い髪。仕方なさそうな笑顔。いつ、あの目は敵意に染まるのだろう。


「…俺が敵だと理解したら。なぁ、ソール…お前、どうするんだ?」


 問いかけてみると、想像の中のソールはしばし考え込み、…更に考え込み…それから全く理解していない顔をして首を傾げた。

 三度試してみて、三度同じ結果になる。


「…っ、あははっ、そうだよなぁ、だって、馬鹿だもんなぁ? …って、ぅわぁっ」


 吹き出した勢いで身を反転させたキィルは、うっかり湖の中へと転げ落ちた。



 異人達は着々と集落への突入準備を進めていた。

 ソールを含む森の中での歩兵は、傭兵とラボラトリィの実験体とで構成された部隊だ。彼らがレスターリャの集落を探し当てれば、森の外で待つ生体強化兵と砲撃隊が投入される手筈となっている。


 けれど絶滅危惧種のモルモットを狙うのはラボラトリィだけではなかった。ラボラトリィやレスターリャの実態を探るべく、外部から密命を受けた諜報員。珍しいものにならば金に糸目をつけない、好事家が送り込んだ兵士。過激派宗教団体から派遣された、異教徒殲滅目的の狂信者。レスターリャを生かしたいものも殺したいものも入り乱れることは必至だが、ただ一点についてのみ、彼らの意見は一致していた。


 例えここで命を落とさなかったとしても、もはや一人だってこの一族が逃げ延びることなどは不可能。敵味方なく、誰もが、そう信じていた。


 キィル以外は。


「どうにだってしてやるのに…誰にも、生き延びる気がない。助けてやっても恨まれるだけだ。俺は望まれてここにいる。俺の都合で皆を生かすわけにはいかない。人は皆いつか死ぬ。レスターリャは、そしてもう長くない。ならば死に時くらいは、自分で決めさせてやりたい」


 すっかりと慣れた仲間との同調に、キィルは目を伏せた。

 ここ数日、異人を偵察していた仲間がいる。その記憶から、彼は気だるげに幾らかの事実を拾い上げた。森の中にいる歩兵隊の一部が、既に集落を発見したこと。

 それを外の仲間には知らせず、自分達の手柄にしようとしていること。


「…この部隊にいるんだな…俺のソールカリューゼンは。もしも俺が異人に破れてしまうのなら…最期はお前に殺させようか。身体をくれてやるわけにはいかないが…せめて手柄には、なるだろう…」


 小さく首を振り、空を見上げる。


「…馬鹿だな。馬鹿なことを考えてる。負けるわけがない。負ける要素がないんだ。俺はただ全てを殺せばいいんだ。…ははっ、そして森を出ていくのか。誰も俺を必要とはしない…異人ばかりの世界で、隠れて生きるのか…長生きできそうな気もしないな」


 空にはオレンジ色を押し遣って、濃紺が広がっていく。じきに月が姿を現すだろう。

 吐き戻したものは土に埋めたりと後始末をしたものの、いつまでも泥まみれというのも居心地が悪い。

 思いつくと、汚れたシャツが気になった。乱暴に服を脱ぎ、急いで湖へと身を沈める。冷たい水が、傷に染みた。


 まだ、約束までは時間もあるし、ゆっくり身仕度を整えて。

 ちゃんと調子を取り戻したら、きっと普通の顔をして会える。


 そう思いながら水浴びを始めたキィルの視界に、赤い色が映った。同時に相手も、こちらに気づいたようだ。


「……、おい。なんで…、早ぇよな? 月が木にかかる頃って言ったよな?」


「…いや、だからそれ、何時かわかんねぇんだもん。遅れるより早い方がいいかと思って。…なんで待ち合わせ場所で風呂入ってんだよ。全裸待機とか高度すぎるわ」


 苦笑しながら、現れたソールが落ちている服を拾い集める。

 衣類を手に湖のほとりに近付いてきた相手に動揺し、勢いよく肩まで水に沈めてキィルは怒鳴った。


「…好きでこの状態なワケじゃねぇ、お前、お前が早すぎるからだろっ! つか、なんで近寄って来てんだ、馬鹿かお前っ! あっち向いてろ、クソ!」


「…男同士なのに。案外照れ屋なのね、お前。ぱんつ拾っちまったけど、悪かった? っていうかそのシャツはなぜ手洗い中なの?」


「転げてゲロったからお汚れなすったんだよ、あと照れてねぇから黙ってろハゲ!」


「このフサフサの赤毛が見えねぇのかよ。で、タオルが見当たらないけど」


「ねぇよボケ! 服拾うな、置け!」


「はぁい」


 キィルが睨みつけるほど、ソールは笑った。耐えかねて濡れたシャツを投げつけてやる。相手は素早く避けたが、キィルは念動で軌道を変えて相手の顔にシャツをぶち当てた。

 引っ繰り返ったソールは、笑いながらすぐに身を起こす。


「あーあ、避けたと思ったのに失敗した。シャツ、濡れてんのに落としちゃったな。また泥ついたぞ、もっかい洗う?」


「いいから、あっち向け。二度言わすな」


「はぁい」


 ソールは濡れたシャツについた泥を払いながら、元来た道へと身体の向きを変えた。

 その背を睨みながら、キィルは注意深く湖から上がる。犬のようにぶるぶると頭を振って水気を飛ばすと、飛び出した水滴達は次々と湖へ向かってジャンプしていった。念動で手元に取り寄せた下着とズボンを身に付け、眉間にしわを寄せたまま少し考え込む。


「動いたら殺すぞ」


 言って、近付いた相手の背後から、素早く濡れたシャツを奪い取った。

 驚きに身じろぎしかけたソールはしかし、相手が照れていると誤解したまま小さく笑って姿勢を正す。

 音を立ててシャツを一振りすると、飛び出した水達はやはり湖へ向けて帰っていった。乾いたシャツを身にまとう。


「よし」


 キィルの言葉を聞いて、ソールはようやくこちらを向いた。水の滴らないキィルを見て、驚いたように問う。


「あれ、湿り気どこ行ったよ?」

「おうちに帰ったらしいぜ」


 納得のいかないソールは躊躇いもなく手を伸ばし、相手の髪をちまちまと細かく摘んでは触った。好きに触らせてやりながら、キィルはじっと相手の反応を待つ。


「…躾のいい水だな。おい、やっぱり何、この湖が何か特殊なのか? それともタオルを隠し持って…たって、こんなにすぐは乾かないよなぁ…。もしかして、お前、機兵か強化兵? そんで、ボディにシリカゲルか何か使ってんの?」


