Scene 5
多少グロテスクな表現がありますので、嫌いな方は注意してください。
閑静な住宅街の一角に建つその家は、建てられてから三十年以上経過しているが、古びたというよりは風合いの増した、瀟洒な洋風建築の一戸建てだ。
煉瓦調の外壁は、風雨にさらされて黒ずんではいても、元々がシックな色でまとめられているので、重厚さがまして、本物の煉瓦のように見え、かえって趣が感じられる。
外見は二階建てだが、急角度の、強く黒味を帯びた赤色の屋根の中に、屋根裏部屋があるのは、いくつか突き出した、小さな屋根つきの小窓からもわかった。
L字型の大きな、屋敷と呼んでも過言ではないこの家は、建築当初から趣味の良さで、周囲からは評判だった。
それなのに、十年程前に交通事故で姉妹を残して両親が亡くなり、数年後に、姉の方は結婚して、夫婦で暮らし始めた頃から、なにやら荒れ出し、二、三年ほど前にその姉が病死して、誰が住んでいるのかもよくわからない状態になると、どんどん寂れていった。
ただ、時々ガレージに、真っ赤で派手なスポーツカーが止まっていたり、溜まりがちではあるが、郵便物や新聞が配達されたりしているところを見ると、姉の夫が一応、住居にはしているようだ。
その家が、今日に限ってやけに騒々しく、物々しい雰囲気に包まれている。
通勤通学も一段落したこの時間帯は、いつもなら通行量もがくんと減り、高級住宅街特有の、ゆったりとした静けさが戻ってくるはずなのだが、歩道のない、片側一車線の道路の両側に、びっしりとアブラムシのごとくたかっているのは、大きな望遠レンズを着けたカメラを手にしたカメラマンやら、TVカメラを担ぐクルーの前でマイクを握りしめてしゃべりまくっているリポーターやら、全てはマスコミ関係者だ。
本来なら、掃除に洗濯にと、家事仕事が一番忙しい頃合なのだろうが、この有様では、前後左右に隣接する、ご近所向こう三軒くらいまではさすがに手がつかないとみえて、眉をひそめながら遠巻きにしてひそひそと話し込んでいる。
数日前に、埠頭の空き倉庫の中で殺されていた、立花美和子の遺体が生家に帰ってくるのは、葬儀日程の告知の紙が門に貼られていたので皆知っていた。
これで、あの洋館に住まっていた一家は、姉の夫を除き、血縁者全員が死んでしまったことになるのだから、それだけでも恰好のネタなのに、言っては何だが、あの美和子の死に様である。
芸能界の醜聞も事件も、ここ最近ぱっとせず、話題に飢えていたマスコミが、ここぞとばかりに飛びついて、連日、センセーショナルに報じまくるのも当然だろう。
そして、例え迷信深くはなくとも、気味悪がって、周囲の住人が関わり合いを避けるのも、また無理からぬことであった。
おかげで、ワイドショー恒例の御近所のインタビューはちっとも成果が上がらず、口を噤むどころか、取材と知るとに誰もが、呪いとも不幸ともつかぬもののとばっちりを恐れて家にこもってしまうので、TV局ばかりでなく、新聞社も出版社も、苦心惨憺したようだ。
先端が矢の形に尖っていて、一応の泥棒除けにもなっている、大人の胸ほどの高さのフェンスの内側に、立花夫妻が健在だった頃は、定期的に庭師が綺麗に刈り込みに来ていたという目隠しを兼ねた生垣が、すでに伸び放題になって、人の背丈をはるかに越えて密集している。
その向こうには、母親が丹精を込め、その後を姉妹が仲良く引き継いだ美しい庭があったそうだが、この調子ではおそらく、同様の運命を辿ってしまっているのだろう。
生垣の上から中の様子を盗み撮るために、敷地の端っこ付近の路上にある電信柱を支え代わりに脚立を立て、またそれを支え代わりにした同じような脚立が並び、その上に数人が居座って、退屈そうにあくびをしながら、意外としっかりしている生垣の腕を組んでもたれかかっていたカメラマン達が、誰かが玄関扉を開けて出て来たのを発見し、慌てて背中の方に回していたカメラを構えると、その人物に向かって盛んにシャッターを切り始めた。
