Scene 6
都庁の外観を間近に眺めることのできる、この高層ビルは、新宿駅と都庁の間のオフィスビルとしては一等地の一角に建ち、さる有名な海外コンツェルン所有の日本支社である。
バブルが崩壊して数年後に、以前にあったビルを、この辺りにしては比較的安値で買い取って、この国では相当斬新だった爆破解体を行い、新進気鋭に建てられた。
しかし、その最上階部分が、メゾネットタイプの居住空間になっていることを知っているのは、この中に勤めている者ですら、そう多くはない。
その大半も、本社から派遣されてくる支社長、もしくは重役の誰かが、日本に赴任している間だけ、そこを使用していると思っているようだ。
会社に直接かかわりのない人間が、高級マンションというよりは豪邸に近い、その広大な空間を占拠しているとは、とても想像がつかないし、信じられないだろう。
ここには、地下の駐車場及び一階から、社員達とはまったく別の、専用出入り口と直通エレベーターがあり、そのどちらもが、特殊なキーとカードキーを差し込まないと、入ることも使うこともできないようになっているから、なおさら住人の顔などわかりようもない。
もちろん防犯面においても、全ては会社の方と変らない、厳重なセキュリティーシステムが張り巡らされ、人間の警備も、このビル専属のガードマンが請け負っている。
もっとも、彼らですら無条件に入ることができるのは、巡回の時に地下の駐車場と、一階のエレベーター前の殺風景なホールを見回るだけで、最上階に上がることは、住人の許可が下るか非常事態以外は許されていない。
そのあたりが、セカンドハウスと勘違いされる所以だろう。
実際、住居として使用されているのは、メゾネットの上のフロアのみで、エレベータだけではなく、中の階段でも行き来ができるが、下はコンベンションフロアなので、会社と半ば共有の形となっており、その関係のイベントなども開かれていた。
シックなデザインではあるが、豪華な感じのエレベーターはかなりの大型で、下手をすると小型の軽自動車なら乗れるのではないかと思える広さは、人間も、そして家具などの大型の物資を運び込めるのも、これ一基しかないのを考慮すれば、そう不思議ではない。
エレベーターを降りるとそこは、一流ホテルも顔負けの優雅なエントランスホールが広がり、華美ではないが、高級感を損なわない落ち着いた感じに仕上げられている。
左手すぐは、明り取り用の大きな窓になっていて、角度的に都庁は見えないが、その分、新宿摩天楼のビル群を、間近に望むことができた。
右にすすむと、エレベーターとは反対側の壁の中央に、玄関と思われる両開きの扉があり、アルミかステンレスらしいダークグレーの金属製の表面には、レリーフ状にヨーロッパの貴族が持つ家紋のような紋章が模ってあった。
凝っているわりには、どうやらモチーフがわざとデフォルメされているらしく、数種類の動物がいることくらいしかわからない。
扉を開けると、広さこそあるが、見た目はずいぶんとごく一般的な、玄関ホールが広がっていた。
御影石らしいたたきには、白のスニーカーと、黒のスポーツシューズ、金色の派手なミュールが、きちんとそろえて置かれ、それぞれサイズが違うことから、ここには少なくとも三人の住人がいるらしいとわかる。
玄関を上がって左手にむかうと、大人一人が余裕で両手を広げられそうな、広い廊下が伸びており、突き当たりに濃い目のブラウンのドアがあって、そこから廊下は右に折れている。
さらに廊下を進むと、左手には、それぞれ趣の異なるドアが他に二つ並んでいるところから、プライベートルームになっているようだ。
右手には、細身の両開きの、メタリックなデザインの白の扉があり、そこを開けると中は、四十畳はありそうなリヴィングルームで、何色ものグレーを混ぜ合わせた毛足の長いじゅうたんが隙間なく敷き詰められたほぼ中央に、滑らかな曲線を描いて段差が設けられている。
その段差に寄り添うように、巨大な、大人数人が楽に寝そべることのできる、柔らかい黒のローソファが、やや威圧的に室内を占拠していた。