 次第に傾がっていくその首を見て、キィルは微笑んだ。


「俺はキィル様だからな。何の不思議もねぇ。そんなこと気にしなくていい」


 深く問われたくはないと気づいたのだろうか。ソールはまばたきひとつと引き換えに疑問の表情を綺麗に隠した。


 それを見たキィルは、逆に不愉快そうに眉を寄せる。

 胸の中で、憂鬱が滲むように広がっていく。


 キィルにだって、わかっていた。誰も心を偽らずに生きることはできない。仲間でも敵でも。自分でさえも。それでも、目の前の琥珀の瞳がキィルに対して嘘をつくことは、どうしても許せそうになかった。


「…異人は嘘吐きだ。でも。仲間だって、嘘吐きなんだ。…お前はソールだ。それでも、お前は俺を騙そうとするのか」


 独り言のようなその言葉に、ソールは目を白黒させた。言われた言葉の意味はいかにも理解できない様子だった。けれど彼はすぐに首を横に振って見せ、理解できた一点に関して弁明を試みる。


「騙そうとはしないよ。お前を騙すことに、特に利点はないんじゃないかな。俺はただ、お前といると楽しい」


「…お前など疑うのも馬鹿らしいが、…無邪気に誰かを信じるほど馬鹿にもなれないな」


 キィルは奥歯を噛み締めて、唇の両端を上げた。

 それを見たソールは、少し悲しそうな顔をした。


「どうした。また、どっか痛いのか? 案外病弱なのな、お前」


「…は…、何を言って…」


「いや…わかんねぇ。痛そうに見えた」


「………。俺は今、笑ったと思うが?」


「うん。笑ったと思う。でも。あぁ、わかんねぇよ、ただそう思ったんだ。違うんならいいよ。俺は馬鹿だからな」


「…うん。そうだな」


 キィルはきっぱりと頷いてソールを見つめた。

 否定してくれないのかよ、と言いつつも不満のない様子でソールは破顔した。

 それを見てしまったのなら、キィルが真顔でいる理由もどうやら見当たらなかった。意思とは無関係に、顔が笑うのがわかる。


「…うん。そうだったな。お前は馬鹿だった。ははっ、試してみるのが一番いいか。おい、血を寄越せ。噛みつかれるのとその辺の木ッ端で切られるのとどっちがいい?」


「…ち…?」


「髪でも肉でも別にいいんだけどな。血が一番飲み込みやすいから。ほら、早く血ィ寄越せって。噛みちぎられてぇのか、このドMが」


「いや、何だよ怖いな! 俺、ナイフあるよ」


 慌てたようにナイフを取り出したソールは、ふと思い直して上目使いにキィルを見つめた。相手の表情は変わらない。もう一度、手の中のナイフへと彼が目を落とすと、苛立ったような声が聞こえた。


「一滴血が出りゃいいんだ。指先にちょっと傷をつけるだけでいいから、早くしろ。…そうだな、だけど嫌なら別に、やんなくっていいよ」


 その声音の中に、ソールは何かを見つけたようだ。

 今しがたの逡巡が嘘のように、するりと刃先を指に滑らせる。その唐突な変化に、キィルのほうが動揺したくらいだ。


 けれど、これで全てがはっきりする。


 嘘なのか嘘じゃないのか。向けられた笑顔は偽物なのか、そうじゃないのか。

 ソールの指先に、小さな赤い線が現れた。知らず喉を鳴らしたキィルの前で、ゆっくりと血が染み出す。珠を形作るのも待てずに、キィルは相手の手を取り、傷口を舐めた。


「ぅぎぃえ、舐めんのかよ!」


 上がった悲鳴の珍妙さに緩んだ口許を隠す。

 それでも仲間の前でしたように、能力を使って血を空輸するわけにはいかないのだから、キィルはわざと見下すような言葉を吐いた。


「はん、消毒兼ねて便利だろうが。血が飲み込みやすいって先に話してやったんだから、馬鹿でもなきゃ見当くらいついただろ」


「…あー…。言ってたな。もう忘れてたわ」


「馬鹿だもんな、知ってたわ。…んー…。うん、いけるな。…ははっ、いけるいける」


「…マジで何なんですか。吸血鬼…いや、肉でもいいとか言ったな。食人族か何かなの、お前。グルメならRhマイナスだかの血液を所望しろよ、俺は普通のB型だぞ」


「あ、馬鹿、いけるってのは美味いとかそういう意味じゃねぇよ。お前は異邦人だからな、異人で試したことはなかったから」


 何を試されたのか理解できないまま、ソールは指先を圧迫した。

 止血しながら、疑惑の眼差しでキィルを見つめる。キィルは嬉しそうに笑うばかりで、説明をする様子はない。食ってかかられるだろうと楽しみに待つキィルの前で、しかしソールは微笑んだ。


(まぁ、いいけどさ)


 そんな声なき言葉が聞こえてきて、キィルの心にさざ波が立つ。


「また。随分簡単に受け入れるじゃねぇか…。我ながら、怪しいと思うんだがな」


 キィルがそう言ってやっても、相手の心には変化がない。ならばと怪しむでもなく、怪しまなかったことを取り繕うでもない。


「…んー。何をしたいんだかは、さっぱりわかんねぇけど。こんな傷なら怪我とも呼べねぇんだし…どうせ説明されたところで、結局はわかんないだろうしな。お前にとって何かが上手く行ったんなら、それでいいんじゃねぇかなって思ってさ」


 追求もせず、ただ受け入れられるというのは存外心地良いことを知った。そんなはずはないとわかっていても、信頼されるのとよく似ている。

 ソールの隣は居心地が、いい。

 悔しそうにキィルはそう考えた。異人との同調には、同族ほど意識を蝕まれるような感覚がない。もしかしたら、同族ほどには深く同調できないのかもしれない。


 それでも記憶や感情は幾らでも読み取れた。そして、どれだけ相手の心の内を疑心暗鬼に見透かしたところで、裏表が見えないのは事実だった。同調者に嘘はつけない。即ちソールの心に偽りはない。