今か今かと動きがあるのを待ち構えていた、Vクルー達もそれに気が付いて、まさかこちらはフェンスや生垣によじ登るわけには行かないので、我先に唯一、庭先が望める門へと殺到する。
すると、僅かなタイムラグをおいて一人の男が、フェンスと同じヨーロッパ風のデザインの門へと姿を現した。
門には、セラミック製の黒に近い灰色の表札がかけられ、『KIUTI TAKASHI. YUKIE.』と、姉夫婦の名が彫られていた。
近距離からの撮影を待ち構えていたフリーのカメラマン達が、高性能なデジタルカメラで激しいフラッシュの嵐を浴びせかけるのを、きっちりを仕立ての良い、高級服地の喪服を身にまとった、見るからに女性受けしそうな甘い二枚目の顔立ちの男は、遠慮というものを知らぬ攻勢に驚き、それからきつく眉間に皺を寄せた。
まったくこの連中のしつこさといったら、最初こそ愛想よく振舞っていたものの、この数日ですっかりうんざりした。
この男こそが、現在この家の主であり、噂の中心人物、死んだ美和子の姉の夫である。
「木内貴史さんですね」
主婦達が好んで見るような、ワイドショーのリポーターなのだろう、多少とうのたった女性が、貪欲に押し合い圧し合いするマイクの群れの向こう側から発したのは、とりあえず疑問系をとっている断定だ。
あっという間に門越しとはいえ取り囲まれ、そのまま押し入られてきそうな勢いに、顔が引きつり気味になるのを抑え、ここに出てきた事情が事情だけに、できるだけ神妙な表情を作る。
「現在の心境をお聞かせください!」
「今のお気持ちをぜひ!」
「義妹さんを殺した犯人に、心当たりはないんですか!」
四方八方から次から次へと、質問というよりは詰問を浴びせかけられ、ちょっとしたパニックが起こった。
それを少し離れた道路の向かい側から、苦々しく見つめているのは、捜査の一環として様子を見に来た、あの夜の二人の刑事、館川と虎賀だ。
二人が渋い顔をしている理由は、この木内貴史が女性をだます狡猾な詐欺師として、警視庁内でもわりと悪名高い男だからだ。
いや、騙すだけならば、またそこから立ち直ることもできようが、この男はもっと性質が悪く、見目の良さを利用して、比較的裕福な家庭の、世間知らずで美しい娘を甘い言葉で誘惑し、婚姻関係を結んでしまうのだ。
しかし、そうなったが最後、それこそどこの誰がなんと言おうと蛭のごとく、甘い汁を搾り取れるだけ搾り尽くし、手持ちの財産ばかりではなく、借金、風俗など、手段を選ばずに貢がせた挙句、個人的遺産や生命保険などの受取人として、死後の財産まで手中に収め、後はあくまで表面上は穏便に離婚する、というか捨ててしまう。
もっとも、実際に被害者が死にいたって遺産までもその手に渡ったのは、立花姉妹が初めてだったし、この男が悪辣なのは、口八丁で、自分の手はけして汚さないことだ。
それとなく口にはしても、けして強制はせず、女性の方から全てを差し出すように仕向けさせ、全て彼女達が手続きを踏んでしまえば、どんなにあからさまに怪しくても、犯罪として立証するのは難しい。
逆に、それに乗ってこない相手とは、どんなに美人で財産持ちであろうと、深入りしないうちにあっさり離れてしまい、引き際も心得ている。
被害者一人一人と夫婦になる以上、普通の詐欺とは異なり、最低でも四、五年は生活を共にするため、こちらの人数はまだ数名というところだが、やはり付き合っているだけで貢がせている女性もいるらしく、こちらは把握し切れていないのが現状だ。
しかも、被害者である女性達は皆、彼はまだ私を愛してくれていると言い張って、被害届けを出してはくれないのがまた、こうした犯罪の共通点で頭痛の種だ。
