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闇中輝眼  作者: 銀河狼
7/13

Scene 7

 キッチンには、食欲をそそるいい香りが充満していた。

 日本では珍しい大型のオーブンまで付いた、海外製のシステムキッチンが完備されているが、コンロは、このビルが建てられた年代を考えれば、そこだけ入れ替えたのか、システムキッチンそのものを入れ替えたのはわからないが、最新式のIHクッキングヒーターになっていた。

 突き当たりに押し込まれた冷蔵庫も、システムキッチンと同じペパーミントグリーンで、日本の一般家庭でこれはないだろうと思うほど巨大な両開きだ。

 良く使用するらしい小型のフライパンやら、フライ返し、お玉といった細々とした用具が、使いやすいようにとダイニングを一部仕切っている壁に、シルバーの細身のフックを取り付けて引っ掛けてあるのが、小奇麗過ぎるこの空間が確かに使われていることを物語っている。

 料理好きの人間であれば垂涎の的であろう、充実しまくったキッチンの中で、最近流行の映画の主題歌を口ずさみながら、まさしくご機嫌そのもので動き回っているのは、どう見ても高校生くらいの男の子だ。

 ここには、大型の換気扇はあっても窓がないし、ダイニングにもこの時間、直接日光が差し込むことはないのだが、大きく窓がとられている分、明るさは十分にこちらにも及んできていた。

 それでも一応、煌々と付けられた照明の下で、ホーロー鍋の中をお玉でかき混ぜ、会心の笑みを浮かべている彼は、黒に近いダークブラウンの、見るからに柔らかそうな猫毛を、後ろは襟足にかからない程度の長さに整えている。

 同色の瞳は、男にしてはやや大きめでくりっとしていて、それが全体的に幼い作りの顔をますます童顔に見せていた。

 少年に使うにはかなり心証を害しそうな表現だが、可愛らしい容貌の彼は、身長も百六十半ばくらいで、このシステムキッチンも、微妙に高さがあっていない感じがする。

 しかも、こんな風にニコニコ、無邪気に笑っていると、可愛さも倍増して、正直中学生にも見えた。

 後ろの、シンクの横の調理台の上に置かれた、煙の出ない遠赤外線が売り物のグリルの中では、脂ののった鮭の切り身がいい感じで焼けているはずだし、これで朝食の仕度はばっちりだ。

 そう思っていたところへ、計っていたタイミングもばっちりで、相変わらず足音も荒く、キッチン横の扉のない出入り口から、髪も湿ったままの獅王子が、バスローブだけという格好で、ご機嫌斜めに現れた。

 まあ、その前から洗面所のドアでものすごい音をたてていたから、機嫌が良くないのはわかっていたけれど。

 その原因についても察しのついている少年は、妙に大人びた溜息を漏らした。

 別にこうして彼女が、怒っているとも不機嫌ともつかぬ顔で、朝食の席にやってくるのは、悲しいかな、そう珍しいことではない。

 ただ、ここしばらくそういうこともなかったので、さすがにあきらめてくれたかな、とかないもしない願望を夢見ていただけなのだ。

 カウンターに回りこむと、華奢なデザインの椅子を悲鳴のような音で軋ませながら、三脚並んでいるうちの真ん中にどっかりと、荒々しく腰を下ろした彼女の前に、コーヒーメーカーから、あらかじめ傍らに用意しておいた細工も美しいデミタスカップに、濃い目のコーヒーをそそいで差し出しながら、少年は獅王子をたしなめた。

「いくら満月じゃないっていっても、そんな乱暴に扱ったらまた壊れるよ。いくつ目になると思ってるのさ」

 もう数えるのも馬鹿らしいといわんばかりの彼の態度に、獅王子は顔をしかめ、お気に入りのピンクのバラ模様の、可愛らしいカップを受け取り、薫り高いそれに口をつける。

 贅沢を言うなら、手引きのミルで一回ごとに豆をひき、サイフォン式でいれて欲しいものだが、自分でやる気はない、というより出来ないので、目の前の少年に要求したところ、さすがにマジ切れされたため、コーヒーメーカーで妥協した。