その前には、二重になったガラスの天板の間に小物が飾れる、メタリックなデザインのローテーブルがあるのだが、ソファが巨大すぎるせいで、なんだか萎縮しているように見える。
テーブルの中には、宝石の原石らしい、小ぶりな、色とりどりの鉱物が置かれていた。
快適な居心地のソファの上には、一人の男が、だらしなく身体を伸ばして寛いでいた。
男というよりは青年という方が、まだふさわしいかもしれない。
どう見積もっても、二十五が上限と思われる彼は、茶髪と称するにも色素の薄い髪を、肩に付くほど伸ばしている。
美しく照り映える自然の艶は、それが元々の色であること示していて、それがまだかなり水分を含んで濡れているのは、いくらか湿り気を帯びているバスローブからして、シャワー、もしくは入浴した直後らしい。
適度に空調がきいている、といっても、時期柄からいって、感覚的に寒々しい格好なのには違いない。
身長は、横になっているので判断しづらいが、百八十くらいはありそうだ。ほっそりとした身体に、女性が羨みそうなシミ一つない白い肌は、それだけ聞くと軟弱そうなイメージを与えるが、けしてそんなことはなく、むしろ引き締まった感じがした。
彫像、では極端すぎるにしても、彫りの深い顔立ちは、とても日本人ではありえないので、明らかに白人系、もしくはハーフだろう。
いや、彫りの深さでは劣っても、いかつい彫像が比べられた瞬間に恥じ入りそうな、美貌の青年であった。
なにやら熱心に正面を見つめる瞳は、この部屋の中があまり明るくないので、黒っぽい、としかわからなかった。
その視線の先には、国産としては最大級のプラズマTVが、近未来的なデザインのアクリルを多用した専用台の上に鎮座しており、そのワイドスピーカーからは、この雰囲気にそぐわぬ、けたたましい声音やら効果音がひっきりなしに流れる、ワイドショー番組を映し出していた。
リポーターが息を切らして、しゃべりながら走っていく先には、一件の大きな邸宅。
その前で、突き出されたマイクに囲まれて映っているのは、あの木内貴史だった。
「まったく、狼はまたそんな格好で」
彼の赤みを帯びた唇に、うっすらと笑みが刻まれた瞬間、背後からその声は響いた。
「しかも何、こんな暗いままで。せっかく気持ちの良い晴天だっていうのに」
ドアの反対側の壁は、ほぼ全面ガラス張りにもかかわらず、遮光のロールカーテンがきっちりと下ろされているのに目を向け、わざとらしく盛大なため息をついた。
女性にしてはやや低めだが、本来なら耳に心地良いはずの声を尖らせ、青年を狼と読んだ彼女は、そのわりに自分も大して変わらないガウン姿で、両手を腰に仁王立ちになっている。
とはいえ、まだ朝晩はそれなりには冷え込むので、着ているガウンは光沢のあるキルト地の物で、裏はさらにフリースになっているため、見た目よりはよほど暖かいのだ。
しかし、その上からでも十分にわかるほど、出るところが出て、引っ込むべきところが引っ込んでいるスタイルは、すばらしいの一言に尽きた。
彼女は起きてすぐ、日課のシャワーを浴びようと思って出てきたのだが、リヴィングの後方にもう一ヶ所あるドアの半透明のガラス部分から、TVが点いているらしい、明るい色彩が蠢いているのを目にして、こんな時間に誰がいるのかと見に来たのだ。
TVの後ろの壁にかけられたからくり時計は、星空を模した文字盤全体が、暗い中では発光するようになっていて、針は十時近くを指し示しているのが見えるが、当然夜ではない。
ロールカーテンの隙間から差し込む光が、まったく照明を付けていない室内を、それでも歩き回るのに困らない程度には明るくしていた。
「開けるなよ、獅王子」
画面から目を離さず、いくぶん面白そうにそう釘を刺す狼の瞳が、その光を反射したせいか、暗緑色に輝く。
それに、窓に歩み寄ろうとしていた獅王子は、あきれながら振り返った。
「明け方になってから帰ってきたくせに、寝てないのね?」
この忠告が意味を成さないことはわかってはいたが、それでも言わずにはいられなくて、チンチラの毛皮のスリッパで段を下りると、狼の足元に空いているスペースへと、わざわざ反対側は広く開いているのに、強引に座ってみたが、彼はちらりと一瞥しただけで、特に拒否する様子もなく、その長い足を持て余すように組んで、見せつける。
