Scene 4
闇は、真っ赤な光に切り裂かれていた。
埠頭を埋め尽くした、パトカー及び覆面パトカーの中にただ一台、場違いのように止まっているタクシーの前で野瀬は、二人の刑事に向かって浮かない顔で経緯を説明していた。
「もちろん止めましたよ。ここは女性が一人で来るような場所じゃないのは、噂だけとはいえ、十分知ってましたから。」
ここで降ろした女性の容姿、服装、どこで乗って、その時や降りた時の様子など、事細かな質問に、記憶をできうる限りほじくり返して答えた。
「どうしてもって言われなきゃ、こんな所で降ろしたりしませんよ」
語気の強さとは裏腹に、後悔しきりらしい顔付きは、どんどん意気消沈していく。
あの時、彼女が前に立っていた門は広く開け放たれ、何人もの警察関係者が、忙しく出たり入ったりを繰り返している。
そんな様子に、人相はあまりよくないわりに人情家らしい角刈りの、同年代の刑事の館川保は、頭を振り振りその肩をたたいて慰めた。
「お前さんも客商売だからな、そう言われれば仕方ねぇな。なにせこの不景気だ」
その傍らで、最近コンビを組んだばかりの、三十ほどのまだ若い刑事の虎賀大牙が、熱心に証言をメモしている。
タクシーはここまで案内役をつとめたので、彼女を降ろしたのとほぼ同位置に止められていた。
「他になんか言ってたかい?」
館川は、よれよれの紺のコートのポケットから、同じくよれよれのタバコを取り出して咥えると、野瀬にも勧めるが、彼は吸わないからと手を振って辞退した。
「確かめたわけじゃないんですが、誰かと会うようなことを言ってましたよ。だから終わるまで待つって言ったんですけど、携帯があるし、何時までかかるかわからないからって断られたんで、名刺を渡したんですよ」
恐れていた事態が現実となってしまったことにぼやくと、館川は少し驚いたようだ。
「へぇ、最近はタクシーの運ちゃんも名刺を持つのかい」
それに野瀬がうなずいたところで、しばし会話が切れた。
丁度、さらに一台、白いバンタイプの車が、屋根の上にぽつんと乗った赤色灯を誇示しながら、ゆっくりとした速度で所狭しと停車しているパトカーの間をぬい、門の中へと入っていくのを、なんとなく三人で見送ってから、再び野瀬は話し始めた。
「会社の方針なんですよ、指名客を取るための。でも、あんまり気になるんで、そのまま待ってようかとも思ってたんですけど、考えることは同じだったみたいで、あの人もこっちが動くまで梃子でも動かないつもりらしかったんで、この中もよく知らないし、しょうがないんでそこでUターンしてここを出たんです」
そう言って、伸び上がりながら示した十字路の方を刑事二人が揃って見やり、館川はすぐに視線を戻して尋ねた。
「相手が誰なのか見たかい?」
手早く状況を書き綴っていく虎賀は、さすがにまだシャレっ気があるのか、それとも奥さんのセンスがいいのか、ダブルの濃いベージュのカシミア風のコートを、きっちりボタンを留めて着ている。
優男に見える顔が難しいのは、あまり野瀬の証言を信じていないのだろう。
言ってはなんだが、第一発見者を疑うのは、常道だ。
「さすがに気になったんで、埠頭の入り口からそう離れてないところに車を止めて、一時間近く待ってたんですけど、通り過ぎる車はいましたが、結局誰も来ませんでした」
力なく首を横に振った野瀬に、まあそうだろうなと館川は煙を吐き出しながら、口の中で呟いた。
「そうこうしてるうちに、パトロールに来たパトカーが後ろに見えたんで、思い切って車から降りて声をかけたんですよ」
「どれくらい話をしたんですか?」
それまでまったく口出してこなかった虎賀が、いきなりボールペンを突き出しながら話しかけてきたものだから、軽くのけぞった野瀬の視線は寄り目になってボールペンの先に集中してしまい、思わずどもる。
「け、警官にこっちから話しかけるなんて、そうはないんで、ちょっとあやふやなんですが、たぶん十分か、十五分くらいだと思いますよ」
自信がなさそうに言われて、渋面になった館川が、そのボールペンをよけてやりながら、低く唸った。
尖端恐怖症のわけではないが、あまりいい気持ちはしなかったので、安堵の息を小さく吐く。
「ずいぶん時間がかかったな」
親しい者同士が立ち話をするのとは違うのだし、職務質問を警官の方がかけたわけではないのだから、結構な時間だろう。