 共に過ごした仲間達には、あんなにも裏表があったのに。全てを知ってしまった今、前と同じようには仲間を見られないのに。


「どうしてお前は変わらないんだろう」


 ぽつりと呟いたキィルに、琥珀色の目が悪戯っぽく笑った。


「お前がキィルで、俺がソールだから?」


 意味を理解していないソールにとっては、ただの言葉遊びなのだろう。けれども。

 問うまでもないよ。

 そう、言われた気がした。


「そうか。俺がキィルで、お前がソールだからか」

「よくわかんねぇけど、そんな言い方してなかった?」

「してたわ。馬鹿のくせによく覚えてたじゃねぇか」

「実は馬鹿ではないという可能性」

「皆無だな」

「はい、知ってました」


 真顔を作って二人で顔を見合わせ、うんうんと頷きあう。

 どちらからともなく笑い出して。


(そうだな。…信じたかった。仲間のことも。俺と顔をつき合わせて笑った時間が嘘じゃないと、思いたかった)


 キィルの不満は、とても単純なものだった。

 だが、今更だ。キィルは神の化身として育てられたのだし、彼らはいつだってキィルに役割以上のものを求めては来なかった。本音で接し合うような関係では、そもそもなかったのだ。


「…このまま、ずっと遊んでいられたらいいのにな。そうしたら…きっと楽しいだろうになぁ…」


 ぽつりと零したキィルの言葉に、ソールの目が見開いた。


(それは、できない)


 ふと聞こえた心の声。

 意識を向けた先に、ソールの記憶と状況が見えた。


(…できない。今逃げ出せば、俺を殺すために追っ手がかかる。殺されるのは嫌だ。せめて右目が…失敗作でなければ…)


 薄暗い研究施設の檻の中。膝を抱えるソールが見えた。繰り返される手術。押し込まれる様々な機械。正常な右目を抉り出し、眼窩に仕込まれた兵器。右目のデータを取るために、兵士を造る研究所から、レスターリャを狩る私兵団への配属。受けるのはいつだって、理不尽な嘲りと暴力。子供であることは、却って不利だった。嗜虐の徒は、より弱く抵抗できないものを好んで虐げるのだ。


 実験体は、人間扱いなどされない。


 そうならないためにレスターリャ達は自ら死を選ぶ。

 知っている、と苦くキィルは思う。

 けれど、諦めと思考停止を囁く嵐の中で、それを越えて生きようとする強かさが閃く。


(今はできない。それでも。もう少し力が強くなったら。もう少しラボラトリィの奴らが、隙を見せたら。殴られたからって、目玉を抉られたからって、生命を諦める理由にはならない。…いつか、うまく逃げ出してみせる。そうしたら…また、遊べるかな)


 キィルはソールの記憶を残らず漁った。絶望する生活のはずだ。そう信じて掘り当てた記憶のひとつひとつに見たことを後悔し、上げかける悲鳴を飲み込んだ。


 耐えられない、と。

 キィルは思う。仲間達には耐えられない。

 自分にだって、できるかどうか。


 元よりキィルは戦うことと歯向かうことは得意だが、我慢も忍耐も不得意だ。ましてや、もしも身の内の能力を持たずにソールと同じ環境下に置かれた場合、生き延びられる自信はなかった。生きる意思さえ、持続するのは困難だ。


 だというのに。繰り返す日々の中でも、琥珀の目は曇らない。激昂するでもなく、むせび泣くでもなく。日々に楽しみさえ見つけて、ソールは笑うことを選んだ。


 生きることは絶望ではないと。ソールは何ひとつ疑っていない。


「…おまえは、…ばかだ…」

「…キィル?」

「うるせぇ、黙ってろハゲ」

「ハゲてねぇって」

「じゃあハゲろ」


 一掴み乱暴に赤毛を握る。不満げに何か言いかけたソールの頭をそのまま力任せに引き寄せて、抱き締めた。


「…おい、どうしたんだよ急に」

「何でもねぇよ。黙ってりゃいいんだ、お前は馬鹿なんだからな」

「…本当、俺様だなぁ」


 くすくすと小さな笑いを漏らすソールの中。キィルは耳を澄ませて、その声をじっと聞いた。


(一緒にいられないのはわかってる。今脱走すれば、キィルに迷惑がかかるもんな。楽しい思い出として、得られただけでも良しとしなくちゃ。任務が終われば、またすぐに研究所に戻されるんだから…)


 そう、超能力者達を捕まえたら…。


 そこまで考えたところで、弾かれたようにソールの中に生まれた焦り。

 一気に血の気が引いたその顔に、キィルはようやく時が動いたのを知った。


(全く。遅すぎて、笑いが込み上げるよなぁ…)


 そんな風に強がりながら林檎色の髪を指先から逃がした。少しだけ名残惜しい気はしたけれど、だからといってどうにもならない。ソールはもう、気がついてしまったのだから。


「…キィル!」

「おぉ、何だよ。どうかしたのか?」


 わかっていながら、キィルは笑った。


 異人とレスターリャ。

 この世にはそれしかない。


「…ソール? 顔色が悪いぞ」


 何にも知らないふりをして、わざと無邪気にキィルは言う。


「もう帰るといい。ついつい楽しくて話し込んじまったな。俺も戻らないと、抜け出してきたのがバレると大目玉だ」

「あの、あのな、キィルッ」


 心の中は混乱と焦りでグチャグチャで、もはや明確な言葉も出てこないというのに、まだ何か言うつもりなのか。

 そんな風に思った。

 もう何を言う必要もないのに。

 敵同士にしか、なれないというのに。


「なんだ、そんな必死なツラしやがって、格好悪いぞ。馬鹿のうえに格好悪いとか、最悪可哀相だなお前」

「…酷ッ! 俺、今超真剣だったのに!? 耳を疑ったわ!」


 あんまりな言葉に、ソールはつい吹き出してしまった。

 笑って、キィルの目を見て真剣な顔をして。それから、もう一度笑った。


 同調した意識には、もう波はない。ためらわずに、フラットな感情でソールは言う。


「…もしも。近くに住んでいるんだったら。すぐ逃げてほしい。多分近々、この辺りはヤバイことになるから。家族とか。皆で逃げてほしい。説明できないけど。信じろ」


 まっすぐ合った目の中に、嘘はなかった。

 理解できずに、キィルは意識してソールとの同調を強める。


 完全に敵対した今、言葉だけを信じるほど、お人好しではないつもりだ。だって親切なふりをして、逃走経路を指示して、一網打尽にすることだってできる。


 そう意気込んで暴いたソールの中には、打算も悪意も欠片さえなかった。

 泳がせて集落を突き止めようとする悪知恵も、今この場だけを凌ごうとする狡さも、誰かを裏切る後ろめたさも。何もない。

 あるのは友人を心配する純粋な想いだけだ。


(家族や好きな奴を連れて、できるだけ遠くに逃げろ。お前が痛くないように。悲しくないように。逃げてほしい。そうできるのなら、俺は時間稼ぎに手を尽くそう。失敗作の目玉でも、多少は役に立つだろう)