だからこの男は、いまだ立件もされず、犯罪被害者の遺族として、それらしい表情を浮かべて恥ずかしげもなく、カメラの前へと立っていられるわけだ。
手口を知った女性警察官達に、女の敵と、性犯罪者並に毛嫌いされ、目の敵にされるのも当然である。
「この度は、義妹のためにこのようにお集まりいただきまして、ありがとうございます」
貴史はそんな報道陣を両手で制し、後ろまで聞こえるようにと声を張り上げつつも、しおらしくみえるよう、深々と頭を垂れた。
再度フラッシュが乱舞する。
本当ならこんな無礼者の集団に礼を尽くしてやる謂れはないのだが、イメージ、特に、ブラウン管の向こうの視聴者という、世間一般に対する心象は、良くしておくに越したことはない。
こんな大きな家に住まう財産家が、十年という時の流れはあれど、直接血の繋がりのない自分を残して死に絶えたのだ。
そんな場合、世間の目がどんな風に自分を見るか、貴史はよく理解していた。
まあ、直に手を下していないというだけで、姉に関しては、その見解があながち間違っているわけでもないが。
そう心の中で嘯く。
どっちにしても、あの女、いや、姉妹そろって馬鹿だったというだけだ。
もっとも、そんな馬鹿な女が、この世にいるからこそ、望むままに贅沢な生活ができる。
貴史は、予想だにしない惨劇に巻き込まれた、悲劇の家族を演じながら、その皮の下一枚でせせら笑う。
この世の中、騙されるのは、頭の悪い愚か者だからだ。
騙されたくなければ、自分のように賢くなければならない。
そうすればこうして騙す側になり、おいしい思いをすることが出来る。
それには、生まれ持った美貌と、それを生かす才能も重要だ。
それが、貴史の持論だった。
「義妹さんが殺されたと聞かれたときは、どんなお気持ちでしたか?」
一応気の毒そうな表情を装ってはいるが、この連中が腹の中で考えてるは、この不幸をいかに面白おかしく仕立て上げるか、ということだけだ。
そうすれば読者や視聴者の興味を引き、ひいては売上、視聴率のアップ、そして最終的には自分達の懐が暖かくなる。
倫理観よりしょせんは金だと、鎮痛な面持ちを崩さないようにしながら、同じ穴の狢であることを棚に上げて、内心毒づいた。
「信じられませんでした」
悲しげに目を伏せると、またフラッシュが光り、形だけとはいえ、同情の声が上がる。
当然だ、この角度で俯けば、良い顔に愁いを帯びて、ますます男前に映るのは、前日まで録画しまくったビデオで確認済みだ。
理由は何であれ、毎日どこかしか、いや、ほとんどのチャンネルのワイドショーやら報道番組で映っているのだから、住んでいる場所もあらかたわかっているのだろうし、そのうちファンレターが届くようになるかもしれないな、と自画自賛して悦に浸る。
次の獲物は物色するまでもなく、向こうから飛び込んでくるかもしれない。
「あんな、あんなかわいらしい良い娘が、殺されてしまうなんて……。しかも……、あんな残酷なやり方でなんて……」
目にうっすらと涙がを浮かばせると、心も一気にトーンダウンする。
しかし、それは本当に悲しいからではなく、自らの発した言葉で、身元確認に警察へ行ったときのことを、うっかり思い出してしまったからだ。
死体安置所に案内してくれた若い刑事が、死因は頸部の噛み傷による窒息とか、失血とか、ウンタラカンタラ言っていた気がするが、一応耳には入っていたものの、右から左へ素通りしたというより、ぜんぜん頭に入ってこなかった。
ともかく、こんなことをした奴に対する怒りと、殺された死体を目の前にした気持ち悪さでいっぱいで、とてもそんな余裕はなかったのだ。
美和子は姉よりも美人だったし、とりあえず、『まだ』利用できる女だったのに、それをあっさり、どこの誰ともわからぬ相手にふいにされてしまったのだ、腹が立たないわけがない。
TVで見たことがあるような、全身を覆う白い布をかけられていた美和子の顔は、肌の色を別にすれば、目だった傷は一つもなくて綺麗だった。
