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闇中輝眼  作者: 銀河狼
3/13

Scene 3

 タクシーのテールランプが遠くなり、やがて視界から消え去るまで、身動き一つせずに見送っていた彼女は、初めて寒さに気が付いたように身体を震わせた。

 さすがに真冬から比べれば気温は上がったとはいえ、まだ日中でもコートを手放すのは心許ない時期だ。

 夜中ともなれば、いくら冬仕様といっても、上下共丈の短いスーツだけでは、寒さが堪えるのもあたり前だろう。

 本当は不信感を抱かれないためにも、コートも羽織ってきたかったのだが、時間に間に合うように営業中の店を黙って抜け出すため、一時的にバックを隠した洗面台の下には、それ以上の物を隠すのはあまりに不向きだったのだ。

 それでも、忙しくなって隅々まで目が届きにくくなる時間帯を見計らって、トイレに行く振りをして席を立てば、見咎められる危険性も低くなるので、やむをえなかった。

 特に今日は、そう多くもない自分を指名してくれている客は、誰も来る予定はなかったし、うまくすれば閉店まで気が付かれないかもしれない。

 警察の手が入ればヤバイとはいっても、その中で働いている女性達も、借金のかたで強制的に、などという時代錯誤な事は無かった。

 自分も、そして他の女性達も、理由はなんであれ、普通に務めていたのではけして得られない報酬の多さに惹かれて、自ら職を求めてやってきたのだ。

 経営サイドは、店の方針に従って働きさえすれば、後は何も干渉しなかったし、雇われた方からすれば、給金がきちんと支払われれば、客が多少行き過ぎた行為に及んだとしても、チップが増えるとむしろ喜ぶくらいだ。

 そうやって自分も、この数年の間に数え切れないほど、金のためにこの身を、男達へと差し出したのだから。

 何気なく歩き出そうとして、その足元すらおぼつかない深い闇に驚く。

 こんな、手探り、足探りしたくなるような暗がりに包まれたのは、おそらく小学校に上がる前、姉と一緒に遊んだかくれんぼで、納戸の中隠れて以来だろうか。

 あまりの暗さに、恐くて我慢がならず、かといって他の隠れ場所は、たった二人で何度も繰り返したせいであらかた使い切ってしまい、細めとはいえ戸を開けておいたものだから、結局あっさりと姉に見つかってしまった。

 自分でそこを選んだにもかかわらず、隠れている間中ずっと、もし見つけてもらえなかったらどうしようという不安にかられ、姉がおかしそうに笑いながら大きな声で、見ぃつけた、と戸を開けてくれた時、妙にほっとしたのを覚えていた。

 突然よみがえった懐かしい思い出に、ふと物悲しい微笑をもらす。

 もう、思い出すこともしないと、心に決めていたはずなのに。

 バックの中を探り、あらかじめ用意しておいた、小型ながら強力な懐中電灯を取り出す。

 それを点けて、ゆっくりと門の方へと近付いて行くと、シンと静まり返った中、十センチ近い、白のエナメルのハイヒールのたてる靴音が、周囲に恐ろしいほどに響き渡った。

 おそらく反響のせいなのだろうが、誰か別の人間が自分の後を、ぴったりと歩調をあわせて付けて来ている様な錯覚にとらわれ、ついびくびくと、数歩と進まない内に立ち止まっては、何度となく後ろを振り返り、確認せずにはいられない。

 いや、むしろ人でも幽霊でもいいから、振り返った先にいてくれれば、その瞬間にこの場から何も考えずに全力で逃げ出し、あの、明かりも、実際に誰も歩いていなくても、ここよりははるかに人の気配のある、広い道路にまで必死に駆け戻って、何をバカなことをしていたんだろうと自己嫌悪に陥りながら、再度タクシーをひろうなり、呼ぶなりして自宅に帰れるのに。