 異人とレスターリャ。

 この世にはそれしかない。

 そう、思っていたのに。


「…俺が何なのか、わかったんだろ。なのにお前…皆で…逃げろ、と?」


「ああ」

「逃がせば、お前が殴られるんだろう」

「…そうかもな」


 わざと逃がしたことがバレれば、ソールは決して無事では済まないだろう。どうするつもりなのか。その答えを探しても、ソールの心はあっけらかんとしている。


(目標が逃げようが逃げまいが、俺が何かを理由に殴られることに変わりはない。殺されるときだって、結局は俺の意思とは無関係だ。そんなら、キィルが逃げてくれたほうが断然得ってもんだろうなぁ)


 笑みさえ含んでそう考える、ソールの声が脳裏に響いて、キィルは戸惑った。

 仲間には逃げる気などない。ソールが己の身を顧みずに心配してくれても。

 レスターリャ自身は死を望み、敵であるはずのソールがレスターリャの生を望むという皮肉。


「…俺はキィルで、お前はソールだ。どうせ昇るのは一つだけだなんだ。そう思ってたのに。でもお前は馬鹿だからな。どうしようもないくらい、馬鹿なんだからな…」


 何を言われているのかわからなくて、ソールは訝しげな顔になる。

 その目に映る色濃い困惑にもお構いなしに、キィルは続ける。


「…悪いな。俺達はここを離れない。お前が手伝ってくれても…仲間は皆ここで死ぬ」


 逃げない、と。

 そう言われたのだと察してソールは口を開きかける。キィルが見たところ「でも」「だけど」「キィル」の三つしか、ソールの中に言葉はない。待とうが聞こうがそれ以外発しないのはわかっていた。聞いても無駄だとキィルは自分の唇に人差し指を当てて見せ、相手を黙らせる。


「俺には役目があってな。それを果たすまではどこにも行けないんだ。それに、俺の仲間達にも動く気がない。ここはレスターリャの最後の地だ。キーロンレスタールを崇める民には、もう他に行き場なんてない」


 言われた言葉の半分も理解していない。

 ソールの頭の中には、『キィルが逃げない』ということに対する焦りしかなかった。

 同調しているから。全て筒抜けの感情だから、嘘などないことがわかる。キィルを逃がしたくて、生かしたくて、泣きそうな感情が取り繕いもせず流れ込んでくる。


「…あぁ、もう。どうすりゃいいんだ。この生き物は。一体何なんだよ、お前は…」


 照れくさくて、甘ったるい。

 心底心配されるという初めての事態に歯軋りしながら、彼は目の前の赤毛を一房引っ掴み、ぐいぐいと強く引っ張る。

 ソールの頭の中から自分の心配を追い出すために、キィルも必死だ。


「でもキィ…痛い、キィル痛いって、ちょ、ちょっとぉぉ、抜ける、ハゲるって!」

「よし、ハゲろ!」

「いやいや、早い! まだ早すぎる!」


 誰もキィルのことを心配などしない。それが当たり前だった。

 一族で一番力のある彼を頼りにこそすれ、その身を守ってやろうなどとは思いもしない。赤子の時分ですらそうだったのだ。


 そのはずだったのに。甘くて甘くて寒気がする。

 心配されて、気にかけられて、喜ぶ自分がいることに気づいて、羞恥に叫び出したくなる。

 誰だと思ってんだ、心配なんか要らないんだ、無様な様は見せられないんだ。そう心の中で呪文のように繰り返し、キィルはいつもの自分を取り戻そうと躍起になった。


「…俺は強い。すごく強い。お前が考えてる、森の外の…強化兵だかって奴らも全部潰してやる。だから、そんなに俺の心配なんかする必要はねぇ。わかったな?」


 ソールが息を飲んだ。口にした覚えのない情報。バレていることはわかっていても、キィルと完全に敵対することを恐れて、口にはできなかった自分の素姓。

 琥珀色の目に恐怖に似た思いが閃いたのを、キィルは笑って宥める。


「そんな顔すんな。俺が他人と同調するには、血の一滴で十分なんだ。それだけで何を考えているか、どんな状況にあるか、わかるようになる。俺は誰よりも能力が強い。見張ろうが縛ろうが、誰にも俺を捕らえることはできない。俺には全てを見届ける義務があり、仲間をひとりとしてお前達には渡さないという使命がある。…例えお前が望もうとも、仲間をくれてやるわけにはいかない」


「…望む、わけねぇっ…」


 ソールの声はそこで途切れた。

 順序立てて話すことができなかったのだ。心の中で言い募るだけのその声が、キィルの内に響く。


(お前は悪くなんかない。何とかしたい。けれど。俺が寝返っても。『目標』に勝ち目はない。この右目は失敗作で。俺は無力な実験体で。だけど。どうしたらいい。でも。無事でいてほしいんだ)


 だけど。でも。キィル。

 繰り返される言葉は、結局その三つだけに戻る。


「…また…。聞いてられねぇよ。やめろ。…もぉ、ホント黙れってば」


 にやけそうになる口許を拳で隠し、キィルは首を横に振った。

 いつまでも心配されていたい気もするけれど、立場も時間もそれを許しはしない。

 相手の心を覗き込む誘惑から何とか自分を引き剥がし、彼は真顔を取り繕う。言葉を探して口をぱくぱくさせていたソールが動きを止めた。


「言ったろ、お前の考えはわかる。もう十分だよ、何も要らない。次に会う時はお前を殺すかもしれないが、恨まず死ね」


 笑って見せてやると、反射のようにソールも笑った。

 わかってるのかな…馬鹿だからな…。そう思って意識を向けてみると、案外ちゃんとわかっているようだった。あっさりと受け入れられた自分の言葉が不思議で。どこか悔しくて。

 少し強い調子で噛みついてみる。


「お前達に、俺は殺せない。この俺が、お前ら全てを殺すんだ。残らず。お前もだぞ」

「うん。多分、抵抗しねぇ。頑張れよ」


 笑顔は揺らがなかった。

 本気で、応援されてしまった。

 ソールの心は明快で、迷いはない。あれほどの目に遭いながら切望してきた自分の生命を、たった2回会っただけのキィルのために、手放すことを惜しくないと言い切った。


「…もぉ。ダメだコイツ。ホント、ヤダ…」


 ごろりとキィルはその場に転がった。背中を向けても。同調した相手の様子はわかる。横目でこちらを見て笑う、その気配。ぶちぶちと手元の草をむしりながら、キィルは口許を歪めた。