 白のカウンターには、ツールのような、機能性よりはデザインを重視しましたといわんばかりの、細身のペパーミントグリーンの椅子が添えられ、その背後には、廊下、キッチンと一繋がりのフローリングのダイニングがあり、こちらにはきちんとした、スタイリッシュなデザインの、やはりペパーミントグリーンの椅子が六脚付いた、天板がガラスで白のパイプフレームの、かなり大き目のダイニングテーブルが置かれている。

 淡いベージュの壁に、天井には白いパネルが貼られ、その中央に、円形の平べったいドーム型の、けっこう大きな照明が張り付いていた。

 大きな窓には、遮光タイプの二重になった、外側は白に近いグレーのロールカーテンが、二つ横並びに付けられて、窓全体をカバーしている。

 なにせ、あれだけ大きなシステムキッチンなので、食器の類は全てそちらに納まっているらしく、食器棚などの大きな家具は一切見えず、電話はインターフォンなどのシステムと一緒になった壁掛式だし、家庭用としては一番小型の、十四か十五インチと思われる、濃いグレーの液晶TVは、リモコンと一緒になってあろうことかテーブルの上にのっている。

 置き場所がないわけはないので、結局そこが見やすい位置なのだろう。

 床面積的には、どうやらキッチンよりは、気持ち広いくらいらしいが、置かれた物の少なさを考えると、これくらいでちょうど良いのかもしれない。

 窓の脇には、比較的よく目にするタイプの、一メートル強ほどの観葉植物が据えられているが、これは近くでよく見れば、本物そっくりに作られた、偽物であることがわかった。

 ダイニングから廊下に出るためのドアは、白のフレームの内側は、対角線上に、透明から白色へと、グラデーションのようなガラスになっていた。

 実はこれらのほぼ全てが、一度どころか、二度、いや三度ならず破壊され、交換の憂き目を見ているのだ。

 別に壊れた家具やら建具を買い換える費用は、少年が出すわけではないので、それはそれでかまわないし、たまになら、気分転換には模様替えも必要だろうと、我慢も出来る。

 しかし、こうもしょっちゅうとなると、庶民感覚の彼は、さすがに文句も言いたくなるのだ。

 それも新しい物を購入するに際して一番うるさいのは、壊した本人なのだから、交換するために壊しているのではないかと疑いたくなってしまうのも当然だろう。

 彼女は、この居住空間のデザインもインテリアも気に食わないらしいのだが、こればかりは同居する者として、どうしても譲れない一線である。

 獅王子に任せたら最後、下のフロアのような、ゴテゴテした空間にされるのかと想像しただけで、もう勘弁してほしい気分だ。

 カウンターはともかく、この一見ツールのような椅子も、後ろに控えるダイニングテーブルも、そうした理由で数ヶ月前に、もめにもめながら新たに購入したばかりの代物である。

「わかってはいるんだけど……」

 さすがにばつの悪い表情になりながら、獅王子はカウンターの上に綺麗に並べてあった、数紙の新聞の内から英字新聞を手に取った。

 普通の人間が朝と思っている時間に、起きる習慣を持たない彼女が、それでも世間一般からすればかなり遅い七時に、一階ホールにある専用のボックスに配達される、これらの新聞をあらかじめ取ってこれるわけもないから、ここにこうして揃えておくのも、少年の日課である。

 この家の日常生活は、彼がいなければ、まっとうに機能しないといっても過言ではないのだ。

 日本での生活は相当長い彼女だが、それでも、ブラックのコーヒーを飲みながら、朝一番に読むのは必ず英字新聞である。

「で、また狼に振られたわけ?」

 素足に薄いグレーのストライプのスリッパを突っ掛け、ストーンウォッシュのジーンズに、カシミアの黒のタートルネックのセーターの上に身に着けている彼は、アメリカ資本の超有名テーマパークのマスコットキャラ入り男女兼用タイプのエプロンを翻して、くるりと後ろを向いた。

 以前は、それしかなかったからと、明らかに女性用とわかるものや、よりにもよって割烹着でキッチンに立っていたから、いかに、住人以外の目に触れる可能性が限りなく低いとはいえ、止めて欲しいと懇願した獅王子に、さすがに本人も思うところがあったのか、たまたま遊びに出かけたそのテーマパークで見つけたエプロンを、あるったけの柄違い色違いで、十枚ほど購入してきた中の一枚がこれだ。