 そんな感傷的な思いに浸っていると、もらった名刺をまだ、右手に持ったままだったことにようやく気が付いた。

 同じ手でバックを開き、中も探って懐中電灯を取り出したというのに。

 それだけ平常心を失っている証拠なのだろう。

 ぼんやりとその表面に、読むともなしに目を走らせると、最後の最後まで気にかけてくれていた運転手の、心配そうな顔が思い出された。

 あの人のいい運転手なら、今すぐこの番号に電話をし、指名すれば、またこんな場所にでも、快く迎えにとんで来てくれるのは容易に想像がつく。

 そしてきっと、帰る道すがら、まるで本当の父親のようにこんこんと、こんな場所に、こんな時間に、たった一人でやってきてしまった浅はかさに、耳に痛くとも心には温かいお説教を聞かせてくれるに違いないことも。

 苦く変った笑みが、唇から零れ落ちる。

 知っているはず、わかっているはずだ。

 あの日、いつか必ずこんな日がやってくると理解していながら、結果として、あえて同じ道を選んでしまったのは、愚かな自分だ。

 死ぬほど後悔するとわかりきっていたのに、これ以上どこに行けるというのか。

 もうどこにも、逃れられる場所すらないから、今、ここに立っているというのに。

 身震いするほどの恐怖を、頭を振ることで、心から無理矢理追い出して、彼女はわざと、それまでとは打って変わって、づかづかと乱暴な足取りで門の前までやってくると、鎖の巻きつけられている取っ手へと光をあてる。

 指定されたのはここだと思うのだが、何分にも初めて来た場所なので確証はもてなかった。

 この埠頭に入ってから、聞かされた通り道なりに、一応注意深く見ていたつもりではあったが、ともかく暗くて、こんな風に銀色の塀に囲まれている敷地は他になかったと思う。

 これで間違っていたら、どうするつもりなのだろう。

 茶色に、粉が吹いたように変色している鎖と、これだけは新品らしい、赤銅色の南京錠を前にして、ふと思った。

 この、考えていた以上に広い埠頭の中を当てもなく探し回るのか、それとも、無理だとあきらめて引き返すか。

 わかっているのは、ここで帰ってしまえばおそらくもう二度と、機会は巡ってこないということだけ。

 半ば上の空になりながら目をやれば、タクシーのライトで照らし出された時に見えたのと同じ状態で、がっちりとした錠が頑固に口を閉ざして、無骨に太い鎖にぶら下がっている。

 もっと動きやすい格好をしていたとしても、とてもではないがこの塀を乗り越えられる、スポーツ選手並みの運動神経の持ち合わせはないので、ここが開かなければ中へ入れない。

 安堵するような、残念なような気持ちが交錯する中、なんとなく南京錠に手を触れて、しっかり掛かっているのを試してみるつもりで引っ張った。

 その途端、心臓がどくりと、大きな音をたてて脈打つ。

 手と一緒に、鎖は涼やかな音をたてて片側がどんどん引き出されていき、南京錠を下げたまま、端がだらりと地面へと向かって滑り落ちたのだ。

 手を放すことすら忘れて、彼女は凍りついた。

 確かに現実としてとらえているのに、全てが信じられなくて、せわしなく視線が、手の中の鎖と、そこから地面に付きそうなほど下に、垂れ下がっている先端とに、行ったり来たりを繰り返す。

 それでも、操られているかのようにギクシャクと不自然な動作で、何度となく南京錠を、取っ手やら鎖やらにぶつけて甲高い金属音を乱発させながら解いていくと、すぐに鎖は自らの重みで完全にはずれ、アスファルトの上へとジャラジャラと蛇のようにとぐろを巻いた。

 その途端、元々仮の物なので大して作りではない門は、鎖がその前にわだかまってストッパー代わりになっているのと反対側の扉を、軋みをたてて傾ぐような格好で自然と、人が通れるほどの隙間を開けてみせたのだ。

 まるで、彼女を誘っているかのように。

 故意によるものなのか、はたまた最後に鍵を閉めた人間のミスで偶然そうなったのか、いつからそうなっていたのかはわからないが、門はきちんと施錠されているように見えるだけの状態になっていたのだ。

 緊張のせいか耳鳴りが聞こえ、新たな恐怖が、彼女の全身を包んだ。

 それでも。

 ごくりと生唾を飲み込んで、そろりと、しかしできるだけすばやくその隙間へと身体を滑り込ませると、そこで立ち竦んでしまった。

 全身からどっと、冷汗が噴出すのがわかる。

 心臓が早鐘のように暴走し、神経が張り詰めるあまり貧血でも起こしたように、視野が急速に狭くなった。

 一気に血の巡りの悪くなった指先が冷えて、感覚も鈍くなっている。

 明らかに人気のない敷地の中へと、完全に入り込んだ彼女は、今にもこの場にへたり込んでしまいそうな、極限的な精神状態に、少しは落ち着きを取り戻そうと大きく深呼吸をした。