「中々わかってもらえなくて、最初から説明し直したりして……。私もけして話し上手な方じゃないですし」
館川は、さらに渋い顔になって頭を掻いた。
それもまあ特にその時点で、犯罪行為があったわけではないし、仕方ないだろう。
こうした犯罪にはなっていない段階のケースに積極的に関わろうとする者は、制服警官でもそうはいない。
実際それが問題になって、マスコミにいいように叩かれている。
「それで、一緒にここに入ったわけか」
念を押され、野瀬はまたうなずいた。
「ええ、この中は同じような所ばかりですから、とりあえずここまで案内しました」
その間にパトロール中だった二人組みの警官は、無線で応援を呼んでいるのでそれは間違いない。
「ここで、応援のパトカーを待ってたんですね?」
「ええ、そうです」
今度はボールペンを突きつけられなかったので、きちんと虎賀の顔を見て答えられた。
「すぐにもう一台パトカーが来て、そこに乗ってた二人の警官の内の一人が私と残ってくれて、他の三人で中に入っていきました」
なにせ場所が場所なので、一応逃走防止と護衛と両方の意味で、当然の処置だ。
「あそこは開いてたのか?」
灰を落としながら館川が顎をしゃくって門を示すと、野瀬は難しい顔になった。
「あの人を降ろした時は、しっかり鎖が絡まってて、遠目ながら鍵が付いてるのも見えたんで、てっきり閉まってると思ったんですが、警官と来た時には、人が一人通れるくらいには開いてました。あれ見たときは心臓が止まるくらいびっくりしましたから、良く覚えてますよ」
思わず警官ともども、車を飛び出して門の前に走りよって、顔を見合わせてしまったくらいだ。
「三人が中に入ってる間は、どうしてたんだ?」
質問の意図が掴みきれずに、野瀬は首を傾げたが、戸惑いながらも口を開いた。
「どうって言われても……。残った警官と話をしてましたよ。向こうは応援に呼ばれて駆けつけたんで、詳細を知りませんから、また一から説明してたんです。そうしたら、なんだか遠くで音が聞こえたような気がして……」
良くわからなかったが、何かが盛大にぶつかったような音が、一度ならず二度三度と少し離れた場所から、それもだんだん近付いてくるように聞こえてきて、何事かと驚いた二人が話を止め、門の方を見ていると間もなく、泡を食った警官の一人が飛び出してきたのだ。
その後はもう、二台のパトカーから警察無線が乱れ飛び、あっという間にこの赤色回転灯の洪水と相成ったわけだ。
「そうかい、いろいろ聞いて悪かったな。……それから、あんまり良い気持ちはしないと思うが、最後に仏さんを確認してってくれないか。生憎今のところ、あんたしか彼女を見たって人がいないんでな」
もう一度、ぽんぽんとその大きな手で軽く肩をたたいてやると、館川は少し言葉を濁しながら、身元確認を頼む。
野瀬も、それなりに覚悟はしていたのだろうが、実際刑事の口から言われると、現実味が増したせいか、一気に顔色が悪くなった。
身元不明の死体の確認など、たとえ身内だとしても良い気持ちはしないだろうに、それが名前も知らない行きずりの客では、気にはしていたといっても無理はない。
「本当に………、亡くなってしまったんですか……?」
喘ぐように呻く野瀬に、虎賀は淡々と事実を述べた。
「ええ。こんなところに若い女性が、そう何人もいるとは思えませんから。……間違いなく死んでます」
その途端野瀬は、いきなり十も年を取ったように、がっくりと肩を落とした。
「あの時やっぱり、無理にでも止めるべきだったんでしょうか……? 今はどうあれ、きっと良いとこのお嬢さんだったのに……」
独り言にも似た呟きを、館川は聞きとがめた。
「良いとこのお嬢さん? ホステスなんだろ? 何でそう思うんだ?」
野瀬はしょんぼりと見やった。
「とても丁寧な話し方をしてましたよ、行儀も良いし。ああいうのは、にわか仕込みじゃ私ら相手に自然に出たりしませんよ」
おそらくは遺体が搬出されたのだろう、別の刑事が迎えに来て、相当に落ち込んでいる野瀬は背に腕を添えられて、まるで逮捕された容疑者のようにしおしおと歩いていった。
その背中を見送って、虎賀はその耳元に囁いた。
「あんな事言ってますけど、あの運転手が殺したんじゃないですか?」
第一発見者は、この場合厳密に言えば現職警官だが、通報というか、報せたのは野瀬だから同じ様なものだ。