「もう戻れ。俺はお前を殺すかもしれねぇが…友人だと思ってるよ」


 捨て鉢になってそう言うと、ふと、ふわりと髪を撫でられた。

 何をされたのかわからなくて、息が止まる。何をされたのか理解して、身体が硬直する。誰かにそんなことをされたのは初めてだった。


 ソールは見たこともないキィルの強さとやらを信じてはいなかった。ただ、友人の主張に一縷の望みを賭けたにすぎない。


「戻る。…死ぬなよ、キィル」


 立ち上がる気配。

 顔を向けられないまま、ソールが立ち去る足音を聞いた。さくさくと、草を踏む音が遠くなって。振り返りもしない。まっすぐに、異人の陣営に戻っていく。


「殺すって、言ってるのに…」


 呟く声が震えた。嬉しいのか、悲しいのか、もうキィルにはわからなかった。


(死ぬなよ。きっとだよ)


 祈りにも似た、小さな声が聞こえている。

 自分の心が筒抜けなことを理解しているはずなのに。相変わらず取り繕うことをしない。聞かせるのでもなく、隠すのでもなく、ただ本当の気持ちだけが響いていた。


「するなって言ったのに、まだ…今もまだ、俺の心配してる…。馬鹿なソール…馬鹿な、俺の、ソールカリューゼン…」


 ずっと一緒に、遊んでいようよ。そんな風に言ってみようか。もしも死なずに済んだなら。もしも二人で、生き延びられたなら。


「…昼でも夜でも…なければいいのに。月も太陽も沈まないなら…」


 泣き出しそうな声を絞り出して。


「見逃せよ、キーロンレスタール。一緒にいてもいいじゃないか。異人とレスターリャじゃない、ただのキィルとソールなら…。…見逃せよ…。そうしたら。そうしたら、お前を信じてやってもいい…」


 誰の気配もなくなった草地に転がったまま、キィルは胸を押さえて身を縮めた。

 神の化身として育てられたキィルが神に祈るのは、初めてのことだった。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


 この集落の近くに、こんなにもたくさんの人間の気配が集まったことはない。

 森の動物達も息を潜め、とばっちりを食わないようにと身を隠している。

 既に数人の仲間が敵を感知しており、しきりとキィルに警告を放って寄越してきていた。


「…これで終わりかと思うと、この鬱陶しい森にさえ愛着が湧く気がするな」


 軽口に答えるものはいない。

 キィルは祭壇の前に佇んでいた。真正面から石像を見つめるその目には、既に怒りはない。男達は戦いのために出払っており、彼は自身の役割のためだけに残された。


「集落を守るため。仲間を守るため。戦いとは、そういうものだと思っていた」


 けれど、キィルは留め置かれた。

 彼が戦うことを許されるのは。

 仲間を全て、その手で殺してからだ。


「…でもそうじゃなかった。あいつらにとっての戦いとは、矜持でしかなかったんだ」


 レスターリャが無抵抗の内に滅びたのではないと、たったそれだけを示すため。歴史の一ページにも残らず消え去るであろう一族の、薄っぺらな体面のため。

 今も絶えず続いている、徐々に強くなっている、仲間達の死に対する陰鬱な喜びの声。引きずられそうになりながら、唇を噛んだ。


「…ふふ。同調の能力ってのは、一方的なもんだ。俺には皆の心がわかるのに、誰にも俺の心はわからない。心底嬉しいぜ。神の化身の不信心が筒抜けになったら死活問題だからな」


 敵の陣営にいるソールへと意識を向ける。琥珀色の目を思い描き、瞼を下ろした。

 それだけで、ソールの見たものが映る。


 能面のように生気と表情を失った実験体の男達。下卑た笑いを浮かべる傭兵。その先にあるのは。レスターリャの集落だ。にやにやとした指揮官が肩を竦める。


「ほら見ろよ、用意してるのは石つぶてに棍棒の武器。死に損ないの爺まで駆り出して、いっそ哀れになるねぇ」


 低く、嘲りの笑いが広がった。異人達には、勝利を疑う様子はない。

 ソールの表情は全くの平坦だったが、キィルがちょいと見透かしたところによれば、心には焦りと心配が極限まで満ちている。感情とは、満ちすぎても却って動揺して見えないようだ。


「超能力者といっても所詮は土人だ。文明の利器に敵うはずはねぇ。そうだな…全員出る必要もないだろう。三班までで制圧しろ。その後でゆっくりと、金と女どもを探そうぜ。さぁ、行け。兎狩りの始まりだ」


 顎で集落を示した男に、応えて一部の兵が動き出した。ソールの目線が動かないところを見ると、彼は指定の班外らしい。

 嘲笑と余裕の指揮官は、しかしすぐに予想を覆されることとなる。

 銃を構えた数人が、レスターリャと交戦したその瞬間。


「ぎゃああぁぁ!」


 飛び散った血飛沫は、レスターリャのものではなかった。

 異人の集団は、上がった悲鳴に目を疑った。身を乗り出し、食い入るように茂みの向こうを見つめる。ソールも息を飲んで、目を見開いていた。


 銃弾のような威力の石つぶて。続く鎌鼬に人体発火。地べたを這いずり転げ回るのは、兎ではなく狩人達だ。

 それを見て怯みかけた兵士達に気づき、指揮官は立ち上がった。


「できるだけ生きたまま捕らえろ! 相手は少数、我らの敵ではない!」


 弾かれたように兵士達が走り出した。ソールも人波に押し流され、狭い集落の入り口へと辿りつく。不安そうに、辺りを見回した。


 瞬く間に戦域には人が溢れ、乱戦となった。

 数の優位は圧倒的で、二人三人掛かりで縛り上げられ、昏倒したレスターリャが出始める。しかし相手の兵士も半死半生の有様だ。この集落では無手の老人さえ決して無力ではなかったのだ。