これから司法解剖をしなければならないからと、唯一の家族として承諾を求められ、そのために遺体の返却にはもう少し時間が掛かるといわれて、ようやく死んだ、というより殺されたのだという実感が湧いてきて、ひどく恐くなった。
首から下は、さすがに見せられなかったが、見なくて正解だったと思う。
なんでも喉を、肉食動物にでも食い千切られたようになっていたと聞かされていたから、うっかり目にしていたら、卒倒してしまっていたかもしれない。
貴史は血が苦手で、ホラーや残酷なシーンのある番組や映画は、たとえアニメでも大嫌いだった。
自分の怪我だろうとも、傷口が少しばかり大きかったり、出血がちょっと多かったりすると、それを見ただけで貧血を起こしたため、昔は、男の癖にとか、根性がないとか、よくからかわれたものだ。
もっとも、ヒモとして生活するようになってからは、相手にそういう話をすると、かえってかわいいと喜ばれたりもした。
その、司法解剖が終了した美和子の遺体が、戻ってくる。
本来はそんな死体なぞ、妻だった幸恵同様、葬儀場を借りて、今は一人で悠々自適に住んでいる、この豪勢でお気に入りの家には、薄気味悪くて入れたくなかった。
だが、五千万円ほどが受け取れた幸恵の生命保険の残額も残り少ないし、美和子は幸恵と違って、せっかく良い働き口を見つけたというのに稼ぎが悪くて、月二十万ですら入れられない時があったから、こんな予定外の出費にかけられる金などなくて、せめて生まれ育った家から送り出してあげたいと、もっともらしく、しかし、美和子の古くからの知人が聞けば、鼻で笑うような言葉で言いつくろって、少しでも安く上げようと努力しているのだ。
自称親戚連中は、土地も家も貴史の手に渡っている以上、まだ年若い美和子など、もう逆さに振るっても鼻血も出ないことを承知しているから、返って金を出さなければならなくなるかもしれないと寄り付きもしない。
こうやって大々的に報道されれば、何かと物見高い連中の香典で、葬式代くらいはなんとか賄えるだろうが、喪主などという辛気臭い上に面倒くさく、一文の得にもならないことをやらされるのがかなわない。
幸恵の時は、美和子が何から何まで取り仕切って、喪主の代理まで務めてくれたが、こうなる前の姉妹のためならまだしも、貴史が関わっている以上、そんな親身になって世話してくれる者など、もういるわけもない。
墓は両親のものに幸恵も入っているので、そこに一緒にしてやればいいから、あんな石ごときに、目の玉が飛び出るような金を払わなくて済むのだけが救いだ。
これだけ注目されると、そうしたことを怠れば、本当に痛い腹をこれ以上勝手に探られて、あった事だけでもまずいのに、無い事まで適当に書き立てられたのでは、それこそお飯の食い上げになりかねない。
「義妹さんを殺した犯人に、心当たりはないんですか?」
表面が、スポンジ状のもので覆われていなければ、串刺しにでもされそうな勢いで無数に突きつけられるマイクの中、前の方に陣取っている、少数派の男性リポーターの一言に、貴史は我に返った。
「わかりません……」
首を横に振る間も、その問いが頭の中でリフレインしている。
「義妹を殺したいほど憎んでいる人がいるなんて、想像もつきません」
吐き出すように告げたのは、本心だった。
こう言ってはなんだが、殺されたのが自分だというならまだ、納得がいく。
もちろん死ぬつもりも、死にたいわけでも毛頭無いが、金を持っていそうな世間知らずのお嬢様をたぶらかし、この姉妹のように死んでしまうまではいかなくとも、貢げなくなれば捨ててきたのだから、恨まれていないわけがないのは十分にわかっている。
しかし今までの女は大抵、極悪非道の仕打ちを受けても、優しくしてやっていた頃を忘れることができず、中にはいまだはした金を手に、時折情にすがりに姿を見せる者までいるくらいだし、そういう相手ばかりを選んできたつもりだ。