 冷え切った空気が、肺の内側を鋭く刺激し、意識がはっきりする。

 それによって元の広さに戻り、闇にもだいぶ慣れてきた視界に、二十から三十メートルほど先になろうか、ぼんやりと冷凍倉庫らしい、白っぽいコンクリートの外壁が、ぼんやりと闇の中に浮かび上がっていた。

 一瞬泳いだ視線が、しかし確かな意思を持って今一度、先を睨むように見据えた。

 一歩を踏み出そうとしてふと、手の汗を吸ったせいか、多少よれてしまった名刺に再び意識がむいた。

 反射的に捨てようとした手が、躊躇する。

 しばらく悩んだ後、結局決心がつかず、そっと、バックの中へとしまいこんだ。

 それが振り返ることを否定した自分に残すことを許された、唯一の未練のような気がしたからだ。

 後ろはもう、できるだけ気にしないことにした。

 門までの調子では、いつになったらあの建物までたどり着けるのかわからないからだ。

 そうは割り切ってみたものの、どれほど放置されていたのかわからない足元は、雑草の侵略に敗れ去ったアスファルトがあちこちで砕けているので、思った以上に足場が悪く、自然に足運びも慎重にならざるをえない。

 こんなことなら店での見栄えは悪くなっても、中ヒールを履いてくるんだったと悔やまれるが、もう後の祭りだ。

 あまり不自然にならないようにと気を配ったのが、かえって徒になったようだ。

 あたりは耳に痛いほどの静寂に包まれ、聞こえるのは自分の足音と、浅く早い呼吸音だけ。

 倉庫の正面に着いたところで、入りすぎていた肩の力を抜き、建物に沿って懐中電灯を走らせてみた。

 奥へと向かう壁には、階数ごとなのか、何のために付いているのかよくわからない、シャッターが下ろされた出入り口のようなものがあり、その前は手すりのついた狭い露台があるのだが、それだけで、階段も何も、上下を繋ぐものは存在していない。

 その1階と思しき部分も、床面は路上から首くらいまでの高さがある。

 おそらくは物品を保管する倉庫内の床が、その高さなのだろう。

 明かりを絞って光量を強め、上部を照らしてみると、上に同様のものが三つ見えるので、おそらく四階建てだと思われた。

 こちらに他に出入り口らしい所は見当たらない。

 正面には、かなり幅も高さもあるシャッターが三つ、細い支柱を挟んで、連続して横に並んでいるが、そのどれもがしっかりと下まで閉まっていた。

 どうやら比較的新しいタイプの冷凍倉庫らしく、乗り入れた車両ごと、エレベーターで各階を移動していたようで、上へ行くための外付けのスロープもない。

 どこもかしこも、きっちりと閉め切られている様子に、門が開いていたのはやはり偶然で、ここではないのではなかっただろうかという不安が、再びこみ上げてきて、それでもとりあえず建物をぐるりと一周してみようと、シャッターの前を歩き始めた。

 それで何もなければ、いいかげんあきらめもつく。

 時々、躓いて転びそうになりながら、それでもなんとかシャッターの前を無事横切り終わると、どうやら受付か事務所の入り口らしいドアがあった。

 スチール製の、何の変哲もない銀色のドアは、放置されていた期間分薄汚れてはいたが、どこも歪んだり曲がったりしていないし、ノブについている鍵穴にも抉じ開けられた形跡はなく、空き巣などの被害も受けていないようだった。