 異人の手は集落の奥にまで伸び始めた。掘っ立て小屋のような家に火が放たれ、中から女が逃げ出してくる。


「隊長、外の奴らに知れたようです、捕獲部隊がやってきました! 囲まれます!」

「ちぃっ、手柄を取られてたまるか!」


 重苦しい車輪の音が下草を押し潰し、新たな勢力が出現。勢いに流されるように、傭兵も私兵も集落へと押し寄せた。


「…これは無理だな。俺でなければ。もう…」


 ぽつりと呟き、キィルは目を開ける。

 再び祭壇へと視線を向けた彼は、唇を引き結んだ。じっと、石像を見つめる。

 けれども一族が求めたキーロンレスタールは、ここにはいない。奇跡は起きない。ここにあるのは神ではなく、彼らが削り出した石像でしかなかった。


 集落では、次々とレスターリャの悲鳴が上がる。一人に対し数名掛かりで攻撃を受ければ、仲間の能力ではとても捌ききれない。


 たちまちキィルの頭の中にも悲鳴が溢れ返った。

 息をするのも忘れて、キィルは奥歯を噛み締める。


(もう、駄目だ)

(戦えぬもの達も捕まってしまう)

(痛い、痛いよ、痛い)

(捕まるくらいなら、殺してくれ!)

(火を…もう、どうか神の元へ…)


 口の端を持ち上げようと足掻いて、歪んだ表情に気づいて、それでもキィルは歯を剥く。紫色の目を爛々と輝かせて、彼はようやく不敵な笑い顔を作った。


「いいだろう。この後に及んでも誰一人命乞いをしない。立派なもんだ。もはや迷う必要はない。潔く送ってやろうじゃねぇか」


 殺すことなど何でもない。

 望まれた結末は覆す必要がない。


 祭壇の前からかき消えたキィルの姿は、混戦となった舞台の真上に現れた。

 女の悲鳴。叫ぶ声に混じったのは太陽神の名。そして。


「キィル! もう駄目、私を殺してぇ!」


 覚えのある名前と、耳を疑う願いに。目を上げたソールは呆然とした。


 叫んだ女の身体が炎に包まれていた。


 続いて、地べたに伏していたレスターリャの身体が燃え上がる。彼らを捕らえようと、ロープを取り出しかけていた異人達が慌てて退いた。けれども間に合わず、火柱は異人をも飲み込んで宙を舐める。大きな炎の照り返しに、空が赤く染まった。


「な、何だこれはあぁぁ!」


「危ない、離れろ!」


 事態に気づいたレスターリャからは歓声が、異人達からは悲鳴が上がった。


(私も! 私も燃やして!)

(早く早く、わしはここだ!)

(キィル! キーロンレスタール!)


 捕まったものからも捕まっていないものからも上がる性急な要求。キィルはゆっくりと辺りを見回し、ひとつ、まばたきをした。


 全員の位置は把握している。身に受けた期待のまなざし。


「行けばいいさ…老体どもには、ちょっと苦痛な世界だからな」


 こんなものは、いつだって、受けてきた。

 キィルにとっては、見慣れた目だ。


「た、隊長! これは!」


 一斉に、村の各所で上がった火柱。

 レスターリャの身体を焼き尽くしたそれは、文字通り髪の一筋、骨のひとかけらさえも残さぬほどの高温だ。


「何なんだ一体! あぁ、あっちもだと! 消せ、消し止めろ! 貴重な実験体が!」

「駄目です、火が強すぎてとても…!」


 下手に近付けば巻き込まれる。あのような火柱を、一体どうしろというのか。敵兵が戸惑う間に、集落からはみるみる人影が消えていく。

 捕らえたはずのレスターリャも燃え尽きて、部隊の誰もが呆然とする中で。


「…誰の身体も渡さねぇよ。それが、こいつらの意志だ。これでレスターリャは正真正銘、この俺が最後のひとり」


 未だ燃え盛る建物の煙を気だるげに払い、ふわりと浮いたのは少年の影。


「わかってる。どちらにせよ滅ぶ種族だった。俺が最後の子供だ。レスターリャ…その名を持ちながら滅ぶのなら…キーロンレスタールなんて居やしないんだ。皮肉な話だよな。その名と力を持つ俺が一番、神を信じない」


 皆の視線と照準を一手に引き受けて、好戦的な紫の瞳が輝いた。


「俺達の神は俺達を救わない。お前達の神は、お前達を救うのか?」


 ゆっくりと地面に爪先を下ろしたキィルが、周囲を囲む異人達に問うた。


「祈れ」


 お前の神に祈るがいい、異人ども。


「それでお前達が生き延びるのなら、俺は死を受け入れよう。そうでないのなら…言うまでもねぇな?」


 たった一人の少年相手に後退りかける兵士達を、指揮官が怒鳴りつける。


「殺して構わん、撃てぇ!」


 弾かれたように一斉にこちらを向いた銃口にも、彼は小さく笑っただけだ。


「相手は神の化身だぜ。そんなもので勝つつもりか」


 キィルが腕を一振りした。

 たったそれだけで。歩兵隊がほぼ全滅した。切り落とされた腕、腕、腕。銃やナイフを握ったまま、ぼたぼたとそれが地べたに落ちる。次の瞬間、悲鳴の渦が巻き起こった。噴き出す血と炎の照り返しで、世界は瞬く間に赤く染まる。


「…なんだ…これ…」


 理解できずにソールは固まる。

 上がる悲鳴を気にも留めず、キィルは一歩、また一歩と歩みを進める。

 ソールの背後から、捕獲部隊が飛び出した。軍勢が駆け抜けていくのを他人事のように見送る。銃声、怒号、そしてやはり、悲鳴。


 たったひとりの少年相手に、過剰な兵士の流入。狭い森の中で、無理矢理な砲撃も始まって。


「…あ…、駄目だ、逃げろキィル! そいつらは強化兵だ!」


 身体能力を人工的に上げられた兵士だ。生身の身体では、とても勝てる相手ではない。


 ソールは駆け出そうとしたが、近くにいた兵士が悲鳴を上げて腕を掴んだ。焦りながら見上げたが、丁度いい高さにいたから掴まれただけのようで、兵士は彼のことなど見てはいなかった。