 獅王子にすれば、それもちょっとと言いたいのは山々だったが、これにも駄目出しをしたら、その次にはどんな奇天烈な物を買ってくるのか想像もつかなかったので、そこは忍の一文字で沈黙を守ることにしたのだ。

 グリルから程よく焼けた鮭を取り出して皿にのせると、そこになんとも不似合いな、ジャガイモを細切りにしてもやしと炒めた物と、茹でたブロッコリーを付け合せに盛り、横座りに脚を組み、肘をカウンターについてコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる獅王子の前に置いた。

 ちょうどしゃべりだした時に後ろを向いてしまったので、声は聞こえても新聞を読んでもいるし、内容を理解できなかったのか、それとも故意に、無視しているのか、彼女からの答えはない。

 脚を組んでいるため、バスローブの合わせが割れて、艶めかしくも美しい脚線美が、際どく露わになっているのだが、見慣れている彼にとっては、どきどきとするというよりも行儀の悪さの方がよほど気にかかっていた。

 狼といい、彼女といい、どうしてこの家の住人は、こうも日常における礼儀作法を蔑ろにするのだろうか。

 狼はともかく、獅王子においては、外での猫かぶりは完璧なのを、嫌というほど見せ付けられているから、よけいにそう感じる。

 出し巻き卵に大根おろしをそえ、鷹の爪の輪切りと一緒に漬け込んだ白菜の浅漬けに、納豆、のり、昨夜、下味をつけておいた根菜の煮物、最後にほかほかの白米をよそった茶碗と、豆腐とわかめ、油揚げの入ったお味噌汁のお椀を置けば完璧である。

 老舗旅館も真っ青になりそうな、見事な純和風の朝食に、その間にざっと紙面をチェックした獅王子は、視線を移して黙り込んだ。

 英字新聞でも、所詮は日本版なので、もっぱら紙面を賑わせていたのは、狼と一緒にワイドショーで見ていた例の事件である。

「……聞きたかったんだけど、何でずっと和食なわけ?」

 自分の生活様式が、ほぼ洋式スタイルだと知っているくせに、寒くなってから毎朝のように出されるようになった和食に、さりげなく文句をつければ、表面上はにこやかに笑みを保ちながらも、彼の額にくっきりと青筋が浮き上がった。

「お言葉を返すようですが、旬じゃない、ハウス野菜なんぞ、おいしくないから食べたくないと、わがままおしゃったのは、どこのどなたでございましょうか?」

 日本の冬の野菜となれば、根菜以外の葉物はわりと灰汁の強いものが多くて、生のまま野菜サラダにするにはむかないし、やはり身体も冷える。

 獅王子が冷え性だという話は聞いたことがなかったが、女性ではあるし、一応それも考慮して、温野菜のサラダにしてみれば、どうも嗜好にあわなかったようで、すぐに見向きもしなくなってしまい、それで仕方なく、夕食はともかく朝食は、冬の期間だけは和食に切り替えてみたのだが、それすらも気に入らないらしい。

 彼がこの家にやってくる前、獅王子と狼の二人は、家事などろくに出来もしないくせに、その傍若無人ぶりで、雇った家政婦の誰もが、三日と持たずに泣いて辞めていったと、誰彼となく伝説のように聞かされていたが、これでは当たり前だろう。

 第一、この家の住人三人の中でも、特に洋食を好むのは獅王子だけで、会った当初は、単に自分で作るのが面倒だったのか、それが習慣だったのかは不明だが、パンとコーヒーだけのコンチネンタルブレックファーストだったのを、自宅でそんなわびしい朝食を取るなんて冗談じゃないと、目くじらをたてた少年によって即座に、卵料理にソーセージなどの付け合せ、サラダ、野菜もしくは果物のジュース、スープまで付いた、アメリカンブレックファーストの豪華版に変更された。

 狼は特に何も言わないが、態度からすると、パンよりはご飯が好みのようで、二人は朝に限っては、ほぼ和食一辺倒なのだ。

 ああ、そういえば、そんなことを言ったことがあるような……と、笑顔の下に隠されている彼の剣幕に、あえかな記憶を呼び起こし、ついごまかし気味に遠い目をすれば、それも許さないとばかりに目前に、赤い漆塗りの、獅王子専用の箸が突きつけられ、それをありがたく頂戴すると、黙々食し始めた。