 ひんやりと冷たいノブを握る。

 ずっと恐怖を感じ続けているので、だんだん感覚も麻痺してきていた。

 それがどんなに嫌な感情や状況であっても、その状態に置かれ続けると、人間というのは慣れてしまえるのだという。

 精神崩壊を避けるための、防御本能の一種らしいが、今がそういう状態なのだろう。

 それでも一瞬、間をあけてから手を捻る。

 ロックされている時特有の、すぐに回転が止まる手ごたえはなく、内蔵されているバネの重々しい抵抗と共に、ほんの僅か、ドアが手前へと動いた。

「ひっ!」

 門の時同様、てっきり開くわけがないと思っていただけに、全身がショックで一斉に竦みあがった。

 硬直は声帯にも及び、口からこぼれたのは、息を呑んだ拍子に出た、悲鳴というのもおこがましい『音』だった。

 そのくせ仰天するあまり、後ろに勢いよく退こうとしたものだから、思いっきり足が絡まって、盛大にひっくり返る。

「痛たたたた……」

 それこそ両足が空に向くほど景気良く転がってしまったので、地面に強く打ってしまった腰と背中を涙目になってさすりながら、やっとのことで上体を起こした。

 しかし、手が離れるよりも後退る方が早かったようで、ドアは、長らく閉まりっ放しだったにしては大した音も立てず、意外なほど滑らかに動いていた。

 そしてちょうど、四分の一ほど、蝶番を支点とした円運動を行なって停止する。

 風はない。

 ぴたりと動かなくなったドアの前に、足を横に崩して座った格好で、固唾を呑んで見守ってしまった彼女は、あちこち痛みを訴える身体を宥めながら、慎重に立ち上がった。

 幸い足を捻ったりはしていなかったが、他につかまれる物がないので、顔を強張らせたままドアノブに縋り、さらに濃い闇色の中を及び腰で覗き込んだ。

 そこは、ちょっとした大きさの部屋で、倉庫側に腰ほどの高さにある簡易なカウンターと、かなり大きめなガラス窓のはめられた窓口が作られていたが、ただの受付にしては広すぎるので、事務所か何かと兼用されていたのかもしれない。

 閉鎖の際に運んでいってしまったのか、債権者が持ち去ったのかはわからないが、室内は何一つなく、コンクリート打ちっぱなしの床が寒々しい。

 抜き足差し足、なるべく静かに踏み込んではみたが、屋内の分、音が抜けずに反響するので、靴音が余計に大きく聞こえて、気になって仕方がない。

 ガラス越しに倉庫内部を照らしてみれば、埃が付着して多少見通しが悪いその向こうに、トラックが走る通路とその左手、一段、という言葉では間に合わないほど高くなっている先からが冷凍倉庫らしく、ステンレスのようなスライド式の両開きらしい扉が、鈍く光を反射している。

 手前の奥に、トラック用のエレベーターらしい扉が、また微妙に見えていた。

 この中をどうやって探したものかと途方にくれながら、奥に向かって進んで行くと、窓口の先に、どうやら倉庫内へと出られるらしい、ここの入り口と同じ形状のドアを発見した。

 しかも、倉庫内に向かって開いているのだ。

 慌てて周囲を見渡すが、この部屋は建物の中にあるというだけの箱状なので、何も置かれていない今、内部に隠れられるような場所は一切ない。

 急に強い冷気を感じた気がして、身震いしながら、思わず自分で自分の身体を抱きしめるように腕を回した。

 誰かがいる。

 敷地の入り口からここまで、全てを偶然で片付けるには、あまりに出来過ぎている。

 倉庫の中で確かに、それを成した人物が自分を待っているのだ。

 ここで間違いなかった。

 そう思った瞬間、全身が寒気立った。

 今までの漠然としたものとはまったく違う、心臓といわず脳を直接鷲掴みにされたような、パニックすら起こせない、強烈にして純粋な戦慄。

 気が狂いそうになって、あちこちに懐中電灯を振り回し、照らしてみるが見つからない。

 来い、と言っているのだ。

 直感でそう感じ、からからに干上がった喉が、息をするたびにひゅうひゅうと、病人のようなか細い音をたて始めた。

 自分の意思で、自分の足で、来いと。

 彼女は、敷地内に足を踏み入れてから始めて、後ろを振り返った。

 開いたままにしてきた、ここに入るためのドア。

 距離にすれば十メートルとないはずの、いくぶん闇の薄い外が、やけに遠く思えた。

 どうしてここに居るんだろうか?