貴史にしてみれば利用価値は薄いが、ほんのちょっと甘い言葉を囁いて抱き締めてやるだけで、感激にむせび泣き、その後に言い含めてやれば、一も二もなく従うので、別の女に乗り換えるまでの保険と体の良い退屈しのぎとして、そうした相手を何人かはキープしていた。
そんな自分の行いが、世間で言うところの常識や道徳観念から著しく外れていることなど、最初から承知しているし、殺す気になるかは別にしても、そうした女達の肉親や親しい友人関係から、激しい憎悪の対象になっているのは十分理解していた。
確かに美和子を殺されれば、仕事を持たない、する気もない貴史は、収入が断たれて困ることにはなるが、それは一時的な話で、保険の女にたかりつつ、新しい獲物を見つけ、乗り換えるだけの話だ。
反省する気がまったくない以上、無意味といってもいい。
今の美和子の立場に嫉妬した、前の女の犯行かとも思ったが、そんな気概のある相手も思い浮かばない。
秘められた人間の本質なるものは、得てして意外性を伴うから一概には言えないが、それならば最初に殺されるのは、はるかに長い期間を過ごしてきた幸恵であるはずだが、彼女は入院先の病院で死亡しており、病名は乳がんで、疑問の余地のない病死であった。
それなのに、なぜ美和子を殺したのか。
しかも、あんな残虐ともいえる方法で。
「私としては、一日でも早く犯人が捕まってほしいです」
不気味だった。
殺されたと警察からの連絡を受けて、一番最初に思い浮かんだのは、出勤していたのは知っていたので、美和子の仕事上でのトラブルだったが、それをすぐに、あっさりと消去した。
それで殺されるほど、美和子は仕事に身を入れてはいなかったし、あそこの客は皆、そんな短慮を起こすほど馬鹿ではなく、万が一やるのだとしても、もっとうまく、目立たない方法を選ぶはずだ。
その証拠に、この事件のせいであの店は、危うくガサ入れされそうになったのだから。
もしそれで、女達が高級娼婦として、VIPを相手に売春をしていたことがばれれば、経営者はもちろんだが、客達の方も今まで築き上げてきた地位を失ってしまう。
そんな危険極まりない橋を渡ってまで、たかが美和子一人を殺さなければならない理由が考え付かない。
しかも死因となった傷を付けたのは、人間では有りえないと言うではないか。
一体誰が、何の目的で、何を使って、美和子を殺したのか。
それが皆目、わからない。
型通りの優等生の答えで最後を結びながら、心中にまたわけのわからない不安が湧き出してきているのを、いや、実際には見て見ぬふりをしているだけで、心の片隅にずっと居座り続けているのを、感じていた。
すでに今日何度目になるのか、数えるのも面倒になった、目蓋に無数の残像ができそうなほどにフラッシュをたかれる。
そこで取材にも一区切りが付き、なんとも間の持たない、居心地の悪い空気が流れ始めたので、貴史がこの辺でお開きに、と口を開こうとした時だった。
報道陣の後ろで、大きくクラクションが鳴らされた。
片側一車線とはいえ、ダンプカー同士でもすれ違えるほどの広さのある道だ。
いかに家の前に人垣ができたといっても、全面を塞いでしまっているわけではない。
ましてや反対車線に、車が避けられないほど通行量があるなら、道路にはみ出してまで貴史の前に人垣が作れるはずもない。
それなのに、クラクションはしつこく、二度、三度と癇に障るその音を響き渡らせた。
そうまでされればさすが、どうやらその車の用事が、この家にあるらしいのは容易に想像がついた。
これでようやく貴史は、自分がどうして外へと出てきたのかを思い出した。
「申し訳ありません、義妹が帰ってきたようですので、道をあけて下さい!」
なんだなんだとざわめきはじめた彼らに向かって、貴史は慌てて声を張り上げた。