 日頃のこうした何気ない生活は、全てを彼が取り仕切っているため、臍を曲げられてしまった日には、まず食生活が成り立たなくなるので、頭が上がらないのだ。

 金に困っているわけではないので、外食という手も確かにあるが、それも長く続くとどうしても飽きがくる。

 そう好き嫌いがあるわけでもないし、食べ始めてしまえば、女性用の茶碗に山盛りの白米と共に、おかずも全てぺろりと平らげるくせに、と目を眇めながら、今度は煎茶を、小振りな桜模様の湯飲みに注いで出した。

「それで、また、狼に振られたわけ?」

 箸が進んでいるのを確認してから、コンロに両肘を突き、彼はもう一度、同じ問いかけを繰り返した。

 それに、獅王子の手がぴたりと止まる。

「……わかっているくせに、わざわざ口に出すなんて、ずいぶんと良い性格になったわね、羽島鷹人はじまたかと君?」

 ふふふ、と口では笑っているが、どう見ても目がかなりマジな獅王子に、鷹人がにっこりと応じ返す。

「あなたにそんなこといわれる筋合いありませんよ、雷尾らいお獅王子さん」

 がっちりと絡み合った視線が見えない火花を散らす中、二人はしばし、見る者があれば背筋が冷たくなるような、上辺のみの微笑合戦を繰り広げていたが、すぐにそれにも飽きたのか、どちらともなく、獅王子は食事を再開させ、鷹人は味噌汁の入っていた鍋を片付け始めた。

「狼、どうせ食べないんでしょう?」

 もともと、食べたり食べなかったり、どちらかといえば、食べない方が多い彼だから、疑問も感じずに片付けてしまったが、空に近かった鍋の残りを、コンロのほぼ真後ろにあるシンクの三角コーナーに空けているうちに思い出して、とりあえずの確認に声を張り上げる。

「食べないって言ってたわね。……まったく、あれは食事とは違うってわかってるくせに、ナチュラルハイの状態なもんだから、空腹を感じないのよ。悪い癖だわ」

 生き物が本能として持っている三大欲求の中でも、常日頃一番自覚する機会が多いであろう食欲が薄いというのは、かなり問題なのではないだろうか。

 ぶちぶち言いながら、とても男の子が作ったとは思えない、見事に綺麗に巻かれた出し巻き卵を口の中に放り込む。

 噛めば、しょうゆではなく、出し汁のかかった大根おろしの風味と、ふんわりとした甘さ控えめの、なんともいえないおいしさが広がった。

 鷹人が作る料理は、元々本人にその才能があったのか、たゆまない努力の結果なのかは不明だが、見た目も味もほぼ完璧で、苦手というよりはまったく出来ない獅王子にとっては、特にこの出し巻き卵を食べる度に、世の中なにか間違っているという気がして、しようがなくなるのだ。