 何も考えられなくなりそうなほど、心は慄いているのに、唐突にまた、その問いが浮かんだ。

 以前から、インターネット上に、ある不可解な噂が流れていた。

 一度、ぎゅっときつく目を閉じ、汗ばむ両手で祈るように、懐中電灯を握り締める。

 ネット上を不規則に、消えては現れるそのサイトでは、金銭でないものを報酬に、ある事を請け負ってくれるという。

 そろりと目を開け、きゅっと唇を噛み締めると身を翻して、原初の恐怖をより刺激する、さらに暗い闇へ入るためのドアへと向かった。

 今から思えばまるで導かれたように、接触できたそのサイトに、戸惑いもなく、思いの全てをぶつけるように書き込みをしたら、数日後に、メールアドレスを書いておかなかったにもかかわらず、メールが送られてきて、ここを指定された。

 平らなコンクリートの床だというのに、足がもつれ、砕けそうになる膝に、必死に力を込める。

 そして、迷いながらも結局、了承するメールを送ったから。

 そのままでは通れないので、もう少しドアを押し開ける。

 普通ならば、性質の悪すぎる冗談としか思えないその内容を、信じずにはいられないほど、追い詰められていたから。

 何の光源もない空間は、広さがある分、懐中電灯の明かりすら、呑み込んでしまいそうだった。

「あの……」

 支配する痛いほどの沈黙の中に、彼女が振り絞った声は、蚊が泣くような頼りなさで、拡散した。

「どなたかいらっしゃいませんでしょうか……?」

 すでに空いて久しい倉庫で、しかも誰の許可も取っていない、いわば不法侵入者としては非常に不適当な呼びかけではあるが、他にどうしていいのか見当も付かない彼女にとっては、至極まじめで、精いっぱいの行動であった。

「……あの………御依頼申し上げました、立花美和子です……」

 靴音と共に、声が虚しく反響を繰り返す中、それでも美和子と名乗った彼女は懸命に呼びかけ続けた。

 いや、一度声を出してしまうと今度は、止めた後の静寂が恐ろしくなってしまったのかもしれない。

 先ほどの部屋と同様、あるのは埃ばかりの倉庫部分を、あちらこちらと忙しなく見回しても、全体を視界に納めきれず、不安ばかりが募っていった。

 その漆黒の中、微かに、何かが瞬いた。

 美和子はその下を、気付くことなく通り過ぎていく。

 それも無理はない。

 おそらく大型トラックの通行時に邪魔にならないように、床からならゆうに、五メートル以上の天井付近に張ってある、かなりの太さのパイプの上に、それは存在していたのだから。

 まして、さらにパイプから天井までは、大人なら四つん這いになるのがせいぜいくらいの隙間しかない。

 それは、パイプの上に寝そべるような格好で、まったく闇に同化して潜んでいた。

 いや、まったくというのは語弊があった。

 たった一ヶ所、隠しきれない部分があったからだ。

 ダークグリーンに煌めく一対の瞳。

 まるで夜の闇の中に浮かぶ野生動物の目のように、とても人間のものとは思えない輝きを発していた。

 だが、どうやってそこまで上ったのだろうか?

 もちろん、脚立のようなものは見当たらない。

 そんなものがあれば、美和子はとっくに、その存在に気が付いたに違いない。

 また、床から直接、パイプかどこかにロープ状の物を引っ掛けるにしたも、大の大人が上で寝そべれるほどの太さで、しかもこの高さである。

 映画に出てくる忍者やスパイが使うような、先にかぎ状の重りがついている特殊な形状でなければ、投げたとしても巻きつきも、引っかかりもするわけがない。

 まして、壁をよじ登ってパイプに取り付くのはそう難しくなくとも、そこからここまでその上を這ってくるなど、昼間でも真っ暗であろうこの中では、障害物も多くてとても無理だ。