「第一発見者を疑えってか?」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らす館川に、虎賀はむっとした顔をした。
「じゃあ聞くが、凶器はなんだ? どうやったら、喉笛をあんな獣が食いちぎったようにできるんだ?」
反対に問い返されて、虎賀は詰まった。
それは彼にとっても最大の謎だったから。
「アイスピックのような物なら、可能なんじゃ……」
「本気で言ってんなら、刑事なんかやめちまえ」
ぴしゃりと鼻っ面を言葉で打たれて、虎賀は元々苦し紛れだっただけに、縮こまった。
「すいません」
苦虫を噛み潰したような顔で、館川は最後の一息を吸い込むと、足元にタバコを落として踏み消した。
「……お前が知らないのは無理もないが、これと同じ様な事件が前にも起きてるんだ」
あまりに苦々しい口調に、弾かれたように虎賀は、館川を見つめた。
「もう十年も前の話だ。死因は喉をイヌ科のような生き物に食いちぎられてのショック死。……まあ、即死だな」
「イヌ科のような生き物……ですか?」
なんとも曖昧な表現に、虎賀が首を捻るのを見て、館川は肩をすくめた。
「歯形からそう判断されたんだが、でかすぎるんだそうだ」
それに、さらに首を捻る。
「何がですか?」
「噛み痕が、だ。強いてあげるなら、狼が一番近いって、その時は言われたな」
淡々とした口調で告げられたにしては突飛な内容に、虎賀は呆気に取られて、素っ頓狂な声を上げていた。
「狼ですかあ?!」
女子高生のように上がった語尾に、館川が渋い表情のまま頷く。
科学的に調べた結果がそれなら、事実なのだろうが、開いた口がふさがらず、虎賀はなんと言っていいのかわからなかった。
日本に生息していた野生の狼、日本狼が明治を最後に絶滅したのは有名の話だし、それ以来生存説は、事あるごとに囁かれていたが、実際確認されてはいない。
とはいえ、動物園には灰色狼など、何種類かの外国の狼が飼われているし、犬と狼の混血を、犬として飼うことは十分に可能だから、一概には言えないにしても、山や森というならともかく、こんな都会のど真ん中でというのは、あまりにも信憑性が薄い。
もちろん当時、ありとあらゆる可能性が考慮されて捜査されたが、どこからも狼や大型犬が逃走、もしくは行方不明になったという事実はなかったし、大掛かりに何度となく実施された野犬狩りにも、捕まるのは野良犬ばかりで、結局徒労に終わった。
しかし、そんな事件が今、現実として、自分達の手元に再び転がり込んできていることの方が、ある意味悪い夢のようだ。
「……しかも、それが東京だけじゃないといったらどうする?」
ピクリと、虎賀の肩が揺れる。
「日本の各地で起きてるんだ。時期はバラバラだがな」
館川は、新しいタバコを引っ張り出した。
ぐるぐると考え込んでいた虎賀は、追い討ちをかけて聞かされたそれに、えっ、と声を詰まらせた。
どうやらそれが最後の一本だったらしく、空箱を握り潰すと、さすがにこれはポイ捨てせずにポケットへとねじ込んだ。
「そして、そのどれもがが迷宮入りだ。犯人は捕まえるどころか、その尻尾すらつかめたためしがない」
まあ、実際手を下したのは人間じゃないようだがな、と安っぽい百円ライター、それもどこかの食堂のもらい物らしく、店名の入ったその炎が、深い皺の刻み込まれた横顔を、仄かに照らし出す。
それを咥えたタバコの先に近づけると、赤く火が移った。
これによって、また新たな疑問が浮かぶことになってしまった。
犬の寿命というのは、近年人間と同じ様に餌をはじめとする生育状況が著しく改善されたことと、医療技術の進歩により、かなり伸びてはいるが、大型犬になればなるほど短くなる傾向にあり、十年たてば十分に老犬といえる。
狼とて、その親戚のような存在なのだから、寿命に大差があるとは思えないし、野生動物という観点からすれば、もう少し短くても不思議はないはずだ。
それなのに歯形は、改めて調べなおしてみると、ほぼ間違いなく同一と鑑定されたのだ。
ありえないはずなのに。
「完全犯罪ってやつかい?」
もちろん、それが言葉として存在するのは十分に承知していたが、一連の事件を知るまで、実在するはずはない、実現することなど不可能だと信じていた。
所詮は、推理小説の中だけの絵空事だと。
ふうっと夜空に向かい、混迷の煙を吐き出す。