 明日辺りにはそろそろ、ひじきの煮つけが出てくるような予感がする。

 ちなみに、この白菜の浅漬けは自家製で、大きな声ではいえないが、沢庵も漬けているのだ。

 寒風が吹きすさびだした頃、裏手にあるサンルームの外に吊るされた、沢庵にするために干されている大根を初めて目にした時は、正直、卒倒するかと思ってしまった。

「それで、そのついでにアタックしたんだ」

 けらけら笑いながら、鷹人は鍋の水気をふき取ってコンロの下の引き出しタイプの収納にしまうのを、何気なく追っていた獅王子の眼差しが尖る。

「なんでそう、狼に執着するわけ? 第一、自分に振り向くはずがないって断言したのは、獅王子さんじゃない」

 話しながらも、次は鍋を洗うついでにゆすいだ布巾で、クッキングヒーターの上を拭いている辺りが、どうも所帯じみていると常々思っていたのは、賢く口には出さなかった。

 嫌味として言ってやりたいのは山々だが、これはちょっと地雷なので、まずい。

 塗り箸ではすべるので、面取りされた里芋を、ぐっさりと突き刺して口に入れる。

 関西生まれでも、関西育ちでもないはずだが、どれもが薄めの上品な味わいだ。

 味噌汁だけが合わせ味噌なのは、こだわりらしい。

 味噌も自家製とまで言い出さないのは、幸いだった。

「まだ秘密、ってやつ?」

 その科白に、はっとする。

 悪戯っぽくウィンクして、明るく言ってはいるが、いいかげん秘密主義の自分達に対して、鷹人がかなり我慢をしてくれているのはわかっていた。

 この嫌がらせとも取れなくもない問いかけも、ちょっとした意趣返しのようなものに過ぎない。

 それに、獅王子は軽くため息をついた。

「……秘密なのは本当だけど、正直に言えば、知って欲しくないのよね」

 だから、たまには内心を吐露してみるのも必要なのだ。

 理解を示してくれている彼だからこそ、こんなに後ろめたい。

 最後のレンコンを、そんな気持ちと一緒に飲み込んで、いただきますを言わなかった代わりのように、箸を持ったまま、ご馳走様でしたと、丁寧に両手を合わせる。

 全てさらけ出して、分かち合ってしまえば、楽になる部分もかなりあるとは思うのだが。

「結局、鷹人にまだ話せない部分って、暗くて汚い面ばかりだし、いつか必ず、嫌でも知らなくちゃならない時が来るから、それまでは知らないでいて欲しいと思うのは、きっと私と狼のわがままなのよね」

 彼女は、食べ終えた食器をきちんと重ねて、カウンターとキッチンの境目の壁の上に乗せると、肩をすくめた。

 それを受け取ってシンクに運びながら、いきなり真面目になった内容に、鷹人は黙って耳を傾ける。

 彼女達はいつもこうして、いきなり普通の会話の中に、ごく重要な話を織り交ぜてくるのだ。

 まるでそれが、世間話の一部で、聞き流されるのを期待しているかのように。

「……それじゃ、それは置いといて」

 例によって、割り切ったように返せば、安心したように、少し残念そうに、獅王子は複雑な笑みを見せるのもまた、いつものことだ。

 鷹人にしてみても、物分りの良いふりをしているわけではない。

 そんな風に装っていたことも以前はあったし、子供のように癇癪を起こして、なんとしても聞き出そうとあがいたこともあったが、豪儀なことでは引けを取らない獅王子が二の足を踏むだけあって、そうして引きずり出した真実に、打ちのめされたことは一度や二度ではなかったからだ。

 そうした経験を積んで鷹人は、無理に知ることはせずに、少しずつ、自然に明かされていく事実を受け入れていこうと、考えを改めていた。

「狩りには、行くんだよね?」

 とりあえず話題を移す。

 これも同じくらい、ある意味ではそれ以上に不穏な題目ではあるのだが。

「そりゃ行くわよ。……報酬は、前払いされてるんだから」

 当然のように言いながら、獅王子は、あまり良い顔はしていなかった。

「これに関してだけは、狼は律儀だし」

 日常における生活に関しては、かなり一般常識から外れた優雅な日々を送っているため、人のことなどあまり言えた義理ではない獅王子から見ても、狼は、それに輪をかけて、常識を宇宙の彼方に放り投げてしまった、明らかな生活破綻者であった。

 そんな人の都合も約束も、それどころか自分のことすらもまったく気にしない彼が唯一、何よりも優先して行なうのが、『狩り』と呼ぶものなのだ。

「ま、確かにそういえば、そうなんだろうけど……」

 目を据わらせている獅王子に、鷹人は食器を浸すためにシンクにぬるま湯を張りながら、視線を泳がしてしまう。

 これに関しても彼女は、鷹人が狼に直接聞きに行くのは嫌がるくせに、その話題を持ち出すと、話さなければならないとはわかっていても、こうしてぶっきらぼうになるのだ。

「そういえば鷹人は、わりとこれに関しては寛大なのね」

 嫌味というほど低レベルではないだろうが、獅王子に、いくぶんの不思議さと不愉快さも織り交ぜて尋ねられれば、鷹人は眉を盛大にしかめた。

「別に寛大なわけじゃないよ。そんなの、獅王子さんだってわかってるはずだろ?本音で言うなら、今すぐでも止めてもらいたいところだけど、狼にとってどうしても必要なのは事実なんだし、今の条件で許可を出したのだって、獅王子さん達じゃないわけ?」