 凍りついた表情。恐怖に見開かれていく目。その視線を追って、ソールも再びキィルの姿を探す。

 地べたにはぐちゃぐちゃと血みどろの死体が転がっていたが、一定の位置から先は踏み荒らされもせず、血飛沫すら飛んでいない。


 キィルはそこにいた。

 先程と、何ら変わらぬ姿で。


「…化け物だ…。あいつ…素手で砲弾を弾き返しやがった…」


 降ってきた言葉。

 ふっとキィルの姿が消えた。テレポートしたのだと気づいたソールとは対照的に、相手を見失った指揮官は状況を掴めず右往左往する。

 何でもなかったかのような顔でキィルが現れたのは、強化兵達の中心。わっと人波が彼を中心に退こうとする。

 キィルは笑った。


「うぜぇ。死ぬ覚悟もねぇか?」


 殺戮は再び、ほんの一瞬で行われる。ばしゅっと音がしてちぎれた首や手足が無数に宙を舞った。悲鳴と血飛沫に囲まれて、キィルだけが汚れもせずその場に立っている。


「怯むな、撃てえぇ!」


 誰かの声で、一斉に銃撃が始まった。びしびしと妙な音が続き、キィルの周囲に真っ黒い壁が出来上がる。混乱した兵士達が、それが何かを理解したのは、銃声がやんだあとだ。


 真っ黒な壁がザラァッと音を立てて地面に滑り落ち、無傷のキィルが姿を現す。足元には撃ち込まれた数だけ銃弾が落ちていた。見えない壁に阻まれた銃弾は潰れ、ひとつたりとも彼を傷つけられない。


 阿鼻叫喚の兵士達とは裏腹に、ほっとしたソールが口を開きかけた瞬間。


「どけ! おい、出番だ赤毛! お前の右目を見せてみろ!」


 近づいてきた指揮官が、思い出したように彼の腕を捻り上げた。


 その言葉に息を飲んで。自分が兵器であることを思い出した。


(…キィル! 逃げろ!)


 不意に飛び込んだ声なき声に、キィルは目を細めた。

 仲間達を全て焼き尽くした今、彼が同調している人間はこの世にたった一人だ。そしてキィルを、心配してくれる人間も。


 顔に叩き付けられた拳。地べたに引き倒されて、背中に靴底が食い込む。右目を隠す眼帯が毟り取られる。

 我が事のように、キィルはその痛みに眉を寄せた。


「…や、めろ!」

「は、実験体のくせに、一丁前に人間気取りか! お前らには拒否する権利も自由意思も、本来何も要らねぇんだよ!」


 剥ぎ取られた眼帯が地に落ちた。急速に右の視界が広くなる。同時に右目の奥に感じた熱。


(まずい。暴発する!)


 髪を引きずられ、首が持ち上げられる。

 琥珀の目にキィルが映った。


 慌ててソールが顔を背けると、キュンと高い音を立てて衝撃が漏れ出た。背けた先で目に入った木々と部隊が吹っ飛んでいく。引き裂かれた樹木が凄まじい音を立てて周囲を押し潰し、無意味な開拓が行われた。

 遮られていた空は広がり、場違いに爽やかな陽光が注ぐ。


「ちっ。しっかり照準を合わせやがれ!」


 がっちりと上から押えつけられて、頬や顎が地面に擦られた。

 逃げようともがいても、どれだけ暴れようとしても、目に映るキィルから顔が逸らせない。

 キィルは右目の威力に納得したように頷いて、けれど逃げる素振りは見せてくれない。


(…いやだ…。俺が吹き飛ばすなんて、そんなのないだろ…。嫌だ。避けろ、キィル、逃げろ、殺したくない、殺したくない!)


 再び右目は熱を持ち始めた。

 絶望的な気分で震えるソールの前で、キィルは小馬鹿にしたような顔を作った。


「…キィルッ…!」


 衝撃が放たれる、高い音。


(…あぁ。もう駄目だ…)


 スローモーションのように、空気の歪みがキィルを襲うのを見つめて。ソールは喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。


 けれど、キュン、と再び小さな音。

 派手な土煙を上げたのは、果敢に隙を突こうと陣取っていた銃兵隊だった。


「…え…?」


 調子を確かめるように右手を軽く振って、キィルは相変わらずその場に立っている。


「ふん。目ん玉ビームもキィル様の敵じゃねぇな」


 ソールが理解できずにいるうちに、指揮官が彼の上から滑り落ちた。

 がくがくと笑う膝で、這いずるように後退しようとしている。

 状況が理解できなくて、ソールは呆然とそんな指揮官を見る。


「…く…来るな、化け物っ!」


「言い忘れてたけどさ。それ、俺のなんだわ。この俺の目の前で、手荒く扱うとか…びっくりしすぎて様子ガン見ちゃったじゃねぇか。言ってくれれば真っ先に殺してやったのに、オッサンってば全然前に出てきてくんなかったし、遠慮深いんだな。…神の化身的にも、神速で殺す以外ないぞ、安心しろ」


「来るなあぁっ」


 悲鳴を残し、指揮官は背を向けて走り出す。小首を傾げたキィルが、さっと手を振った。たったそれだけの、あっけない死に様。殴られて踏み潰されたソールが、抗いきれなかったもの。それを、キィルはこんなにあっさりと消してしまった。


 遥か後方に転がり落ちた男の首をぼんやりと目で追って、ソールは苦く心の中で呟く。


(…弱いなぁ…)


 キィルが眉を寄せたのにも気づかず、琥珀の目にはただ辛苦が満ちた。


(俺は、なんでこんなに弱いんだろうなぁ…)

「…弱くなんかねぇ。今だけだよ」


 キィルの声は小さすぎて、聞こえていないようだった。キィルもまた、あえて説明してやる気にはなれない。


 研究所の檻に閉じ込められていた子供など、平均よりもずっと体力がなくて当然だ。食事も満足に与えられず、ただ薬や施術で頑丈なだけ。けれどそれは、通常の生活ができれば自然と改善されていくのだろう。


 沈黙を破るように、右目が第三波を放とうと熱を帯び始めた。


 我に返ったソールは慌てて眼帯を拾い上げて装着する。眼帯からの停止信号を受け、右目の暴走はゆっくりと収まっていった。ほっとして、彼は膝を払いながら立ち上がる。

 たったそれだけの動作の間にも戦いは続き、そして終わっていた。ほとんどの兵士はひしゃげたりちぎれたりと無残な姿だ。


 俯いた赤毛が眼帯の紐を結び終わるのを待っている間、キィルは笑顔を作ったり馬鹿にした顔をしたり、適切な表情を探す百面相に忙しい。


 結局は無難な、何でもない顔をして。本当は少しだけ浮かれて、キィルは赤毛の少年を見つめる。


「よう。昨日ぶり」


 対したソールは、どうやって砲弾やビームを防いだのか、どうして無事なのか、そんな疑問で心の中はいっぱいだ。

 それでも問うための言葉などひとつも思いつかなくて、ただ紫色の目を見返している。


(…無事だ…。無事だった。怪我も、してないみたいだな。良かった…)