なにせ彼は、ひどく扱いづらいタイプで、機嫌を損ねてしまうと、癇癪を起こして暴れたりするわけではないが、いろいろ大変なのだ。
ガウンの合わせから、すらりとした足が現れたが、下はサーモンピンクのシルクのパジャマを着ていた。
年齢は狼と変わらないか、いくぶん年上かもしれない。軽いウェーブのかかった、自らが光を放ちそうな見事なプラチナブロンドの髪が、寝起きのせいか、いくぶん乱れて背中にかかっている。
彼女は面白くもなさそうに、組んだ足の上に肘を置いて頬杖を付き、画面を見やった。
画面の光を反射している瞳は、ほぼ黒に近い茶色だが、それ以外は彼女も完全な白人系で、狼に劣らぬ、女神も真っ青になりそうな美女だ。
ただ、彼女がこの闇の中に発光しているような美しさなのに対し、狼はまるで、この闇の中に解け入るようで、例えるならば、太陽と月のような違いがあった。
「朝食も抜く気なんじゃないでしょうね」
胡乱気に、貴史のインタビューを横目にしながら、獅王子がまるで母親のような口調で、どうやら自堕落な生活を送っているらしい狼の日常生活に小言を言えば、彼は軽く、お手上げのしぐさで肩をすくめた。
「食べる必要がないだけさ」
そんな軽薄なポーズも、無意味に決まっている狼に、取り付く島もないのを感じて、特大級のため息を追加し、獅王子も画面の方へと集中することにした。
この男ときたら、どんな忠告もまったくの馬耳東風で、仕舞いには苦言を呈しているこちらが疲れ切ってしまう。
この手のゴシップ番組は、毛嫌いこそすれ、見たいとはまったく思わないのだが、本来夜行性に近い狼が、彼の体内時計からすれば真夜中に近いであろうこの時間帯に、わざわざ部屋から出てきてここにいるのだから、何か意味があるに違いないと我慢する。
正面を向いて、矢継ぎ早に出される質問に答えていた貴史の意識が、急に別のものに逸れ、カメラが同じ様にその視線の先を追ってパーンすると、一台のワンボックスカーがやってきたところだった。
それでなんとなく、獅王子にも合点がいった。
「この男なわけ?」
頬杖を付いていない右手で、そう画面を指差せば、狼は何も言わず、笑みだけを深くした。
それに獅王子は警戒感を強める。
こういう笑い方をする時は、大抵何か、良からぬ事を企んでいる場合が多いからだ。
「確認するために、見ているわけじゃないわよね」
愚問とはわかっていても、怪しげに問えば、それに特に気を悪くするでもなく、薄気味悪いほどに上機嫌で、むしろ浮かれているに近い状態で、声を立てて笑う。
「まあ、黙って見ていろ」
今にも喉まで鳴らしそうな、猫のような表情で目を細める彼に、獅王子はますます警戒心を募らせたが、それきりだんまりを決め込まれてしまったので、言われたとおりに、またTVに注目するしかなかった。
何か木製のものが地面に落ちたような音と共に、ただでさえマシンガンのようにしゃべっているリポーターの声が、興奮でさらに高くなり、聞くに堪えない騒音に発展させながら、いきなり走り出し、それに少し遅れてカメラマンも走り出したせいだろう、画面が大揺れに揺れる。
それに獅王子は、きれいに手入れされた眉をしかめる。
「これを毎日なんて、頭がおかしくなりそうだわ」
あまりに急ぎすぎて、回り込もうとしていたワンボックスカーのフロントのどこかにぶつかったのか、それともぶつかったのは同じ様に取材に来ていた他局のクルーだったのか、ともかく突然大きく傾いだ画面に、信じられないものが映し出された。
おそらくそのゆれが原因で、カメラマンの目はカメラから外れてしまい、何を映しているのかは、まったくわからなくなったのだろう。
獅王子の目が、大きく見開かれた。
映し出されたのは、地面の上に投げ出されて横倒しになった棺から転がり出て、異様な方向に首を曲がってしまっている、経帷子を着せられた、人間の形をしたモノ。
女性の、恐怖に引き攣った悲鳴が響き渡る。