 感情的になりすぎたと思わないでもなかったが、ちょっとその言い方にムッとして、つい立て板に水とばかりに甲高い声で反論したのには、獅王子もだいぶ驚いたようだ。

「ごめん、失言だったわ」

 しかしそれと同時に、自分が迂闊な発言をしたことにもすぐに気が付いて、しまったという顔になり、取り戻せるわけではないが、今のは無しというように大きく手を振って謝罪する。

 鷹人が、『狩り』に対して良い感情など持っているわけがないのは、わかりきっていたはずだから。

「……それでいつ?」

 もちろん、わざとではないことはわかっているから、わだかまるものはあっても、鷹人もそれ以上は追求しなかった。

 いうなれば、『狩り』を知っている誰もが、仕方ないとはわかっていても、好きこのむことなど、到底出来ないからだ。

「今度の満月だと、言ってたけど」

 苦虫を噛み潰したような獅王子の言葉に、了承を示そうとして、何か引っかかるものを感じて、鷹人は首を傾げた。

「あれ? その頃って、下でパーティやるって、獅王子さん言ってなかったっけ?」

 思い出してみれば、記憶にも新しい、というかあまり思い出したくも無い騒ぎが脳裏によみがえって、頭痛を覚える。

「パーティはやるけれど、日程はちゃんとずれてるわよ。身内の集まりなんだから」

 獅王子も同じ様に思い出したのだろう、渋い表情になった。

「下は獅王子さんのテリトリーなんだから、それはかまわないけど、……やっぱり出なくちゃいけないわけ?」

 それまでとはうって変わって、恐る恐るお伺いをたてれば、獅王子の顔付きが険しくなった。

 出る出ないの押し問答に、なんだかんだと一昼夜を要し、説得を早々に放棄した獅王子によって、強制的に出席と宣告されたのは一ヶ月ほど前だが、それに注ぎ込まれた労力ときたら並大抵ではなかったので、そんなわがままが通用するわけもない。

「身内の集まりだって言ってるんだから、あたり前でしょう! あんたも、狼も問答無用で出席なのよ! それが目的なんだし、いまさら何を言ってるの!」

 その時の再現ではないが、獅王子にヒステリックにキンキンと怒鳴られ、これに関しては明らかに立場の弱い鷹人はたじたじとなる。

 初めてではないにしても、やはりあらたまったどころではない、格式ばったパーティなど、ご馳走が食べられるにしても、大の苦手だ。

「ちゃんと服も見立てておくから、逃げないのよ」

 すでに及び腰の鷹人に釘を刺して、というか、どちらにせよ出ないというわけには絶対にいかない席なので、飲み終わった湯飲みを、ドンと音を立ててカウンターに置いて、おかわりではなく、コーヒーを要求する。

 それに彼は、情けなさそうに眉をたらした。

「どんな良い服着たって、しょせん学生にしか見えないんじゃ、意味無いよ〜」

 唸り声を上げながら頭を抱えて苦悩する鷹人に、別の意味で頭痛を覚えてきた獅王子は額を指で押さえた。

 確かに、まったくもって当人の言う通りなので、コーディネートする側としては、いつも散々苦労しているのだ。

 だからといって、責任放棄して任せると、これまた場違いな格好をしてくること請け合いなので、例え単なる同居人という関係であろうとも、獅王子のプライドが許さない。

 正装及び盛装なんて、どうして良いのかわからない鷹人と、一応似合う似合わないはわかっているようだが、着られさえすればなんでもかまわない狼の、あらたまった席での服選びは、かくして強引に獅王子によって掌握されているのである。

 しかも事あるごとに新調されているのだから、けして狭くは無い造り付けのクローゼットのかなりのスペースを、普段着になどは絶対出来ないフォーマルに侵食されてしまっているのが現状だ。

 鷹人としては、もう少し着回しして、増殖を食い止めたいのが正直なところなのだ。

「年相応とは言わないから、せめて二十歳くらいに見えればまだましなのに〜」

 要望に応えて普通サイズのコーヒーカップを新しく出してくると、サーバーの残りのコーヒーをそそぎながらの鷹人のぼやきを耳にして、カッカしていたはずの獅王子は、いきなり盛大に噴出した。