 それに、こんな場所を指定してきただけでも、とても尋常とは思えないが、なぜ危険を冒してまで、あんな場所に潜んでいるのかもわからない。

 顔を隠したいのなら、サングラスやマスクだけで、十分のはずだ。

 何もかもが不可解な存在が、そこにはいた。

 美和子は、半ばくらいまで歩いても返事がないので、肩を落とし、それでももう一度と、気を取り直して口を開こうとした時だった。

 ゆらりと、闇の気配が揺らめいた。

「……聞こえていますよ」

 はっきりとした、男の声だった。

 不意打ちに、美和子は勢いよく後ろを振り返ったが、誰もいない。

 もう一度、前を見ても、誰もいない。

 右も左も、見えるのは闇だけ。

 声だけの見えない存在に、瞳孔がキュウっと引き絞られ、それまで我慢に我慢を重ねてきた何かが、切れた。

「誰!? どこに居るの!!」

 金切り声を上げ、気でも違ったごとくくるくると、声の主を探し出そうと必死になってダンスを踊るように回転する滑稽な姿を睥睨し、気配は無音の笑いを漏らした。

「ついでに、お姿も良く拝見できます」

 極度に抑揚の低い声ではあったが、その中にうっすらと、美和子が怯える様を楽しんでいる含みが感じ取れた。

 そこでようやく彼女は、『声』が、上から降り注いでいると気がついた。

 探し回るのを止め、こわごわと仰のいて、その鮮やかなダークグリーンの双眸と目があう。

 突然、すとんと、身体を支える力が抜けて、崩れるように、冷たく、埃の積もっている床の上にへたり込んだ。

 人間ではない。

 あんな、見るものを凍てつかせずにはいられない、孤高の星の氷炎を宿せる人間などいるわけはない。

 目を見た瞬間、本能が警告した。

 しかし人間ではないというなら、いったいなんだというのか。

 発する言葉に不自然さはなく、むしろ流暢ですらある。

 彼女はこの瞬間に、本当に、取り返しのつかないところまで来てしまったことを、まざまざと実感したのだ。

「詳しい話を伺いたいのですが?」

 笑い声が聞こえたわけではない、それでもはっきりと、闇が笑いを形作るのが見えた気がした。

 冷水を浴びせられでもしたように、美和子は身震いする。

 その言葉が、恐怖で埋め尽くされていた彼女の心を、正気へと立ち返らせていた。

 ギリリと音が聞こえそうなほど、きつくかみ締めた唇には、うっすらと血が滲んだ。

 慄いていた瞳に、それまでとは比べ物にならない、激しい光が宿る。

 ゆらりと、パイプの上を睨みつけたまま立ち上がるその姿は、儚さすら感じられた美しさは消え去り、さながら、地獄からさ迷い出た幽鬼のようだ。

「木内貴史を……」

 美和子は思い出していた、どうしてここに来たのか、を。

「義兄を、姉の夫を殺してください! 私達姉妹を破滅させ、姉を死に追いやったあの憎い男を!」

 どこに、こんな激情が隠れていたのだろう。

 そう自分でも不思議に思うほど、声は火を吹かんばかりの憎悪をまとってあふれ出した。

 もしかすると、抑圧され続けた本性だったのだろうか?