幸い、顔はカメラとは別の方向を向いていたが、その悲鳴を皮切りに、現場は大パニックに陥り、いきなり中継は途絶えて、とんでもないハプニングに顔を引き攣らせる、スタジオの司会者に切り替わった。
思わず呆然とする獅王子の横で、突然破裂したように爆笑が起こった。
「まったく!」
腹を抱えて、狼は湧き上がる笑いの発作をこらえることなく、空中へと、吐き出し続ける。
「女の執念というのは、大したものだと思わないか?」
ひとしきり笑い続けて気が済んだのか、話しかけるというよりは、独り言に近い感覚で発せられた言葉に、我に返った獅王子は、その美しい顔を思い切り歪めた。
「悪趣味だわ」
吐き捨てるようにいえば、寝転がったまま、愉快でたまらないといった表情で、やっと笑いを納めた狼は、足元の獅王子に視線を向けた。
それに対して、多大な不安の入り混じった、探るような眼差しを、獅王子が返す。
「……あなたが仕組んだわけじゃないでしょうね」
その問いかけに、狼はさも残念だといわんばかりに、もう一度肩をすくめた。
「生憎、そんな面白そうな能力は持ってないな」
予想通りの否定的な回答に、まさか、本気で疑っていたわけではなかいにしても、なんだかひどく後味の悪い気分で、獅王子はいらだたしげに髪をかき上げる。
こういう時は、ただでさえ見えづらい彼の心が、まったくわからなくなってしまい、たまらなくなるのだ。
「女っていうのは、愛した男に忘れられてしまうのが、一番、嫌なんだって?」
見たかった場面を見てしまって興味が失せたのか、前代未聞の不祥事に、顔色を悪くして平謝りを続けている司会者が映っているTVを、手元にあったリモコンで消すと、今し方までの高揚振りが嘘のような、感情の抜け落ちた口調で狼は言った。
躁鬱が激しいのも、この時期の特徴なので、その激変ぶりには別段驚かなかった。
ただ、完璧に慣れるということはないので、落ち着かなくなる。
「そういうわね」
結構な音量で流していたTVの音声がなくなったので、さほど大きくないと思った自分の声が、以外に耳に染みた。
他人事のようなそれに、狼が無音で笑う。
「違うのか?」
尋ねてはいるが、さほど感情が伴っていないので、どうしても答えが聞きたいわけではなさそうだ。
「……あなたから女性心理を聞かされるなんて、意外だわ」
思わずそう皮肉ってしまう。
今日の彼は饒舌で、それなりにテンションも高いが、普段は他人は愚か自分自身にすら、一緒に暮らしている方が危機感を感じるほど無関心なのだ。
「そうか?」
淡々とした声音に、神経を逆撫でされた獅王子は、ソファの上へと乗りあがった。
「だってあなた、私がこんなにストレートに気持ちを伝えているのに、何も言ってはくれないじゃない」
そのまま狼の上に覆い被さるように圧し掛かり、パジャマにガウン越しとはいえ、豊満な肉体を密着させるが、抵抗も、何の反応も返っては来ない。
これもいつものことで、それが余計に獅王子には腹立たしかった。
並の男、いや、この狼以外の男は軒並み、こんなに密着しなくても、彼女が近寄っただけで興奮し、心拍数が増え、呼吸を乱し、顔を紅潮させて、飢えたケダモノになるのに。
そんな、異性にとっては、フェロモンそのもののような存在であることを、獅王子自身自覚し、有効に利用してきた。
女にとって、最大最強の武器といってもいいこの色香が、狼にはまったく通用しないのだ。
それでも、押し退けられないのをいいことに、男性にしては体臭の薄い狼の首筋へと顔をうずめ、嫉妬してしまいたくなるような滑らかな肌へと口付け、舌を這わす。
バスローブの胸元に忍び込んだ、女性にしては大き目の手が、しなやかな筋肉のついた胸の心臓の上を、無遠慮に愛撫し、強引に膝を割って互いの両足を絡める。
こうまでしても、狼の身体には変化も見られないし、制止もかからない。
最初は悪ふざけのつもりだった獅王子も、ついつい女としてのプライドを刺激されて、行為をエスカレートさせていった。
むしろ、彼女の息づかいの方が早くなり、明らかに、心も身体も興奮している。
跡を残すようなことは、一応自制したが、もちろんその下には何も着ていない、バスローブを唯一留めている腰の紐を解き、顎を伝って、そのまま唇にキスしようとして、ふと、どんな表情をしているのかと、上目遣いに見上げて重なった視線に、獅王子は硬直した。