そんな風に弱気になった館川の姿を見たことのなかった虎賀は、呆然と煙の行方を眼で追った。
ふと、それでようやく辺りを見回す余裕ができて、というより、飽和状態になって何も考えられなくなり、心理的な狭間ができたために、漂う静寂に気がついたのだ。
二人は野瀬の事情聴取のために、捜査の中心である倉庫から離れた所にいたのもあるが、それにしてもなんとなく物寂しいというか、静けさが耳に痛い。
首だけぐるりと一巡りさせてみても、違和感の正体がつかめずに首を傾げる。
「KEEP OUT」のアルファベットの入った黄色いビニールテープが、自分達のわりとすぐ側に、道路を横断して張られているのに目を留め、さらなる違和感に襲われた。
現実逃避、というか、試験が迫っているのについ掃除などを始めてしまうのと、似たような心理なのだろうか、気になりだすと止まらなくなっていた。
思考をそちらに切り替えてしまって、またしばらく悩んでから、ようやく合点がいった。
「そうか、野次馬がいないんだ」
手を打つまではいかなかったが、つい口に出してしまい、館川に怪訝な顔でみられる。
これだけの騒ぎになっているにもかかわらず、周囲に野次馬はただの一人も見当たらないのだ。
自分達警察にしてみれば邪魔をする者がいないのはありがたいが、それにしても人間心理を考えれば、いかに深夜と言えどもこの埠頭以外にはそれなりに住人がいるはずなのに、かなり奇妙な話だ。
「なんだ、神妙に考え込んでると思ったら、そんなことか」
あきれた声を出す館川に、虎賀は頭を掻いた。
「なんか、いきなり気になりまして……」
気恥ずかしそうに口ごもりながらも、やはりどうしても気になった。
人間の好奇心の強さは嫌というほど知っているから、周りに誰も住んでいないというわけでもないのに、これほど誰も見物に来る者がいない現場と言うのを、虎賀は経験したことがなかった。
「そうだな、まだマスコミが嗅ぎつけてないようだからな」
館川は入り口の方の道路を見透かしながら、煙を吐き出した。
一応誰も入って来れないように、数名の警官を埠頭の入り口に配置はしたが、この段階では、おそらくはかなり暇を持て余していることだろう。
「なんで、誰も出て来ないんですかね?」
虎賀の疑問はもっともで、館川は疲れたように、頭をなで上げた。
何せ、通報された時間が時間なので、徹夜になってしまいそうだ。
「この埠頭じゃ年に数度、こんだけの規模になることはないが、警察沙汰が起きてるんだ。まあ、大抵は少年課の手を煩わせるような事件ばかりだがな。この辺に住んでるのは年寄りが多いから、関わり合いになるのを嫌がるのさ」
家の中でパトカーのサイレンを聞いても、またかと顔を顰めるだけで、わざわざ見物しに来たりはしないのだ。
「これが消防車のサイレンでもあれば、吹っ飛んでくるだろうがな」
ぼやく館川に、そんなもんですかねと、虎賀は首を捻る。
「火事は、風向きしだいで類焼するかもしれないが、犯罪は、関わらなければ飛び火しないからな」
館川のしかめっ面に、虎賀は納得した。
「それじゃ、目撃者はダメですね」
そして溜息をつきながら、後に続くであろう言葉を口にした。
関わり合いになるのを嫌がるのでは、奇跡的に見ていたとしても、名乗り出て証言してもらうのは難しいだろう。
「聞き込みをしないわけにはいかんが、まぁそういうこった」
この仕事をしていると往々にあることだが、二人とも、なんともやりきれない気分になって、空を見上げた。
そうした周囲の状況を熟知して、ここを犯行現場に選んだというなら、犯人はこの辺りをよく知っている人物、もしくはこの東京という都市に潜む空白地帯を、手に取るように把握している人物という事になるのかもしれない。
脳裏に、まだ見ぬ犯人像を描きながら、一方ではこの都会の冷酷さを、こういうときは身に染みて感じられた。
目と鼻の先で人が一人殺されても、日常は何も変らず、昨日と同じ今日が、夜が明ければ淡々とこの街でも繰り返される。
見て見ぬ振りで。
自分達警察は、その都会の無常の砂漠の中を、水ならぬ犯人を求めて、彷徨い続けなければならない。
聞き込みに回れば疎ましがられ、犯人の逮捕が遅れれば、無能な税金泥棒と罵られる。
慣れたはずのそれが、時々、無性にたまらなくなるのは、心を持った、血の通った人間だからだ。
視線の先に浮かぶ、今にも消えそうな月が、二人のそんな心情を無言で象徴しているようだった。