 ようやくソールの胸にじんわりと胸に広がった安堵。

 くすぐったくて笑いそうになるのを、キィルは何とか噛み殺した。


「お前は。結局、俺の心配ばかりしやがったな。そんなもん、生まれてこのかた誰もしたことがなかったんだぞ。見ただろ、俺は誰よりも力のあるレスターリャだからな」


 不遜な顔を繕って、キィルは言った。

 そう、無事なのは、至極当たり前のことなのだ。


「…うん…。見た。すげぇと思う。…でも、まぁ、俺はまた心配すると思うよ。お前がどんなに強くてもな」


 そう言ってソールが笑うと、キィルも取り繕うのが馬鹿らしくなってしまった。


 もう彼には、神の化身らしくあれと求める人間は誰もいないのだ。今更性格は変えられないけれど、求められない役割を演じ続けるのも滑稽な話だった。


 ふん、と鼻を鳴らしてキィルは微笑む。


「…そうだな、お前はソールなんだから。俺の心配をして、当たり前かもな」

「へぇ? 何だよ、急に」


 偉そうなキィルに笑いながらも、どうやらその言葉はソールの中にすとんと落ちる。

 簡単に受け入れたことを悟って、キィルは目を細めた。


 さて、今度はどうやってこの生き物と行き先を共にすればいいのだろう。

 キィルが唇を舐めて言い出す言葉を探るうち、ソールは周囲をきょろきょろと見遣る。


 改めて見渡せば、ラボラトリィの兵は全滅。レスターリャの集落は建物も全て焼け落ちている。ひとつたりとも見られないレスターリャの死体とは裏腹にラボラトリィ側の損害は目に見えて甚大で、引っ繰り返った砲や銃器ががらくたのように積み上げられ、幾多の死体が壊れた人形のように散らばっていた。


 あちこちでくすぶる煙には背を向けて。仲間を殺した痛みさえ表には出さないキィル。

 慰めの言葉も思いつかないけれど、そんなものは正解ではないのだろうとソールは思った。


「キィルのひとり勝ちだったな」


 とりあえずソールが思ったままに呟くと、一言「おう」と返された。

 当たり前ですと言わんばかりのその態度を、そうでした当たり前ですねと受け止めて、ソールは右手を差し出した。


「さて、どこ行こうかね。ご希望とかある?」


 不意の誘い。

 同行するために何を言ったらいいのかと言葉に迷っていたキィルも、あぁ、と納得してその手を掴む。

 一緒に遊んでいられたらいい、と。キィルは既に一度口にした。

 疑うこともなく、ソールはそれを実行しようというのだ。

 確かにあの時ソールは「今逃げ出せば追っ手がかかるから、できない」と考えた。障害がなくなったのなら、迷う必要もないということか。苦笑して、キィルは逆にその手を引く。


「さぁ。俺は帰る場所がなくなっちまったし、その辺はお前に任せるよ」


 この惨状ならば、ラボラトリィの実験体は全て戦場で死んだと取られるだろう。

 ソールにかかる追っ手は、きっといない。


「…どこかの傭兵になるのが手っ取り早いかな。飯を食うには働かなくちゃいけないし、怪しいガキでも受け入れてくれるのは傭兵くらいだろ。戦場はいつだって人手不足だからな」


「…なぁ、お前らの武器なんて扱えないぞ」


「扱えるようになるんだよ。その力を振りかざして歩いてたら、すぐにまたどこかの研究所に目をつけられちまうじゃないか」


 面倒くさいと言わんばかりに肩を竦めたキィルだが、能力を隠すのが外で平穏を手に入れる条件だということは理解できた。

 理解はできたのだが。


「…無理っぽいよね。既に宙に浮いていらっしゃる…」

「おい。お前だけ働いて家で待ってろとかいうその発想、本気なら殴らせてもらうぜ。この俺を閉じ込めるのは誰にだって無理だ」

「…いや、閉じ込めようと思ったんじゃなくて、待っててもらおうかと」

「同じことだ。お前の見る風景は、俺も見る。…まぁ、飽きるまではな」

「酷ッ! 最後まで一緒に見ようよ!」


 ケラケラと笑ったソールに、キィルも目を細める。


 そしてその目は、驚きに見開かれた。


「…おい、キィル? どうした?」


 訝しげに問いかけられても、キィルはすぐに言葉を返すことができなかった。


 右目ビームが木々を薙ぎ倒したせいで、ぽっかりと開いた空。

 森の中でしか暮らしたことはないから、集落さえもさして広い場所に作られたわけではないから、キィルは広がる空を見たことはなかった。


「…あれ…」


 震える指で、示したものは、丸くて白い。

 何がそんなに衝撃だったのかわからなくて、ソールは首を傾げながら頷く。


「うん。月だと思うけど、それが何?」


「つき、かな」


「そうだよ?」


「だって。だって今は昼間だぞ。なんで月が昼にある?」


 ソールはますます首を傾げた。

 混乱したままのキィルに、何かを言わなくてはいけないのだということだけはわかっていた。


「あのな。月って、結構昼間も出てるぞ?」

「なんでだよ。夜昇るんだから昼間は寝るべきだろ」

「なんでって…。知らねぇよ、そこに居たいからじゃねぇの。太陽もいるし、寝るより一緒にいたほうが楽しいんだろうよ」


 残念ながらラボラトリィ育ちのソールに教養はない。天体の説明をすることなど不可能であった。

 しかしながら、ソールが心底そう考えていることだけは伝わってしまったので、キィルはそれで納得せざるを得なかった。


 木々が邪魔をしていて、昼の空にも月がいたことを知らなかったなんて。

 込み上げて来る笑いに、キィルは声を詰まらせた。


「…んー。雨降ってきたかなぁ。とりあえず歩こうぜ」


「…うん…そういえば、なんか冷たいな。晴れてんのに」


「晴れても雨は降るし、昼でも月は出るんだろ」


「…そっか…」


 手を引かれて、空の月を見上げたまま、キィルは歩き出した。




ソール「結局ソールカリューゼンが何なのか知らないけど、問題ない」


この後、彼らは元気に傭兵さんとして成長しました。

そしてキィルは、めきめき成長したソールの身長にムキーッてなる。

浮いたり念動で物取ったりするから伸びなかったんだよ。

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