感情など欠片もない、凍てついた暗い炎を宿した、ダークグリーンに輝く瞳に、彼女は全身を総毛立たせて跳ね起きた。
いきおい、バスローブの前が完全に肌蹴てしまったが、別に気にする風もなく、狼はゆっくりと上体をソファの上へと起こす。
「ゲームオーバーだ」
男のものとはわかっていても、目にした誰もが生唾を飲み込みそうな、妖艶ともいえる肢体をさらして、狼が口角を吊り上げる。
それは、無駄な行為を繰り返す獅王子を、嘲笑っているようであり、楽しんでいるようでもあった。
「本当に、いい性格してるわね」
よほど驚いたのか、産毛どころか、襟足の短めの毛まで逆立っているような状態で、少しばかり息を切らし、獅王子は狼を睨みつけた。
ちょっといい雰囲気になったかと思えば、これだ。
怒り心頭に達しそうな獅王子に、狼は薄笑いを浮かべ、何事もなかったかのようにバスローブを調えると紐を結びなおす。
完全な拒否。
こうなるともう、狼の側にいることすら腹立たしくて、荒々しく立ち上がると、ソファに乗り上げた時に脱げてしまったスリッパを突っかけ、足音も高くリヴィングを出て行こうとした。
そしてドアノブに手をかけたところで、肝心なことを聞き忘れていることに気が付き、渋面を作る。
おそらく狼は気にしていないだろうが、こうもことごとくアプローチを無碍にされると、自分がかまうのだ。
それでもこれは、何にもまさる重要事項なので、逡巡した後、仕方なくぶっきらぼうに口にした。
「……狩りはいつ?」
振り返ることはしなかったが、背後でうっそりと笑う気配がして、突然空気が変わった。
何か、目に見えない圧力のようなものが、リヴィングを席巻していく。
それに触発されるように、獅王子の両目が熱を帯びた。
「今度の満月」
狼の言葉を背に受けて、静かにドアから出て行く。
冷たい空気が、今は心地よささえ感じる廊下に出て、ふっと小さく息を吐き出した獅王子の瞳は、異様な銀色へと変化していた。
もっともそれで怒りが沈静化するはずもなく、かえってイライラが募って、獅王子は憤懣やるかたないと言わんばかりに、廊下をどかどかと踏みつけながら、当初の予定通り、シャワーを浴びて頭を冷やそうと歩き始める。
プライベートルームの先には、ダイニング、その奥に一続きになったキッチンが存在していた。
その横を通り過ぎ、裏口に一番近い、最も奥まった位置に、ゆったりとした広さの、壁や床などには黒に近いグレーのタイルを配したバスルームがあり、ゆうに二人が楽に浸かれそうな湯船の脇には、天井近くまで大きく窓がとられ、都庁を望み見ての入浴を楽しめたが、屋上の一部分に、ビルに必要なさまざまな設備を納めるための、無骨なコンクリート製の建築物があり、それが一緒に見えてしまうのがちと残念だ。
バスルームは、洗面所から入るようになっているので、廊下に直接つながってはいない。
そのドアを荒々しく開け、感情のおもむくままにたたきつけるように、ガラスが今にもわれんばかりにビリビリと震わせながら閉じると、ずかずかと洗面所を横切り、こちらも引きちぎれそうなほど力をこめて、脱衣所との仕切りになっているアコーディオンカーテンを閉じ、結局冷静になりきれないかもと、ちょっと意識的に遠いところで自分の性格を省みながら、手早くすべてを脱ぎ捨て、バスルームに踏み込んだ。
シャワーを浴びようと、壁の中ほどに取り付けてあるシャワーヘッドを取ろうとして、その横の曇り止め加工の施された、大きな鏡に映る自分が目に映る。
われながら、見事なプロポーションだと思うし、それは誰もが認めるところだ。
しかし、獅王子が見ているのは、その美しいボディではなく。
銀色に輝く、その双眸。
「……わかっていたはずだわ」
まるで自らをいとおしむかのように、獅王子はその表面へと、顔の部分をなでるように手を当てた。
「私が私である限り、狼が、愛してくれることはありえない」
そう呟き、きつく目を閉じる。
そして再び開いた時、あの、銀の輝きはなく、黒に近い茶色の瞳が、苛烈な光を帯びているだけだった。