それに反応して人波が、やっと黒いバンが通れるほどに、場所取りでもめながらも分かれると、今度はそちらに向かってまた一斉に閃光のシャワーが浴びせられかけた。
そこを、人を引っ掛けないように用心深く、バンはのろのろと進むが、ともするとその幅は人波に押されて狭まってしまい、そのたびに立ち往生を余儀なくされ、また狂ったようにクラクションが鳴らされた。
「危ないから、下がって! もっと下がりなさい!」
さすがに、それを見かねた二人の刑事と、車から降りた遺体を搬送してきた係員が、ともすれば車に触れそうなほどに近付こうとするカメラマン達を腕力で押し返す。
バンにはもちろん、きっちりとカーテンがかかっているので、覗き込んでも中を見えることはできないが、それでも決定的瞬間をとらえようを躍起になる一団と押し問答になり、にわかに殺気だってきた。
「すいません! 下がって! 下がってください!」
貴史も必死になって制止しようとするが、混乱は少しも収まらない。
狂ったようなフラッシュやら、リポーターの興奮した声やら、怒号やらが飛び交う中、かなりの時間をかけて、それでもようやく門の前へと車が横付けされた。
本当ならば、敷地内にそのまま入ることができればなお良かったのだが、生憎、この道路は家を正面にして立つと、左から右へと下がる、緩やかな勾配になっており、そのせいなのかははっきりしないが、敷地に入るためには、段そのものは大した高さではないにしても、五段ほどの階段を上らなければならないのだ。
そのため門の脇にあるガレージも半地下のような状態になっており、不便ではあるのだが防犯上の理由から、以前はあった敷地内への直通の通路も、結婚してすぐに行なった改装の折に、業者に頼んで、コンクリートで完全に塞いでしまっていたし、もし使えたとしても、意外と狭かったので、棺の搬入にはおそらく使えなかっただろう。
騒ぎを避けるのであれば、裏口という手も考えたが、大きな家とはいっても勝手口はそれほど広くはないし、段差もそちらの方が大きく、しかも急なので、そうまでして隠し立てする理由もないからと、玄関側を指定したのだ。
なんとか、車と門の間に割り込む邪魔者を追い払って、美和子を迎え入れるために両開きの門を広く開放した。
家のドアも開けなければならないが、それはこの際、後回しでかまわない。
どうせ運び込む部屋は、玄関のすぐ正面にある、リヴィングを一部仕切った所だ。
こんな風にマスコミに騒がれてはいるが、今の仕事について以来、交友関係などほとんどなくなった美和子は、焼香に訪れる者は多くとも、葬儀にまで参列する弔問客などたかが知れているし、それ以上奥にまで死体を運び入れるなんてとんでもないので、どうせ荼毘に付すためにはまた外に出さなければならないのだから、出入りの安易な場所の方がいい。
家具も、大きな物を動かしてしまうと後々が面倒なので、できる限り影響のない鳥羽口にして、祭壇もコンパクトなものを選んだ上に値切ったものだから、葬儀屋がさすがになんともいえない表情をしたが、望んでやる式ではないので気にも留めなかった。
戸籍上は義兄妹になるといっても、赤の他人の自分が、こんなことのためになけなしの金をはたいているのだから、体面さえ保てれば、一円だって安く上げるのは当然だ。
人間なんて、死んでしまえばただの肉の塊で、まだ寒いこの時期でも時間がたてば腐っていくのだから、本当なら、司法解剖なんぞした警察の方で、葬式まで済ませて火葬場に持って行ってもらいたいくらいだ。
それでもとりあえず、棺に納めてくれているというだけ、ましか。
後の面倒は全部葬儀屋に任せ、自分は悲しくて耐えられないからとかなんとか理由をつけて、出来るだけ死体を見ないようにすればいいのだから。
貴史がそう算段している間に、後部のドアが開けられ、くすんだ緑の地に金色の仏教的な模様の施された、光沢のある布のかけられた棺が、中から姿を現した。