「年相応って、あんたね―」

 なんとかその後を続けようとするも、笑いのつぼに、ちょうどクリティカルヒットしたらしく、後から後から大爆笑があふれ出てきて、ちっとも治まらない。

 さっきまでの怒りも忘れ、それこそ腹をよじり、涙をこぼさんばかりに、美人が台無しになるような笑いに襲われている獅王子を、繊細な細工と絵付けの施された、こちらも高級ブランドのコーヒーカップに被害が及ばないよう、少し離れた位置に置いてやりながら、鷹人がひどく憮然とした。

「二十歳はまだしも、年相応に見えたら、かなり恐いわよ」

 呼吸困難に陥りそうになりながら、目尻にたまってしまった涙をぬぐっているのを見て、鷹人は何もそんなに笑わなくてもと思う。

 確かにバカなことを言った自覚はあったが。

「それはそうだけど……、何もそんなに受けなくてもいいじゃない」

 ちょっと恨みがましく言えば、獅王子はさも心外だといわんばかりに、わざとらしく目を見張って鷹人を見返した。

「変な事言うからよ」

「そうは言うけどさ〜」

 鷹人は子供のように口を尖らせる。

「やっぱり、見た目って重要だよ? そりゃ、何回も出てはいるけどさ、正直俺くらいの年齢の人なんか見たことないもん。話の合う相手もいないし、浮きまくりだよ」

 一度都合があって、鷹人一人だけが遅れて下へ行ったときには、参加者の誰かに、なんだこの子供はと怒鳴られ、危うく摘み出されそうになったことがあったのだ。

 いつかは必ず、そんなに目にあうだろうと覚悟はしていたが、やはりそれなりにショックは受けたので、以後は獅王子か狼が一緒でないと、パーティ会場に行かないようにしたし、鷹人を摘み出そうとした人物は、その次からは姿を見かけなくなったところからして、参加者のリストからは外されてしまったようだ。

 そういえば、そこまで露骨にされなくとも、邪険にされたり蔑んだ視線で見たりした参加者が、気が付くと来なくなっているところからして、ひょっとして自分は、参加者をふるいにかける基準にされているんではなかろうかと、微妙に疑いを持っている。

「それは……そうかもしれないけれど」

 鷹人の切実ともいえる訴えに、獅王子も困った表情を見せた。

 実年齢はあくまでも上なのだが、どうしても高校生くらいにしか見えない鷹人は、世間的にも致し方なくそう振舞う場合が多いので、感覚もそれに追随しているのか、流行に割と敏感な現代風の若者という部分が多々あって、どうにもそうしたものに疎くなりがちな年配連中は付いていけないのだ。

 そのせいでどうしても、そうした参加者ばかりが目立つパーティでは孤立してしまいがちになり、本当はそれでは困るので、奮起を促そうと思って鷹人に来てもらっているというのに、世の中はそうそううまくはいかないものだと、獅王子は溜息を付いた。

「でも、今回は大丈夫よ、新しい人が来るから、その人のお披露目でもあるの。見た目は三十位だって言ってたから、話は合うんじゃない?」

 落ち込む鷹人の気を引き立てるようと、慌てて獅王子は言いつくろった。

「なに、どっかから転勤してきたの?」

 てっきりこのビルに入っている支社のほうに来るとばかり思っているらしい鷹人に、獅王子は首を横に振る。

「違うわよ、彼は支社とは関わりのないところで働いているのよ」

 それに鷹人は、思いっきり怪訝な表情をした。

 身内のパーティという以上、参加者は自分達を除けば、ほぼ階下の支社に勤める、しかもある程度の役職以上に限られている。

 それなのに、関係のない普通の仕事についているものを招待するとは、どういうことだろうか?

「会ってみればわかるわよ」

 意味深な発言内容からいって、おそらくは『秘密』の中に入っているであろうと思われるそれに、尋ねて良いものなのかどうか躊躇していた鷹人に、獅王子はそういって笑った。

 どうやらその人物に接触すること自体は、『秘密』ではないらしい。

「でも、そうね……」

 それでも、なんとなく複雑な気分になっている鷹人に、獅王子はさらに思案し始めた。

 その口角が徐々に引き上げられ、なにかを企んでいるとしか思えない笑みを刻むのを目撃するにいたって、鷹人は背筋にぞわぞわと、不吉な予感が這い上がってくるのを如実に感じた。