 息を切らす彼女の前に、沈黙が降りた。

 人殺しを頼まれているというのに、ダークグリーンの瞳には、まったく動揺の色はない。

 ただそこに存在して、彼女を見つめている。

「……報酬が金品ではないことは、わかっていらっしゃいますね?」

 声は若く、そこから判別すれば、年の頃は二十代前半くらいとも思えるが、やけに丁寧な、若者らしからぬ話し方をする。

 相変わらず淡々としながらも、交わされる会話は、とんでもない内容ばかりだ。

 立花美和子と名乗った美女は殺しを望み、この何ともつかぬ存在は、報酬如何によってはそれを受ける気らしい。

 彼女は、最終確認ともとれる宣告を聞いて、全身を強張らせた。

「もちろん、です」

 わずかな間の後、こくりとうなずき、寒さからではない色を失くした唇が、震えながらそれでもしっかりとそう答えた。

「結構です」

 冷たさすら感じるほどに、変わらぬ声がそう告げると、ダークグリーンがすっと上へと移動し、天井ぎりぎりあたりで停止する。

 考えてみれば、もちろん這いつくばったままでは何もできないにしても、それが四つん這いになっただけなのだから、奇妙な格好なのには変わりない。

「確かに、ご依頼お受けしました」

 その応えに、美和子はぎこちなく、しかし満足そうなほの暗い笑みを浮かべた。

 これでいい。

 両腕をだらりと下げ、わざと力を緩めた手から、懐中電灯とバックが、重々しい音と一緒にコンクリートの上に落ちた。

 これで何もかも、終わらせることができる。

 カラカラと転がる本体にあわせて、歪に変形した光の輪が、壁と床を移動していく。

 パイプの上のダークグリーンが、唐突に掻き消えた。

 瞬きでもしたのか、それほどの刹那。

 何かが、喉笛へと喰らいついた。

 生暖かい息を感じる暇もなく、牙のような尖ったものが、たやすく柔肌を破って食い込んでくるのを、美和子は感じとった。

 悲鳴を上げたと思った。

 しかし開いた口から飛び出したものは、喉を食い破られたことによって溢れた、大量の血液だ。

 痛みというより、焼け付くような感触が彼女を襲う。

 いつの間にか仰向けに倒れた身体の上に、その何かが乗りかかって、鋭く爪を立てて押さえ込んでいた。

 陽炎のような揺らめきが、美和子の全身を覆い、それが、身体の上に乗っているものに流れ、すいこまれていく。

 否、それは命そのものだと、ぼやける視界の中で、漠然と理解した。

 命が流れると共に、記憶もまた流れていく。

 何もかも幸せだった幼い頃。

 家は比較的裕福で、両親の仲も良く、絵に描いたような家族だと周囲から羨まれていた。

 それが崩れたのは、両親の命を奪った交通事故だ。

 この世に置き去りにされた姉妹の元に残された、二人では大きすぎる屋敷と、賠償金と保険金を含んだ財産を食い物にしようと、蛆虫のごとくたかってきた自称『親戚』の大人達。

 世間知らずで怯えることしかできなかった自分を、きっと恐かったのは同じだったに違いないのに、必死になって守り通してくれたのは、五つ違いの姉だった。

 お嬢様育ちのおっとりとした性格だと思っていた姉は、まるで人が変ったように、その蛆虫を振り払うために獅子奮迅した

 遺産を、父が経営していた小さな会社を奪おうとする親戚達の甘言や脅しに屈せず、逆にありとあらゆる手段を講じて咬みつき、追い払い、進学するはずだった大学を、通信制に切り替えて社長に就任すると、それからの人生を、ただがむしゃらに生き抜いていった。

 自分が姉という存在を頼りにしたように、姉もまた、守るべき自分という存在がいたから、あれほどなりふり構わず進めた。

 姉を親代わりに大学を卒業し、これからはやっと恩返しができる。

 そう喜んでいた矢先に、その男は、姉の前に現れた。

 ハンサムな、優しい男に思えた。

 物腰も柔らかで、大人で、処世術にも長けていた。

 木内貴史と名乗った男に、姉はおろか、自分までもがすっかり虜になってしまった。

 それでも、姉が幸せなれればと、身を引いたのに。

 結婚して、初めて知れた男の本性。

 気が付けば会社は人手に渡り、食べていくには困らない程あった財産も全て、木内によって食い潰されていた。

 それでも飽き足らずに、ついに姉は、貢ぐ金欲しさに風俗へと身を落とした。

 そうして、慣れない仕事にボロボロになった挙句、あっさりとこの世を去ってしまった。

 姉の保険金、それはまだ良い。

 唯一残っていた、思い出の詰まった家すら、遺言状のせいで義兄の手に渡った。

 葬儀にすら、まともに参列しなかった義兄に、涙すら出なかった。

 そんな姉を哀れみ、義兄をひどく憎んでいた。

 そのはずだったのに。

 姉と結婚した直後から、誘惑されて関係を結び、そして死後は、同じ道を歩んでしまっている愚かな自分。

 あの男が殺したいほど憎い。

 でも、殺せないほど愛しい。

 いつでも相反する思いに、引き裂かれそうになりながら、男を繋ぎとめて、偽りでも愛を囁かれれば、一も二もなく喜び、酔いしれていた。

 しかしそれも、二十台も半ばを迎えた自分では、そう長くは続かないだろう。

 憎いのなんのといいながら、結局あの男を、他の女に渡したくないだけなのかもしれない。

 ビクビクと、美和子の身体が断末魔の痙攣に震え、陽炎がゆっくりと小さくなってくる。

 その最後の一滴にいたるまで命をすすった証のごとく、自分を見据えているダークグリーンの瞳の片方が、鮮やかな真紅に変化していくのを、陶然と見ていた。

 それが彼女の、最後の意識だった。

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