誘導しなければならない貴史は棺を運べないから、必然的に運び込むのは、遺体が返ってきたことを察して、式の準備を中断して家の中から出てきた葬儀屋と、遺体を返還しにきた警察関係者がやることになるが、核家族化が進んだ昨今ではそう珍しいことでもないのか、慣れた手付きで黙々と、六人で車から引き出し、運びやすいのか、肩に担ぎ上げた。
美和子はどちらかといえば小柄な方だったが、さすがに成人女性が一人入っているので、それなりには重いし、マスコミの餌食にされないためにも、早々のんびりはしていられない。
とはいえ、さしものマスコミも、先ほどまでの勢いとうるささはは鳴りを潜め、奇妙な静けさの中を、六人の男に担ぎ上げられた白木の棺は、静々と、しかしできうる限る速やかに進んでいった。
「階段がありますから、注意してください」
そう確かに、貴史が注意したさして大きくも無い声を、マスコミ関係者はおろか、彼らを制止していた警察官、そして館川刑事も聞き取っており、後にチェックされたTV局の音声の中にもしっかりと記録されていた。
一つ一つの段差はかなり低く、幅もむしろ必要以上に広くとられているので、彼らからしてみれば、かえって上りやすいはずだった。
だからその時、一体何が原因でそうなったのか、映像は、車の陰になっていて決定的な場面は映されてはおらず、実際撮られたものといえば、結果のみであった。
とにかく、それが起きたのは棺を抱え上げている男達全員の足が、階段にのったころだった。
たかが五段ばかりの階段は、本当ならば最後を支える二人の足が最初の段を踏みしめる頃には、先頭の二人は上りきってしまっているのが普通だろうが、ここは傾斜が非常に緩やかになっているので、最後の段を上ろうとしているところであった。
確かに、棺を抱え上げるという通常にはそうない状況におかれていたとしても、特に大きな問題がある場所ではなかったというのに、どういうわけか、ほぼ同時に先頭の二人が体勢を崩し、いきなり前へとつんのめったのだ。
こうなると、アメリカやヨーロッパのような、そのまま埋葬するのを前提とした重厚な、その分運ぶ時のことも考えて、下部に取っ手がついているような棺と違い、日本の場合は、最終的には燃やされることを配慮した作りになっているので、さほど頑丈ではなく、もちろん取ってなど付いていようはずもないので、ただ底から持ち上げて支えているという状態だったから、前方へと勢いよく滑り出してしまえば、とっさに押さえようもなく、被せてある布をつかんでみても、布自体固定されていないため、剥ぎ取られただけで、止まるわけもない。
結果として、覆いだけが後部を持っていた二人の手に残り、つんのめった先頭二人の背中と後頭部を滑り台に、棺は白木の肌を全面的にさらして地面へと突っ込み、それから貴史の方へ向かって横倒しになった。
「わあああぁ!」
先行していたため、何が起こったのか良くわかっていなかった貴史も、後ろから聞こえた驚愕に満ちた叫びと、異様な音に振り向いた瞬間、目の前に迫ってきた棺に奇声を発し、必死で蛙の様な不恰好さになりながら跳び退り、かろうじてぶつかる難だけは逃れた。
これで済めば、まだ良かったのかもしれないが、災難はまだ続いた。
まだ葬儀も済んでいない棺は、蓋はほとんどかぶせてあるだけで、きちんと留められてはいなかったからだ。
覆いがとれ、横倒しにまでなってしまった棺の蓋は、衝撃に耐えかねて、完全に外れてしまったのである。
しかも、横倒しになってしまったのだから、その蓋の上に向かって、さらにごろりと転がり出たものがあった。
それと貴史は、まともに視線を合わせてしまった。
聞くに堪えない絶叫が、静まり返った周囲に轟き、マスコミばかりか警察関係者の度肝まで抜いて、そのどちらも何事が起きたのか見当もつかず、とにかく、車の陰になって完全に死角となっていた門の前へと駆け込んだ。