 この笑みを浮かべた獅王子は、良からぬことをしでかすに決まっていたからだ。

「彼は初めてなわけだし、もう一人くらい、同年代がいた方が安心よね」

 我ながらナイスなアイディアと、したり顔の獅王子に、鷹人はすぐには理解しかねたが、やがて思い当たってぎょっとする。

 まさか、しかし本気だとしたら、とんでもない話だ。

「ちょっと、獅王子さ―」

「招待客をもう一人追加しましょう、木内貴史を」

 楽しそうに獅王子の口から出た名前に、うわー、やっぱりーと内心悲鳴を上げながら、鷹人ががっくりと脱力する。

 こういうところが、良識というか、考え方を疑いたくなる、そもそもの要因なのだ。

「本気なの〜」

 なんだか泣きたい気分になって、なんとか止めようとする鷹人に、獅王子はご機嫌に喉を鳴らす。

「あら、いいじゃない。鷹人だって直に見ておいたほうが良いでしょう?」

 鷹人の脳裏にとっさに、もう一人の同居人の、ひどく綺麗な顔が浮かんだが、それを強く否定する。

 ダメだ、狼じゃ絶対面白がるに違いない。

「だって、身内だけのパーティなんでしょ」

 顔を引き攣らせながらも、そういい募る鷹人に、獅王子は一瞬考え込んだ。

 確かに、基本的に身内の集まりなので、部外者が混ざるのを極力嫌う傾向はある。

「私が招待するんですもの、かまわないわよ」

 しかし獅王子はそれを、あっさりと振り切った。

「だって彼は、『餌』だもの」

 そうでしょ? と目を細め、彼女は残酷に笑う。

 捕食者のそれで。

「身内だって、一度くらい見ておいた方が、後学のためにも良いと思わない?」

 だいたいいつも面倒を背負い込むのは、狼と同居している自分達なのだから。

 言わずとも、明らかに目がそう言っていて、鷹人はあきらめたくなくとも、あきらめるしかなかった。

 一度口にしたことを、ましてこうまで楽しんでしまっていては、撤回などするはずもない。

「……当の本人が来るかな」

 無駄な抵抗ともいえる鷹人の呟きに、ほどよく冷めたコーヒーを飲み干し、獅王子はおもむろに立ち上がった。

 確かに木内貴史の方が拒否すれば、この企みは成り立たない。

 それは鷹人の最後の砦というか、わずかな望みであったが。

 立ち上がった獅王子は、まるで見せ付けるようにしなを作って、バスローブの上からとはいえ、若い男の子には目の保養とも目の毒とも付かぬ、豊満な肢体のラインを見せ付ける。

「来るわよ、来させて見せるわ」

 そのままここで脱ぎだすのではないか危惧したが、そこまでは悪乗りしていないようだ。

 狼に振られたダメージが、無意識に残っているのかもしれないが。

 いや、鷹人も男なので、見せられて楽しくないというわけではけしてないのだが、本性まで知り尽くした今となっては、逆に迫られる方が恐ろしい。

「しょせん、男ですもの」

 ええ、ええ、そうでしょうとも。

 心の中で滂沱の涙を流しながら、鷹人は一人ごちた。

 あの獅王子の本気の誘惑に落ちない男は、不能の上によっぽどの不感症か、狼くらいなもんだ。

 経験者が言うんだから、間違いはない。

 改めて思い返してみると、つまみ食いされたかなぁという気分ではあったが、それなりには楽しかったから、まあいいやと、今は割り切っている。

 艶然と微笑み、しなやかな、まさしくキャットウォークでダイニングを出て行く彼女に、やれやれと肩をすくめた。

 同居人はどちらも、一癖も二癖もありすぎて、付いていけないと思う日もしょちゅうあるのだが。

 それがかえって面白いんじゃないと、獅王子あたりは言いそうだし、鷹人にとっても異存はない。

 それにしても……。

「まいったなぁ……」

 カウンターの上のコーヒーカップを片付けようとして手を伸ばして、思わず宙を見つめて溜息を付いてしまう。

 あんなところから、木内貴史に飛び火するなんて、想像も出来なかった。

 一筋縄ではいかない相手なのだから、もう少し自分の言動には注意しよう。

 そう反省する鷹人の瞳に一瞬、赤っぽい光が通り過ぎて消えた。

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