そして、その有り得ない光景を目にした誰もが、一瞬にして凍り付いていた。
車の後部から回り込んだ者達が目にしたのは、呆然と立ちすくむ、棺を担いでいたはずの男達と、その傍らで階段に引っかかるように横倒しになっている白木の棺と、そこから部分的に見えている白い布状の物だけ。
それがなんなのか考えるまでもないが、いくら修羅場を潜り抜けてきたといっても、この日本国内において、人間の魂の抜け殻を、しかも犯罪被害にあったものを見る機会などそうそうない以上、いかなベテランの撮影スタッフ達も、それより先に踏み込むのに二の足を踏んだのは致し方ない状況だった。
気の毒だったのは、車の前方から回りこんだ者達で、真っ先に駆け込んでしまったテレビカメラマンなど、生中継だったものだからもろに真正面からの映像を、しかもカメラマンはミラーに服が引っかかって、そっちに気がそがれていたものだから、それが何なのか認識するよりも早く、全国のお茶の間に映像が配信されてしまった。
現場はおろか、スタジオもTV局も大混乱に陥る中、即刻、中継は切られはしたが、視聴者から抗議が殺到したそれは、運悪く目にしてしまった者の脳裏に、悪夢となってこびりついてしまった事だろう。
棺から文字通り、ごろりと飛び出してしまった美和子の遺体は、元々首が半ばまで食い千切られる深い傷を負っていたので、傷跡は残しつつも見られる程度にはきちんと縫合されてはいたが、偶然なのか、はたまた人外の存在の気まぐれなのか、横向きに近い形で地面投げ出された胴に対して頭は、異様な角度で捻じ曲がり、まるで貴史を睨みつけるかのような形になっていた。
いや、本当に睨みつけていたのだ。
刑事の話では、美和子は目を開いたまま事切れていて、目蓋は死後硬直が解けてから、検視官の手で閉ざされたらしい。
死因が死因だっただけに、その表情は苦悶というよりは、怯えていた感じがしたといっていたし、身元の確認に行った時に死に顔を見た貴史もそう感じた。
断じてこんな表情はしていなかった。
それなのに。
どろりと、光を失って濁り、瞳孔が開いているのでどこを見ているのか良くわからないはずの瞳は、しかしまっすぐに腰を抜かしている貴史を捕らえ、恨めしく憎々しげに、土気色に変色した顔を歪ませ、責めるようにねめつけていた。
まさしく鬼女のごとき形相で。
いや、むしろ、なぜ角が生えてこないかの方が、不思議に思えるほどだった。
まるで時が止まったかのように、誰も動けなかった。
「ばかもん! ぼうっとしてないで何とかしろ!」
刑事になって相当な経験を積んだ館川ですら、生まれて初めてという異常事態だったが、いち早く我に返ると、凄まじい怒鳴り声を上げて周囲で顔色を失っている取材陣を、この際かまっていられるかと手荒く突き飛ばし、階段の下にたまってまだ硬直している二人の同僚に喝を入れ、美和子の遺体の前へと飛び出した。
それを合図に、まるで金縛りの魔法が解けでもしたかのように、わっとばかりに蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。
その場から逃れようとする者、逆にこのスクープをなんとか写真なり映像に収めようとする者、騒ぎを何とかしようとする者とが入り乱れて、大混乱にさらに拍車をかけた。
館川ともう一人駆け付けた制服警官が、前方から押し寄せようとする連中をなんとか押さえ込み、同じく虎賀と別の警官が後方を押し返す。
その隙に我に返った六人が泡を食って棺と美和子に取り付いた。
声を出すことも、視線を外すことすらできなくなっていた貴史の精神が耐えられたのはそこまでで、誰かが、美和子と自分の間に割り込み、その顔が見えなくなった途端に気が遠くなり、それきり何もわからなくなってしまった。